2003年8月

■2003年8月(2003.8.31 Sun)
 8月もきょうで終わり。夕方涼しくなってきて、下手をすると風邪を引きそうな感じだ。短パンで過ごせる日々はそろそろ終わりだ。レイバーデイのロングウイークエンドの中日。レイバーデイというのは勤労感謝の日のようなものだろうか。カナダの休日の多くは土日と連続させて連休になるのでありがたい。この連休が終わると学校も新年度が始まるので、子どもたちにとっては微妙な連休だろう。このごろテレビのコマーシャルや商店のポスターに「バック・トゥ・スクール」という文句をよく見かける。ちなみに、自分のところは日本と同じ4月始まりである。9月からは2学期開始。こちらも気持ちが引き締まる感じだ。
 ヒスパニックのお祭りは明日まで。きょうも少しだけ行ってみた。エクアドルの男性だけのグループ。ポンチョというのだろうか、お揃いの袖無しの衣装を着てステージに出てきた。スペイン語はわからないが、何を話しているのかはだいたい見当がつく。「エクアドル人は?」と言うと、会場に来ていた人のざっと10分の1くらいかな。何十人かが手を挙げた。続けて「コロンビア人は?」「チリ人は?」「ペルー人は?」というふうに聞くと、どの国も予想以上に多くの人々が手を挙げたり声を出したりしてアピールしていた。どうも南米とかヒスパニックとかひとくくりで考えてしまいがちだが、ほんとうにいろんな国からたくさんの人たちが来ているのだと感じた。それと同時に、国が違っても同じ言語で結ばれている人々の間にある連帯感も感じた。その連帯感というのは、もしかしたら悲しい歴史を背負った者どうしの連帯感なのかもしれない。
 歌手たちは、腹から声を出し伸びのある声で歌っていた。男の声の迫力と美しさを感じた。ケーナ?の響きもなんとなく郷愁をそそられるものだった。会場の人々の多くが、きっと祖国への思いを抱きながらあの響きを受け止めていたのではないだろうか。そして身体が自然に動き出すほど躍動感のあるリズム。もっと身体を大きく動かして踊ってみたいのだが、それは憚られてしまった。どうして人類の歴史は、侵略の歴史なんだろう。あるいは、そういう面もあるということだろうか。この年のこの月のこのとき抱いたこの思いを、これを読んでくれた皆さんと分け合えればうれしいです。どうもありがとう。

■移民(2003.8.30 Sat)
 「ダーティ・プリティ・シングズ」というイギリス映画を観た。アメリ役の人の出演ということで興味があったのだが、アメリとはまったく違ってとても暗い雰囲気で、考えさせる映画だった。舞台はロンドンの街。ロンドンにも移民がたくさんいて、その人たちの話なのだが、不法滞在者やその裏で汚い仕事をしている人たちが登場する。ロンドンの街のエスニックな空気が感じられて、ロンドンに対するイメージが変わった。国とか移民とかという問題の大きさを感じた。
 その帰り。広場ではヒスパニックの人々のフェスティバルだった。ステージではジプシーという名のギターのグループが、なんとなく聞き覚えのある音楽を演奏していた。会場にはいろんな国の土産物の屋台が出て、賑わっていた。料理の屋台も出ていて、うまそうなにおいがしてきた。ビールも売っており、近くでは警察官が目を光らせていた。カナダでは屋外で酒類を販売することについては日本より厳しい制限があるようだ。スペイン語もぱりっとした響きで素敵である。ピエロの格好をしているおじさんからもらったパンフレットを見ると、きょうこの後に控えているバンドはエクアドル、コロンビア、ボリビア、メキシコ、アルゼンチン、スペイン、ニューヨーク、キューバと各地から来た人たちらしい。
 祖国を離れて、新しい土地に移住するということは、並大抵の決意ではできないことだろう。カナダに来た人たちの中には、祖国の政情不安による難民のかたちで入って来た人も多いらしい。南米から来た人たちにも、経済や政情の不安を理由に決断して来た人が多いことだろう。そういう人たちにとってカナダは、「輝ける新天地」というよりも、究極の選択の上に絞り込んだ住み場所という意味が強いのかもしれない。
 けさテレビで見たのは、アルメニア人のコミュニティ向けの番組だった。アルメニア民族はイスラム圏の中にぽつんとあるキリスト教文化圏ということで、周囲からの迫害や虐殺が繰り返されるという悲しい歴史をもった民族らしい。1990年にはアゼルバイジャン共和国内のアルメニア人が迫害を受け、避難した先のタジクやキルギス共和国からも迫害された。ほんの10年ほど前の出来事である。彼等はそこから逃れてきたのだろう。具体的なデータはわからないが、近年になってカナダにやって来たアルメニア人は多いようである。
 移民、難民…。日本人はこういうことについて、ほかの国の人と比べるとピンとこないところだろう。ところが日本のすぐそばにも難民は存在する。「脱北者」と言えば北朝鮮から逃れようとする難民のことだ。日本はそれを他人事として片付けたいために「脱北者」などとぼかして呼んでいるようにみえる。
 経済や政治のために日本を離れるという人は、今のところはあまりいないのではないだろうか。日本人だということはそれだけで実はとても安定的なことなのだと感じる。しかも、日本国内にいる外国人などほんの一握りでしかないから、そういう問題についてそれほど考えないのは普通のことだろう。だが、そういう決死の覚悟でカナダに渡って来た人々を目の前にして、ボクはたまたま駐在でとか○年いれば帰るからとか、いつまでもそんな態度ではいられないと思う。日本のような安定した国こそが、何かできることをしなければならないのではないか。

■常識(2003.8.29 Fri)
 末續選手の快挙は放映権の都合で静止画像しか見ることができない。誰かの権利を守るために、誰かの権利が制限されている。全部そうなのかな。守られているのは国外居住者がニュースを見る権利ではなく、放送局の独占権のほうなのだった。これも放送の世界の常識か。しかたがないといえば話は終わってしまうけど、毎回毎回静止画像じゃとても不満だ。世界で活躍するスポーツ選手の映像の部分ばかりカットされるのだから、こんなひどい話はないじゃないか。末續選手の映像を初めて見られたのは、中国人向け、広東語のニュースだった。
 うがいは風邪の予防にはならないが、インフルエンザの予防には有効なのだそうだ。こちらの常識だと、うがいはしても意味がない。SARSの時でさえ、うがいもしなければマスクもしなかった。マスクは僕もしなかったけど。うがいはしないと気持ちが悪いから、新常識に関わらず外から帰ったらうがいをするのは昔からの自分の常識だ。
 ちなみに、洗面所で手を洗ってからハンカチで手を拭く人はほとんどいない。洗面所にはペーパータオルか温風乾燥機が備え付けられているのだ。それが衛生的なのかどうかは知らないが、ゴミ箱には使用済のペーパータオルが溢れかえっていて汚いし、乾燥機はものすごい音をたてるわりには恐ろしく性能が悪く、乾くのに時間がかかり過ぎる。最初は故障しているのかと思ったくらいだ。資源や地球のことを考えるまでもなく、ハンカチを使うことがどれだけ優れた方法かということは明白だ。
 世間の常識がいつも正しいとは限らない。(正しいって、どういうことなんだ?)正しいか正しくないかはあまり関係がなく、数の論理や情報操作によって、わけもなく思い込まされていることが多いのかもしれない。自分の生活が、誰かの利益誘導に乗っかって、実は不自由になっているとしたら。そしてその不自由さが自覚できないくらい、感情まで支配されているとしたら。と、疑ってかかる必要があるのではないか。

■テレビ(2003.8.28 Thu)
 テレビにはキャプション機能というのがついていて、スイッチを入れるとしゃべっている言葉が文字で出てくる。ニュースなどはだいぶ遅れて文字が出るので、言葉を耳で聞きながら文字を目で追うのは至難の業である。だが、アニメや子ども向けの番組は言葉とともに文字が出るから、いま何と言ったのかを目で確かめることができる。もともとは耳の不自由な人のための機能だそうだが、これが英語の勉強にはかなりいいらしい。
 そこで、子ども専用チャンネルをじっくりと見てみると、これがなかなかおもしろい。教育目的のアニメーションなのだが、内容がとてもいいと思った。人物が皆温かくて、悪い人が出てこないというのがいい。話がほのぼのと描かれているので、見ているこちらもほのぼのとした気持ちになる。幼児から小学生向けあたりが、自分の英語力にはちょうどいいようだ。中学生が主人公のアニメもある。気に入ったのはBracefaceという番組だ。思春期の心の動きがよく表現されている。絵は見ようによってはすごくグロテスクなのだが、それがなんとも愛らしい味を出している。
 小さい子向けの番組ではすべてを語り尽くしているわけではなくて、あとで親子で語り合えるだけの「あそび」というか「ゆとり」をもたせているのだ。それが、ほのぼのと感じる理由かもしれない。想像する余地を残すということは、子どもを対象とする作品には必要なことだろう。

■秋(2003.8.27 Wed)
 忙しいときほど、なにか別のことをしたくなる。逆に、時間があるときのほうが時間を無駄にしてしまいがちだ。もっとバランスの取れた暮らし方ができないものか。
 パニーニが食べたかったのに、パニーニはもう終わり。ピタはと言われてその通りにしたらそれほどうまくなかった。おまけに11ドル50もしたのは高過ぎだ。中には赤いカブの漬け物みたいなのが入っていた。とり肉がぼさぼさしてのどを通らず、コーラで流し込んだ。ニンニクのにおいが口の中に残っていて気持ちが悪い。どこにだって、いい店もあるし、よくない店もある。選ぶ側の責任で、納得のいく選択ができればいいとは思う。
 毎朝少しずつ日の出が遅くなり、太陽の出る場所も少しずつ南側に変わってきている。夏時間の終わり、10月の下旬には、日の出は8時近くになってしまう。最近朝晩は気温が下がって、部屋の中にいても肌寒く感じるようになってきた。急速に秋が近づいている。秋は、どこにいても秋である。秋の夕暮れが「あはれ」という感覚は、日本だけのものではないかもしれない。

■夜(2003.8.26 Tue)
 夏の終わりを無性に感じながら、夜に車を走らせた。おびただしい車の波と、ラジオから流れるニュースや音楽に身を任せていると、カナダも日本も同じような感じがしてくるから不思議だ。田んぼの真ん中で、ここは地球の一地点だと感じたのと、なんら変わりない気持ち。信号待ちで交差点を横切る人々は実にさまざまだけれど、日本でも同じではなかったろうか。
 信号が青に変わりかけたとき、聞こえてきたけたたましいサイレン。まばゆい赤と白の光を放ちながら、消防車3台が真正面から近づいて来る。「未知との遭遇」のUFOを思い出させるような光景だ。こちらの救急車両は反対車線でもお構いなしに、車のないところを縫って飛ばして行く。逆走して来た消防車は急なカーブを描きながら僕の車の横すれすれを通り過ぎ、後方に流れて行った。

■そして任務終了…(2003.8.25 Mon)
 朝5時半のまだ真っ暗な中、ホテルを出て、空港へ。チェックインをして、皆は帰国の途についた。また日常に戻る。なんとも寂しいような変な気持ちになったが、これも仕方がない。3泊5日という短いスケジュールではあったが、満足してくれたことだろう。今午後10時。まだ彼等は飛行機の中だ。こちらもずいぶん疲れて一日ぐったりしていた。なんとなく夜になってから目覚め始めたような感じだ。きのうの夕方ちょっと雨が落ちたが、それ以上崩れることはなかった。今朝は曇っていたが、きょうも暑い一日になった。きのうまでに比べて、ひどく蒸し暑かった。
 自分はトロントやカナダのことを全然わかっていないし、なにより自分の英語力がほとんど上達していないということにもあらためて気づかされた。いろいろなことを質問されたが、確かなことは何一つ答えることができなかったし、通訳のようなことなどするべくもなかった。
 日本にいる時との感覚の違い、ものの感じ方に変化が生じていることも、彼等を通して少し測ることができたような気がする。日本を否定するつもりもないし、カナダにすっかりかぶれるつもりもないのだが、今のまま日本に帰ったら、逆に適応するまでたいへんだろうなというふうにも思った。何が問題だろう。よく考えてみたい。

■ホスト3日目(2003.8.24 Sun)
 昨夜は飲み過ぎて、というよりも、ふだん飲んでいないのに急に飲んだものだから夜中にひどい目に遭った。これでは運転は無理かと思ったが、なんとか回復。朝はカサロマ見学。その後グリークタウン、リトルインディア、ディスティラリーディストリクトと短時間で回って、アートギャラリーオブオンタリオに行く。初めて行ったけれど、広過ぎて迷ってしまうほどだった。1時間では到底見切れない内容だった。ベトナムの店であっさりとフォーの昼食を取ってから、イートンセンターでお土産の買い物。ホテルに戻ってから、弟とこちらの家具屋とショッピングモール事情の視察。夜は中華料理。広場では日曜恒例のバンド演奏。そんなこんなで予定はあっという間に消化。天気もきょうまでなんとかもったのでよし。

■ホスト2日目(2003.8.23 Sat)
 ナイアガラの滝を観光。これ以上はないという晴天とさわやかな陽気で、もうこれだけで満足といってもいいくらいの1日であったのは、皆さんの日頃の心がけがよかったからということにしておこう。
 霧の乙女号に乗ったのは初めてだった。上から眺めるよりも数段迫力があって楽しめた。皆も喜んでいたのでOK。予想以上に時間がかかって、ナイアガラオンザレイクの町に入った時には午後3時。それからレストランに入って何料理だかわからないけど腹いっぱいの食事。ホテルに戻ったのが6時過ぎ。それから車を置いて、ハーバーフロントへ。残念ながら遊覧船はもうなし。徒歩でセントローレンスマーケットまで。大道芸人フェスティバルの様子を見学。ところが。マーケットはすでに閉まっていた。そこからさらに中華街へ移動。夕食。あっさりしたものばかりで、量も多くなくてよかった。そこからまっすぐ地下鉄で戻る。帰ると11時半。

■ホスト1日目(2003.8.22 Fri)
 親族4人がトロントへ。アパートを案内した後、すぐそばのホテルでチェックインを済ませ、夕方からCNタワーなど見学して劇場街でカナディアンな食事。よく来たよく来たと感激すれども、日本からはるばるという感じがしない。なんとも普通の感覚だったのでかえってよかった。
 時間がなかったのでナイトゲームは断念。さすがに長旅に疲れたらしく、帰りの車の中で皆爆睡。明日はナイアガラへお連れいたします。

■トロントにおいで(2003.8.21 Thu)
 朝の広場では市が開かれていた。まだあったかい焼き立てのクッキーと、大きなメロンを買った。木曜の朝には毎週開かれているそうである。取り立てて珍しい野菜や果物というのはないけれど、イチゴやブルーベリーは数がずいぶん出ている。ところがそんなに安いわけではないので、ここに来てからはまだ買ったことはない。
  停電から1週間が経過した。あの影響で官公庁は今週いっぱい休みらしい。地下鉄が空いているのもそういうわけかな。スーパーマーケットの照明もまだ半分なので、買い物も薄暗くて変な感じだ。
 きょうは床屋に行って来た。あのイタリアンはかなりの腕前だ。なぜなら、切ってから何日たっても頭がぼさぼさにならないのだ。時間も30分とかからないし、店にイタリア語が飛び交うのも陽気で楽しい。床屋は技術があればどこでも生計を立てることができる。だから、移民の条件を満たしやすいのだろう。床屋だけではなく、街にはいろんな国から来た人たちがそれぞれの言葉の看板を出して店を開いている。
 クリーニング屋に昨日のシャツを持って行ったら、「やってみるけど完全には落ちないかも」と言われた。僕もこのでかい染みは無理だと思うが、自分ではどうすることもできないので頼んだ。この店はコリアンのおばさんがやっている。
 この間モントリオールで買って来たパンを食べようとしたら、すっかりかたくなっていた。こんなになったパンを、皆はどうやって食べるのだろうか。だいたいパン切りナイフでさえまったく歯が立たないのだからどうしようもない。
 マリナーズとの3連戦は1勝1敗で3試合目を迎えた。今夜もテレビで観戦している。イチローもヒットが少ないし、佐々木も途中で降板したし、マリナーズの日本人選手はちょっと元気がないように見える。7対3のブルージェイズリードでマリナーズ9回の攻撃を迎えるところ。
 球場に足を運んでみるとわかるが、テレビではちょうどコマーシャルになるところが、とてもおもしろい。セブンスイニングストレッチは有名だが、その時にスカイドームではブルージェイズ体操(?)もやるのだ。それ以外にも毎回、大スクリーンを
使ったゲームとか、Tシャツをバズーカのようなもので放出したりとか、様々なアトラクションで会場のお客さんみんなで楽しむことができる。大道芸を見た時にも思ったが、観る人がただの受け身でないところがいいなあと思う。観客と選手がいっしょになって一つのゲームを作っている感覚が好きだなあ。

■きょうはテレビで観戦だ(2003.8.20 Wed)
 朝プリンタのインクカートリッジを交換しようとしたら、インクがワイシャツにはねて真っ黒い染みができてしまった。8時の段階できょうの勝負はすでに黒丸である。しかも、昼から蒸し暑くなってきて、来客が重なった上に電話での問い合わせが来たりして、文書も書かねばならなくなって、胸の黒丸をさりげなく隠しながら家に戻って来たらどっと疲れが出た。洗濯をしたがやはり染みは取れない。こういう時もある。
 スカイドームはジャパンナイトと題して、いろいろなイベントがあるらしかった。3連戦は通おうと朝までは思っていたのだが、これからまた出かけるくらいのエネルギーはない。日本語でのアナウンスも鳴っているではないか。うわあ、日本人もいっぱい来ているようだぞ。きょうのところはテレビでじっくりみることにしよう。
 マリナーズはエラーが一番少ないそうだ。そして、かたやブルージェイズは26番目だそうだ。大リーグって、全部で何チームだっけ?きょうもエラーから先制を許してしまったぞ。お、ところが逆にダブルプレー崩れの間に同点に追いつき、ホームランで逆転だ!!んーなかなかいい試合だ。とまあこんな風に、黒丸のことなんかすっかり忘れていた。負けても勝っても、大リーグの存在はとてもうれしいのである。

■やっぱりブルージェイズ(2003.8.19 Tue)
 夏休みもあとわずかだからか、先週の停電の反動なのか、今夜のスカイドームはお客さんたちがずいぶん興奮していると思った。きょうからシアトルマリナーズとの3連戦である。今年トロントにマリナーズが来るのはこれだけ。イチローも佐々木もしっかり見て来た。イチローは1安打とちょっと残念。佐々木は9回を完璧に押さえてセーブ。マリナーズの圧勝、つまりブルージェイズの惨敗だったのだが、そんなことに関係なく、球場は尻上がりに盛り上がっていき、ピークは7、8回あたりだったかな。最後もう負けとわかるとあっさり帰途につく客もけっこういる。とてもほんわかと、でもちゃんと熱く盛り上がる。そんなスカイドームの雰囲気は好きだ。もちろんイチローを応援する気持ちは強いのだが、それとはまた別に、100%ブルージェイズのファンである。ヤンキースにマジックが点灯したそうだが、そんなことには関係なく、楽しんでいる。

■次は(2003.8.18 Mon)
 官公庁はきょうも休みだったという。いつまたあのような停電が起きるのかわからない状態だそうだ。だから、商店でもオフィスでも照明は半分だけだったし、エスカレータも止めているところが多かった。洗濯は、電気の使用量の少ない夜にやるようにという呼びかけがあったそうだが、わからなかった。職場でもきょうは電気をつけずに一日過ごした。かえって涼しい感じがしてよかった。今朝のメトロ紙の見出しは、"What's next?"だった。トロント市民の気持ちを代弁する一言かもしれない。
 休み明けのパソコンには何百通というメールが届けられたが、ほんとうに大事なのは2、3通で、あとはすべてジャンクメールだった。それらのざっと8割は漢字だけの文面だ。
 さっきアパートに電話がかかってきた。いきなり「会社ですか?」と聞いてきたものだから意味が分からず絶句した。「会社ですか、家ですか」というので、家だと答えると、べらべらと決まり文句らしい言葉を並べ立てられた。要は中国語を話す人へのアンケートだそうだ。僕は中国語を話さないと答えると、「OKバイバイ」と言って切った。このような電話が週に1、2回はかかってくる。迷惑といえば迷惑だが、練習と思えばどんどんかかってきてほしいくらいのものだ。

■日曜日(2003.8.17 Sun)
 快晴。だけど、それほど暑くないさわやかな日曜日。別のスーパーでも、紙パックのジュースやヨーグルトは全然置いていなかった。ペリエに似た安いものを買ってきて飲んだらうまくなかった。ステーキ用の牛肉が、1ドルちょっとで売られていたが、色も変わっているようだったので手は出せなかった。ホームページを整理しているうちに、前に書いたものを消してしまった。バックアップをとっておかないといけないと痛感した。
 午後から車でダウンタウンに出かけてみた。地下鉄のほかに、ストリートカーもかなりのところが運休しているようだった。
それほどの混雑ではなかったが、チャイナタウンで買い物と思ったら、道路を半分止めてお祭りをしていて、駐車スペースはどこにもなかったので素通り。アマチュアバンドの演奏が大音響で聞こえてきた。いつも感じさせられていることだが、中国の人民のパワーはすごい。
 街路樹からは、蝉の鳴き声が盛んと聞こえてきた。なんの違和感もなかったから、日本と同じアブラゼミが多いのではないかと思うが、よくわからない。蝉が鳴いているというのは、秋が近付いている証拠なのだろうか。
 以前、モントリオールの方が黒人が多いということを書いたが、よく見てみると、トロントにもたくさんいることがわかる。ある本にも、ケベックよりもオンタリオの方がずっと多いというのが、データとして載っていた。見ても見えないことがたくさんあるようだ。自分のものを見る目をもっと養って、事実に迫れるようであればいいと思う。

■送り盆(2003.8.16 Sat)
 午前8時、まだ朝が明けきらないような暗さ。遠くでピカピカと雷が光っていた。やがて雷雲が近づいてきて、稲妻がビルに落ちて空が轟いた。テレビはほぼどのチャンネルも復旧したようで、ニュースでは停電のことを、それ以外は普段と変わらぬ番組を放送していた。雨と風が激しくなってきて、一時はすごい嵐になった。
 9時を過ぎると雨は止み、空も次第に明るくなってきた。昼には晴れるかもしれない。テレビでキン肉マンをやっているのを発見。画面の上に、ナイアガラ付近に雷の警報が出ているという字幕が流れていた。
 エレベータを下りて、1階のモールに出てみると、すっかり元通りの雰囲気。ただ、地下鉄は月曜までは運休だそうで、入り口はまだ閉ざされていた。スーパーは営業していた。だが、ハムやチーズ、乳製品、ジュース類の並んでいる棚はほとんど品物がない。野菜のところは、半分くらいというところ。ミネラルウォーターのでかいボトルを買い込んでいたお年寄りがいた。豆腐、レタス、キュウリ、ネギなどを買った。やはり普通に買い物ができる状態というのはありがたいものだ。自然に笑みがこぼれたような感じだった。ほかの人たちもたぶん、そうだっただろう。だけど、のど元過ぎれば熱さ忘れるということで、生活自体が以前の消費生活に戻ってしまうとすれば、またいつか電力がストップするかはわからない。きのうは復旧してすぐに洗濯機を回したのだが、ラジオでは元に戻ってもすぐに洗濯機や冷房などはつけないようにという指示が出ていたそうである。現に、復旧はしたがまたすぐにダウンした地域もあったようだし、今の時点でまだ復旧していないところもあるらしい。そういうことを考えれば、手放しでついたついたと喜んだのは早計だった。

■停電 続報(2003.8.15 Fri)
 午後1時30分ころにアパートの電気は回復した。まずラジオをつけて、それからコーヒーを湧かして、洗濯をした。何一つ、電気が止まるとできなくなってしまった。電話回線を使ってインターネットにアクセス、掲示板に書き込んだ。先週、今週と事務所はすべて閉鎖されている。そのため、我々常駐スタッフは2週間まるまるの休日を得た。おかげで旅に出て有意義な研修をすることもできたし、ふだんの学校に勤めているときとはまったく別の過ごし方をすることができている。だが、ここに来て、停電という形で、生活基盤の危うさを思い知らされてしまったのだから、なんとも苦々しい思いがする。
 ただ一つ、ケーブルテレビはまだ直っておらず、どこの局も見ることができない。FMラジオでは、2つの局が電波は出ているが無音の状態。CBCの第1放送が特別編成で停電関係の情報を流し続けている。各地からの電話レポートのほかに、冷蔵庫の食べ物に気をつけるようにという注意が流れている。まだ外には出ていないが、窓を開けるときょうもかなりの暑さだ。エアコンが止まっていたとはいえ、部屋の中の方がずっと涼しい。最高気温は31度だそうだ。バスと、一部のストリートカーは動いているが、地下鉄は月曜日までは動かないらしい。もう少ししたら、外の様子を見てこようかと思う。
 停電では、銀行関係もすべてダウンしていた。CDの前に来て、使えなくて戻っていく人も何人か見かけた。現金を余り持たず、カードで済ませるスタイルの人も多いようだから、今回のようなときは、手持ちの現金がないというのは不安だと思う。校長のところには電話がつながらないのだが、教務主任の先生とは話をすることができた。商店はほとんど閉まっていて、開いていた八百屋の前には長蛇の列ができていたそうだ。その先生も八百屋で買い物をしたが、すべて現金決済だけだったらしい。こんな停電になったのは、自分たちがカナダに来てから初めてだと言っていた。僕は、当面の食料は確保できているし、きのう300ドルを下ろしたばかりだったので、しばらくはだいじょうぶかなと思っている。
 きのうの記録を読むと、やはりかなりの動揺が感じられる。今でも普通の状態ではないと思う。テロか、などと早まったことを考えていたのも恥ずかしいのだが、原因の特定はなかなか難しいようだ。ヤフージャパンから日本語の情報に接したが、報道の多くはニューヨークの様子を伝えているものだった。なるほど日本からはこういうふうに見えるのか。カナダの情報はほとんどない。アメリカとカナダは距離的には同じだが、日本からはアメリカの方がずっと近いんだということがよくわかる。自分だって1年前だったら、「トロント?どこそこ?」という感じだったのだから、世の中の姿を知るということをどれだけできていないか。地球は丸いとはいうけれど、自分の見えている地球の姿は、ほんとうにいびつな形をしていると思う。
 ラジオでは、近所の人々で助け合って夜を明かしたという報告がいくつもあった。外でバーべキュー用の道具を使って食事をした人も多いらしい。残念なのは、アパートの人々とはそういうコミュニケーションができていないということだ。ロビーにでもいれば、話はできたかもしれないが、近くに日本人コミュニティがないというのは心細いなあと感じた。それだけに、電話でも情報交換できたのはありがたいと思った。
 午後4時、ケーブルテレビが映るようになった。同時に、インターネットもつながった。テレビはいくつかの局がまだ止まっているが、ニュースはみることができるようになった。昨夜からの人々の様子を延々と流している。ほんとうに必要な情報って、これからのことだと思うんだけど。食料はどこで買えますとか、どこで食えますとか、交通機関の情報とか。
 でも、こういう停電はこれからいろいろなところで発生するのではないだろうか。日本でもこの夏、起きていたはずのことなのだ。そして、この強大な電力の多くは、いまや原子力なしにはつくることができないのである。気がつけば8月15日。原子爆弾に襲われ未曾有の戦災を被った国日本も、58年経って原子力の恩恵なしには生活できない国になっている。

 外に出てみたが、スーパーは休み、会社関係もきょうは休みのところが多かったようだ。個人経営のレストランはほとんどが営業していた。夕食も、そこからテイクアウトして部屋で食べた。出かけるエレベーターの中は、同じように外に出てみようと思ったのだろうか、ずいぶん混んでいた。見知らぬ小さな男の子が「元気?」と聞いてきた。
 およそまる一日ではあったが、電気の回復したことにみな喜びを隠せない様子である。僕も知らない人に「何か食べるものを買いたいよ」と、自然に話しかけることができた。
 
■停電(2003.8.14 Thu)
 今午後8時25分。さいわいまだ外は明るいし、パソコンのバッテリーももっているので、これを書くには影響はない。現在アパートの建物の電源は非常用に切り替わっており、部屋の中の電気はすべてストップしている。電話と水道はだいじょうぶ。インターネットはケーブルテレビ回線なのでダメだった。エレベータも止まっていたので、11階の部屋まで歩いてきた。
 アパートに辿り着くまでに、4時間近く歩いてきたのだ。情報を得ようにも得られないのでいつ復旧するのかもわからない。ここへ帰ってくるまでに、何人かの人と話を交わしてきた。それによると、停電になったのはオンタリオ州一帯と、そしてニューヨークだという。実家の母に電話をすると、ニューヨークでは東側から徐々に復旧している、全部回復するのに2日かかるという話だ。2日ならなんとか我慢できる範囲だ。
 トロントは地下街が網の目上に張り巡らされていて、冬場の寒いときでもコートなしで歩けるようになっているそうだ。地下街には何度も足を運んだが、あらためてフードコートなどもチェックしなきゃ、などというくだらないことで、一番南側のあたりからずっと地下を北上して歩いていた。なんか遠くでベルがけたたましくなっているなあ、非常ベルかなと思っているととたんに全ての電気が消え、真っ暗になった。ある商店で懐中電灯をつけたので、自然とそちらの方に足が向いた。客は何人もいたが、誰一人叫んだり騒いだりする者はなく、いたって冷静であった。まさか火事ではないよな。それにしても、言葉がわからないというのはこういうときは心細いものだななどと考えていた。"EXIT"の表示がすぐ近くにあったので、逃げる気になれば逃げられたと思う。でも、誰かが「動かないで」と言って、みなその場で待っていた。そうして10分もしないうちに一部の電気がつき、我々はすぐに歩くことができるようになった。きっと非常用の自家発電だったのだろう。これが起きたのが、だいたい午後4時頃のことだったと思う。
 電気がつくと、どの商店もすぐに店のシャッターを閉めたり、鍵をかけたりしていた。とりあえず地上に出ようと思い、止まったままのエスカレータを上がって1階に出た。このときはまだ、停電したのはこのデパートの建物だけだろうくらいにしか考えていなかった。カナダではこんなことがあるのかな、ということも浮かんだ。ところが、外に出てみると、人々でごった返している。どうもみな建物からゾロゾロ出てきているという感じ。見上げると、信号がついていない。交差点では混乱が生じている。ストリートカーも路上で止まっている。これはかなりの広範囲が停電になったようだ。ちょうどヤング通りという、街を南北に貫く目抜き通りの地下にいたので、ヤング沿いが停電したのかな、と思っていた。どうやら地下鉄も止まったらしい。これはたいへんなことになったぞと、嫌な感じがしてきた。とにかく人々はみな歩道を南か北かに歩いている。携帯電話で話している人も多かった。商店はほとんど閉まっていたが、バーやレストランではパティオで呑んだり食べたりしている人たちもいた。
交差点ではどこも混乱していたが、いくつかの交差点では、飛び込みで交通整理をかって出た人々がいて、一生懸命手を振ったりしていた。それに対して拍手を送る人もいた。かなり経ってから消防車や救急車がサイレンを鳴らして走って行き、尋常でない感じを与えていた。交通整理ボランティアに代わって、トロント交通局や警察が交通整理を始める頃には、混雑はあるものの、ちゃんと流れるようになっていた。
 歩行者の方はとにかく日の暮れぬうちに帰らなければならないと思ったのだろう。みなまっすぐにけっこう早足で歩いていた。あいにくきょうは朝から快晴で、その頃でも外は30度以上の気温があったのではないだろうか。僕も汗だくになって北へ歩いていた。アパートはここから地下鉄の駅で15くらい北に行ったところにある。距離にすると、やはり15キロくらいはあると思う。帰れない距離ではないが、きつかった。なにしろきょうは早く起きて、1時間ほど近所を散歩したりジョギングしたりしていたので、もうこの時点でかなり疲れていたのである。地下鉄でまっすぐ帰ろうかと思っていたところへこの停電。なんともタイミングが悪かった。
 コンビニは店を開けていて、ペットボトルの水を買っていく人がたくさんいた。アイスクリームを売る屋台や、ホットドッグの屋台もしばらくは行列ができていた。また、公衆電話にも列ができていた。沿道では、ミネラルウォーターの店が、浄水器の水をふるまい出した。レストランでは、アイスクリームを溶けないうちに売ってしまおうと、人々に声をかけていた。
 バスが臨時便を出し始め、南に向かうバスはどれも寿司詰め状態。車も北へ向かう長い列ができている。ひたすら歩く。いったいなにが起こっているのか。病院なんかは大丈夫なのか。どれくらいの範囲停電しているのかなど、あれこれ考えが浮かんできた。すれ違う人々からは、"What's going on?"ということばが何度か聞かれた。
 途中道路脇に腰かけて休憩。いっしょになったおじさんに聞いてみる。すると、オンタリオ州一帯が止まってしまったということだ。「変だ。変だ。」と何回もしゃべっていた。「カナダはそんなに貧しい国ではないし、オンタリオ州も、いくつもの発電所があるんだから、全部がダウンするなんておかしい。」と言っていた。「これからノースヨークまで帰ります」と言うと、「長い道のりだな、気楽に行こう!(Take it easy!)」というふうに話してくれた。その次に休憩したところは黒人のおばさん。「オンタリオとニューヨークが止まっている」ということを聞く。3人目も黒人のおばさんで、「いまシェパードから来たよ」というので、「僕はキングから歩いてきました」というと、「へーそっちのほうまで停電してるのかい」と驚いていた。「でもいい運動になるよ」と言って笑っていた。
 今の時点ではなんとも言えないのだが、テロの可能性も否定できないだろう。今まではこんなこと、テレビでそれを見る立場でしかなかったが、いざ自分が巻き込まれてみると、たいへんな迷惑な話だ。テロとなるとまた恐ろしい話になってしまうが、だからといって必要以上に慌てたり騒ぎ立てたりしてはいけない。こういう困難に対しては、Take it easy!の気持ちでやっていくといいのではないかと思う。僕だってこんなことでへこたれるようなトロントニアンではない。戦うかどうかではなく、けして負けないという気持ちが大事だ。でもどうして?これも試されているということなんだろうか。
 それにしても、電気がダウンすると社会生活はまったくできなくなってしまうのだ。食べ物屋も閉まっており、家に食料の貯えがない人々はたいへんだろう。僕もプルーンとトマトとパンと少しの飲み物くらいしかない。冷凍のピザもあるが、電気がなければ温めることもできない。コーヒーを湧かすことすらできないのだ。途中、本格的なピザ釜?で焼くピザ屋の前を通ったら、長い列ができていた。
 もう外はすっかり暗くなった。今までで一番暗い夜だ。窓の外には高校が見下ろせるのだが、そこは明るくなっている。きっと避難所のように開放しているのだろう。コンドミニアムでは自家発電でなんとか水道などもきているが、一般の住宅はどうなのだろうか。ラジオを聴きたいが、あいにくこれはコンセントが必要なのだ。車なら聴けないことはないが、11階を階段で下りて、また登ってというのはきょうは御免だ。不思議なことだが、きのう懐中電灯のある場所をしっかり確認していたのである。細いアウトドア用の電灯だが、これ一本あればなんとか対応できるだろう。
 こういう状態が長引くとすると、仕事の面でもかなり影響が出そうだな。お、いまセキュリティから館内放送があった。電源のパワーが少なくなってきたので、いまから全てのパワーをオフにするらしい。いよいよまずい状態になってきた。水も止まるかもしれない。薬缶やペットボトルに水をたくわえておこう。何もなければそれでよし、備えあれば憂いなしである。
 ああ、こうして窓の外を見ると、学校と車の明りをのぞいてはほんとうに真っ黒である。こんな夜はもう今夜限りにしてもらいたい。

 現在15日午前2時30分、夜中に館内放送があり、エレベータが一つだけ使えるようになったそうだ。電話回線でつなぐことを思い付き、いまやってみたらつながった。アクセスポイントの電話番号をコピーしていたのを思い出したのだ。でもパソコンのバッテリーの方がいつまでもつかわからないから、どれだけ更新できるか。日本語の情報を読んだが、ほんとに大規模の停電のようだ。オタワでは略奪が行われているとか。明日になったら、食べ物のことなど、まじめに心配しなければならなくなるだろう。今は一日でも早い復旧を祈るしかない。

■お盆(2003.8.13 Wed)
 昨夜帰ってきてから、さすがに疲れが出たのか、きょうは1日中ぼーっとしていた。夜になったら元気が出てきて、今午前1時。マリナーズとブルージェイズの試合を見ている。イチローが大活躍し、佐々木が登板している。テレビを見ながら、旅の記録を整理していた。
 午前中、車の点検でディーラーまで行ってきた。5000キロを越えたら点検だったのだが、昨日見たら8700キロにもなっていた。旅に出る前は3700だったから、約5000キロ走ったことになる。点検とオイル交換をしてもらって、しばらくは安心だ。
 その足でショッピングセンターに寄ると、今までとはものが違ってみえることに気がついた。目に映るものが新鮮だ。新しい感覚。旅の途中で買おうとして買えなかったウォーキングシューズを、きょう買うことができた。ふらっと入って、サイズを探してもらって、普通に買い物をすることができた。本屋で、学校用のフランス語辞典を買った。ちゃんと発音記号も付いている。
 ガソリンスタンドで給油をし、久しぶりに洗車をした。ほとんどきれいになったが、フロントには虫がたくさんこびりついており、それがあまり取れていなかった。
 日本では盆の入り。電話で両祖母の声を聞くことができた。二人とも元気で何よりである。
 旅の記録もそのままアップする。本日の支出には、宿代とガソリン代は含まれていない。クレジットカードでの支払いがほとんどだったので、省略する。そのほかの金額は、正確に覚えていないものについては概算である。

■トロントへ(2003.8.12 Tue)
 朝7時に宿を出て、一気に20号線を西に向かった。ケベックシティは素通り。朝の高速道路、きょうは見事に晴れ上がり、周りの景色も気持ちよかった。ただ、車内は暑くなって厳しかった。旅のはじめからこの天気だったとしたら、もっと旅程は短くなっていたかもしれない。
 2時間ちょっとでモントリオールに着く。市内に入ると渋滞に巻き込まれて時間を食ってしまう。ラッキーなことに、そこに地下鉄の駅があった。この間は乗ることができなかったイエローラインの終着駅である。この駅前の駐車場に車を停めて、地下鉄で街に入ることにした。3時間も散策できればOKだろう。目的は二つ。この間行けなかったアトウォーター市場に行くことと、土産を買うことである。地下鉄のデイパスを買って、カトリーヌ通りに出て、3駅くらい歩く。快晴のモントリオールはさわやかだった。街頭や公園では横になったり、座ったりしている人がたくさんいた。交差点で、グレイラインの観光バスと歩行者が接触事故を起こしたらしく、救急車が来て、人集りができていた。おじさんが、道路の血のあとを水で洗い流していた。初めモントリオールに入って驚いたのは、歩行者の信号無視の多さだった。赤信号で車が向かってきているのにかまわずに道路に出て来る。トロントでも信号無視はあるにはあるが、これほどひどくはない。歩行者用の信号機に秒表示があったし、テレビの隅に出る時計も秒まで出ていた。人々がせっかちなのか、それがこちらの文化なのか、いずれにしても、事故が起こっても仕方のない状況ではあるなあと感じた。本国フランスではどうなのだろう。昨夜テレビを見ていてわかったが、ケベックではやはりフランスのテレビが放送されているようだ。フランスには行ったことはないけれど、文化的にはかなり似たものをもっているに違いない。
 いつも旅の途中にはほとんど何も買わないのだが、一つだけ欲しいと思わせるものがあった。先日ここを通った時に見かけた、虹色の熊のぬいぐるみ。ディスプレイがとてもきれいだったのだ。そこの店はまだ開店していなかったのでしかたがない、写真におさめるだけで我慢しよう。道には男たちがたむろしており、声をかけてくる人が何人かいた。その一画は、虹色の旗や看板、ポスターなどがたくさん掲げられていた。トロントのゲイパレードでわかったが、あの虹色というのは、ゲイのシンボルなのだそうだ。このところカナダのニュースでは、毎日のように同性での結婚の話題が取り上げられている。聞き取れないのでよくわからないが、宗教上の壁が大きいらしく、どこの司祭が認めたとか認めないとか、そのような話が多いようである。
 途中の店で朝食、ホットケーキのセットだったが、パンも?と聞かれたのがよくわからぬままイエスと答えたら、ホットケーキが2枚にトーストが2枚、目玉焼き2個にポテト、豆のソテー、ウインナーとベーコン、それにコーヒーという大量の食べ物になった。それを出してくれる時にそのおじさんは、フランス語で何かしゃべって笑った。「いっぱい食って大きくなれよ」みたいな冗談を言ったのだろう。
 アトウォーターの市場。この間はアトウォーター駅で降りて駅の周りを探したが見つからなかったのである。地図をよく見たら、隣の駅のほうが最寄りの駅であった。駅を出て、ベンチに座っていたおばさんに、「マルシェ?」ときくと、あっちだよと指差して教えてくれた。やった、通じた。カレーマルシェに感謝である。市場の外では果物や野菜がきれいに並べられていた。思わずそこでトマトとプルーンを買ってしまった。桃もおいしいよと言われたが、桃は買わなかった。トロントで買った桃は、どれも日本の桃よりおいしくなかったのを思い出したのだ。でも店のお姉さんは、桃を一個サービスしてくれた。「これを食べておいしかったら、また来たくなるわ」と言っていた。店の写真を撮りたいと思って、「写真を撮らせてください」と頼むと「私を?」ときかれた。建物の中は肉屋やパン屋、お菓子屋などがあった。パン屋でフランスパンを買い、お菓子屋で職場への土産用のチョコレートを買った。
 地下鉄の駅は、どの駅もべつの建築家がデザインしたものなのだという。それぞれに芸術の香りがするのだった。地下街のショーウインドウも、とても落ち着いていて気品を感じる。マクドナルドの店さえも、普通のカフェみたいに茶系でおしゃれな感じになって、周囲の店と調和していた。地下街に学習机の売り場があって、どの机の上にも地球儀が載っていたのがおもしろかった。看板のフランス語も、よく見ると意外に見覚えのある単語が多いことに気づく。英語と近い単語がきっと多いのだ。ただ、発音に関する知識がまったくないために、どうにも読みようがない。せめてよどみなく読めるようになればいいだろうと思う。そして、フランス語はアフリカの多くの国が使っている言語だ。フランス語から、アフリカへの道も見えてくる。また、そんなことを考えた。
 モントリオールを後にして、遠回りになるオタワは通らずに一路トロントを目指す。20号から401号に入り、そのまままっすぐ5時間半。途中昼食と給油などで3回ほど休憩。ガソリンは、オンタリオでは1リットル70セント前後である。だが、ノヴァ・スコシアやニューブルンズウィックでは80セントくらいするところもあった。輸送の関係なのだろうか、そういう差もあることがわかった。旅の途中、ガソリンは毎日入れた。1日に2回入れた日もある。ほとんどカードでの支払いだったが、概算で2万5千円くらいかかったと思う。石油の無駄遣いと言われると立つ瀬がないのだが、そう言わせないためにもこれからの生き方を見ていてほしいと思うのである。必ずもとはとってみせるよ。
 いろいろなものを見てきたが、そのたびにトロントではどうだっけと考えた。住んでいながら、よくわかっていないことが多過ぎる。もっと自分の住む街を知らなくてはと思った。そして、後半からはトロントがすごく懐かしく思えてきて、郷愁とも似た気持ちを感じていた。トロントまで50キロくらいのところから交通量が多くなってきて、車線を変えるのもかなり恐かった。ジェットコースターに乗っているような感覚て冷や汗をかきながら戻ってきた。やっぱりここも大都会だった。
 充実した時間を過ごすことができた。自分にしかできない旅ができた。どんどん通り過ぎて行って、同じところに留まるということがなかった。けれど、カナダに対する見方は広がったと思う。まだまだ知らないことばかりだけれど。今振り返ってみて印象的だったのは、フランス語圏のトロントとの違い。そして、アカディアンの存在である。こんなことを何も知らずにカナダに住んでいますなんて言えないと感じた。そして、トロントのことすらなんにもわかっていない、というかよく見ようとしていなかった自分もいたということもなんとなく感じることができた。

■アカディアン・ヴィレッジ(2003.8.11 Mon)
 何か所か蚊に刺されたところがかゆいが、絶対に掻くまい。カンボジアでこれを掻いたがためにひどい目にあったことは、今でも鮮明に記憶している。なにしろあのときは、完治するまで3か月も病院に通い続けたのだから。きょうは日本から持ってきていた軟膏を少しつけておくことにする。これでひどくなるようだったら病院に行かねばならないが。
 宿を出たのが午前8時。海岸線をたどりながら北上を続ける。いろいろな集落を通ってきた。きのうのアカディアンの印の旗がたくさんある集落もあれば、ほとんどない集落もあった。通りの名前がフランス語名のところと、英語名のところがあったり、店の看板も両者が混在していた。海はセントローレンス湾で波は穏やか。フィヨルドというのだろうか、小さな湾が深く入り込んでいてまるで湖のようである。きょう宿の奥さんは、いい天気になりそうねと話していたが、ほんとうにその通りになった。朝のうちは曇っていたものの、昼からは見事に晴れ上がり、暑くなった。この旅の途中こんなに暑かった日はなかった。一日ドライブして日光がかなり強いし、車内は暑いしでたいへんだった。それを思うと、今まで曇りがちの天候だったのはラッキーだったといえる?かもしれない。
 アカディアンの集落を見て回る。家々はみなかわいらしく、家ごとに飾り付けも工夫しているところが多くて楽しかった。きれいな風景ではある。だが、きれいということよりも、ここの人々が自分の民族や出身に誇りをもって暮らしているということが、その集落の姿からはっきりと見てとれるのである。それがなによりよかった。それほど豊かなわけでもないだろうし、きっと冬はマイナス20度30度の寒さになるだろう。それでもここに生活している彼等に素直に胸を打たれた。
 日本人であることに、どうして自信を持てないのか。もちろん持っている人はたくさんいるだろうけれど、自分が日本人であることの誇りとはいったいなんだろう。そういうことを考えていた。
 それらの小さな集落を挟んで点在しているニューブランズウィックの海沿いの町を南から訪ねた。ミラミシュ、バサースト、キャンベルトン。ここらあたりは、僕の持ってきていたカナダの地図帳にも載っていない地域だった。どこもこぢんまりとした港町ではあったが、港からの眺めはどこも素晴らしかった。そしてどの町も、英語とフランス語の混在しているような感じだった。ミラミシュではマクドナルドのベーグルの朝食を食べた。ここの店は完全に英語。バサーストの案内所でパンフレットをもらったときは、受付のおばさんは英語があまり得意ではないようだった。キャンベルトンの町は、川を渡るともうケベック。ケンタッキーではフランス語だった。案内所ではアカディアンの資料のコピーをもらうことができた。ここでは英語だった。どうも一つの町の中でもいろいろなようで、それがおもしろいといえばそうなのだが、実際のところ困っていることはないのだろうかと不思議だ。ニューブランズウィック州。来てみるまではまったく何にもわからなかったのだが、今ではとてもいいところだったと思う。また来れたらいい。
 橋を渡ってケベック州に入る。1時間進んでいた時計を元に戻した。なんか得した気分だ。だが、この時すでに3時になろうとしていた。案内所で、ガスぺ半島を一周するにはどれくらいの時間がかかるかを尋ねると、10時間という答え。行ってみたいとは思っていたが、思いきって断念。半島を横断するのだけで2時間。さらに4時間でケベックシティに着ける。ということで、そのコースをとることにした。旅が始まってから、「?」マークの案内所を利用することが多いのだが、ここの人たちはほんとうに誠心誠意対応してくれる。半島を横断したところの案内所に、宿の予約を頼もうと思い入った。そこにはどう見ても16、17歳くらいの小柄な娘がいて、一人で案内所を取り仕切っているようだった。フランス語が話せないとわかると、スペイン語は?とかきいてきて人なつこく笑った。ケベックシティ近くのホテルに何軒か電話をしてもらったのだが、一生懸命やってくれている姿がなんともけなげだった。どこも値段が高かったので結局断ってしまったのだが、自分で探してみると言って別れを告げると、ほんとうに申し訳なさそうにしていた。その時、ノープロブレムということばが出てこなかったのを、僕はしばらく悔やんだ。
 その後はひたすらケベックシティを目指して西へ。セントローレンス川はここまで来ると、もう川とは思えない。第一向こう岸が見えないし、潮の香りがする。途中の町はどこも、川岸沿いに散歩道が整備されていて、ジョギングをしたり、自転車に乗ったり、ローラーブレードをしたり、思い思いに夏の夕方を楽しんでいる様子だった。9時前にケベックシティの少し手前のところで高速を降りると、モーテルがあった。開いていたので即決。近くのスーパーでサラダとビール、サブウェイでサンドイッチを買って旅の最後の夕食をとった。
 明日はいよいよトロントまで一気に帰ろうと思っている。いろいろ見ないできたものもたくさんあるのだが、見てきたものもたくさんある。これだけ充実感のもてる旅ができれば御の字である。

■プリンス・エドワード・アイランド(2003.8.10 Sun)
 日本を起点にしてハリファクスが東の果てとすれば、この大西洋の向こうはもう西の果て、ヨーロッパ。とんでもないところまで来てしまった。これまでたどった道のりを考えてみても、全然間違っていないと言い切れる。予約を入れていた4日目までを含めて、ここまでのところ、全部当たりの旅といっていい。ただ一つ、天気があまり良くないのは残念だが、それでも歩いている時に雨に降られたことはきょうまでなかった。きょうはシャーロットタウンを歩いている時に土砂降りになったが、傘があったのでそれほど濡れずに済んだ。
 昨夜の就寝が10時半、今朝の起床は7時半。熟睡した。ハリファクスのモーテルではトーストとコーヒーのサービスが付いていたのでありがたかった。テレビでは、シュワルツェネガーが知事に立つというニュースが流れていた。8時半に宿を出て、一路プリンスエドワード島(PEIと略して呼ぶようだ)を目指そうかと思ったが、どこかハリファクスには後ろ髪が引かれる思いがして、またあの港に行ってみたくなった。で、ちょっと迂回して行ってみると道路はがら空き。どうりできょうは日曜だった。ラジオを付けると、ハリファクスのどこだかという黒人コミュニティの話が流れていた。彼等の話す英語には独特の訛りがあるらしい。例を挙げていたが、僕にはほとんど変わりなく聞こえた。昔学校で差別的な扱いを受けた話や、先生に励まされた話などが出ていた。きのう行かなかった丘の上に登ってみると、町全体が見渡せた。ここはハリファクスシタデルという昔の要塞跡だということがわかった。上から見ると五稜郭のような形をしているらしい。
 ホテルの前で立っているボーイたちは、どこのホテルでもみなキルトスカートを履いていた。なるほどスコシアというのは、スコットランドということか。イギリスからの入植が一番最初に始まったのが、ここハリファクスだ。この旅では、自分が歴史的な事を何にもわかっていないということを思い知らされている。どうしてカナダはこうなっているのか。アメリカは?ヨーロッパは?黒人は?白人は?東洋人は?フランスとイギリスはずっと戦争をしていたのでは?カナダが、英語とフランス語を公用語としているのはなぜ?ケベックというのは、どうしてフランス語なの?何にもわかっていない。
 きょうはそれに追い打ちをかけて、知らなかった事実が明らかになった。アカディアンという人々の存在である。今、アカディヴィルという集落の近くのモーテルの部屋でこれを書いているのだが、アカディアンというのは古くは17世紀にフランスからニューブランズウィック州の東側辺りに入植してきた人たち。でも、ここをイギリスが統治するようになってから、アカディアンは迫害を受けたのだという。そののち、ここに住むことを許されて、またこの地に住み着いたのだという。国道を通ってみて驚いたが、フランスの国旗の青のところに星の一つついた旗を掲げている家がいくつもある。そこはアカディアンの末裔の家だということだ。これは地球の歩き方からの受け売りの知識だが、あとでもう少し調べてみたいと思う。そんなことの一つもわからずにここにいるのは恥ずかしいと思った。きっとどこの土地にもそれぞれの歴史があって、だから今の人々がそこにいるわけで、そういう過去からのつながりを知ること大切だと感じた。
 時間が前後してしまったが、ハリファクスからプリンスエドワード島まではまっすぐ高速を北上した。ノヴァ・スコシアとニューブランズウィックの境界を越えてすぐ、PEIへの道路に左折した。コンフェデレーションブリッジという全長が何キロかわからないほど長い橋を渡った。おそらく15キロくらいはあるのではないかと思うが、ここではわからない。橋を渡ったところにある案内所で、今から自転車で島を回ろうという夫婦に会って話をした。モントリオールから来たということだったが、いくつか話をすることができて嬉しかった。彼等によると、ここに車を停めて、自転車で島を回るのだそうだ。どれくらい時間がかかるか聞いたが、わからないと答えた。あなたがたもフランス語を話すのですかと聞いたら、そうだと言っていた。ケベックの90パーセントはフランス語を話すのだそうだ。モントリオールはいいところだけど、冬は寒くてね。君はまだ経験していないけど、冬になったら驚くよと言っていた。英語でのコミュニケーションができて嬉しいと素直に感謝を述べて別れた。
 島では案内所からもらった地図通りに小回りのコースを走ったが、それでもかなり予定よりも時間がかかってしまった。天気は曇りでそれほどいいわけではなかったが、景色だけであれば北海道も負けてはいないという気がした。きっとモンゴメリの小説のおかげでここまでの観光地になったのだろうと思う。たしかにいいところはいっぱいあるが、世界一美しいかどうかはわからない。ニューロンドンというところのレストランでスペシャルというのを頼んだ。11ドル95セントですというので、それにした。ロブスターにかぶりついている親子がいたので、ロブスターかなとも期待した。ここらアトランティックカナダはロブスターが獲れるところなのだという。料理にはロブスターはなかったが、かなり満足度の高い食べ物だった。ホタテの貝柱のフライとふかしたじゃがいも(ニューポテトと言っていたのでいわゆる新ジャガ)、ニンジンやカブを茹でたもの。コールスロー。なんともヘルシーなメニューだったが、文句なくうまかった。店自体が質素な感じで、働いている人たちが夏場の地元学生のアルバイトという雰囲気だった。だが、みな人なつっこい笑顔を見せてくれたので嬉しかった。
 シャーロットタウンは、うわさでは日本人観光客ばっかりということだったので、まったく期待しないで行ったのだが、意外に落ち着いたいい町だった。さすがにロイヤルな町である。だが、途中で雨が大降りになってきたのでゆっくり見ずにそこを後にした。おかげで?日本人には一人も会わずに島を去ることになった。
 大陸に戻ってからひたすら北上。高速道路ではなく、海沿いの小さな道路を走ってみる。と、そこの景色が最高であった。ひなびた漁村。そして、アカディアンの旗。誇り高き人々が住む集落を走っていく。もしかすると、ここのところがきょうのメインだったかもしれない。いや、この旅での最大の収穫かもしれない。来るときは、時間最優先で高速道路を使ったが、それではわからなかったことがたくさんある。日本でも同じだけど、もっとゆっくりゆっくり回ることができたら、あるいは一つところに滞在できたら、もっと人々の生活を肌で感じる旅になるだろう。
 そのアカディアンの集落を結ぶ道路がいくつもあって、ドライブルートになっているらしい。朝の段階では、モンクトンあたりのモーテルと思っていたのだが、ここを走っている間に、アカディアンの村もいいなという考えに変わってきた。そうして目にしたアカディヴィルという表示。そこにあったモーテルに飛び込んでみると、空き部屋有り。さっそく契約。9時を過ぎていたが、そこのレストランで夕食を取った。山の中のバンガローという雰囲気のレストランだった。この旅で初めてビールを飲んだ。そして、シーフードサラダ。なんと、ロブスターとエビとカキとスモークサーモンが入っていた。しかもガーリックトーストまで付いていた。山盛りだった。なんか、涙が出るほどうまかった。これだけで腹が苦しくなったのだが、その他にラザニアまで頼んでしまっていたので今夜はちょっと食べ過ぎた。「セボン」という言葉を使った。
 店の主人にアカディアンのことを聞いてみた。フランスからの移民なので、彼等はフランス語をしゃべるそうだ。ニューブランズウィック州でも3分の1くらいの人はフランス語を話すらしい。そういえば、途中で見た町の中では、英語とフランス語が混在しているようだった。知らなかったので勉強しなきゃと言うと、パンフレットをくれた。部屋でそれを見てみたが、詳しいことはあまり書いていなかった。
 ここの宿。蚊がずいぶん飛んでいる。すでに何か所か刺されてしまった。西ナイルウイルスにでも感染したらたいへんだが、そういうことはまずないだろう。ここは、Kouchibouguacという国立公園の近くということだ。パンフレットにはいろんなアウトドアスポーツへの誘いが書かれている。かなり魅力的な場所なので、何日間か留まりたい気もするが、そうもいくまい。と、ここまで書いて12時を過ぎた。明日は一気にケベックまで戻る。

■ハリファクス(2003.8.9 Sat)
 フェリーの中で、2時間は熟睡した。はじめは子どもたちが走り回って落ち着かなかったのだが、いつの間にか照明も消され、静かに眠ることができた。とはいえ、ベッドや座敷などというものはなく、3人がけの少しゆったりと座れる長椅子があるだけだ。しかも、3人がけの2人と1人の間にひじ掛けがついており、それが邪魔で足を伸ばすことができない。今まではこういう状況があると一睡もできなかったのだが、疲れには勝てなかったのか、知らぬ間に眠っていた。とはいえ、2時半にはアナウンスで起こされ、3時にはノヴァ・スコシア州のディグビーという埠頭に下ろされてしまった。
 天候は雨、そして視界は霧で閉ざされている。車内でしばらく座席を倒して横になっていたがまったく眠れない。こうなったら少しでも進もう、眠くなったらどこかで眠ろうと思い、走り出す。ところが、視界は悪い、おまけに街灯もないというところで、かなり心細かった。1時間半くらい走ったが、今ここがどこでどういう状態なのかがわからない。眠くてたまらなくなって、教会の隣の空き地に車を停めて眠った。そこで熟睡し、起きたらすでに6時を回っており、すでに明るくなっていた。昨日セント・ジョンの市場で買っておいたホームメイドクッキーを朝食代わりに食べた。すぐそばがもう海だったことを初めて知った。ちょっと走ったら、アメリカからの船が着くフェリー埠頭があった。フェリーターミナルは開いていて、そこでトイレを済ませることができた。朝一番の出港を待つ車が何台かとまっていた。
 やはり天候は回復せず深い霧に覆われている。湖沼の多いところらしいのだが、ぼやっと煙っていてよく見えない。せっかくここまで来て何も見えないのでは残念過ぎるなあとがっくりきていた。どれくらいの広さの半島なのか、日本の縮尺と未だに比較できていないのだが、かなり広い島である。2時間に1回くらい、たまらなくなって車の中で仮眠をとった。そうやって走ること7時間くらい。ようやく、目的地の一つ、ルーネンバーグの案内所に着く。案内所の人たちはとても親切だ。よく教育されているに違いない。時間を聞いたら、35分で行けるという。途中でサンドイッチの長いのを買って、半分は車の中で、残りの半分はルーネンバーグに着いてから港に腰かけて食べた。天気もいつの間にか霧が晴れ、遠くまで見渡せるようになっていた。 ルーネンバーグの町並み全体が、19世紀のそのままの形で残っている。それが世界遺産に指定されている。建物の色合いといい、形といい、凝った装飾といい、たしかに面白かった。ただ、期待していたわりにはそれほど美しい町並みとは思わなかった。色がちょっときつ過ぎる家が多くて、調和という点ではかなり各家の主張が強すぎるような印象を受けた。おとといのケベックシティでは、もっと色が落ち着いて、控えめだったように思う。そこでアイスクリームを買って食べる。でかくてうまかった。モントリオールでも、ケベックシティでも、観光地には馬車が走っていた。ここでも馬車が走っていて、僕がアイスクリームを食べているところに通りかかると、馬車のガイドが「馬車から降りたらアイスクリームを食べてください」というようなことを話していたのが聞こえてきた。
 少し港を見て回り、ハリファクスへ。この時点で、きょうの宿はハリファクスしかないと決めていた。とにかく寝ないと仕方がないと思ったからだ。ハリファクスに着いて最初に、ティムホートンのコーヒーを買う。そして、案内所へ。「?」の表示に従って行ったら、ダウンタウンまで辿り着いた。案内所は繁華街の真ん中にあった。近くの駐車場に車を入れてから、そこで安いモーテルを紹介してもらい、予約の電話を入れてもらった。「ダウンタウンから遠くなるけどいいか」と聞かれたのだが、構わないというと車で10分の所を紹介してくれた。「君はラッキーだよ。昨日までずっと雨だったんだ」と話してくれた。天気予報は当たった。ハリファクスでは青空がのぞいていた。
 案内所での宿の紹介。これをしてもらえるとかなり楽ちんである。ただし、現地に着く時間が遅くなると案内所は閉まってしまい、自分で宿を探さなければならなくなってしまうので気をつけなければならない。幸い、着いたのは3時過ぎ。宿には迷って迷って、着いたのは5時前。それから洗濯をして、風呂に入って、ちょっと休んでから街へ出た。夏祭りの最中らしく、港の至る所で人集りができていて、それぞれ大道芸人が芸を披露していた。火を噴く男がいて、アブドラ・ザ・ブッチャーそっくりだった。油を含んで火を噴くと拍手喝采だった。ときどき顔に引火すると、ブッチャーは慌ててタオルで顔を拭って火を消していた。別の場所では、男性二人組が曲芸をしていたが、芸を見せると言うよりも、話術で笑わせるという芸であった。お客さんとのコミュニケーションも絶妙であった。僕にもちょっとは笑えた。これも生きた教材。人が通りかかると、"Join us!"ということばをかけていた。芸人と観客みんなで一つのものを作っているという意識を強く感じて、それがすごく心地よかった。一人でも家族連れでも友達同士でもぜんぜんかまわない。みんな加わって、一つのショーを作りましょうと、そんな雰囲気をとても強く感じた。「もっとすごいのを見たいかい?見たかったらイエーと言って」と言うと、みんな「イエー」と言った。 
 何かふとした時に感じることだけれど、子どもたちは社会の宝だということが、みんなの常識になっているのではないだろうか。子どもたちが守られていると感じる。例えば、こういうイベントでも「さあ子どもたちは前においで!」という声がかかって、子どもたちは嬉しそうに前に出る。芸の中でも、観客の中から子どもを借りて、その子といっしょに芸をしたりする。もちろん、あとで子どもは拍手を浴びるのだ。子どもたちの笑い声がとても懐かしい感じがする。屈託のない笑い声である。甘やかされているのとは違い、子どもは子どもとして、子どもらしく扱われているのである。うまく表現できないけれど。
 3人の人が客席から引かれてきて、いっしょに芸をした。1人の男性はケベックから来たというと、「ようこそカナダへ!」という言葉に会場が沸いていた。
 結局その芸は40分くらい続いた。でもまったく飽きさせることがなかった。終わった後、二人はおもむろに帽子とドルマークの付いた袋を取り出してチップを乞うた。すると、みなそこにどんどんお金を入れていった。チップはサービスの対価だというが、なるほど芸を見せて観客を喜ばせたのだから、お金をとって当然である。僕も帽子の中に2ドル入れてきた。
 飯を食おうと思って出たのだが、すでに8時を回っている。ダウンタウンの店はどうも高級そうなので、ちょっと走ってショッピングセンターの得意のフードコートに入る。トロントとたいして変わらなかったが、中にレバニーズがあったので注文する。ほとんどパセリとトマトのサラダのような料理にもの足りず、さらにピザを買って部屋で食べて就寝した。

■セント・ジョン(2003.8.8 Fri)
 今、フェリーを待つ車の中で書いている。外は小雨が降り、海は煙っている。23時45分ニューウィンズブルック州セント・ジョンのフェリー港から、ノヴァ・スコシア州ディグビーに向けてのフェリーに乗ることにしたのだ。今朝7時にケベック・シティのホテルを出発してから、きょう一日はほとんど車を運転していた。天気は雨まじりで眺めは全然よくない。ケベックとの洲境あたりは濃霧で前の車も見づらいほどだった。テレビではいつも見慣れたCBCのお天気おばさん、コリン・ジョーンズが明日の午後にはノヴァ・スコシアは晴れると言っていたので、それなら行ってみようと思った。コリンは毎朝ハリファクスの港から天気予報を放送するのだが、その中継を見ると、8月に入ってからのハリファクスは毎日雨が降っているようだった。引き返すなら後でもできるが、前に進むのは今しかできない。今回のチャンスを逃したら、一生行けないで終わってしまうかもしれない。普通に考えればノヴァ・スコシアはそれほど遠いところなのだ。とにかく、大西洋まで、行ってみる!そのためにきょう一日はほとんど車の中だった。
 きっと天気がよければ最高のドライブだっただろうけれど、ずっと曇り、雨、濃霧という状態ではしかたない。自然の姿からいうと岩手県のどこかをドライブしているのと、感じとしては同じだ。ケベックを出てからは山の多い地形に変わる。上がったり下がったりが続き、湖が見え、そこにはキャンプ場が点在している。キャンピングカーはかなり走っていて、自家用車を引っ張ったり、バイクや自転車を積んだり、ボートを積んだりしているものもある。荷車のタイヤがバーストして、路肩で困った顔をしている人たちを何度か見かけた。
 ケベック州を過ぎたらことばはどうなるのだろうという興味もあった。州の境界を越えたとたんに、表示は英語が上になった。ニューブルンズウィックに少し入ったところで昼食。だが、マクドナルドにはフランス語が飛び交っていた。いわゆる普通のフライドポテトのほかに、プティーンというメニューのポテト料理があったので食べてみた。フライドポテトに溶けたチーズとソースががかかっていて、ただのフライドポテトの何倍もうまかった。ニューブルンズウィック州は国内で唯一英語とフランス語の両方を公式に採用している州らしい。
 ここ港町セント・ジョンはイギリス入植者が多いところらしい。たしかに中心街はれんが造りのイギリス系という感じがするが、別のところではケベックで見たようなのカラフルな木造住宅が建っていたりする。通りの名前も、フランス語名と英語名が混在している。
 昼食をとってしばらくして、ハートランドという表示があった。佐野元春を思い出したので、ちょっと立ち寄って休憩することにした。すると、そこには世界一大きいという見事な屋根付き橋というのがあった。ほんの小さな田舎町ではあったが、この橋の絵はがきやらアンティークショップやらがあって、立ち寄る人が多いようだった。こういうちょっとした町というのも、なかなか楽しい。図書館のとんがり屋根の時計が2時を指して、鐘がカンカンとなった。腕時計は1時である。ずれている、いやもしかして時差が。とそのときはわからなかった。ラジオを聞いてもなかなか何時なのかは言わない。というか聞き取れない。ケベックではほとんどの局がフランス語の放送であった。テレビも、フランス語。それと、ホテルにはアメリカの大きなテレビ局の放送が入っていた。ケベックを過ぎると、ラジオは英語の放送が多くなる。しかも、ここはアメリカメイン州との国境沿いなので、きっとアメリカの放送も入っているはずである。ひとつ、「カントリーパワー」という放送局があって、カントリーミュージックをかけ続けていた。カントリーもなかなかいいなと思う。シャナイア・トウェインというカナダ出身の歌手の、"forever and for always"という曲がばんばんかかっていたので耳に残った。
 今回の旅には「ヴィジターズ」を持ってきていた。あの名盤「サムデイ」、ベスト盤「ノーダメージ」を出したあたり僕は元春を聴くようになった。友達が学校に持ってきて部活の最中かけていたテープがきっかけだった。そしてまもなく彼はニューヨークに旅立った。FMでサウンドストリートを毎週聴くようになっていたが、その頃の元春の一言一言が、高校生の自分には大きな影響を与えていたのだと、今になってよくわかる。ニューヨークから帰ってきて発表した「ヴィジターズ」のLPレコードを、僕は小遣いを前借りし、発売初日に買って聴いたのだ。これまでとはまったく肌触りの違う音楽で、たいへんな衝撃を受けた。あの時、今までのキャリアや音楽性をすべて捨てて、新しいことに挑戦していた元春の語る生きたことばを、僕は毎週胸ときめかせて聴いていた。あの生き方そのものが、今の自分の一部を作っていることをありがたく思った。今また「ヴィジターズ」を改めて聴き直してみると、歌詞にとても共感できることに気づく。まさに「これって俺のことじゃん」という感じだ。思えばずいぶん遠くに来たものだ。
 フレデリクトンというところの案内所で時間を確かめると、ハートランドの時計は間違っていなかったことがわかった。驚いたことにケベックとニューブランズウィックは1時間の時差があるのだ。そこの案内所でフェリーの時間を聞いた。だが、予約をしていないので乗れないかもしれないという気持ちの方が強かった。だめなら、ぐるっと陸路で行ってやろうと思っていた。
 セント・ジョンのフェリーターミナルに着いたのが6時頃。窓口で聞いてみたら、ラッキーなことに大丈夫乗れるらしい。そこで掃除していたおじさんがいろいろ話しかけてきてくれた。「ニイハオ」と言ってきたので、日本人だというと「あいさつを教えてくれ」という、こんにちはと教えると、返してくれた。窓口のお兄さんも「コンニチハ」と言ってくれた。気のいいおじさんは街への行き方やいくつかの見どころなどを親切に教えてくれた。切符を買って、おじさんの行ったとおりの道を通って繁華街へ出る。街をしばし散歩。しばらく嗅いだ事がなかった潮の香りだ。れんが造りの町並みはたしかにケベックとは異なっている。いったいイギリスの建築とは?フランスの建築とは?自分にはまったく何の知識もないことがわかった。
 ショッピングセンターでピタの夕食を取った。英語で注文が滞りなく成立すると実に嬉しい。こぢんまりとした街ではあったが、なかなか風情があってよかった。その後、車で観光地を一通り回る。ところがこのときからもう雨になっていて、かすんで何も見えない状態になっており、面白くなかった。
 フェリーに乗ることにしたので、きょうの宿はとっていない。ところが、所要時間はたったの3時間だ。もう少し長ければ船の中で眠れたのに。着いたら駐車場で明るくなるまで休むとしよう。明日は、ハリファクスと、ルーネンバーグという町を見ようと思う。そして、できればP.E.I.にも行ってみようと思う。さて明日はどこまで行けるか。
   
■ケベック・シティ(2003.8.7 Thu)
 昨夜の天候のままであれば、きょうは観光どころではなく気分的にもどうしようもなくなるところだった。だが、祈りが通じたのか、きょうはほとんど雨は降らなかった。最高の天気、ではなかったが、暑くも涼しくもない曇り空。世界遺産は天候によってその価値が左右されるようなものではない。朝食はなし。昨夜買ったクッキーで済ませる。9時にホテルを出て、バス停でバスを待っていたがいっこうに来ない。30分待っても来なかったので、予定変更。きょうは運転しないつもりだったのだが、しかたがないので車で出かけることにした。どうもまだ思い通りにならない嫌な気持ち。
 世界遺産の旧市街まで15分ほど。手近な駐車場に入れて、さあ散策開始。城壁に囲まれた街はさすがにきれいだった。一軒一軒違う色の壁、ドア、窓枠なのだが、全体で調和がとれている。この色合いの美しさに魅了された。表通りはレストランがひしめいていて、観光地のにおいが充満していたのだが、一歩通りを外れると人が普通に暮らしている普通の住居が、そういう美しい佇まいを見せている。なんともいえないいい気分になってきてゆっくり散歩することができた。表通りはあんなに人がたくさんいるのに、なぜ通りを入ると誰も通らなくなるのだろう。
 城壁の上からは悠々と流れるセントローレンス川が見渡せる。腹が減ってきたので、11時半頃にレストランにふらっと入った。「日本語のメニューあります」という表示が目にとまったのだ。きょうの料理もなかなかおいしかった。それと面白かったのは、一人で食事に来ていたおじさんを3人も目にしたことだ。おじさんが一人で食事をするなんて、珍しいことではない。自分もその一人。だが、彼らのもつ雰囲気が3人ともそれぞれにとても紳士的でかっこよかったのだ。トロントでもレストランなどほとんど入ったことのない自分だが、あのように普通に気取らずさりげなくオシャレに食事ができたなら素敵だと思った。
 外に出ると日が射して暑くなっていた。ぐるっと城壁の中を回ってから、城の外に降りていった。すると、そこではフェスティバルが行われているらしく、19世紀あたりの農民の格好をした人たちがあちこちにいる。そして、なんと街角で演劇をしたり、芸をしたりして、たいへんなにぎわいだった。一画が木の柵で仕切られていて、そこでは、トウモロコシを焼いたり、肉を焼いたりして、いい匂いが漂ってきた。メダルを買った人が入れる仕組みらしかった。
 きのうからそうなのだが、ここはカナダだということが頭から離れて、フランスの町の中にいる錯覚に陥っているのである。今までフランスというものを意識したことなどなかったのだが、頭の中に一個の大きな大陸ができたような気持ちである。フランスという国、ことば、文化、かなり深いものがあると感じた。そして、ふだん見慣れているアメリカ文化というか英語文化とは別物の大きな文化をもっと知りたいものだと思った。特に、フランスの農業文化からは学ぶところが大きいかもしれない。意外と、イワテと共通するところがあるかもしれない。そして、ヨーロッパやアメリカの文化をつなぐ大きな柱というのは、キリスト教ということになるのではなかろうか。実をいうと、海外に赴任するとしてもフランスだけは勘弁してほしいと思っていた。オシャレなイメージには似合わないと本気で思っていたからだ。だが、モントリオール、ケベックと見てきて、フランス語文化圏、なかなか素敵だと思えるようになった。でも、素直に振り返ってみれば、あの「アメリ」を観てうっとりするくらいだったのだから、そういうものへの憧れをもっていたことは想像に難くない。
 日本は、ペリーが浦賀に来てから今年でやっと150年だそうだ。日本なんてそんなものなのである。「開国」してからということで考えれば、ヨーロッパはおろか、アメリカよりもずっとずっと新しい国なのだ。「文明開化」の明治の世では、かっこだけしか学べなかった。21世紀の今、日本をほんとうに開く鍵は、海外の優れた文化に学ぶということにあるのかもしれない。日本もまだまだこれからの新しい国だから、ぜんぜん捨てたもんじゃない。自分たちの好きなことをどんどんやっていくほかない。ただし、外の文化を学ぶことなしには、独善に陥ってしまう。カナダでは、今日本に対する人々の感情はマイナスに傾いている。これは狂牛病の対応についてのことによる。日本がやっていることはけしておかしいことではないと思う。だが、だからといって今のままでもいいとは思えない。もっと説得力のある説明を、国に対してでなく、民に対して行うことが必要なのではないだろうか、などとまた偉そうに。
 というわけで、ケベックには参った。いいところである。不思議なところだ。カナダであってカナダでない。
 その後、車で「王の道」という道を通った。ケベックで一番古い道ということだが、たいした道ではない。岩手県にも同じような道はたくさんある。だが、その両脇にさり気なく建っている住宅の色あいというのがなんとも美しいのである。美しいから写真に撮りたい。でも、いちいち写真をとっている場合ではないほど普通に存在している。この調和はどこから来るのだろう。
 そして、夕方、セントローレンス川に浮かぶオルレアン島という島を一周した。周囲50キロくらいだろうか。農業の島らしく、田園地帯が広がっていた。ここは橋が架かるまでは、外とのつながりが余りもてなかったところらしい。そのため、古いケベックの習俗が残っているのだそうだ。途中どこかのファーマーズマーケットで何か買おうかと思ったがタイミングがとれなかった。晴れたり、雨が降ったりと不安定な天候だったが、気持ちよくドライブできた。朝の段階では、車には乗らないことに決めていたのだが、結果的には車にして大正解。予定以上の行動をすることができた。
 夕食はショッピングセンターに入っていた「サクラジャポン」で、テリヤキを食った。アパートから最短距離にあるフードコートに「サクラジャパン」というのがあって、突如そこが懐かしくなったのだ。ところが「サクラジャポン」はメニューが少なく、手際が悪く、味もそれほどうまくなかった。これが日本と思われるのは嫌だなあと思った。
 その後別のショッピングセンターに行って靴を見た。とにかく、仕事用以外の靴はこれ一つしか持っていない。ちゃんとしたウォーキングシューズが欲しい。ところが、気に入ったものを見つけることはできなかった。CD屋に入ると、アメリカ系のロック、ポップスのほかに、フレンチのCDがたくさん置いてあった。ラジオでも流れていたが、フランスの音楽は今ひとつよくわからない。そこで売り上げ1位だったノラ・ジョーンズの新譜と、試聴していいと思ったスターズというグループのを買った。あのパニーニが食べたくなって、それだけ1個買って食べた。店の娘がせっかく焼き上がったパニーニを取り落としてしまったので、出来上がるまで時間がかかった。慌てなくていいよと言いたかったが、言葉が出なかった。
   
■トロワ・リヴィエール(2003.8.6 Wed)
 今朝のテレビのニュースでヒロシマの原爆の日だったことを知る。朝8時に宿を出て歩く。隣の駅の地下街でクロワッサンとスープの朝食。店で働いているのは中国系の娘だった。同じく店の主人も中国系で二人は中国語で会話していた。
 近くに市場があるというので回ってみたが、どこにも見当たらない。天気も小雨まじりで、蒸し暑い。仕方がないので、モン・ロワイヤル公園という山に登って、街を見下ろそうと歩き出す。モントリオールで一番高いところということだったが、遊歩道が途中で通行止めになっており、上まで行くのは断念。坂を下り、きのう行かなかったところをぐるっと回りながらホテルに戻る。売店でケベック州の道路地図を買った。11:00時前にチェックアウトを済ませた。
 ホテルを出て高速にのっかるまでが長かった。街中の道路は信号無視も多いし、両脇に路上駐車が多くて、おまけにトラックが道の真ん中で構わず止まったりして邪魔だった。街中には車で入らない方がいいみたいだ。
 ケベックシティまでのちょうど中間点。トロワ・リヴィエールという小さな町。ここはカナダで2番目に古い町なのだそうだ。町の名前、トロワは3。リヴィエールは川。三つの川がセントローレンスに流れ込むところだからということらしい。そこで昼食。レストランに入ると、かわいいウェイトレスの娘さんがフランス語でぺらぺらしゃべってきたが意味がわからなかった。途中でフランス語がわからないと気づくと、英語で話してくれた。「きょうのスペシャル」を注文。何か飲み物はというので、コーラも頼んだ。ケベックの人々は、多くがフランス語と英語のバイリンガルなのである。
 コーラを飲んでいると、スープとパンが来た。これだけかい、でも9ドルいくらじゃこんなものかなと思いながらパンをかじっていた。そしたらそこにメインディッシュがやってきた。ソースのかかったハンバーグと大盛りのサラダの載った皿だった。パンをほとんど食べてしまっていたので、ウェイトレスに笑われてしまった。レストランでは食事の途中で、「どうですか」と聞くことになっているらしい。「グッド!」で、フランス語では何と言うのか聞くと、「セボン」と教えてくれたので、セボンと言ったら笑っていた。なるほど、ボンというのは「よい」という意味なのだ。ジュールというのは「日」だ。つまり、ボンジュールは「よいお日柄で」というような意味になるのだろう。挨拶ことばなんて、きっと世界中それほど違いはないのだろう。挨拶だもんな。必死の思いで平らげると、「ケーキはストロベリーケーキでいいですか」と聞いてきた。ノーサンキューと言うと、「ケーキとコーヒーも入っています」と言う。ここでもどういうわけかまた笑われてしまった。どうも間抜けに見えてしまうのだろうか。チップを含めて10ドルは安過ぎ。たいへんな満足感だった。
 その後、町内を自転車で駆け抜けた。風が涼しくて心地よかった。
 それからケベックへ。ホテルが見つかった時点で4時。チェックインにはまだ早いと思い、旧市街の方へ車を走らせる。ところがひどい渋滞に巻き込まれ、なかなか抜け出せなくなってしまった。おまけに雨まで降る始末。結局1時間以上も余計にかかってしまった。ホテルに入ってしばらく休み、靴を買おうと思ってショッピングセンターに行くが、7時前だというのにどこも閉まっていた。きょうは水曜日。木曜と金曜は9時まで開けるが、それ以外は6時で閉まるようだった。飯を食うところも見つけられない。スーパーとマクドナルドによって買い物。スーパーはトロントとたいして変化はなかった。ホテルの部屋に電子レンジが付いていたのを思い出したが、ここまで来てアパートと同じ物を食おうとは思わなかった。ただ一つ、プラムの熟れたやつを買った。これは整腸作用がばっちりである。腹の調子がおかしくなりがちな旅先では、かなり重宝する代物だ。マクドナルドの店員は英語が全くダメで、頼んだのと違う物が出てきた。意志が通じずがっかり。雨も激しくなるばかり。部屋に帰って、さびしい夕食を取る。旅をしていると、いいときもあれば落ち込むときもある。昼にはあんなに満ち足りた気分だったのに、夜はすっかりさびしくなってしまった。こういうときもある。きょうはもう早めに寝よう。明日はいい天気になりますように。

■モントリオール(2003.8.5 Tue)
 朝8時に宿を出る。一路モントリオールへ。曇り空の下、田舎の風景が広がっている。途中給油。日本で作ったビザカードは使えなかった。ちょうどオンタリオとケベックの境界付近。フランス語の看板が増えてくる感じ。ドーナツ屋で朝食。客の多くはフランス語を話していた。言語の境界線というのは面白い。家を一軒一軒調べたらどうなっているのだろう。学校ではどうなんだろう。などということが気になる。
 モントリオールまではゆっくり行って3時間。市内に入ってからは混雑の激しい高速道路が続く。迷って行ったり来たりしながら、やっとのことで高速道路を降りる。そして、街に入ったとたんに信号無視して横断しようとする人の多いこと。赤信号でも堂々としたもんだ。信号の付いている場所が違って、歩行者用と同じような低いところに付いている。歩行者用の信号には秒表示があった。宿がわからずにあちこち走り回るが、意外と早く見つかり、駐車場に車を入れて徒歩で街へ出た。宿はずいぶん繁華街の真ん中だったようで、少し歩いたら観光案内所があった。きのうのようなバスツアーは所用3時間。ここではしっかり歩いて回ってみたかったので、地下鉄の一日パスを買うことにした。地下鉄に乗って美術館前で下りた。
 実はきのう宿に戻ると、左目の白目の部分が、まるで血が出ているように真っ赤になっていた。充血ではなく、きっと内出血を起こしたのだろう。痛みはなかったが、かなりびっくりである。これでは出会った人も僕の顔を見てぎょっとするに違いない。そこでサングラスを買うことにした。
 昼食には、フードコートのパニーニというのを食べる。イタリアの料理のようだが、初めて食べた。これがもう最高においしかった。サンドイッチを型に挟めて焼いてくれるのだが、香ばしくてほんとにうまかった。トロントにもあるはずだが、食べたことはなかったな。フードコートはみなオシャレな店構えになっていて、色調も落ち着いた色に統一されていた。トロントにもある中国の店、日本の店もちょっと趣を変えていた。ケベックの人の好みに合わせているのだろう。それにしても、モントリオールはまったくトロントとは異なっている。全然違う。違う国に来たみたいだ。「北米のパリ」と言われているそうだ。ヨーロッパに行ったことのない自分がこんなことを書くのは間抜けだが、ヨーロッパ風の雰囲気をばんばん感じた。街を歩いていて、ショックであった。そして、トロントのこともそれほど知ったわけでもないのに、知ったような顔をしていた自分を恥ずかしいと思った。何にもわかってはいないのだ。トロントでは至る所で見かけるカナダの国旗が、ここではそれほど多くはなかった。ケベックの青と白の州旗と、それからある通りでは虹色の旗が多かった。
 昼食を終えて歩き出す。中華街を見る。それほど大きくはない。トロントの100分の1ほどもない。神戸の南京街より小さい。その先を少し行くと、旧市街。これが予想以上に見事な町並みで、ゆっくりゆっくり散歩した。モントリオールの観光地としては、ここが一番の見どころらしかった。そんなことすらよくわからずに来てしまっていた。やはり予習は大切だ。旧市街では、ノートルダム聖堂を見学した。たいへん美しく大きな教会だった。西洋の文化を語る上ではキリスト教や教会を抜きにはできない。カナダ以外はどうなのかほとんど見たことはないので想像が入ってしまうが、西洋では街の真ん中に教会があってそこを中心として街がつくられている。教会のあのとんがった屋根。どんなに小さな町にも教会があって、それが町の風景を決めている。それがとても不思議だし、魅力的に映る。旧市街はセントローレンス川の埠頭に面していて、きれいな公園になっていた。ベンチに座って、しばらく建物や人々の様子を眺めていた。
 その後、適当に地下鉄の駅で降りて駅前を散策したり、駅から駅までを歩いたりしながら、街の様子を感じてきた。街の東側にはフランス系の移民、西側にはイギリス系が多いそうだ。行ってはみたけど、よくはわからなかった。ただ、トロントでは少数派のフランス系がたくさんいるということが、街の雰囲気を決定づけているような気がした。フランス系の人には黒人も多いのだが、トロントよりも黒人が多いと感じた。そして、東洋人もかなりいたが、トロントよりは目立たなかった。フランス系の人々というのはなるほどおしゃれな感じである。だから街もおしゃれっぽくなるのだろうか。女性たちは小柄で細い感じの人が多い?と感じるのは気のせいか。トロントではどうだっけ。はっきりとは思い出せない。トロントのほうが街の緑は多いような感じだ。それと、モントリオールの地下鉄は待つ時間が長い。
 天気は悪くなかったが、蒸し暑くて蒸し暑くてしかたない。汗だくになって歩いた。夜になって少し雨が降ったが、たいしたことはなかった。予報ではきのうもきょうも雨マークだったのだが、影響はなかった。
 ゆっくり歩いて帰って来ると、宿の近くに大きなフードコートを見つけた。日本食のたこ焼き屋や寿司屋が入っていた。レバニーズもベドウィンのもある。インドのもあった。ちょっと早いがそこでインドカレーを食べた。インド人のおじさんはいろいろ人なつこく話しかけてくれた。トロントでは見たことのない店も多かったので、少しモントリオールがうらやましくなった。トロントのフードコートをかたっぱしから調査しなければならないと思った。
 宿で2時間ばかり休んでからまた出かける。オリンピックの行われた記念公園へ。大きなシネマコンプレクスがあったのでちょっと入ってみる。ハリウッドの映画に混じってフランス系の映画がいくつか上映されているようだった。ハリウッド映画のポスターもフランス語。フランス語の字幕が出るのか、それとも吹き替え版なのかはわからない。その後、街の中心を走るサントカトリーヌ通りを東から西へ歩く。いろいろなバーやら何やらがあって盛り上がっていた。その後ライトアップされた旧市街をまた回る。幻想的な世界が広がっていた。大道芸人たちがいろんな芸をしていたが、その一つに火を使ったものがあった。人垣でよく見えなかったのだけど、火がつくと拍手喝采。その時芸人のおじさんが、「燃えろ!燃えろ!ジャパン!」というようなことを叫んだ。すると、大勢のお客さんたちが大いに喜んだ。その瞬間僕の周りの人たちが僕の方を見たのはどういうわけか。狂牛病のことでカナダ国民はかなりのダメージを負っているから。
 モントリオール、面白い街である。トロントからは車で5時間半。土日で来れない距離でもない。たまにひょっこりと来て散歩できるようだったらいいなと思った。明日は午前中、チェックアウトまでぶらぶらしてから、いよいよケベックシティを目指す。

■オタワ(2003.8.4 Mon)
 今朝も深い霧。天気予報ではこの先1週間雨のマークが出ている。トーストの朝食。冷蔵庫の残りはほとんど片付いている。比較的ゆとりをもって8時半に出発。どこかの国の学習指導要領がまた変わるらしい。この国は、これまでどかーんとした指針というものを示したことがあるだろうか。国のトップがどたばたしたら、末端までどたばたしてしまうのは当然だ。怒りというか呆れというか、とにかくもう上意下達ではいい教育は望めまい。国の方針を待つより自分の生き方で勝負するしかない。
 昨夜のカツ丼はとてもありがたかったが、あの店に通うようなことはないだろうと思う。それはそれ、たまにはいいかもという程度。本当に食べたくなった時行こう。変えてはいけないものは決して変えないが、変えても構わないものにはこだわらない。
 401号を東へ。途中から雲が切れて青空がのぞいてきた。希望がもてる。キングストンの北、1000アイランドまではこの間来たこともありすぐだった。ドレッシングの名前でも有名な1000アイランドは、オンタリオ湖の水が大西洋へ流れるセントローレンス川に浮かぶ無数の島々につけられた名前だ。日本の松島みたいな景色。だけど、川沿いの土地は私有地が多いらしく、川に沿って歩くような道は整備されていない。ほんの少しだけ公園として整備されているところがあって、そこから眺める程度。島々には誰かの別荘が建っていて、ボートで行っては保養に使っているらしい。いわゆるプライベートビーチなのだろうけど、海岸(ここでは川岸だが)や島を独占するという感覚は日本とは違うかもしれない。
 416号に入って1時間もしないうちにオタワの表示。1時前には市内のショッピングセンターの本屋にいて、地図を眺めていた。市内の地図を買おうと思っていたがやめた。観光案内所でもらった地図で間に合いそうだ。そこのフードコートでチキンサンドの昼食。まずはホテルの場所を確認してから、市内へ。ちょっと交通渋滞が激しくなってきて、繁華街が近いなというあたり。1日3ドルの駐車場に車をとめて、自転車を出してこぎ始める。それまで自分がオタワについて知っていた知識は、首都だが街の規模は小さいということくらいだった。だから、たいして見るところもないだろうと予想していた。しかし、最初の角を曲がったとたんにそれは間違いだったと悟った。目の前に現れたのは、巨大な城のような建物と、国会議事堂の堂々として荘厳な雰囲気の建物。そしてそれを背景に、野外のカフェで憩う人々、色とりどりの果物や雑貨を売る市場の喧騒だった。ヨーロッパなんだと思った。トロントからたかだか400キロくらい東に行っただけだが、明らかに雰囲気は別である。地球は丸いんだなあと感じた。北米大陸の東にはヨーロッパがあるわけで、東に行けば行くほどヨーロッパらしくなるというのは考えてみれば当然だ。そして同じく北米大陸の西側には日本があるのだ。日本がアメリカと似ているのも当たり前なのだ。というような考えが浮かんだ。で、自転車をのんびりこいでいられるようなところではないということを感じ、車まで戻って歩き出した。デパートも、市場も、本屋も、フランス語と英語の並記。例えば、"the Bay"の下には"la Baie"と、"Dance"の下には"Danse"と書かれている。 トロントでも道路標識などは並記のところもあるが、ここまで徹底してはいない。
 オタワは、英語圏とフランス語圏の境界に計画して建設された首都だ。川を挟んで向こうはもうフランス語圏のケベック州である。「フランスか〜」という目で見るからか、街を歩いていると、みんなフランス人に見えてきておかしかった。なんとなく、気品があるというかオシャレな感じがする。これは気のせいなのかどうかよくわからない。
 こうしてはいられない。もう3時を過ぎている。明日にはモントリオールに行かねばならない。わずかの時間にオタワを回るには…。そんなときにもってこいなのがバスツアーだ。観光バスというのは本意ではないのだが、時間がない時には意外といいものである。タイミングのいいことに、なんとバスの発着所が目の前にあるではないか。4時から2時間のコースで、市内の主な見どころを案内してくれるという。しかも二階建てで二階はフルオープンデッキである。天気も見事に晴れて暑くなってきた。即決して切符を買った。
 発車の時間まで近くを歩く。歩行者天国の交差点のところに人集りができている。おじさんがトランプのマジックをおもしろ可笑しくやっている。もう少し歩くと、ひときわ大きな人集り。見てみるとなんと羽織袴を着た日本人の男性2人組ではないか。染之助染太郎と同じように、茶わんや升を傘で回していた。割れんばかりの拍手喝采。いやあ、僕はとてもうれしくなった。後でわかったが、この人たちは、「江戸太神楽曲芸(えどだいかぐらきょくげい)」の鏡味(かがみ)仙丸&仙次の二人で、北米を大道芸をして回っていたのだそうだ。世界ではどれくらいこういう日本人が芸をしているのだろう。
 バスツアーでは、女性のガイドさんが英語とフランス語を駆使して、時には歌や踊りをまじえて楽しく案内してくれた。グレイラインのエクスカージョンはお手軽で、乗ったまま一通り見どころを回れる。もっと見たいと思ったら、そこで下車して見学し、次に来るバスに乗ることもできる。ただ、4時発のこのバスがきょうの最終ということで、途中でバスを降りた人はほとんどいなかった。こうしてバスに乗ってみると、確かに見どころはそれほど多くはない。ただ、運河や川のほとりはサイクリングやジョギングコースとしては最適で、花や緑が多くきれいな街だった。サイクリングする時間は今回はなかったが、今度来た時にはゆっくり回りたい。
 バスを降りてから、周辺を散歩した。あの城のような建物は、シャトーローリエという一流ホテルだった。トイレを借りに中に入ったが、やはり内装も見事で一見の価値があると思った。入ってよかった。どの街でもそうだが、街でトイレに行きたくなったら、一番豪華そうなホテルに入るとよい。少しだけリッチな気分を味わうことができる。バスのガイドさん曰く、1泊3000ドルする?そうである。夕食は、市場の目の前のカフェで、サンドイッチのセットを食べた。きょうは3食ともパンだった。
 ホテルにチェックインしてからしばらく休憩。その後、対岸のハルまで車を走らせた。橋を越えるととたんにフランス語ばかりになる。一時停止の標識が、"STOP"だったのが、"ARRÊT"に変わっている。看板もほとんど皆フランス語。読めない。何屋さんかわからない。店で何かおやつを買おうと思ったが、時間が遅かったのかどこも閉まっていたので引き返す。途中で道がわからなくなり、迷いながらなんとか宿に辿り着く。 

■東京グリル(2003.8.3 Sun)
 日曜日も朝から霧が深くて、とても出かける気になれず。午前中は部屋の片づけやら、今までのレシートや支払い明細の整理をした。11時15分からは「独眼竜政宗」、12時から「サンデースポーツ」を見るのが日曜のパタンだ。食事は、朝と昼と同じものを食べた。コーヒーは3杯。トイレに入っているときタイミングよく電話が鳴った。少し気になったが、午後から少し買い物に。サンバイザー式のCDケースを発見。使えるかもしれない。北に行く時には雨が降る。きょうも途中から雨。5時で閉まる店ではゆっくりもできない。帰ってしばらくしたら電話が鳴った。飯を食おうという誘いだった。この前辿り着けなかった店。入ると、「いらっしゃいませ」という声が普通に。ビール、そしてカツ丼の大盛り。これまた普通に。4か月は食べていなかったカツ丼。その普通さに感激。BGMに聞こえてきたイルカの「なごり雪」にまた感激。普通であることのこの不思議さ。カナダに来て4度目のアルコール。しかも、眼鏡で来た分酔いがずいぶん回った。その後場所を変えて少し話をする。おかげさまで楽しいひとときを過ごすことができた。こういう普通の会食もどのくらいぶりだったろう。
 明日の朝旅に出る。いつ帰って来るかわからない。4日目までは決めているが、それ以降はまさに風の向くまま気の向くままである。パソコンは持って行って記録をとることにはしているが、アップできるのはきっと中旬以降になると思う。ひたすら東へ東へ。 

■少年サタデー(2003.8.2 Sat)
 先日のライブ以来睡眠パタンがおかしくなった。3時間熟睡して、目覚めれば12時前。それから5時まで眠れずにヘッドホンで音楽を聴いていた。JーPOPというのは日本文化で、これは他国にはなかなか受け入れられはしないかもしれないが、そんなことには構わずどんどん深く熱くなっていけばいいのだと思う。KANとか猫沢エミとかすげーなーとあらためて感激した。この二人はなんとフランスに行っているらしい。なぜフランスかわからないが、興味がそそられる。ケベックへの旅がまた楽しみになった。トロントは多文化都市であることは間違いない。だが、それらの文化が、互いに融合し合ったり、国際的な一つの新しいものができあがったりということは、ほとんど考えられなくなってきた。テレビのOMNI2というチャンネルでは、各民族やコミュニティに向けて、それぞれの言語で番組が放送されている。例えば、日本人向けには「ワイ・ワイ・ワイド」という30分番組が週に1回放送されている。(ちなみに7・8月は毎週過去の番組の再放送である。スタッフはずったり休むらしい。)たとえ興味はあっても、他の民族向けの放送を30分視るのはかなりつらい。文化が違う者にとっては、いくらおもしろそうでもの珍しくても、それ以上その中に入り込んでゆくことは難しい。ただ、テレビを見ていると、どんな民族もそれぞれ独自の文化を持ち、それを大事にしながら暮らしているんだということはよくわかる。人数の多い少ないや、他文化への影響力の大小は関係なくて、どれだけその文化が強いものであるか、言い換えると、どれだけ自分の文化に誇りや自信をもっているかということが重要なことだと思う。今やっているのはインド系の番組。南アジアの文化も、日本の文化も、そしてカナダの文化もそれぞれ違う。違うが皆同じだ。日本は変わっているということはよく言われること。だが、どこの文化とも他と違っているのは当たり前の話。それを卑屈に考えるのではなく、これが日本だと堂々としていればいい。いい悪いでなく、どれだけ自分たちのものとして受け入れ、誇り、自ら参加して、作っているかどうかだ。日舞に熱中する人はそれもよし、ロックをやるならそれもよし。野球やサッカーで盛り上がるもよし。どんどん自分の好きなことを見つけて、これが日本人だと胸を張ればいい。ささいなことかもしれないが、俺は緑茶を飲むぞ!とか、ゴミはゴミ箱に捨てるぞ!とか、そういうことでさえ、日本人としての誇りをもって行動できるような気がする。世の中暗くなったと嘆く必要は全くなし。お上が何かしてくれるわけじゃなし、自分がどう関わっていくかの話だ。と常体に戻ったとたんに異臭を放つこのノート。しかも何が少年サタデーなのかわからない。でも日本語でこういうことが書けるということを誇りに思っているのは本当だ。今月はたしかロードムービーだったはずなのに、きょうみたいに朝から霧で真っ白の日はどこに出かける気持ちにもなれず、コーヒーばっかり飲みながら気がつくと正午を過ぎていた。きょうトロントではカリバナというカーニバルのパレードがある。雨さえ降らなければ行ってみようか。

■旅のはじまり(2003.8.1 Fri)
 仕事の終わる30分くらい前から、急に首のあたり、ネクタイを締めているのが苦しくてしかたなくなった。とにかくきょうでしばらくこの窮屈な襟からも解放される。そう思うともう居ても立ってもいられない気分になった。といってもネクタイを付ける必要は必ずしもないのだが、これは一つの自分のけじめの表現である。まだ暑さの残る夕方。ミッドタウンからダウンタウンまで車を走らせる。金曜日の夕方の混雑はかなり激しい。乗り入れてしまったことを後悔してしまうほどである。コリアンタウンに出てしばらくすると、今しがた車にはねられたらしい人が道の真ん中に倒れており、そこに人集りができていた。手前の脇道に入って渋滞を回避。ところがこの街は一方通行や左折禁止が多く、目的地まで最短距離をとることは難しい。実はきのう紹介された「東京グリル」という名の日本食レストランを探すつもりだったのだ。わかりやすい場所にあるからというので、軽い気持ちでここまで来たが、車も人も多すぎてとても辿り着けないと諦めた。自宅方向へ進路転換したものの、仕事を終えた車の列はどこまでも続いている。まっすぐ行けないならジグザグに進め。とにかく目的地までの距離を縮めようとする。途中で行き慣れているショッピングセンター。初めて地下の駐車場に車を停めた。フードコートのグリークの店では、ひげのおじさん二人が勢いよく会話をしている。こちらも勢いよく、「トゥデイズスペシャル、ジロス、プリーズ。アンド、アップルジュース!」と注文すると、ご機嫌だったらしくておじさん。「イエースオフコース!どこから来たんだい?日本かい」といって笑った。駐車券にスタンプを押してもらうと3ドルの料金が無料になることを初めて知った。なるほど普通に日本と同じように利用できるのである。垣根は少しずつ少しずつ低くなり、例えば駐車場で「エスカレータはどこだい?」と聞いてきた老人にも「むこうだよあの黄色い壁のところ」と元気よく応え、心地よくなってハンドルを握る。アパートのエレベータではフランス語を話すおばさん3人といっしょになった。マダーム、メルシーボク。未知なる世界はすぐ目の前に。そして今月、フランス語圏へと旅に出る。