2002年10月
■笑顔(10.30)
 前任校に行ってきた。たくさんの懐かしい顔があった。あすからまたいっちょやってみるか。
 少しは元気になってみたものの、やはりつきまとうのは自分というならずものの影だ。
 生活の中で自分の居場所を切り開いてゆくのだ。
 新しいことは待っているわけではなく、こちらから求めなければ手にすることはできないから。
 だけど、切り開くつもりが、逃げていたのかもしれないし、
 求めているつもりが、ただ黙っていただけかもしれない。
 優しさや思いやりのかけらもなかった自分の所業に、深く後悔する夜。
 痛みのわからない人間は、何度でも人を傷つけてしまう。
 ほんとうの笑顔には、一生かかってもなれないのではないだろうかと不安になる夜。
 いくら血だらけになってもいいから、笑顔になりたいと本気で思う夜。 

■朝に(10.29)
 ゼロに戻ることを繰り返しながら、前に進む。
 前に進んでいるようでいて、目ざすのはゼロ。
 罪という名の倦怠を越えることのないままに、
 ただ重く息苦しい鎧を重ねていくだけの日々。
 人は裸で生まれて裸で死んでゆくというのに、
 なぜこんなに多くの荷物を持とうとするのか。
 本当に必要なものはたった一つのことなのに、
 それには目もくれず余所事ばかり追いかける。
 下らないことを考えるのはやめて出かけよう。
 だらだらしてるとまたすぐ夜になってしまう。

■文化祭前日(10.26)
 子どもたちは求道者だから、
 求道者の話には素直に耳を傾ける。
 この声が君に届いたのかわからない。
 
 一年で一番嫌いな日には、
 自己嫌悪にさいなまれて頭を抱える。
 道に迷ったような感じがして、
 同時にこの意思はなぜか攻撃性を帯びる。
 糧となるものですら、
 捨て去ろうとする矛盾。
 避けて通ることのできない橋の前で、
 言い訳して立ちすくんでいる自分。
 だが今夜では、
 すでに取り返しがつかない。
 子どもたちのこの季節を、
 もう二度と巻き戻すことはできない。
 自分を鏡に映し出して、
 歪んだ部分を責め続ける。
 はたして顔がゆがんでいるのか。
 それとも鏡がひずんでいるのか。
 あるいはどちらも、こわれているのか。
 
■雨の中に(10.25)
 週末の疲れの夕暮れの、
 深い霧が国道に垂れ込め。
 ヘッドライトの眩惑の、
 目蓋に滲む雨の一つ二つ。 
 
■キャッチボール(10.22)
 いつから続けているのかわからないほど、
 僕らは何度も何度も捕っては投げ捕っては投げ。
 青空の下でも、星空の下でも、真夏でも、真冬でも。
 僕らは続ける。
 飽きずにキャッチボール。
 あるときは僕の球がことばとなって、
 そのとき君は耳でじょうずに捕球した。
 またあるときは、君の球が琥珀色の液体となって、
 そのとき僕はのどの奥で全部味わって酔っぱらった。
 ものすごい豪速球だってあるし、
 蠅のとまるほどの球だってある。
 カーブ、シュート、フォークボール。
 いろいろと試したくもなってくる。
 自然に決められた約束。
 君が捕れないような球を僕は投げないし、
 僕が捕れない球を君は投げない。
 だけど、ときには球を逸らしてしまうこともある。
 そしてごくたまに、どちらかのボールが拳骨となって、
 相手の目にまともに当たることだってある。
 ケンカするほどなんとかというけれどそんな話ではなく。
 キャッチボールをしているということはそういうことだ。
 僕らはこれからも、
 キャッチボールを続けていくだろう。

■ことばのことば(10.20)
 だけど人間の脳味噌。
 けっこういろんなところで
 勘違いをしたり都合のいいように
 誤解したりするようにできている。
 スグレモノ。
 現実を直視することから人間を遠ざける仕組み。
 おかげで僕ら、夢を見る。
 夢とうつつを行ったり来たり。
 美醜渾然として真に輝けるを見つけること能わず。
 僕は夢を見る。
 ベッドで、風呂場で、運転席で。
 本当の気持ちはことばにはならない。
 本当の気持ちは、音楽になる。
 悪事、乗り物、電話線。
 本当の気持ちは、ただのパイプ。
 本当の気持ちは、ただのワイロ。
 すかすかの命、いのちのことば。
 ぷかぷかの煙、着の身着のまま。
 ことば、ことば、ことば。
 夢を見ること。
 ことばとのたたかい。

■時間(10.18)
 秋の夜長とはいうけれど、すぐ寝てしまうので夜は短い。昼の間は、今夜はこれをしようあれをしようと思っているのだが、夜になると、とてもじゃないがそんなエネルギーは残っていない。来週の日曜日が文化祭。なにかと、ばたばたした日々が続く。土日は日中百%部活。半分自棄だったりして。盛岡の映画祭が始まって、観たい映画もいくつかあったのだが。Do not waste your time.そうはいってもこの疲れ。キャプテンフューチャーのサイモン博士みたいに、純粋に脳味噌だけで生きたいなんて思ってしまう。

■夜(10.17)
 ニュースの途中でテレビを消して、そのまま寝床に就いたのだが、ニュースの続きが夢にあらわれて、しばらく寝つけなかった。

■部活の周辺(10.13)
 今の学校に来て初めての県外遠征から帰ってきた。まる二日間子どもたちやその親たちやコーチと過ごした。東北各県の強豪チームと何セットも試合をして、勝ったり負けたりした。子どもたちにとってはもちろん大きな経験になるだろうし、高いお金をかけて参加させた親たちも、きっと満足だろうと思う。こっちも面倒なことは多々あったが、いろいろとプラスになることは多かった。話をくださった先生方に感謝したい。
 これから毎週のように練習試合があって、ひと月後には県大会がある。優勝して、来年の中総体では全中に行くことが目標だ。目標を高く掲げて、それに向かって努力するということは大切だ。そのためならコーチは妥協を許さない。そして一つ一つ着実に力をつけさせているところがすごい。部活動ではどこにいっても苦労をしているが、そこで出会ってきたコーチは皆一流の人物だ。こういう人たちといっしょに仕事ができるというのはありがたいことだ。
 「練習は不可能を可能にする」ということばが、会場の壁に書いて貼られていた。できなかったことができるようになる。そのために僕らはやっている。部活に限らずどの道でも、練習をすることでできなかったことができるようになっていく。そのステップをどう示してやれるかが勝負。単に言われたことをやればいいというものではない。言われたことができるためには、そのために必要な要素をどう分解して一つ一つクリアしていくか、それが肝心だ。「困難は分割せよ」というのは教科書の小説の中に出てくることばだが、その重さがぐっと心に迫る。
 自分は何をしてきたか。この二日間もコーチの絶対的な指導のかげでマネージャーのような仕事をしてきたに過ぎないのだが、その中でこっちも自分なりにできるだけ頭を使って考え続けた。うちのチームでいちばん弱いところはどこかというと、それは同じミスを何度も繰り返してしまうことだ。ミスを早く修正することができない。ミスを連発してばたばたといってしまう。ところが、強いチームというのは、一度ミスしても素早く修正して、もう次には失敗しない。きっと頭の中では高速で考えがめぐるのだ。瞬時にミスの内容と自分の姿を振り返り、あるべき姿と照らし合わせ、どう直せばいいかを判断し、行動に結びつけることができるのだろう。うちの選手たちにはそれができない。ミスをしてもそれを分析することができないので、立て直しがきかない。
 全国大会レベルのチームと、うちのチームとの差は何か。技術的、身体的な問題、練習内容の問題も確かにあるけれど、決定的に違うのは頭脳を使うか使わないかの差ではないだろうか。だとしたらどこでその差がつくのか。子どもたちの時間の中でもっとも頭を使う時間。それは「授業」の時間だ。授業中にどれだけ頭を使って考える訓練をしているか。それが大きい。もし、ただただ話を聞き流し50分を我慢するだけで終わる授業だとしたら、考える力はまったくつかないだろう。見方を変えれば、うちの学校の教師が生徒にどれだけ考えさせる授業をしているか。授業の質の差が、部活の実力の差となって表れているのだ。「部活だけやっていればいいんだ」とか、「部活のときは元気なんだけどねえ」なんていうことでは、まだ甘いということになるのだろう。
 どれだけ深く考えることができるか。考える力こそが、この生徒たちの生きる力になるのではないか。自分の授業を振り返ってみると、反省すること頻りである。部活動が学校教育の中にあるという意味を突き詰めると、やっぱり授業にかえってくるのだ。競技の専門家でも何でもない一教員が部活動に関わる意味、つまり自分の存在の意味もちょっとはみえてくる。毎日の授業で生徒たちに考える力をつけて、学校の勉強と部活動とを結び付ける役目は、コーチや親にはできないのだから。
 とはいえそれには休みがほしい。土日は目一杯部活して、月曜日から授業というのでは、いつ休めというのか。いつ授業の準備をすればいいというのか。これ以上書くと愚痴になってしまうのでやめるけれど、きのう聞いた情報では、隣のある県では毎週土日のうちどちらかは必ず部活を休まなくてはならないと決まっているそうである。なんともうらやましい話。

■そうはいっても(10.11)
 ことばの世界から抜け出すことはもうできなくて、わたしたちはことばで、なんとかしようとする。たとえば、悲しみという感情がわき起こる。頭の中ではことばなんかどうでもよくて、ただただ泣きたい。このとき、泣きたい気持ちがことばとなってからだじゅうをかけめぐる。
    たとえば、うれしくてうれしくて思わず笑顔になる。よろこびの意味なんて考える必要もなくて、ずっと笑っていたい。このとき、笑いたい心のおくにある、いのちのことばたちが、やっぱりぼくのからだいっぱいに流れて、川をつくる。
 
■そんなつもりはないけれど(10.10)
 思わぬところで人を悲しませてしまうということは、よくある。うんうんうなって、あれこれ考えて、やっとの思いで紡ぎ出した言葉でさえ、相手に届かないどころか、相手を失望させてしまうということが、ありすぎる。こちらの視野が狭いのかもしれないし、気持ちが小さいのかもしれないし。とにかく、伝えようとしていることはたいていの場合伝わらない。だけでなく、やりきれないことに人を傷つける。
 とにかく言葉を手に入れて以来、うまくいかなくなった。そんなことをふと思う木曜日の夜だ。「ことばのまえ」を求める気持ちってのはよくわかる。楽しみというのは夢のようなものであり、現実はいつも暗くて厳しい。これはまぎれもなく苦行ではないだろうか。
 
■評価(10.9)
 ノーベル賞をもらうなんて大したものだ。ノーベル賞をもらう人を決める人はさらに偉い。人を評価するなんてたやすいことではないのだ。きょうの午後は郡教研というので、評価に関していろんな人の話を聞いたが厄介で嫌になった。評価の目的というのはいったいなんなんだろうと思った。きっと次への励ましになることが大前提なのだろう。本人や周囲がやる気を失ってしまうような評価ならいくら厳密だって意味がない。そういう意味ではノーベル賞は意義深い賞だ。僕からも賞を贈りたい気分だ。

■カメラ(10.8)
 大会の申し込みに必要な部活の子どもたちの写真をデジカメで撮って印刷したら予想以上にうまくできた.それでもっといいカメラやプリンタがほしいという気持ちが少し湧いた。けど今のをちゃんと使いこなせるようになってからだな。
 
■しめきり(10.7)
 いつでも滑り込みセーフ。だけどしめきりというのは意外と大切。

■秋の道(10.6)
 道に迷いながら行こう。道草を食いながら行こう。そう言いながら、とぼとぼと南下してきた。

■新しい店(10.5)
 新しい電器屋に行ったら混んでいた。新しいところには皆行ってみたくなるのだろう。少し買い物をしたら、輪投げの券がもらえた。十分くらい並んで、三回輪投げして全滅。残念賞はミルキー一個。

■金曜日の夜(10.4)
 気がつくと職員室には自分だけ。

■赤い羽根(10.3)
 人に向けて投げて遊んでいる奴らがいたから怒った。目に刺さったりしたらどうするんだばかやろー!この時期のあの羽根は大嫌いだ。だいたい処理に困るようなあんなモノを日本全国で配るのはもうやめてほしい。
 職場で、地域で、学校で、街頭で、いたるところで募金募金と声がかかる。人のためと思ってお金は出すけれど、このシステムには大いに疑問を感じる。見方によっては、国民を騙して金を搾り取っているととれなくもない。今年の共同募金では目標金額が239億9000万円であり、使い道はもうすっかり計画されている。中央共同募金会のホームページをみていたら具合悪くなってきた。やっぱり疑問だ。オレはひねくれてるだろうか。
 
■疑問(10.2)
 きょうは二年生のテスト監督をした。その五十分でひとつ何か詩を作ろう。なんていうのんきな気持ちで行ったら、前の時間の数学のテストの採点をすることになっていたので残念だった。テスト監督のときには採点しないことにしている自分としては本意ではなかったのだが、時間内に終わりたくて必死に丸つけした。
 正答表には、「答えが合っていなくても過程が合っていれば○」とか、「定規を忘れてきた者は作図をフリーハンドで描いても○」とかいう注釈が書かれていた。たしかに今回のテストは定着度を測るのがねらいで、評価の資料にするものではない。「考え方をみる」のだからそれで問題はないのだろう。だが、ほんとうにそれでいいのだろうかと疑いだしたら、わからなくなった。

■ぶどう狩り(10.1)
 教職員レクというので、午後から町内の観光ぶどう園へ行き、生まれて初めてのぶどう狩りを体験した。天気はあいにく雨まじりではあったが、ビニールの下なのでほとんど影響はなかった。キャンベル、スチューベン、ナイアガラ、紅伊豆など、さまざまな種類のぶどうを食べくらべした。今まで教職員レクといえば、ソフトバレーかなんかをやっていたものだが、こういうのも悪くないと思った。だいたいぶどう狩りなんて、こんな機会でもなければやることはなかったろうから。