2003年2月
■春(2.28)
 寝ぼけ眼の二月二十八日。明日から春は始まるか。明日から春は始まらない。

■睡魔(2.27)
 テレビの音も耳に入らないほど疲れて、椅子にもたれたまま眠っていた。どうも最近このパタンが多い。座ったまま眠ってしまうなんてとんでもないと思うが、体がそうなってしまうのだ。新幹線の居眠りがニュースになっているが、居眠りしても運転してくれる日本のATC(自動列車制御装置)はなんて優秀なシステムなんだろう。でも、居眠りするのは緊張感がなさすぎだ。自分もそうなのか。自分にはATCなんか付いてないからなあ。やっぱり自分一人でやるしかないのだ。それにしても、疲れとか眠気とかって、どうにかならないものだろうか。

■まだ冬(2.26)
 今朝、生徒と久しぶりにぶつかった。見たことのない三年生男子だったが、ずいぶんつっかかってきたからこちらも応戦した。彼は言っていることが支離滅裂だったが、こちらの話は理解しているようだった。かなり興奮したが、刺激的だった。とても懐かしい気持ちがした。なんだこいつおもしれえやつじゃねえか。そう思って近くの同僚に話したら、「あいつはバカだよ」「相手にしないほうがいい」と言われた。
 夕方から会議で盛岡へ。こんな日に限って大雪。しばらくぶりの人たちに会っていくつか言葉を交わした。会議の中身は相変わらずだったが、人々の境遇も、世の中の情勢も、時代の潮流も、すでに変わっているような感じがした。帰り道、雪ですべったRV車が道の真ん中で横転しているのに出くわした。

■中一の頃(2.25)
 中一の三学期といえば、いろいろとバカをやっていた時期である。一度、学校がまだ終わっていないのに勝手に帰ってしまったことがあった。家にカバンを置くなり本屋へ走り、マンガの立ち読みをしていた。そしたらそこに呼び出しの電話がかかってきて面食らった。おそるおそる学校に戻ると、職員室で正座させられ、担任から説教された。この時学んだことは、勝手に判断せずに確かめろということだった。学んだことを生かしているかは疑問だが、あのとき教えてくれた先生には感謝している。

■生まれかわっても日本人!?(2.24)
 テレビでアンケート調査をやっていて、なんと八割以上の人たちがそう答えていた。特に高齢になるほどその割合は多くなっていた。ちょっと驚き。長く住めば住むほど自国が最もすばらしいと思わせる、そんな政治を行っているということになるのかな。
 自分は生まれかわったらどこの国がいいかな。日本が嫌いというわけではないけれど、二度も日本人やるまでもないかなという感じだ。できれば違う国の人になりたいと素直に思う。やっぱり南の島がいいかな。

■部屋の中はめちゃくちゃ(2.23)
 どれだけのものが必要なのかよくわからないから、とにかく手当りしだいに全部箱に詰めた。それでもやっぱりとっても不安で、本屋に行って本を異常に買い込んだ。こんなことが続くので半端じゃなく出費がかさむ。僻地に赴任したときもそうだったけれど、手当のほんとうの意味はきっとこういうことなのだ。

■土曜日(2.22)
 「やってみなさいよあなた失うものは何もないんだから」という声が蘇ってきた。縁は異なものというが、出会いが織り成す風景は刻々と色を変えていく。突き落とされたときの醜悪な感情はどこかにみえなくなり、かわりにもっと素敵な気分が醸成されてくるようだ。誰もが自分にとっての師だ。悔しいことも悲しいことも全ては自分の師なのだ。時間はかかっても、自分を伸ばしてくれる実はチャンスなのだ。
 きょうは午前中部活があり、帰宅後はテストの採点をして、夕方五時までに全部終わらせた。やればできるのだ。それから押し入れの中身を全部引っぱり出しては、送るもの、残すもの、捨てるものに分類している。よくあるとおり、過去の遺物にいちいち目を奪われては読み耽ってしまうということが続いて、あまり進めなかった。
 あすは日曜日だ。だんがだんが進んでメドを立てるぞ。でも、大沢親分と張本さんの「喝!」を見たりしてるとあっという間に終わってしまうので気をつけたい。
 
■週末に(2.21)
 テストが終われば採点をしなければならなくて、その次は成績、その次は通知表に指導要録と次々とデスクワークが待っている。仕事が終わってからやろうなんて思っていることはどれ一つできるわけがない自分が変わらなければ。金曜の夜から土日に渡ってしたいことはたくさん。しなければならないこともたくさん。このままでは何一つできずに終わってしまう自分を変えなければ。必要に迫られればできるようになるなんてうそだ。しようとしなければいつまでたってもできるものではないと思う。
 plan-do-seeのseeをどう訳すのだったっけ。わからないままに学級通信を書き上げて、帰りの会ではとにかくp-d-s-p-d-s.どこか欠けていればらせんは上昇せずにただ同じところを回り続けるだけだなんて、黒板にもっともらしくぐるぐると図を書いて説明したらこれが意外と心に届いたらしい。心に届くといえば中島みゆきの歌詞にはぐっと伝わるものがあるなあと超久々に臨月なんか聴きながら思った。そこでCD屋に行ったら過去のアルバムなんて一枚も置いていなくて残念だった。

■心のありか(2.20)
 きのうまでに送らなければならなかった書類があったのに、すっかり忘れていて、今朝の車の中で気がついて青くなった。受け付けてくれなかったらどうしようと思って、気が気ではなかった。いつものラジオの声も全く耳に入らなかった。学校に着くなり電話をかけて、謝罪して、許しを得てほっとして、どっと疲れが出た。 
 きょうはテスト一日目で、放課後にはゆとりがある。生徒が早く帰るので、その後に仕事がたくさんできる。生徒と過ごすことはもちろん仕事だが、そうでない仕事もまた、仕事である。四月からはそっちのほうがメインになるらしい。きょうはテストの印刷を行い、積み残していたことを少し進めることができた。この学校に来て思うことの一つは、皆テストを作るのが早いということだ。早い人は一週間くらい前にはすでにできていて、見せてくれたりするのである。そういう準備のいい先生をみると、自分には真似できないなあと思う。恥ずかしいことにいつも僕が最後になってしまう。
 昨日話したことは、心のありかについて。心は体のどこにある?一つは頭。もう一つは腹。そして三つ目は胸。これは国語辞典から得た知識。自分にいちばん足りないのは、頭にある心だと思い知らされる。よくもこんな自分で今までやってこれたものだ。綱渡りのようだ。
 
■朝と夜(2.19)
 マイナス6度は暖かい、かもしれない。とにかく、とても爽やかな気分だった、朝。
 世界がつながっていることをこれだけ実感させられる時代はいままでなかった。
 でも、事故も事件も、戦争も平和も、噛まずに飲み込んでいるような状態。
 日本人として、地球人として、人間として、生き物として、これからどんな風に感じるようになるのだろう。
 
■土の下で(2.18)
 まだ寒いけど、そこかしこに春の気配が充満している。目には明かに見えねども、宇宙の全てを内包している感じ。
 だけど、夕方からの眠気にはまいる。去年の引っ越しの日々を思い出す。そして、また引っ越しだ。
 宅配業者から送られてきた段ボール箱がそのままの形で壁に立てかけられている。きょう始めよう、そう思いながら一週間がたった。遅くとも来週中には荷造りを終えなければならない。
 ベトナムの仲間達の声が届いた。一人一人の元気な姿が浮かんできて、自分も元気にいこうと思った。どうもありがとう。今後ともよろしく。

■ある構想(2.17)
 チャイナタウンで英語を習ったら、英語と中国語が一度に勉強できるだろうか。そんなことを考えるのは欲張りか。

■投票日(2.16)
 祖母と母親とで選挙に行った。元の小学校の校庭には、国際交流センターという名の中途半端に立派な建物が建てられていた。必要以上にたくさんいる選挙役員たちは眠そうに応対していた。会場を出て、凍ったコンクリートの道を歩いていたら滑って転んだ。

■祖母(2.15)
 祖母と初めてオセロをした。あれこれ教えながらやった。仕事の頭になっていた。祖母は毎朝化粧をするために、十五分くらいは鏡の前に立っている。化粧をしているところを見られるのはやはり恥ずかしいらしく、戸はしっかり閉める。今時珍しいくらい純粋な少女の心をもった祖母は、九十三である。

■雑想(2.14)
 バレンタインデーの由来について話したことがどうだったのかはわからないが、意味が薄れて体裁に偏りがちなこの国の風習を揶揄したい気持ちもあった。セント(聖)ということが抜け落ちているとしたら、ちょっと恥ずかしいかなと思う。クリスマスなんかその典型だ。こんな話に子どもたちが何を感じてくれたか、確かめられるのはいつの日か。
 学級の風邪欠は三人まで減ったが、他の学級のほうが少しずつ増えてきた。聞けば家族そろって寝込んでいたという家も少なくないようだ。一時間に一回うがいしている者を挙手させたら案の定たった一人だった。同じ質問を保護者にしてもきっと笑いが起きるだろう。その程度の意識だとしたら今のインフルエンザの爆発的な流行を抑えることは難しい。家庭においても、試験勉強より何より最優先で取り組ませたいことがらではないか。自分の身体を自分で守る力が弱くなっている。風邪が流行ると、きまって腹立たしい思いになる。
 今は旧暦の小正月の時期に当たるそうだ。一月十五日はすでに休日ではなくなり、女のための正月はすっかりかげをひそめてしまった。季節感を感じることが少なくなった今、昔ながらの行事や節供の意味を問い直すことがとても重要になってきたと思う。これまで意味をじゅうぶん語ることなしにここまできてしまったのではないかという気がする。人間の営みが織りなす情景が自然の景色と相まって季節感ができあがる。とすれば、逆に季節感が感じられなくなったのは、人間が弱くなっている証拠とは言えないだろうか。
 人類が滅亡するとしたら原因は戦争でも核でもなく風邪だろうという説がある。人間がいなくなった地球を想像することほど寂しいものはない。

■思い切って(2.13)
 モンゴルの平原を白馬に跨がって走る朝青龍関の姿がテレビ画面に映っていた。夜は眠い。明日は金曜日。もう一週間が終わり。昔ワープロで書いた日記が、フロッピーのまま眠ってる。もうその頃の重たいワープロは、どこに行ってもない。これこれこうすればパソコンでも見れるよというので、これこれこうしてみようと思ってはいる。けれどはたして、十五年ぶりに開いた日記が自分にとってどれだけの意味をもつのかは謎だ。ある尊敬すべき先生は、そんなの思い切って捨てちまって新しいのを書けばいいんだよと言った。それもいいとは思うけど。
 
■予防策(2.12)
 きのうの休日でゆっくり休んだつもりだったが、きょうは会議で少し船を漕いでしまった。
 欠席者はきょうも八人いて、ほとんどがインフルエンザだった。一時間に一回の割で丁寧にうがいをした。そうでもしなければ感染しそうな気持ちになってしまう。とにかく風邪を引くのはごめんだ。絶対に引いてたまるか。

■記念日(2.11)
 ダバディーの三角の本を読んでいたら気を失った。このサイトを開いてからきょうでちょうど三年が経った。この三年の間に世の中はすっかり変わり、自分自身の内面や境遇もすっかり変わったようだ。建国記念の日というのは紀元節がただ名前を変えたものだが、それで反対賛成と毎年マンネリの集会を開くよりは、銘々が何かの記念日として個人的に意味付けるほうがずっといい。きょうは僕のホームページができた日だから休日なのだと、勝手にそう思うことにしよう。それで何か不都合はあるだろうか。

■風邪 (2.10)
 職場に戻ってみると、自分の担任するクラスだけ欠席が異常に多くなっていた。きょうはなんと十一人も休んで、二人早退した。うちインフルエンザという診断の下ったものが七名おり、その子たちは出席停止扱いになった。聞くと我がクラスでは先週の火曜あたりから休みだし、じょじょに増えて金曜には欠席が六人になったそうだ。そして週明けには学級の三分の一以上の子どもたちがダウンしたというわけだ。明日の休日はゆっくり休んで、早く治してくれればよいのだが。そしてもうこれ以上広がらないように、強い指導をした。
 一学年七クラスのうち他の六クラスはほとんど欠席などないのである。担任不在でどれだけ子どもたちの気が弛んだか、ということにはならないと思うが、受験を控えた三年生のことを考えると、未然にもう少しなんとか指導できなかったかと悔やまれる。

■九日目 (2.9)
 研修が終わり、自宅へと戻ってきた。
 こんなに勉強になった日々はいままでなかった。
 顔つきまで変わったに違いないと思う程だが、誰もそんなことは思わないだろう。

■八日目 (2.8)
 明日で終わりと思うと、寂しさもあるが、心もはずむ。
 新しい仲間ができて、お互いに話ができて、とても有意義な時間を過ごすことができた。
 偶然のことかもしれないが、ただの偶然ではけしてない。

■七日目 (2.7)
 自分のことがいちばんよくわからない。
 明瞭な心などない。

■六日目 (2.6)
 研修も半分を終えて、始まる前に比べればいろいろなことがわかってきましたが、同時にいろいろなことがわからなくなってきて不安がかき立てられるという感じも強くなってきました。甘さというか生温さというか、覚悟もないままにここまできてしまったのではないか。ゆうべはベッドの中で、謂れのない孤独感と逃れることのできない強烈な現実感に襲われていました。どういうわけか今ではこの場所が岩手とは時差があるのではないかという感じさえします。
 でも、毎日が刺激に溢れていて、しかもそれが自分の将来の生活と直結しているわけで、日本というこのほんの小さな島国の四百何十人ではありますが、ここから世界に飛び立っていくという連帯感もまた強まってきているような気がします。日本全国の仲間の輪が拡がっているということをうれしく思います。お前はこれまでの人と人との出会いを大切にしてきたのかと、自問自答しています。それは僕の弱さ以外の何ものでもありません。出会いをもっと大事にしていきたいと心から願います。
 ある方のお話の中で、我々はみんな非日常を求めてここまできたのだとありましたが、実にその通りで、どこまでも突き抜けたいという思いが、自分をここまで駆り立てたのです。たとえどんなことがあっても、この志を曲げずに来たということに誇りをもって、職務を全うしたいです。たとえ他人がどんなことを言ったとしても。

■五日目 (2.5)
 今朝になって、FAXが届いていた。
 初めてのコンタクトに少しほっとした。
 午前中にはリラクセーションについての話があった。
 実際に目を閉じて短いプログラムを体験したら、
 ほんとうにすっとして、眠気も覚めたようだった。
 その次は日本語のことについてだった。
 大事な話を教わったと思った。
 自分の認識の方向性がとりあえずは間違っていないと確信した。
 日に日に居心地がよくなるような気もするし、
 けれどもやっぱり不安は募る。
 これまで歩いてきた軌跡が、
 まるで一瞬だったようによみがえる。
 力のなさを克服するには、
 行動するしかしょうがない。
 咳がひどくなってきた。
 明日は健康診断があるし、今夜は早く休むことにしよう。
  
■四日目 (2.4)
 表現力うんぬんの前に、何を表現するかが大切で、
 それはどういう思いを抱きしめているかが根っこだ。
 言われてみれば当たり前のことだが、
 自分は変なことに囚われていたと感じた。
 毎日のように驚かされてばかりだが、
 なぜここにいるのかとか、
 ほんとうにできるのかとか、
 どこかで誰かが間違えたんじゃないのかとか、
 あれこれと消極的なことが思い浮かんでは消える。

■三日目(2.3)
 午後からは保険や銀行の話になって、
 ただでさえわかりづらい内容にくわえて、
 説明のたびにページがあちこち行ったり来たりするので、
 よけい頭が混乱した。
 引越しやらクレジットカードやら旅行社やら、
 いろいろな業者の相談窓口が開設されて、
 黄色いはっぴを着た呼び込みなんかもいっぱいいて、
 きのうまでとはまた違う空気になってきた。
 夜にはまた談話室でみんなの話をきいた。
 ゆうべにもまして話の中身は辛辣で、
 民間企業に比しての教員の甘さや平和ボケの日本人の生温さが、
 自然と浮かび上がってきた。
 「平和主義」の意味を知って僕は冷や水を浴びせられた気分だった。
 
■二日目(2.2)
 洗濯をして、乾燥機につっこんで、
 ふんわりやわらかに仕上がって、
 よく見ないままに取り込んでそのままにしていた。
 朝になって、二足の靴下とも片方ずつしかなくなっているのに気づいた。
 洗濯室に行ってみたが、僕の靴下はなかった。
 いちばん悪いなくしかたをしたと笑われたけれど、
 今までの厄を全部持っていってくれたんだよという言葉に、
 なるほどそのとおりプラス思考でいこうと思った。
 四百五十名以上いる派遣者の中で、
 僕らと同じような立場の人はたった二十数名。
 ここでも僕は完全な少数派だった。
 他のグループはどこかキャピキャピとはしゃいでいて、
 若く華やいだ雰囲気が漂っているのだが、
 僕らのグループはそうではなかった。
 管理職もいるし一般企業の方もいるし、
 平均年齢が高くて、皆どっしり落ち着いていた。
 その中で交わされる会話は、
 ひとつひとつが目から鱗が落ちる話ばかりで、
 昼の講義よりも夜の談話室の話のほうが、
 何十倍も勉強になる気がした。
 十七あるグループの中で、
 うちのグループがいちばんいいと、
 そう思えるようになった。

■筑波にて 一日目(2.1)
 事故で運休の列車が出たために、在来線の車内は超満員。
 どうしようもないほど大きな荷物を抱えて僕は周囲から顰蹙を買った。
 苦痛の三十分。新幹線の二時間半。上野で昼食。特急で四十五分。
 土浦駅前で同じように荷物を持った見たことのある顔たちと再会。
 世界各国の地名が飛び交うのだけれど、見ている方向は皆同じだと感じた。
 一日目はただの事務連絡。五時には終わってすぐ夕食へ。
 満杯の食堂。酌み交わす挨拶の酒杯。
 初日とは思えない程の和やかさでそれぞれのグループが盛り上がっている。
 同じ志向の仲間たち。ここから世界に散らばって行くのか。
 現場を離れた解放感も手伝って、僕は少々ビールを飲み過ぎた。
 宿泊棟の談話室での雑談は、じょじょに輪がひろがって、
 日付の変わるころには、ある管理職の方の話に興味深く耳を傾けていた。