2003年3月
■一人で二人二人で一人(3.31)
 いろいろなところでいろいろな手続きや挨拶や契約。出たり入ったりする現金。窓口は長蛇の列。年度末の一日。さりげなくでも告げたさよなら。きっとまた会えるはずの人たち。たまには電話してと言われて、はっとした自分。すっかり抜け落ちていたコミュニケーション手段。つまりやっぱりそこにある問題点。
 明日は保険屋が来る予定。それでだいたい手続き完了。あとは整理しておきたい住所録やら連絡先やら。ほんとうにどうしようもない時には頼るものがあってもいいのだけれど、ほんとうに頼らなければならない時というのはどんな時?このまま一人で最後まで行ってしまいそうな予感。僕と僕とで二人で一人。もしくは僕と僕とで一人で二人。
 かけがえのない人たちはいつも僕の近くにいるのだが、いつもそれに気づかずに通り過ぎてばかりの自分。大事な人たちを大事にできないということは、もしかすると時間や食料を粗末にすることよりもよくないこと。みんなのところに出そうと思っている電子メール。いつまでも怖くて使えないのは声で伝える普通の電話。

■船出の前(3.28)
 きょうで指導要録も書き終えて、後片付けも終えて、皆に告げた別れ。涙が出そうになる気分。三月が嫌いな理由。思い出したのは、去年同じように前の職場を離れたときのこと。今回は出張だからまたここに戻ってくるのだとはいえ、戻ったときには顔ぶれがすっかり変わっているだろうから、そのときの自分はきっとまるで浦島太郎。
 カナダで生活を始めたら、もしかしたら今まで以上に人間が好きだと思うようになるかもしれないし、日本という国が好きだということに気づくのかもしれないし、とにかく刺激的なことが待っているだろうという期待。そして実はその何倍もの不安もあるのだが、それも経験しなければわからない貴重なこと。
 プロ野球が開幕し、大リーグももう少しで開幕。世界は狭くなったと感じることも多くなったが、その分頭をかすめるのは「平和」ということが実は幻影なのではないかということ。いつの時代も平和なんかではなく、昔から人間は戦いを繰り返しているのだということ。そして例外ではない日本。あの素晴らしいアメリカと、あの忌わしいアメリカは同じだけど同じではなくて、日本だって、美しい日本とあいまいな日本とがあって、一言ではけして言えないモザイクのようなもの。正直をいえば、僕の背負っているのは国旗でもなんでもなく、いわば自分自身の影。
 想像してみるのは、これから自分がやろうとしていることの意味。今未知の世界への船出を前にして、素敵な感情もあれば醜悪な感情だって揺らいでいるこの部屋の空気を思う時、いったいどうあれば正しいことなのか、自分にできることとはいったい何なのか、という疑問が渦を巻いている午後十一時。

■旅人のイメージ(3.26)
 「あの子は嫌いだから同じクラスにしないでほしい」と子どもが言っているので先生なんとかよろしくお願いしますと電話をかけてくる親。どういうつもりでそんなことを申し出てくるのか理解に苦しむのだが、そういう保護者が意外と多いのが実情。かわいそうなのはまぎれもなくその子どもたち。
 一学年七クラス。皆が同じようなことを言い出したらどういうことになるか少しでも考えることができたなら、ぬけぬけとあんな電話をかけてはこないはず。わが子可愛さゆえのこととはいえ、そういう親の愚行こそがその子をよくない方向に導いているのだということをわかってほしいもの。
 親がどう話すかによって百八十度違ってくる子どもの育ち方。子どもが言い出した時にどうして一言仕方がない我慢しなさいと言えないのだろうと不思議に思うのだが、それは親自身に苦悩をクリアした体験がないからかもしれないし、そういう考えは学校教育によってつくられてきたものなのかもしれないから、親自身もいわば犠牲者。
 きっと圧倒的に足りないのはイマジネーション。もちろん僕には子どもはいないけれど、親に対する引け目など持つ必要はないと考えるこのごろ。可愛い子には旅をさせよという諺はその通りだけれど、旅の意味を取り違えてしまっては不幸。大事なのは、親であれ教師であれ、今でも旅を続けているかどうかということ。

■ありがたいこと(3.25)
 きょう届いた本。その中にあったのは、十年近く前に担任した子たちといっしょに活動した時の記録。こんなふうにまとめていただいたことに感謝。感激で思わずこぼれた涙。そうして祝福の気持ち。思い出す、あの子たちと過ごした日々。担任としてあの子たちに十分に向き合うことのできなかった三年間。教えられたことの大きさ。僕は僕なりに一生懸命考えては実践しようとしていたあの頃。ところが、そこで一緒に働いていた方にはひどくけなされ、なじられ、ばかにされて、生きた心地がせずに続いた苦悩の日々。人間的な扱いを受けなかったと断言できる山間での毎日。ああいうのを最近のことばではパワーハラスメントというのだろうが、一様に「嫌がらせ」と呼んでいいものかどうかは疑問。確かに悩みの種だとしても、そのことをバネにして自分自身と闘ってきた自分。あの日々があるから今こうしてやっていられるというのは確か。恨みごとを言うつもりなどなく、やはり今残っているのは感謝の情。きっと苦悩は成長のためには大切なこと。このことを考えるとまた堂々巡りに陥ってしまうので未だに自分の中の保留事項。とにかくこの本が作られたことで、おまえは価値のある仕事をしたのだよと今になって初めて認められたような気がして、うれしかった夜。

■ネット(3.23)
 かけがえのない仲間に支えられて自分が強くなっていると感じた夜。出会った人たちの力が目に見えないシールドとなって身体を包み込んでいるような感覚。父が亡くなった夜にはこの感覚がどうしようもなく強烈で、後からわかったのはそれは憑依だったということ。もちろんおとといのは魂が乗り移ったというわけではないのだろうが、皆の思いに守られているのだという感覚は、とても頼もしいもの。距離や国の内外などとは無関係なところにある地球上のネット。それを破ろうとするのが戦争だから戦争はいけないこと。これは単に感覚的なことでなく、とても実際的なこと。
きっと今まで出会ったすべての人たちとの間でお互いにそういう思いを通わせあうことこそが、ほんとうにつながるということなのだろうという想像。電線でも電波でもないこの地球を包む大切なネットのことを、忘れてはいけないのだと納得。

■祈り(3.20)
 始まってしまった武力行使。とたんに変わった空気の色。一日も早く終結するように、犠牲者が出ずにすむように。

■雪の日はれの日(3.19)
 あいつも流した感動の涙。概ねうまくいった卒業式。三年生の先生方に敬服。そして明日が合格発表。卒業させてもなお続く心労。とはいえこの日は三年担任にとっては最高の一日。僕にもいつかまたそういう日が訪れるのだろうかという疑念。あれこれ思い出していた式の間。蘇ってきた悔しさや無念さ。どう考えても不条理な成り行きの犠牲になったとしか考えられないこと。今さら誰を恨むわけではないが、いろんなところに大国の大統領のように傲慢な人間がいて、そのために傷つけられている人がどれだけいるかという想像。理性の力によって感情を抑え込むこと。言い換えれば、ただの泣き寝入り?人間は二種類に分けることができるという訳。もうどうでもいいことと思っていたが、どうでもいいどころではない重要なこと。人の命運を決めるのは、人の意志だということ。
 
■日和見の空想(3.18)
 想像もつかない一年後。一年前だってそれは同じ。だけど今は、一年前の個人的な感覚とは別。自分の意志とは無関係なところで握られている、自分達の命運。いつ、どこで、何があるのか、まったくわからなくなった時代。だとしても、だからこそ、自分がいつ、どこで、何をしたいのかを、つきつめて考えていくことの必要性。たとえ、望まぬ戦争のせいで死のうとも、心までは支配されずにあり続けようとする覚悟。むなしさや無力感に打ち勝つ個の確立。ペンはほんとうに剣より強いのかどうか、あるいは、剣よりほんとうに強いものを求め続ける気概。

■りぼん(3.17)
 開こうとしなければ開かない扉。世界は扉だらけ。人が傷つくのはいつもちょっとした理由。人が幸せを感じるのもいつもちょっとした理由。地球上には63億人が暮らしていて、たえず殺しあったり愛しあったりしながら、傷ついたり幸せになったり。63億めいめい勝手な、泡沫のような明滅。生まれかわりが繰り返される毎日。そしてそれを飲み込むいくつかの巨大な泡。開けたい扉はいつも泡の外側。開けようとするととたんに壊れてしまう夢。でもイメージを膨らませれば誰でも思いつく、扉を開く方法。わかることとできることは別物。しゃぼん玉が美しいのと地球が美しいのとは同じ理由。

■誰か(3.16)
 部屋にばかりいた土曜日。「未来への航海」という番組に感動。そして「YOU」の糸井重里に感じた時代の変化。「世界ふしぎ発見」では上海雑技団。よみがえる思い出。一人で行ったはずの旅なのに、誰かと行ったような記憶。いつでもそう、今でも同じ。日曜日の学校で仕上げた通知表。電話をかけても通じなかった運送会社。やるべきことは月曜日に後回し。光のあふれる暖かな午後。意味なく走らせた車。わかっていない環境破壊。
 書きたくなかった戦争。考えたくなかった戦争。昨日は盛岡でデモ行進。しかし迷って、結局参加せず。しないでしまった、自分にもできること。無力。問い直してみる自分の存在意義。答えははてな。

■いったい何?(3.14)
 今年KK委員会やMK省から自分宛に届く文書で、ことごとく間違えられている名前の文字。一度や二度なんてもんじゃなく、少なくみてもこれで七八回目。夏に申し出て、冬にも申し出て、にも関わらずそのまんま。いずれも「祐」の字の間違いだが、KK委からの文書は「佑」で、MK省からの文書では「裕」。確かに間違われやすい字ではあるし、ほかの個人からの手紙ならそういうことがあっても全く問題にする気はなし。しかし、それをああいう上層の機関に何度も繰り返してやられたら、呆れる以上に悲しい気持ちになってしまうもの。
 二月中には自宅に届くことになっていた「赴任証明書」。荷物の通関手続きの時にも必要といわれていた書類。先日の船便の荷物を発送する時点で業者に送らなければならなかったのだが間に合わず、業者からは催促の電話がかかってくるし、もしかしたらとっくに届いているものがどこかに紛れているのかもしれないと思ってあちこち探してみたりもして、心は穏やかならず。日程も迫ってきたのでやむを得ずMK省に問い合わせの電話。ところが、MK省いわく二月の中旬にはすでにKK委に発送しているとのこと。そこでKK委に電話してみると「はいこちらにあります。」との返事。それに続けて驚くべき一言、「何かお急ぎですか」。お急ぎですかではない、二月中旬に届いていたものを一か月近く放置しておく理由とは何?怒りを抑え事情を一から説明すると、今すぐ郵送するという返答。
 この疲労感は、今までにないもの。名前にしても、証明書にしても、こちらに何か問題があったのかと訊きたくなってしまうが、他人からすればこれも取るに足らない些末な出来事。たいしたことじゃないのにいちいち腹立てんなよと言われそうだが、疲れの根本というのは、自分がこういう方たちに採用されて今があるというその事実。評価基準がどんなものでどこがどのように見込まれたのか不明。そして評価者の質を保証するのはいったいどこの誰?黙っていようと思っていたが、堪り兼ねずに書いてしまったという次第…。

■ありがとう(3.12)
 三年生の授業が今日で終了。いつもと変わらぬことを淡々とやって、最後に少々のご挨拶。担当したのは一クラスだけだったのだが、三年生の授業をもつことがどれだけありがたいことかというのを感じることができた一年。中学校教師にとっては、三年生の授業を受け持つことは大きな意味のあること。ましてや担任をもてるというのはたいへんだけど素敵なこと。あとたった五日の登校日。これから待っている公立校入試。心配な点は多々あるけれど、これから先、自分にできることはただ一つ。それは祈ること。

■首を傾げること(3.11)
 久しぶりだから思いっきり声を出そうと思ったけど出なかった合唱練習。歌わないでいると歌えなくなることを痛感。レベルという点じゃまだまだだけど、十分温かいものが通っている心。これにどう刺激を加えていくかが腕の見せ所。歌え歌えと監視してばかりじゃ歌うわけがない子どもたち。必要なのは、何のための歌かということ。前に立つ者がそれを言えないとしたら、それはどう考えても残念。

■週のはじめ(3.10)
 目の前の仕事に追われているうちに、なんだがリズムがおかしくなっている今日この頃。尋常ではない月曜日の眠気。どこかに原因があるこの疲労。作らずにここまできてしまった、しなければならないことのリスト。やるべきことをやっていないから、きっと眠りも浅い夜。

■動員帰り(3.8)
 今夜心を支配したのも、いつもと同じような苛立ちや怒り。演説者の口から繰り返される意味のないことば。何度聞いたかそのことば。いいか悪いかわからないけれど、僕はすっかりそのことばに対してはアレルギー。三分の一ほど埋まった会場で、若者たちが候補者の名前を連呼。古き良き時代を彷佛とさせるも、悲しいかなこの盛り上がりのなさ。この組織がいまだにこの政党を応援する理由は何。彼らを支援しても何も変わらなかったという事実を受け止めながらまったく本気になれない自分。この時期にばかり要請が出てくるってどういうこと?議員さんたち。選挙とか票集めとかばかりが、仕事になっているんじゃないかと、そう感じてしまうのは変?教師出身の議員たち。彼らに何の恨みもないが、頭をもたげてしまうのは政治に対する不信感ばかり。もちろんだよ、平和が、環境が、教育が、福祉が大事だなんて、子どもにもわかるくらい自明のこと。それを実現するための道案内を彼らに求めてはいけないのだろうか、あるいは、個人がそれぞれに判断して、それに基づいてもっと行動しなければならないということ?人間にとって当たり前のものごとさえ手に入れることができない現代。インターナショナルってどういうこと。平和ってどういうこと。政治に熱い思いを託すことのむなしさ。それでももち続けていたい希望。運動って何。無責任なのは自分?もっと具体的に、もっと明瞭に、もっと声を大にして、個人が叫ばなければならないのかという疑問。つながらなければならないのかという疑問。ネットで訴えなければダメ?知らない人どうしで、国と国を超えて、もっと手に手をとって、運動をしなさいって、そうしなければダメ?しがない個人のHPでさえ、そのことに触れなければダメ?

■映画の後(3.7)
 DVDで観たのはおととしの映画。初めて観た時には難解だったのに、きょう観たらよく理解できて納得。リアルに伝わってきた筋と感情。
 話をわかってくれないことを、相手のせいにしてしまうのはよくあること。イマジネーションの限界。気づいたのはまだまだ狭いということ。
 金曜の夜にはテレビを消して四人で食事。語ることがもたらす喜びの大きさ。今になって噛みしめるありがたい境遇。無口だけど、語るのが好きな自分。どう受け入れたらよいのかわからぬままに過ぎようとしている十四年、そして一区切り。

■冷や汗(3.6)
 まさかのコンピュータトラブル。起動画面のりんごマークに白線が入っていつまでも動かないまま。ついに壊れたかと青くなり、何度も再起動を試みるが失敗。帰宅後OSを入れ直したら何事もなかったように元に戻ってひと安心。でもいつまた同じトラブルに見舞われるかはわからないので要注意。これだからコンピュータは何台あっても不安。

■日々(3.4)
 近づいてくる終わりと始まり。前にも増して貴重に思えてくる一日一日。担任である日々。教師である日々。噛みしめる子どもたちと関わることのできる喜び。すべてのことばは遺言。希望を寄せるのは、彼ら未来人たちの創る世界。

■桃の節句(3.3)
 三月三日は雛祭り。給食に出たのは赤飯と雛あられ。赤と緑に着色された雛あられなんかが出ると、それだけで大喜びの生徒たち。ぽりぽりとおいしそうに食べる笑顔の給食時間…。
 気圧配置はこれから冬型。近づいているのはこの冬最大級の寒気団。五時からは分会会議。先週の委員会の報告と動員の割り当て。選挙の季節。なぜか俺が集票係。またそういう役回り。思わず出てしまう苦笑い。
 やっとのことで荷物の梱包終了。この先一か月から二か月続く物のない生活。結局持っていくことにしたCD。三百枚は今段ボール箱の中。集中できるか、明日からの期末事務。遅くまでの残業を覚悟。

■日曜日(3.2)
 船便の引き取りは明後日。箱は全部で十三個。予想どおりと言えば予想どおり。いくら揃えても足りなく思えるのは書籍類。荷物を出したら出したでまた待っている次のこと。時間を無駄にしてきた罰。変化のための通過儀礼。
 揺らぐ世界。個人としてできること。教師としてできること。彼らに対する言葉が世界とつながっていること。未来を動かす希望となって伝わること。 

■すべて体言止め(3.1)
 きょうは朝から隣の学校と合同で練習会。そこに県南の某チームが飛び入り参加で結局試合。怪我や風邪引きで目立った欠席。いつも補欠の子に回ってきたチャンス。バレーのことだけ考えている頭。四月とはまるで変わった彼らの顔つき。おそらく休日に彼らとつきあうのはこれで最後。世話になった保護者やコーチ、隣の学校の先生方、そして子どもたち。まだ別れを口にすることができないという違和感。夕方から雨。帰宅後急いで荷物整理。あと段ボール二箱で片付く見通し。夜には茶の間でエネミーオブアメリカ。ラストのどんでん返しは圧巻。でも、あんまりすっきりしない後味。きっと多忙になるだろう最後の月の始まりの一日の終わり。