2004年8月

■さようなら(2004,8,31 mardi)
 8月もきょうで終わり。夏の腸内を一掃するかのごとく激しい腹痛と下痢に襲われ苦しむこと1時間。まいったや。でもおかげで心身ともにすっきりとして9月を迎えられそうだ。
 昨日の夜から大リーグのすべての試合が映るようになった。映るとはいってもテレビは1台しかないので、結局は1試合しか観られない。そうなるとやっぱり、地元のブルージェイズ戦ということになる。それじゃ今までと変わりないか。
 イチローの月間安打は56に伸び、彼の活躍でマリナーズ逆転勝利。68年ぶりの記録だそうだ。イチローを生んだ日本という国もたいしたものだ。その日本のプロ野球はいったいどうなってしまうのだろうか。
 大リーグのチームは都市の名前なのに、日本等のチームは企業の名前がついている。そこが根本的な違いのような気がする。せっかく変えるなら、すっかり変えたほうがいいように思う。とりわけ、ジャイアンツだけがもつ「巨人」という変則的な呼び方は廃止すべきだ。特別アンチ巨人というわけでもなかったのだが、原辰徳監督が突然解任されてしまってからは、もうもうどうでもよくなったのである。

■電話の日(2004,8,30 lundi)
 夕方かかってきた電話への応対が自分で考えてもあまりにぞんざいだったため、自己嫌悪に陥った。まったく何をやっているのか。上司も、こいつはやっぱりばかだと思ったのではないだろうか。
 帰宅してしばらくすると、ケーブルテレビの会社からの電話。3か月無料でスポーツパックとムービーパックが観られるのだがという話だった。無料だったらとOKしたわけだが、そんな話には裏があるわけで。何だか早口でまくし立てられたので、正確な内容は不明。あとで、明細を見て青くなったりして。
 その後、同じケーブルテレビから立て続けに電話。あと10分でつながるからとか、今つないだとか、やっぱりまだつないでなかったとか、今度はほんとにつながったとか…。うるさいったらありゃしない。

■閉会(2004,8,29 dimanche)
 朝から雨で白く煙った日曜日。買い物をしてきてからはオリンピックの最終日、マラソンの中継を見る。今大会ライブで観たのは初めてではないだろうか。悪いやつがいて、先頭を走っていた選手が襲われてしまった。後ろを自転車で走っていた警官も、何もできなかった。マラソンの後は野球を観た。雨だったからスカイドームには行かなかったや。最後まではらはらさせるゲームだった。やっと勝って1勝3敗。
 ハンガリーのハンマー投げの選手がドーピングで失格になった。ハンガリーの人たちはどういう気持ちだろう。いくら金メダルがほしいからって、ルール違反しちゃダメだよなあ。当たり前のことをちゃんと当たり前にできるって、すごいことなんだな。日本選手の薬物疑惑の話を僕は聞いたことがない。もしないとしたら、世界に誇れることだと思う。
 室伏選手の繰り上がり金メダルで、日本の金メダルの数が過去最高の東京大会のときと並んだそうだ。メダルうんぬんはどうでもいいんだけど、思いついたのは、日本人は節目を大事にする気持ちが強いんじゃないかなということだ。東京大会も、今回のアテネも、大きな節目の意味があったわけで、それへの国民的な意識が強くて、それが好調につながったのではないだろうか。なんて、あまり説得力がないかな。
 閉会式を見ながら、ヨーロッパっていいなあという感想をもった。古き良き伝統が息づいているような。テロなんかが起きなくてほんとうに良かった。皆さんお疲れ様でした。明日からはカナダでアイスホッケーのワールドカップが始まる。オリンピックでは不振だったカナダも、ホッケーでは負けないぞと皆思っているのではないかな。なんとなく、そっちのほうが盛り上がりそうな予感がする。

■土曜日(2004,8,28 samedi)
 救急法講習会があった。英語での講義と少しの演習。先生の言葉は容赦なくスピーディで、ついていくのがやっとだった。内容は日本で受けたものと変わりないから、記憶を頼りになんとかやった。だけど、他の参加した方々は普通に英語を話したり聞いたりしているわけで、もう当たり前、どうということはないのだ。英語を使うのは特別なことではない。自分だってここに来てもう1年半。それなのに依然四苦八苦しているのは恥ずかしいことだ。
 飯を食べて帰ったら3時。テレビを見てたら眠くなって、うとうとしてたら夜になった。ブルージェイズはきょうもヤンキースに大敗を喫し、3連敗。一地元ファンとしては、負けてもいいけどさ、もう明日は同じような負け方はしないでほしい。冷蔵庫の中身がなくなってきたので買い物には行こうと思っていたのに、気がつくともう10時。雨が降っていて不快な夜。明日にするか。
 8月ももう少し。フランス語の曜日は1年間続けたから、すっかり覚えた。曜日だけ覚えても何にもならないけれど。こんなことでも一つの努力といえるだろうか。いえないな。9月から1年間は、スペイン語で行こうと思う。それから、久しぶりに敬体で日記を書いてみよう。
 ニフティのサイトは今月いっぱいで閉鎖します。そちらからいらしている方はこのページにブックマークをし直してくれるとありがたいです。お手数をおかけしますがよろしくお願いします。

■負けたっていいじゃない(2004,8,27 vendredi)
 きょうも蒸し暑くて、午後6時の体感気温が40度。11時になろうとする現在でも37度と出ている。ここ数日なんだか寝苦しい。昼間も不快ですっきりしない。
 きょうもブルージェイズが負けた。ヤンキースとのゲーム差は27.5に広がり、首位なんてもうはるか彼方。それでも球場に足を運ぶ人は多い。ナイアガラと合わせての観戦ツアーで、日本からの客も多いらしい。日本人選手の活躍を願う気持ちはそれとして、勝敗に関係なく地元チームを応援しようという気持ちはなかなかいいものだ。日曜日にでもスカイドームに行ってみようかな。
 日本のオリンピックの空気はどうなのか感じたくて、いくつかの掲示板を見てみたら、なんかいやな気持ちになってしまった。たしかに空気を感じることはできたかもしれないけれど、見なきゃよかったという気にもなった。なんだか文句ばっかり目にしてしまってつまらなかった。
 オリンピックといえば、アメリカのバスケットのチームが負けたそうだ。日本の野球チームもそうだったけれど、絶対優勝するメンバーだとか、プロだから負けたら恥だとか、周りがはじめからそんなことを言うのはおかしな話だなあと思う。
 
■きのうきょう(2004,8,26 jeudi)
 雨が降った。昨日にもまして不快な日。集中力もまるでなし。野球はヤンキースの逆転勝ち。ブルージェイズは、先制するのにピッチャーが打ち込まれて負ける、というパタンが多い。自分が選手ならピッチャーに何か文句を言いたくなるだろうな。それでも我慢して続けていかなければならないか。
 きのうの朝の通勤時間に、ユニオン駅前で人質をとって銃を発射した事件があったらしい。撃たれて病院に運ばれた人がいるらしい。何人犠牲が出ていてもおかしくない状況だった。犯人は射殺されたそうだ。毎日のように、そういう恐ろしい出来事が起きているみたいだ。新聞を隅々まで読むわけでないし、テレビのニュースだって正確には把握できないから、はっきりとわからないでいるだけ。数日前、旧市庁舎の前を歩いていたら、目の前でいきなり捕り物があって驚いた。万引き犯だったと思うけれど、もし銃を持っていたらと思うとぞっとする。誰かの凶弾に倒れるというのも有り得ることなのだ。

■きょう(2004,8,25 mercredi)
 午後から湿度が急上昇して不快になった。帰り道のベンチには何もせずぐだぐだと座っている人がたくさんいた。この間のときとは違って、街頭のテレビに注目する人はいない。そういえば、早朝行われた野球のゲームは、テレビでは放送されていなかった。マスコミではきのうのハードルで転んだアスリートのことがいちばん大きく取り上げられていた。
 歩きながら何か食べたり飲んだりしている人たち。コーヒーだったり、リンゴだったり、マフィンだったり、バナナだったり。時々コーヒーに挑戦するけれどうまくいかずにこぼしてしまう。かつて日本で行儀が悪いと言われていたようなことが、当たり前に行われている。そしてきっと、久しぶりに帰った日本でも、同じ光景を目にすることになるだろう。なんだかよくわからない。

■甲子園とかオリンピックとか(2004,8,24 mardi)
 長い間使っていたプロバイダから、全面的にインフォシークに移行することにした。容量や料金、その他いろいろなことを考えて決めた。また気が変わったら気軽に変えるというつもりでいる。
 甲子園で北海道のチームが優勝した。すばらしいことだ。北海道の人たちはさぞ喜んでいることだろう。東北出身の自分としては、先を越されてしまったという気持ちもないわけではないけれど、それでもすごくうれしい。真紅の優勝旗が「白河の関」を越えるのはいつかなんて言われていたが、今回一気に津軽海峡を渡ってしまった。寒くて雪の多い冬場の悪条件のために北国のチームが上位に食い込むのは難しいなんて言われていた時代があったが、今や日本全国同じ条件が整ったということの証ともいえるのではないだろうか。これで夏の甲子園はこれからも安泰だ。(?)
 オリンピックも終盤にさしかかってきた。日本の選手の活躍は過去最高だという。ネットのオリンピック特集を見て楽しんでいる。テレビでは、当たり前の話だがカナダの選手中心の放送になっている。今回のオリンピックではカナダの選手は不振で、現時点での金メダル2個というのを抜きにしても、テレビや新聞では「がっかり」「残念」の情報が多い感じを受ける。明日は野球の三位決定戦でカナダと日本が対戦する。日本にも勝ってほしいが、カナダにも勝ってほしい。メダルはどちらでもいいから、とにかくいいゲームになればいい。
 きのうのニュースでは、オリンピックのことについて、「日本や他の国ではメダルをとると高額の報奨金が与えられるがカナダではそういうことはない。」という話が出ていた。お金は選手にとっては大きなことかもしれないが、それだけが理由でもないだろうと思う。
 メダルをとれる国というのは、総合的に環境が整っているのだ。環境を整えるためのお金のかけかた。その中に、選手への報奨金も含まれる。オリンピックがそういうある面での国力を比較する場となってしまっているのは、うれしいことではないような気がする。参加することに意義があるとはいいながら、参加するだけでは認められない現実がある。
 カナダもオリンピックの放送には力を入れているので、ああ日本と同じなんだなという感想をもつのだが、これが他の国だったら事情は異なるだろう。少人数の選手しか参加しない国。上位に食い込む見込みがはじめからないチーム。そういうところは、報道にもあまり熱が入らず、人々も注目しないのではないだろうか。
 オリンピックは世界の祭典ではあるけれど、参加する国や地域の条件はそれぞれ異なっている。予選を含めて参加種目だって違っている。それに比べるとなるほどサッカーのワールドカップは、「サッカー」であることが共通の土台であり、世界のどの地域でも予選から熱くなれる要素をもっているといえるだろう。
 オリンピックで大活躍。たしかに日本はすごい国かもしれない。毎日深夜までテレビを見て選手たちから感動をもらえて、日本ってやっぱりすごい国なんだと、さわやかなナショナリズムに浸ることも悪いことだとは思わない。もちろんメダルをとったとらない関係なく、選手たちには拍手を送りたい。だけど、オリンピックなんてどこの話?という国のほうがもしかしたら多いのではないか。自分の国のことだけで喜んでいるのはいけないことなんじゃないか。フェアじゃない現実ってのがあるんじゃないかと、そんなことが感じられて、浮かれすぎちゃいけないという気になってしまうのである。

■再発見(2004,8,23 lundi)
 きょうも一日さわやかな快晴で、夏というよりはもう秋の雰囲気だ。日本で秋に感じるようなあはれな風情はここでも同じだ。日本人でなくても、こういう情感をもつ人は多いのではないだろうか。
 弟は今朝の飛行機で帰っていった。滞在中ずっといい天気だったのでほっとした。自分もまたいくつかの町を新鮮な目で見てまわることができたのでよかった。こういうところに住んでたのかなんて、再発見のここ数日だった。

■ナイアガラ(2004,8,22 dimanche)
 一年ぶりにナイアガラの滝を見てきた。滝の周辺は日本人が多かった。弟は、姿を見るだけで日本人とわかると言っていたが、自分はどうもその自信がない。韓国人か中国人か日本人か、見た目だけでは区別が付かないことが多い。滝のそばのレストランでバッフェの朝食。たいしたものはなかったが、腹いっぱい食べたので昼飯は抜きにした。
 午前中に滝を後にし、オークビルという町に寄る。ぜひ行ったほうがいいと薦められていた町だ。コーヒーを飲みながら、ボーっと湖を眺める。はるか向こうにトロントの街が見えた。その後は市内を何か所か回り、韓国料理店で辛いスープを食べた。

■キングストン(2004,8,21 samedi)
 午前中は旧市街を散歩した。昼過ぎに高速に乗ったが、すぐに工事中の渋滞に巻き込まれて一時間ほどのろのろ運転。サービスセンターでハンバーガーの昼食。その後はひたすら西へ。途中キングストンで降りて、フォート・ヘンリーやダウンタウンを散策。快晴で海や芝生が鮮やかだった。ナパニーという町でガソリンを入れた。ダウンタウンを通ったら、街角にはさすがにスケーターボーイやガールがいっぱいいた。

■オタワ・モントリオール(2004,8,20 vendredi)
 朝早く出てオタワに向かった。途中1000アイランドで休憩。オタワの中心部、国会議事堂、リドー運河等を散策。昼はバイワード・マーケットでモロッコの料理、クスクスというのを食べた。野菜たっぷりで優しい味がした。かなり気に入った。
オタワを出て、モントリオールへ。サン・カトリーヌ通り、中華街を通って、旧市街へ。ノートルダム寺院では音楽と映像に合わせて寺院の歴史を紹介するというプログラムが行われていた。

■夏らしい天気(2004,8,19 jeudi)
 朝は曇っていたが、昼前から雲がなくなってすっかり夏の天気になった。こういう夏らしい天気が続いてほしいのだ。ディスティラリーセントローレンス・マーケットをまわる。サンドイッチを買って公園のベンチで昼食。ハーバーフロントまで歩く途中で映画の撮影に遭遇。遊覧船でトロント・アイランドを巡った。夜は地下のフードコートでアジア飯を食べてからマンマ・ミーア!のミュージカルを観た。

■天候(2004,8,18 mercredi)
 今年の天候はほんとうにおかしい。さわやかさが少しもなくて、毎日じめじめ湿気の多い梅雨のような日が続いている。車の窓から紅葉している木々を見つけた。もうそこまで秋が近づいている。このまま夏は終わってしまうのか…。
 夕方弟が来加。空港からの足でプリンスが住んでいるというブライドル・パスという通りへ。トロント・スターに載っていた写真を見ながら進むと、なんとすぐに見つかった。この間一人で来たときにはわからなかったのだが。近くのフェアビュー・モールを散策、スブラキを食べて帰った。

■電話と映画(2004,8,17 mardi)
 いろんな電話のあった日。楽しい電話もあれば、つらい電話もある。意思を伝え合ったり、報告や確認をしたりしながら、ものごとが進行していく。望むことばかりではないけれど、どんどん進んでいく。移り変わっていく。こうやって世界中が電話線でつながれているのも、考えてみればすごいことだ。会って話すことと電話で話すこととは格段に違うような気がするけれども、本当はそれほどの差がないことなのかもしれない。
 帰り道で、映画の撮影をしていた。レンガ造りのアパート街にクラシックカーがたくさん停まっていた。トロントにはきれいな通りがいくつもあるけれど、こんなところで?と思う場所で撮影が行われることも多い。まさに神出鬼没。近所の風景が映画になったらそこに住む人々にとっては素敵なことだなと思う。だけどいつも思うのは、何という映画で、誰が出ているのかが知りたいということ。当然そんな表示などないからたいていの場合はわからずじまいなのだ。もしわかったらぜひ観に行こうと思うのだけれど。

■アルパカ(2004,8,16 lundi)
 ゴールデンタイム。CBCもRadio-Canadaもそれぞれ体操だった。モントリオール以来28年ぶりの金メダルだそうだ。僕はモントリオール・オリンピックは冬の大会だと勘違いしていた。それにしても、日本の体操は美しいと思った。なんだか選手たちの姿を見て臀部の傷も癒されるようだったよ。オリンピックでこんなに元気になれるなんて単純だろうか。
 ところで、アルパカという動物がいるそうだ。テレビのコマーシャルでやっていた。画面のアドレスにアクセスしたら、なんとも愛嬌のある顔が出てきたので笑ってしまった。文は読んでないんだけど。オリンピックに興味のない人も、アルパカなら気に入るかもしれない。落ち込んでいる人もちょっとは元気が出るかも。アルパカに会いにカナダに来ませんか。

■見方(2004,8,15 dimanche)
 オリンピックを見ているとなかなかおもしろい。みんな一生懸命やっているのでどの選手からも力を与えられるようだ。きょうはテレビの前でリモコン片手に半日過ごした。
 カナダのオリンピック放送はCBCが放映権をもっているらしい。このCBC、フランス語ではRadio-Canadaとなる。この二つ、番組編成がまったく異なっている。オリンピックも違う種目を放送している。英語ではやっていなくても、フランス語ならやっているという具合である。北島選手の水泳の実況はフランス語だった。わかったのはキタジマという一語だけだった。
 国対抗でメダルの数を競うの図式は単純明快だ。けど、選手一人一人のことを考えたら、それだけを目標としてもつまらない。オリンピックにかける思いはもっと人それぞれだろう。国境を越えて人々がいっしょに同じことで盛り上がろうというのがオリンピックだと思うから、国の枠を取り払った見方をするのもおもしろいのではないか。
 ところで、先の戦争が終わって59年だそうである。先の戦争は先の戦争として忘れてはならないことだろうけれど、自国という枠を取り払ったら、先の戦争っていつの戦争なのかもうわけが分からない。それほど人間は戦争ばかりしている。終わったはずの戦争が、いつの間にかまた始まっていたりする。戦争の犠牲になった日本人と、戦争の犠牲になったどこか他の国の人と、何が違うのだろう。
 
■お盆(2004,8,14 samedi)
 お盆。実家では兄弟親戚が集まって法事をしている頃だろう。今年はこの時期に父の七回忌と祖父の十七回忌を合わせて行う。その長男が遠くカナダの地でなんだかわけのわからないことをやっているなんて。皆には申し訳ないけれど今回はよろしく頼む。
 これまでをたどると父や祖父の後押しが少なからずあったのを感じる。この二人だけではなくて、今まで世話になった人たちの力が励ましになっているような気がする。そして、自分が見ているものを同時に皆も見ているような感覚をもったりする。だから、どこに行くにも皆と一緒だというふうに自然に思っている。だからなのか、一人旅でも僕はいつも誰かと旅しているような感覚でいられる。自分という人間はいろんな人からできている。自分が決めたと思ったことも、実は自分以外の意志が深く関わっているのである。
 ところで、祖父が亡くなって十年後に父が亡くなった。この十年というのは短すぎるなあと思う。この調子だと、僕の余命はあと三年ほどということになってしまう。人生をあと五年と仮定せよという言葉があったが、三年しかないと思ったら、人のために何かするなんてあんまり考えられないなあ。
 未来未来ってこれから先のことばかり考えようとするけれど、これから起こることのために何かをするなんていったいできるのだろうか。これまでの経験とか関係とかを超えた想像なんてありえないのではないか。だとしたら、これから自分がすることも自分が出会う人も、皆これまで自分が通り過ぎてきた道のりできっと一度は経験したこと、出会ってきた人に違いない。これまで出会ってきた人たちのために、今からのすべてのことがあるのかもしれない。

■オリンピックなど(2004,8,13 vendredi)
 オリンピックが始まった。例によって日本選手の映像は見られないから、カナダの放送を見ながら気にすることにしよう。欲をいえば日本対カナダの組み合わせがたくさん見られると一挙両得だ。
 シドニーから4年か。あまり印象に残っていないのだが、けっこうひねくれた見方をしていたっけなというのは思い出した。今でもひねくれてはいるけれどかなり楽しみにしているのには違いない。
 日本やカナダの選手への期待はもちろんだが、それ以外の人たちにも期待している。できれば少人数の選手団のところにメダルがたくさんいくといいなと思っている。それから、自分の行ったことのある国の選手は特に応援したいなんて思う。
 富める国の人々から貧しい国の人々までが同じ条件で参加できるのはいいことだ。生身の人間と人間のぶつかりあいとして、オリンピックの選手たちを応援したい。人間の一生懸命の中に生まれる奇跡を見たいのだ。
 スポーツの祭典が行われる一方、世界のあちこちでは戦争や飢餓でたくさんの人が死んでいる。それでも片目をつぶってしまわずに、両目をぱっちり開きながら見てみたい。戦争と平和を考える好機でもあるし、豊かさについて考える好機でもある。祖国を見つめる好機でもあるし、自分と縁もゆかりもない国に目を向ける好機でもある。世界の人々にとって少しでも平和に近づける祭典になってほしい。
 ところで、薬の効果があってか患部の痛みが少しずつ和らいできた。回復のスピードは遅いが、たしかに快方に向かっているようだ。あれこれ騒いでも、医者に行くほどは重篤でないのだ。人間の身体はたいしたもんであると人事のように感心。しかしもう若くないんだな。旅のたびにこれでは自分のしたいような旅などもうできないかもしれない。だが、自分のしたいように生きて寿命が縮まったとして、それを愚かととらえるか自分らしい人生をまっとうしたととらえるか。やはり世間様がなんと言おうが、自分らしく死ねたらそれで本望ではないだろうか。
 先日テレビで、他の国ではとっくの昔に「世間」が「社会」に変わっているのに日本だけはいまだに「世間」のままなのだというような話を聞いて妙に納得した。それ以来「世間」という言葉が引っかかっている。旅の途中もあれこれ考えていた。この業界も社会というよりは世間というような感じだなとか、日本語のネットの世界にも世間というものが存在しそうだとか。内と外とか、裏と表とか。そのこと自体が悪いとは思わないけれども、かなり気になる問題ではある。とにかく、自分自身が世間の波に流されるのではなく、世間様としっかり向き合えるようになりたい。
 以上のこととは特に関係ないが、この際ブログは閉じることにした。たいした情報が提供できないことと、やっていておもしろくないというのが理由だ。つまりは使いこなせなかったということだろう。気になったことやこれから使えそうなことはどんどんリンクを張りたいので、そちらをご覧いただきたい。
 もともと裏表を分けるようなつもりもないし、自ら公言しないにしても公私共に恥ずかしい真似などしていないつもりだ。いつでもホンネで自分と向き合える、内も外もそんな場所にしたいのである。

■痛すぎ(2004,8,12 jeudi)
 いつの間にこんな不健康になってしまったのだろう。きょうも一日中痛みに苛まれて、まともなことを考えられなかった。ぜんぜんダメである。この調子で続くのかと思うとバットで窓ガラス割りたくなる。すべて不摂生が祟ったのか。って、いったい俺が何をした。たしかに、マイクロバスで往復12時間の国境越えとか、アメリカのスクールバスのお下がりに半日乗りっぱなしとかなんて、どうかならないほうがおかしいんだけどね。ちょっと悲しい。
 
■安静(2004,8,11 mercredi)
 近くのモールから撤退したスポーツ用品店のあとに、電気屋が入った。髭剃りはないかきいたら、地階できいてみてくれと言われ、きいたら一階ではきいたのかと言われた。結局のところこの店に髭剃りは置いていなかった。
 トロントに戻ってから曇ったり雨が降ったりとぱっとしない天気が続いている。患部に薬を塗りながら、安静に過ごした一日。痛みがあるのは生きている何よりの証拠。とはいえかなりきつい。
 読む気は起きても書く気までは起こらず。写真を選ぼうにもそれほどのものが撮れたわけでないから選びようがない。今回写真は二の次で、身体に刻みつけようという意識が強かった。
 
■ただいま(2004,8,10 mardi)
 更新を再開します。
 8日間の旅。通勤と同じリュックでのバックパッカー。苦しいながらもそこに喜びがあり出会いがあり。人生なんてちっぽけなものだ。セケンサマには笑われても、自分にしかできない旅をした。今まで世話になった人たちに守られて無事帰ってこれたことに感謝。行く前と後とでこんなに見え方が違うなんて。詳しいことはまだ書けそうにもないけれど、落ち着いたらまとめるつもり。

■カンクン〜トロント(2004,8,9 lundi)
 昨夜はゆっくりと眠れた。素晴らしい朝を迎えた。ホテルで朝食を取り、タクシーで空港へ。土産物を少々買い、11時10分発のトロント行きに乗り込む。3時間半の旅はあっという間。帰ると空は暗く雨が降っている。もう何も考える力も残っていない。時間も関係なく、風呂に入って就寝。

■コロザル〜カンクン(2004,8,8 dimanche)
 6時半頃には宿を出た。一階に鍵を返しに行ったが、昨夜のお姉さんではなく全然違うおばさんがいた。海沿いの町は、特にきれいでもなく、雑然として、言ってみれば無国籍な感じ。教会からは賛美歌が聞こえてきた。きょうは日曜日だった。腹の調子が悪い。汗ばかりだらだら出てくる。どうやら脱水症状が出ているみたいだ。日曜日は店は休みかなと思ったら、バス・ターミナルの裏手にある八百屋が開いていた。バナナを2本と飲料水を買って朝食。バナナをよくかんで、水で流し込む。すると効果覿面、腹の痛みは消え、汗も引いてきた。これで何時間かは大丈夫だろう。
 メキシコはチェトゥマルまでのバスに乗る。ベリーズを出国し、また別のバスに乗り、メキシコの入国管理局に行く。長い書類を書いて、めでたくメキシコ再入国を果たす。バスを待っていたのだがいつまで経っても来ないので、タクシーに乗る。チェトゥマルのバス・ターミナルまで、50ペソ。
 カンクンまでの途中に、トゥルム遺跡というのがある。そこまでのチケットを購入、98ペソ。ベリーズとメキシコは1時間の時差があることに途中まで気がつかなかった。腹が痛くなり、尻も痛くなり、コンディション最悪。待合室で座っているのも苦痛。かといって立とうとするときにも痛みが走るので、えいやっと気合を入れて立たねばならない。せっかく来たのだから遺跡は見たい。幸いバスはチキンバスと比べると最高級の乗り心地。これなら大丈夫かな。
 トゥルム遺跡は海沿いにある。バスを降りて、タクシーで入り口まで20ペソ。青いカリブ海。海水浴をする人々。なんて美しいんだろう。やっぱり無理を押してでも来る価値はあった。来てよかったと思った。
 またタクシーでバス停まで。そこを4時発でカンクンのバス・ターミナル着が6時半。車内のテレビで“The Hunted”というのを見るが、ちょっと変だった。バス・ターミナルからはもう一気にタクシーでホテルまで。最後の夜は大手ホテルチェーンのデイズ・インを取っていたので実に快適。体調のことを考えると、初日と最終日はこの順序で正解だった。これが逆だったら、あまりおもしろくないことになっていただろう。
 この夜は近くのコンビニでパンを買って食べ、ゆっくり風呂に入って、テレビを見て、早めに就寝。

■ティカル〜ベリーズシティ〜コロザル(2004,8,7 samedi)
 朝4時前に起床。5時に行動開始。まだ暗いうちからティカル遺跡を回ってきた。月明かりの中、ジャングルにはサルの鳴き声が響いていた。遺跡への入り口を間違えながら、やっとのことでルートに入った。門のところには3人の人がいて、地図を買ったほうがいいと言われてQ5で買った。歩いているうちにだんだん明るくなってきた。霧の中にぼうっと浮かんでいる神殿。枝から枝へ飛び移るサル。神殿への階段はとても急で、ちょっとためらったけれどいちばん上まで登った。そしたら、すでに何人かの若者が腰を下ろしていた。霧のためジャングルの眺めはあまりよくなかったけれど、遺跡の大きさは実感できた。すれ違う人たちと、「ブエノス・ディアス!」「オラ!」と声をかけ合うのが楽しかった。とにかく2時間半、ぐるっと歩いて汗をかいた。
 ホテルに戻って朝食。9時頃にはすっかり霧が晴れて、きれいな青空になっていた。次々とバスが着いて、見学する人の多さを物語っていた。だが、これだけ暑いところで2時間半歩くのはたいへんだ。早く動いてよかったと思った。飲料水を買って、しばらくチリが来るのを待つ。別の客を乗せ、30分近く遅れてやってきた。
 昨夜は暗闇の道だったが、昼間通ると大小の村々があるのがわかった。右手にはきれいな湖が見えている。途中で車を停めるので何かと思ったら、湖の向こうの山がちょうどワニを横から見た形になっているのを教えてくれた。車はひたすらベリーズ国境を目指す。舗装が途中で途切れ、砂埃の道になる。両脇には巨大なソテツみたいな植物が多くなり、だんだんそれが大きくなっていく。国境付近は暑いのだろうか。しばらく人も車もない状態が続いたが、グアテマラ側の国境の町、メルチョル・デ・メンコスが近づいてくると、またにわかに人の動きが見えるようになってきた。
 だいたい11時頃に国境着。ゲートのところで車を降り、チリと握手を交わす。「また会おう!」と言っていたが、なんだか「もう会うこともないだろう」と言っているように聞こえた。きのうきょうと、世話になった。車の中で話ができて、とてもよかったと思っている。チリの中では、毎日訪れる観光客のうちの一人、しかもいいカモ、かもしれないが、僕にとっては大事な旅の1ページを作る重要人物だ。おカネじゃないべさ。
 「カンビオ!カンビオ!」というのは、両替屋の声。余ったケツァールをベリーズドルに替えたら、何ドルかになった。出国のゲートは西洋人のバックパッカーの列ができていた。グアテマラを出国すると、きれいな川にかかる橋があって、そこを歩いて渡る。子どもたちが川で楽しそうに泳いでいるのが見える。ここの人たちにとっては、国境はあまり関係がないのかな。行ったり来たり自由にしているのではないかなと思った。
 ところがこの国境は、国の境というだけでなく言語の境でもある。グアテマラはスペイン語圏だが、ベリーズは中南米唯一の英語圏なのだ。この境界はどんななのだろうという興味は大きかった。橋を渡ると立派な建物が建っている。看板はもちろん英語。グアテマラの人間くさくてごみごみした建物とは違って、なんだか無味乾燥。書類を書いて窓口に出すと、偉そうな人の居る別室に通された。外は暑いのに、その部屋だけはがんがん冷房がかかっている。ビザの手数料は最初「50ドル」というので、「25ドルでは」と聞き返すと、ベリーズドルでは50ドル、USドルでは25ドルということだった。1USドル=2ベリーズドルの固定相場制だった。無事、ビザを発給してもらうことができた。なるほど、これは日本人に対する待遇なのだ。スイスのパスポートではこうはいかないのだ。しかし、この部屋の冷房の効かせ方にはちょっと違和感を覚えた。
 建物を出た先に、バスの発着所があった。サン・イグナシオという町までバスに乗るつもりでいたが、タクシーの運転手に声をかけられた。「どこでも行くよ!」。サン・イグナシオまで10ドルだという。まいいかと乗り込むと、「ほんとにどこにでも行くよ」という。サン・イグナシオからバスに乗ってベリーズシティーで乗り換え、メキシコの手前まで行くと言ったら、「いいよ」という感じで返事した。「バスで5時間かかるところもタクシーだともっとはやいよ」ということだったが、とりあえずサン・イグナシオまでにした。運転手によると、ここらへんの人はみな英語とスペイン語の両方話すのだそうだ。「国境の近くだからね」でも、雰囲気としてはスペイン語の方をよく使っているのではという感じがした。もともとグアテマラの領地だったこの地にイギリス船団が到達し、移住を始めたのが17世紀。その後、スペインのカリブでの覇権がイギリスに移る流れの中で、イギリス領になったのだという。独立したのは1981年であり、アメリカ大陸でもっとも新しい国だそうだ。そういう歴史をみれば、スペイン語だろうが英語だろうが、先住民たちが欧米の列強に翻弄されてきたことには変わりない。もちろん、侵略された側はただの被害者ではなく、伝統を守りながら、新しい文化も受け入れ、それらを融合させてきたはずなのだ。先住民と移住者が混血し、もともとの侵略者を自分たちの中に取り込んでいく過程というのは、どれほどの闘いだったろう。このような歴史は、中南米だけのことではない。世界中で、そういう闘いが繰り広げられてきた。それは人間の心の中での闘いだ。それを思うと胸が締め付けられる思いがする。
 途中、道路沿いの川が滝になっているところに通りかかった。「この町がおいらの住んでいる町さ。きれいだろう?」ここでも子どもたちが泳いでいるのが見えた。深緑と水の色が強い日差しに輝いて、ほんとうにきれいだと思った。「左の道をまっすぐに行くと、遺跡があるんだ」 この人の自慢のふるさとなのだ。もともと国家と故郷というのはあまり関係ないものかもしれないな。どこの国に属していようと、故郷は故郷のままなんだ。
 サン・イグナシオの町でタクシーを降りた。英語の看板ばかりというのは親しみやすい。しかし、どこか雑然とした感じがする。他民族国家という先入観がそうさせるのだろうか。バス・ターミナルで1時発ベリーズ・シティ行きの切符を購入。まだ40分くらいあるので、近くの食堂で飯を食った。豆のスープに白いご飯。バナナの揚げ物に鶏肉のシチューで10ベリーズドル。腹いっぱいになった。バスの出る5分前にターミナルに戻ったら、ちょうど出た後だった。予定の時間前に出発してしまうというところもあるのか。次が1時半だったので、これは逃すまいと待合室でじっと待つ。客たちの話を聞いていると、スペイン語も英語もある。この人たちはメキシコに帰るんだなと思われる人たちもいる。発券窓口のところでペプシコーラも売っていた。何人もの人がコーラを買っては実にうまそうに飲むのを見て、自分も買って飲んだ。
 バスが来た。この国でも、アメリカの(もしかしたらカナダもかも)スクールバスのお下がりのチキンバスである。だが、乗ってみてチキンバスのチキンたるゆえんが納得できた。スクールバスはもともと子供用だから、座席が狭くできているのだ。大人が座ると膝が前の背もたれにくっついてしまう。おまけに古いので、座席のカバーは剥がれ、中のウレタンがむき出しになり、取れているところもある。もうボロッボロになっている。乗り心地は最悪。これでベリーズ・シティまで3時間。乗り換えてまた北へ3時間である。臀部の状況も悪化してしまう。
 使わなくなったバスを途上国に援助する。先進国はまた新しいバスを作る。これは一見途上国にとっても先進国にとってもいいことにみえるかもしれない。だけど、これでは利用者には使いにくいわけだ。こんなのマヤカシだって!と思った。バス会社はもっと乗り心地のいいバスを開発しなければならない。その前に、途上国の中でそういうバスを作る技術を援助しなければならない。他国のお下がりを使うような状況をなくさなければならない。そんなことを考えた。具体的にどうすればいいのかわからないけれど、こんなチキンバスを使わなければならない人の気持ちを想像したら、やっぱり嫌になってしまうって。近くに座ったのはメキシコ人のグループのようで、トウモロコシを食っては芯を、ブドウを食っては皮を窓から外に投げ捨てていた。少し大きな停留所では、飲み物などを抱えた子どもが窓越しに声をかけて売っていた。僕も一度コーラを買って飲んだ。コーラ飲み過ぎ。
 ベリーズ・シティのバス・ターミナルで降りる。アンティグアで会った人から、ベリーズ・シティは危ないから素通りしろと言われていたので、ターミナル周辺をちょっと歩くだけにする。川のほとりにいくつかの店が出ている。お世辞にもきれいとはいえない。町の中心ではないにしても、あまり立ち寄りたいところではない。メキシコ国境のコロザルまでの切符を購入する。待合室には、白目が真っ赤になった黒人がいて、何かの中毒だという気がして気味悪かった。アンティグアで会ったイギリス人の話では、「ベリーズ・シティにはカリビアンの黒人がたくさん来ているのだが、彼らはどういうわけか働こうとしないんだ。人を脅しては金を巻き上げる。だから、人通りの少ないところにいってはダメだ。ただし、シティ以外のところはぜんぜん大丈夫、心配は要らない」
 切符にはエクスプレスと書いてあったので、今度はもっといいバスかなと期待していたのだが、さっきとまったく変わりないチキンバス。5時発だが、何時に着くかは確かめなかった。あるいは、コロザルまで行かず、別の町でもいいかなと思っていた。宿も取っていないし、取れるかもわからない。今夜一晩なんとか過ごせば、明日はカンクンのホテルに泊まってゆっくりできる。もう旅も終盤だから、何とかなるだろうと楽観していた。
 隣に座った黒人の青年が話しかけてきた。とても気のよい感じの人だったのでほっとした。「このバスはどうだい?」と聞いてきた。「ベリーズは貧しい国だから、車を持てる人は少ないんだ。だから、みんなバスを利用しているんだ」と言っていた。窓の外には草原が広がっており、ところどころに小さな家があり、南国のでかい樹が生えている。畑も何もないところをバスは進む。ベリーズといえば、ダイビングをする人の間では美しい海のあるところとして有名らしい。だけど、僕の通ったところは、美しい海も見えず、産業らしい産業もなさそうで、なんだか何にもないところばかりだった。「ここに家があるんだ」 何にもない真ん中の停留所で、青年はバスを降りた。日暮れどき、オレンジ色に染まった原っぱをぼーっと見ながら風に吹かれていた。車内の明かりもすごく暗く、昔僕らの町に走っていた、床が木でできているバスや列車の車内を思い出した。あの頃の日本も貧しかったのだろうか。この国もいずれ豊かになるのだろうか。みんな平等に豊かになればいい。
 しばらくは降りる一方だった客が、町が近くなるとまた乗る人が増えてきた。小さい子どもを連れた親子が何組か乗ってきて、夏祭りに出かけるような雰囲気をなんとなく感じた。オレンジウォークという町に着いた。海からは遠いが、かなり大きな町だ。地球の歩き方には一言も載っていなかったが、アンティグアのイギリス人が、「とてもいい町だった」と言っていたのを思い出した。窓の外から見るとホテルもたくさんあるし、人通りも多いし、国境の町まで行かなくてもという思いもあった。5分ほどの停車時間があり、その間降りようかどうしようか迷いに迷ったが、結局、当初の予定通りそのまま終点まで行くことにした。なんとなく海辺の町に泊まりたかった。
 だんだん海が近くなってきているのがわかる。車掌がなぜか車内の明かりのスイッチを入れたり切ったりしていた。車内が真っ暗になると、満天の星空がぼうっと浮き出て見えた。夜風も心地よく、輝く星を眺めながらだまってバスに揺られていた。こんなにたくさんの星を見たのは生まれて初めてだろう。そういえばきょうは月遅れの七夕だったな。星が見れたから、やっぱり正解だったな。宿が取れなくてもなんとかなるな。
 コロザルの町に入ったのは8時を過ぎていたと思う。車掌が「終点の一つ前!」というアナウンスをしたので、ここで降りてみることにした。宿の看板を発見。全室エアコンディション完備!喜び勇んで行ってみると、一階がバーとフロントになっていて、二階が部屋になっているという宿だった。バーに入ると、西洋人だか東洋人だかわからないが、スタイルのいいお姉さんがいた。「部屋はありますか」と聞くと、そのお姉さんは「あなたは運がいいね。一部屋だけ空いてるよ」と言ってウインクをした。ウインクなんて今までされたことなどないわな。何か食べるものがあるかと聞いたら、もう終わったと言われた。
 鍵を受け取って部屋に入ろうとするが、なかなか鍵が開かない。ガチャガチャやっていたらやっと開いて中に入った。部屋はほんとにひどいもので、シャワーも水がちょろちょろと出るだけ。だけど全然構わない。宿があるだけラッキーであった。今夜一晩我慢すれば、明日はきれいなホテルに泊まれるのだ。
 腹が減ったので、外に出る。家の形を見ても、西洋なんだか東洋なんだかよくわからない。どこか、日本の住宅街のような感じにも似ている。表通りに出ると漢字の看板の食堂がいくつか見える。ここでも華僑が活躍しているのだ。焼きそばを頼むと、日本で食べるような普通の焼きそばだった。不思議だった。
 宿に戻り、鍵を回すが開かない。さっきにもましてダメである。もうどうしようもないなと半ば諦めかけたときに、どういうわけか鍵が開いた。天井にでかいプロペラがついている。これがエアコンディショナーか。ところが、暑くてほとんど眠ることができないまま、朝を迎えた。長い夜だった。

■アンティグア〜ティカル(2004,8,6 vendredi)
 ゆっくりと起きる。昨夜の洗濯物はまだ生乾き。外に出て、旅行会社で空港行き12時半発のシャトルバスを手配。時間にホテルまで迎えに来てくれるという。だいたいこちらのホテルはチェックアウトの時間が午後1時だったので、なにかと助かった。きょうは涼しい。天気はいいけれど。火山がきれいに見えている。洗濯物を持って、公園で日向ぼっこしながら乾かそうかとよっぽど思ったが、できなかった。公園のベンチに座っていたら、土産物売りが声をかけてくる。靴磨きの少年も声をかけてくる。ナッツ売りの青年も声をかけてくる。うるさいなあ、今ケツが痛いんだからあっち行ってくれよ、という気持ちだった。
 朝食をとり、博物館を巡る。市庁舎。スペインの征服の歴史。アステカ帝国を滅ぼしたスペイン軍は次々とマヤの地に侵攻、征服していった。先住民を殺戮し、略奪を行った。そうやって、民から言語を奪い、文化を奪った。その征服の歴史を、征服軍の何とか将軍というのが、詳細に記録し、それが残っているというのだ。いったい征服ってなんだよ。見ていたら、なんだか涙が出そうになってきた。子どもたちがたくさん見に来ていた。きっと歴史の学習で来ていたのだろう。後でタクシーの運転手から聞いたが、グアテマラにはスペイン語を含め、全部で23の言語があるという。22言語は先住民の言葉だ。ということは、マヤの文化が今でも守られているということだ。それがたとえ細々としたものだとしても、このことはとても大きなことといえるだろう。
 教会の廃墟のようなサン・ヘロニモ教会。入っていくと、ミサが行われていた。この教会は、18世紀に大地震が起きて、建物が崩壊してしまった。このほかにも壊れた教会の建物が町のあちこちにあり、独特の風情をかもしだしている。再建が進められているということだが、そういう工事らしきものは見られなかった。
 織物博物館。昔沖縄の米軍キャンプにいたというアメリカ人夫婦といっしょに、説明を聞いて回った。日本はいいところだと言っていたが、気がつくとどこかへいなくなっていた。この鮮やかな虹色は、現在では皆化学染料を使って出しているのだそうだ。ここで即売されているものは皆素晴らしく手の込んだ本物らしかったが、町中で売っていたものよりも値段がずっと高かった。「一つ買いませんか」と機織りのデモンストレーションをしていた娘さんが言っていたが、ちょっと手が出なかった。
 ホテルに戻り、チェックアウト。シャトルバスを待つ。アンティグアに4日いたことになる。なんともゆったりとしたリズムをもった町だった。今度来たときにはぜひ、周辺の村々にも足を伸ばしたい。そのためにはもっと余裕のある旅程で来たいものだ。またいつか来れるかな。12時半を少し過ぎてバスが着く。グアテマラシティの混雑を抜けて空港に着いたのが2時前。チェックインをして、両替所でケツァールをドルに。きのう下ろした1600ケツァーレスを200ドルにした。
 薬局があったので、薬の相談をする。電子手帳を見せたら、すぐにわかってくれた。昼飯がまだだったので、コーヒーとパンを買ってベンチで食べる。空港でつぶす時間。立ったり座ったりがつらいのでかなり厳しい状況。空港関係者がこんなに多いのはどういうことか。カンクンでも思ったが。手作りの織物と機械織りの織物、手作りのほうがいいに決まっているような気もするけどほんとうにそうか。などなど、いろんなことが頭に浮かぶが、ちゃんとした言葉にならないうちに消えていく。
 ゲートに入って、9番を探すが見つからない。と思ってきいてみたら、ここは国際線の乗り場で、国内線の9番ゲートはまったく別の場所だった。入り口でチケットを見た人も、荷物を検査した人も、自分も、気がつかなかった。国内線なのに免税店があるのはおかしいと思ったんだ。それにしても、チェックがいいかげんだなあ。何についても、国によって違うというのはおもしろい。きょうは広島の日か。さっきまで気がつかなかった。日本は遠いわい。
 グアテマラシティを17時発。北部の町フローレスまでの飛行機。機内は暑くて汗だくになった。18時着。飛行機を降りて、空港の建物に入ると、「タクシー!」「ホテル!」と声をかけてくる人たち。案内所でティカルまではじゅうぶんきょう中に行けるということを聞き、その方向で決める。いちばん威勢良く声をかけてきた男に話を聞くと、ここからティカルまでのタクシーとホテル、そしてあすのベリーズ国境までのタクシーを合わせて約140ドルでやってくれるという。安いのか高いのかわからなかったが、移動の手間を考えれば安いものと考えて手を打った。
 当初フローレスで一泊し、翌朝ティカル遺跡に移動するつもりだったが、もう日も暮れてしまい、フローレスに滞在する必要もなくなった。ベリーズを抜ける時間をじゅうぶん確保したかった。運転手は、自分をチリと名乗った。チリペッパーのチリ。皆がそう呼ぶんだと言った。英語が達者だったが、どこから習ったのかと聞くと、全部独学だという。「あんたのような観光客と話をして覚えたのさ。でもそのおかげで今はずいぶん忙しく働いているよ」人当たりはいいが、怒らせると怖いだろうなという感じがした。もしかしたら、してやられたかなとも思った。
 ちょうどラジオで、サッカーの試合が放送されていた。グアテマラとエルサルバドル。1対0でグアテマラが勝つと、チリは喜んでいた。グアテマラではサッカーの人気が一番だという。野球はと聞くと、人気はないと言っていた。スペイン語の数の数え方を一つ一つ教えてくれた。そして、グアテマラの言語が23あることもチリから教わった。
 途中でティカル国立公園の中に入る。入園料がQ50かかった。ホテル・ティカルにチェックイン。チリとは明日の朝9時に迎えに来てくれるように約束して別れた。ホテルは一泊二食で50ドルちょっと、食事もうまかったし、扇風機もついていて涼しかった。夜の食堂では、10数名の学生たちと一人の白髪の男性が食事をしている。どこかの大学のゼミという雰囲気だ。途中まで男性がいろいろと話をしていたが、しばらくすると皆いなくなった。テーブルの上を見ると、食べ物がずいぶん残っている。ずいぶんもったいない食い方をする人たちだと感じた。

■コパン(2004,8,5 jeudi)
 午前3時起床。4時にホテル前にマイクロバスが迎えに来た。それから延々6時間の旅。僕のほかにはアメリカの4,5人の若者男性グループとヨーロッパから来たらしきカップルが乗った。道路はすべて舗装されており、乗り心地は悪くない。しかし、座席は狭く、おまけに尻は痛く、何より時間が長い。苦痛の中の旅であった。アメリカの人たちは皆長髪で、朝から騒いでいたがしばらくしたら眠ったのか静かになった。隣になった人はちょっと怖そうだったが、「足伸ばしていいよ」とか「窓開ける?」とか、けっこう親切だった。
 途中のドライブインで30分ほど休憩。そこの、外にむき出しのカウンターで、ハンバーガーの朝食(Q10)をとった。炭焼きで肉厚の手ごねハンバーグで、なかなかうまかった。休んでいると、地元のおじさんが一人やってきて、へらへら笑いながら英語らしき言葉で話しかけてきた。文法的にめちゃくちゃだというのがわかった。僕よりも英語の下手な人も珍しい。しばらく聞いているとこの人は、お金をくれと言っているのだとわかったので、なんとなくさよならをして、場所を変えた。そしたら、どこかに行ってしまった。
 10時過ぎ。ホンジュラス国境を越える。料金は3USドル。コパン遺跡は国境に入って30分ほどのところにあり、遺跡だけ見て帰るという人は、ビザも不要でチケットだけが渡されるみたいだった。一旦バスを降りて、一人一人手続きした。全員が終わるのを待って、またバスに乗り込んだ。待っているときに、小さい子どもたちが2、3人。果物や土産物を売りに来たが、かなり控えめで、すぐに去ってしまった。「ナランカ」を荷台いっぱいに積んだトラックがいくつも停まっていた。箱にも袋にも入っておらず、むき出しの柑橘類がゴロゴロと積まれているのがおかしかった。
 天気はこれ以上ないくらいの晴れ。バスが到着したのは、遺跡の手前のコパンルイナスという町。ここから歩いて15分で遺跡に行けるという。他の人たちはここで宿泊するらしい。バスを降りるとすぐに見えなくなった。帰りのバスは1時半に発車する。ホンジュラスには正味3時間の滞在である。
 遺跡に向けて歩き出す。町並みは美しく、きれいな花があちこちに咲いている。中南米の町の中心には必ずカテドラルという教会の建物があるそうだ。ここにもカテドラルがあり、太陽の光を受けて輝いていた。遺跡まで、石畳の歩道が続いている。途中で小さな女の子二人とすれ違った。写真を撮っていいかと聞くと、ぴったりと止まって撮らせてくれた。光が強すぎてうまく撮れなかったけれど。
 入場料は10ドル。前に並んでいた人は、エルサルバドルから車で来たという。しきりに「俺の写真を撮ってくれ」と言ってきたので一枚撮らせてもらった。遺跡のあちこちに、JICAの看板が立っている。修復のために日本が大きな協力をしているらしい。お土産を売る少年がしきりに何か叫んでいたのを見た。遺跡の入り口に、虹色をしたオウムのような鳥がたくさんいて、皆写真を撮っていた。
 遺跡にはやはり圧倒された。長い道のりだったが、このときばかりは尻の痛みも忘れ、来てよかったと思った。ピラミッドなどを見ていると不思議な気持ちになるものだ。遺跡とは廃墟であり、今の人間は住んでいない場所だ。どちらかというと、ちゃんと今の人間が住む町の方が好きだし、遺跡にそれほど強い魅力を感じるわけではない。だが、やはり実際に見て、歩いてみて、人間の営みのことを考えるのは大事なことだと思う。
 遺跡を一周してから、30分で回れる自然道というのを見つけたので歩いてみる。いろいろな動物や鳥や虫がいると看板に描かれたのでおもしろそうだった。ジャングルというほど気味悪くはないけれど、何の動物も出てこない。そろそろ道が終わるかという頃、前から少年たちがやってきた。「何かいますか」と聞いてきたので、「何もいない」と答えた。
 町まで戻り、レストランで昼食。トルティージャというのを頼む。トルティージャには、フリホーレスという、見た目はあんこで味はしょっぱい豆の塩煮や、ケソというチーズ、クレマというサワークリームをつけて食べる。それから、バナナのソテーにオムレツ。卵の味は濃厚な感じ。なかなかうまい。こういう食事を旅の途中何度かした。バスの発車まで少し時間があったので、広場周辺で写真を撮る。尿意を催したので、ホテルのトイレを借りようとしたら断られた。「そこの店で借りなさい」それで、その店に行ったら、「うちにトイレはない」と言う。別のホテルに行ったら今度は人がいない。不法侵入と思われては嫌だからすぐに去った。バスの発着所に聞いたら、「そこがトイレだよ」と快く教えてくれた。それにしても、トイレ事情の悪い国はたくさんある。トイレがない、わけはないと思うのだが、使わせたくはないのだろうなあ。この水まわりをきれいに整備するというのは、ずっと余裕が出てからのことなんだろうなあ。
 帰りのバスは、おそらく高校生だろうと思われる子どもたちでいっぱいになった。僕は助手席に座らせてもらい、おかげでクッションも効いて快適に過ごすことができたが、後ろは始終うるさくてしかたなかった。国は変わってもこの年代はおしゃべりしたい年代なのかもしれないな。また6時間、バスの中。再びグアテマラに入る。朝にもらったチケットを返すだけでよく、運転手が出してきてくれるというので、僕だけバスの中で待っていた。バスから見る人間模様。パインアップルの皮をナイフで剥いて、今にも丸ごと食おうとしていたお兄さんが、手を滑らせてパインを落っことしてしまった。彼は拾って泥のついていないところを食おうと試みたが断念した。銃を持って立っている警官がいたが、顔見知りが多く往来するようで、皆とのどかに話をしていた。この人はどっちの国の住人だろうと思った。帰ってきた運転手に聞くと、グアテマラの人だという。毎日国境を往復しているそうだ。
 朝と同じ場所で休憩。朝には開いていなかった建物が開いていた。入ってみたら外より暑いので、外の日陰で休んでいた。他の人たちは皆その建物の中で休んでいたが、よく我慢できるものだと思った。
 運転手はばんばん飛ばす。周りの車もばんばん飛ばすので、危険な感じがする。乗っていると慣れるけれど、日本やカナダではこうはいかないよなという手荒さである。ベトナムに行ったときのスリリングな運転を思い出した。国道沿いのところどころに、十字架が立っているのをいくつも見つけた。おそらく以前そこで交通事故があり、亡くなった人を弔うためのものではないかと思った。予定時間の8時よりも前に到着するのではないかと期待した。しかし、峠の途中で突如渋滞。車が動かなくなってしまった。どうもこの先で工事をしていて、片側交互通行になっているらしい。すると、かごを持った女性たちが前から5、6人駆け寄ってきて、飲み物や果物やお菓子を売ろうとする。    
 高校生たちが何人か、先を確かめようとバスを降りて歩き出すた。いちばんはじめに出て戻ってきた少年が、工事の看板はあったけど、工事はしてなかったと報告をした。運転手も携帯電話でどこかと連絡を取っている。結局そこで4、50分足止めを食った。工事現場を通り過ぎたが、たしかに何も行われていなかった。これはどういうことか。まさかとは思うが、地元の人々が現金収入を得るためにやっていることではないかという考えが浮かんだ。
 空はすっかり暗くなった。ちょうどグアテマラシティの混雑した道路を通った。仕事帰りの勤め人たちが、チキンバスにぎゅうぎゅう詰めになって乗っているのが見える。車掌なのか、ドアのところに半分身を乗り出してつかまっている人がいる。バス停に近づくと飛び降りて、「このバスは○○行きだよー!」と威勢良く言いながら案内しているように見える。グアテマラシティの交通はめちゃくちゃだ。信号は少ないし、横断歩道でないところで、人がどんどん渡ろうとして道路に飛び込んでくる。助手席に座るのは快適ではあったが、ここに来て冷や汗の乾く間もないほど怖い瞬間ばかりが続いた。都市化のスピードが速くて、道路の整備が著しく遅れている。交差点にも信号がなく、かといって警官が交通整理するわけでもない。これじゃいつどこで人がはねられてもおかしくない。きっと毎日何十人かは事故に遭っているに違いない。まるで一か八かで渡っているような、人が猫か犬みたいな感じの動物に思えた。アンティグアの旅行会社の人が、グアテマラシティーは大嫌いだと言っていたのを思い出した。「空気は汚いし、道路は危ないし」これを見て納得した。僕もこんな街は嫌いだ。
 アンティグアに着いたのは8時15分頃。きのう予約したはずのホテルに入ったが、フロントの主人は「部屋はない」という。「きのう、8時頃来てくれと言ったじゃないか」と言ったが、きけば、8時というのはきょうではなく、きのうの8時ということだった。きのうの時点で、部屋が空くかどうかわからないから、8時に来て確認してくれということだったらしい。がーん。よく考えてみればわかること。だが、しかたない。
 というわけで、夜の町をホテルを探して一軒一軒回って歩いた。やっと見つかったホテルはずいぶんきれいなところだ。主人はスペイン語しか話せないふうだった。一泊Q400、$50。きのうまでのところの2.5倍の値段。「部屋を見てみるか」という意味で、主人は自分の目を指差した。一応見せてもらって、いい部屋なのを確認したが、それよりも背に腹は変えられない。部屋を確保できただけよしとしよう。お金が足りなくなり、シティバンクの引出機から現金を下ろした。一度に下ろせるのが400ケツァーレス、50ドルまでだったので、4回操作して200ドルを下ろした。
 その後、食事をしに町へ。この夜は簡単にバーガーキングで済ます。なんだか喉が渇いてしかたなかった。ホテルに帰り、冷蔵庫の中のビールが飲みたくなり、誘惑に負けて一本買って飲んだ。Gallo(ガジョ)というグアテマラのビール。はー、うまい。だが、痔のときに酒を飲んではいけないという言葉はほんとうである。その後苦しんだことは言うまでもない。

■アンティグア(2004,8,4 mercredi)
 きょうも長い一日だった。夜は熟睡できたかどうか。職場の先生方の招待で、日本食レストランで刺身を食べた夢を見た。5時頃には目を覚まし、布団の中で1時間くらい過ごした。
 7時過ぎから、町を歩き回る。とにかく、歩く。通勤通学の風景。声。におい。敷石を踏む足の裏の感触。町の回りを囲む火山。
 旅行会社を回りながら、コパン・キリグアの遺跡に行くツアーを尋ねる。1泊2日で2か所回るのが理想だったが、なかなか思うようなものは見つからない。一か所だけあったが、一人だというと追加料金がかかって倍くらいになるというのでやめた。結局コパンへの日帰りをすることに決めて契約した。
 とりあえず一泊だけ予約していたホテルを二晩延泊しようと交渉。この夜は取れたが、明日の夜はもう満室だという。それで、向かいのホテルを訪ねて、主人に「明日の晩は空いているか」と聞いたら、「8時頃来てくれ」という。これで明日の夜の宿まで確保できたと安心した。ところが、翌日の夜になって、それが誤解だったということがわかるのである。
 中央公園の前のお菓子屋で、朝食にとクッキーのようなものを2個買い(Q20)、公園のベンチに座って食べる。頭に大きな風呂敷包みを載せた民族衣装のおばさんが話しかけてきて、どうやら布を買ってくれということらしい。風呂敷を広げると、グアテマラ・レインボーの織物をたくさん出してきた。一つ一つ説明するがよくわからない。一つ気に入ったものがあって値段を聞くと、45ドルという。高いからといって敬遠していると、どんどん値を下げていく。15ドルでどうかというので、あまり気が進まなかったが一つ購入して、写真を撮らせてもらった。
 後日、織物の博物館を見学してわかったのだが、ここで買ったのはあまり質のいいものではなかった。本物は織り方がもっと精巧で、色合いももっとえもいわれぬ複雑さがあった。考え方一つでどうにでもなるのだけれど、本当にいいものを買いたかったら、ああいうところからは買わないことだ。
 グレープフルーツみたいな果物の屋台があった。その場で半分に切って、絞って、ジュースにして売っている。これはなにかと尋ねたら、「ナランカ!」と答えが返ってきた。一杯Q5。これが、温いんだけどなかなか美味い。この旅でいちばんうまかったものといったら、このナランカジュースかもしれない。ところで、ナランカってなんだろうと思って調べたら、“naranja”スペイン語でオレンジのことだった。「カ」のように聞こえたのは、痰を出すときのようにして出す口蓋音だったのだ。僕はてっきり少数民族の話す言葉だと思い込んでいたので、スペイン語と聞いてちょっと拍子抜けした。
 教会の境内?で公衆トイレを見つけた。有料でQ2。受付?のようなところに男女がいたので写真を撮らせてもらった。その教会の真ん前にあった旅行会社に立ち寄って話を聞く。そこの女性は僕より少し若いくらいで、周辺の村の見所を、写真を見せながらいろいろ説明してくれた。世界一美しいと言われるアティトラン湖。先住民の町チチカステナンゴの市場。どれも魅力的。しかし、時間が足りなかった。英語が上手ですねと言ったら、全然できないと言っていた。観光地のこういうところに勤めるには、英語ができることが絶対条件なのだろう。英語ができるかどうかで、職業も収入も変わってくる。そう考えると、英語を学ぶことは自分たちの暮らしに直結してくるのだ。それだけ必死に学ぶだろうし、もし話せないとなったら、別の道を探るしかない。きっとそういう競争があるのだろう。見せてくれた写真の中に、スクールバスを塗り直したバスの写真があった。「いろんな色のバスがあって楽しいですね」と言ったら、「全然。あんなのチキンバスよ!」という感じのことを言った。スペイン語でバスは“autobus”(アウトブス)。チキンバスが訛って「チキンブス」に聞こえたのがかわいかった。
 グアテマラといえばコーヒー。午後から2時間ほどのコーヒーツアーがあるというので、それに行くことにして料金を払った。2時にここから出発するというのを聞いてその場を後にした。
 コーヒーを飲ませる店の裏手に回ってみるとレストランになっていた。Cafe Condesa。ちょっと早い昼食。そこで出されたコーヒーが、この旅の中でいちばんうまいコーヒーだった。それから、なんというのか、ジャガイモの料理もうまかった。
 2時。再びさっきの旅行会社に来て、そこからマイクロバスに乗った。10分くらい行った所に山があり、そこに見学用の立派な施設が作られていた。ツアー参加者は僕のほかに3グループくらいいたが、皆アメリカから来た人たちのようだった。はじめは実際にコーヒーが植わっているところを見て、その後工場の見学をした。バスの運転をした人が、説明から氏引用のコーヒーを入れるところまですべて一人でやっていた。もちろん、英語ができなければこのような商売はできない。説明によると、ここのコーヒーはスターバックスで使われ日本にも輸出されているということだった。工事の音が聞こえてきて、聞くと今ホテルを建造中とのことだった。数年後にはコーヒー関連の観光客が何倍にもなるのではないかと思った。そして最後は試飲。飲んでみて、さっきの店のほうがずっとうまいと感じた。
 帰りのバスは、好きな場所で降ろしてくれるというので、それぞれ行き先を告げた。どこでもよかったのだが、市場というのがいちばん言いやすかったので市場にした。車内で、アメリカのパリパリした感じの奥さまからいろいろ話しかけられたが、何一つうまく答えられなかった。英語が不得意だとわかると、温かく聞いてくれようとする人と、冷たく突き放した感じになる人とがいる。この奥さまは後者だなと感じた。ここでもバスを降りるのは最後になった。ガイドの人から、「どうだった」と聞かれ、「楽しかった」と答えた。実際、説明もなんとなくわかったし、コーヒーのことを学ぶ機会なんてなかなかないから、よかったのではないかと思う。
 市場を見る。建物の中に入ってみると、かなりディープな世界が広がっていた。なんというか、観光客は来ないだろうなという雰囲気。こういうところを歩くと、ぞくぞくしてくる。もう少し気軽に話ができるといいんだけどなあ。アイスクリーム屋があったので、一個買ってみる。なんと1ケツァール。地元民だけのところは安いんだ。
 夕食は“PERSONAJES”というレストランで。店の奥はパティオのようになっていた。外のほうが気持ちがいいと思って、屋根のないところに座ったのだが、他の客は一人も出ていない。その理由はしばらくしてわかった。外だと蚊が出るのだ。虫除けスプレーをつけていたのでたいしたことはなかったが、なるほど人の居ないところというのは理由があるのだ。グアテマラ料理とは無縁のメニューで、洋風のチキンカツ定食みたいなのを食べてQ80。
 水とスポーツ飲料のようなものを買ってホテルに帰った。

■カンクン〜アンティグア(2004,8,3 mardi)
 昨夜は9時30分に消灯したのだが、なかなか眠りに就けず、一晩中寝苦しい感じがした。部屋は涼しくて気持ちよく、疲れていて、寝不足でもあったのだが、それでも寝付けなかったのはなぜだろう。
 朝5時過ぎに起床。6時05分にホテルを出て、バス・ターミナルを目指して歩く。フロントで行きかたを教わったので、今度は大丈夫だ。歩いていると見覚えのある通りに出た。きのう通った道だ。きのう引き返したところから1分も歩くと、そこにバス・ターミナルの大きな建物があった。こんなに近くまで来ていたのだ。切符売り場で空港行きのバスの料金を聞いたら15ペソ。時間を聞くと、「今!」というので、慌ててバスに乗り込んだ。近くの屋台で朝食をとも思ったのだが。即乗車、即発車して、30分ほどで空港に着いた。早々とチェックインを済ませ、しかたなく空港のレストランで朝食。チーズ入りのオムレツを食べて70ペソ。市内と比べると異常な値段。リゾート目的にこの地を訪れる日本人は多いだろうが、セントロのほうに足を伸ばす人がどのくらいいるだろうか。僕にとっては、退屈なホテル・ゾーンよりも生活のにおいのするセントロのほうが何倍もおもしろい。植生がいっしょなのか、ベトナムに行ったときのことを思い出す。かなり似た印象を抱いた。売店で20ペソの高い水を買い、待合室で長いこと待っていた。
 カンクン発が9時25分。メキシコシティー経由でグアテマラシティーまで行く。最初の飛行機で出た機内食はさっきも食べたオムレツ。空から見たメキシコシティーは住宅が密集していて、公園らしき緑がほとんど見えなかった。おもしろい建物がたくさんあるというので、いつかゆっくり回ってみたい。空港に着いて、ちょっと外に出てみようと思ったが時間が足りなかったのでかなわず。空港の建物の中をぐるぐる回る。ごちゃごちゃとして、ちょうど食事時で、フードコートも人でごった返していた。早めに中に入り、コーラを飲みながらベンチで待つ。
 メキシコシティー発13時50分。この機内でも食事が出た。今度はグラタン。食いすぎと思いながら、もちろんすべて平らげる。それよりも、尻をついて座る機会が多く、苦痛がじょじょに増してきたのが気になっていた。上空から見たグアテマラの町は予想以上に近代的で大きかった。大きいはずで、人口は200万人の大都市である。50USドルをケツァール(複数形はケツァーレス:Q)に両替。空港の観光案内のおばさんにあれこれ相談。アンティグアへの交通手段。ホテルの予約。コパンやキリグアの遺跡へのツアー、空港周辺の見所など必要な情報を得る。別のカウンターで、アンティグア行きのバスとホテルの予約をする。バスは80ケツァーレス、ホテルは20USドル。バスの発車まで1時間ほどあるので空港周辺を散歩。近くに博物館があるということだったが、そこまでは行けそうにない。おびただしいトラック、バス。排気ガスのにおい。アメリカのスクールバスのお下がりか、黄色と黒そのままの色のバスも走っているが、さまざまカラフルに色付けしたバスもたくさん走っている。ごみごみとしているが、活気がある。お菓子のようなものを売っている屋台がいくつかあるが、何も買う気にはならない。動物園の入り口がある。虹色の民族衣装をつけた家族連れが普通に歩いていた。売店で大きいプレッツェルと甘いだけのオレンジジュースを買って、バスを待つ。
 バスといってもワゴン車で、いっしょに乗ったのはイギリス人とスイス人の若者と僕の3人だった。イギリス人は僕と同じ年くらいだったと思うが、こちらで買い付けた雑貨や布製品をイギリスで売る会社を作るのだと言っていた。そういう輸入雑貨の店はイギリスにはなくて、そこに目をつけたということだった。グアテマラの奥地やメキシコのコスメルなど、行ったり来たりしているようで、国境越えとか、治安とか、貴重な情報をもらった。ベリーズまでの所要時間、ベリーズシティは危ないから迂回しろ、他の町は大丈夫、など知らなかったことを教えてもらった。スイス人は20歳くらいの青年で、世界旅行をしている途中らしかった。彼はベリーズへの入国を試みたがビザがないのでできなかったと言った。「その場で取れるのでは」と聞いたら、「それは日本人だからだろ。スイス人はそうはいかないんだ」と言われた。そうか、パスポートによってビザの発給のされ方が違うのだ。日本のパスポートほどどこにも行けるパスポートはないし、日本人というだけでビザも簡単に取れるという国が多いのだ。確かに日本人のパスポートは高く売れるというし。これは日本の外交努力の成果なんだろうな。
 いろいろと話ができてよかったのだけれど、やはり英語力の問題で、彼ら二人がしゃべっている間にちょっとだけ割り込むという感じで、それ以上にはなれない。二人は夜にどこかのバーで落ち合おうという約束をしていたが、僕も混ぜてくれとは言えなかった。
 グアテマラ・シティからは約1時間。標高1520mのところにある古都は、町全体がユネスコの世界遺産になっている。アンティグア・グアテマラというのが正式名称。スペイン植民地の首都でもあったところで、16世紀には中米最大の都市だったそうだ。道には石が敷かれており、カトリックの教会の建物やコロニアル様式とよばれる植民地時代の建物がたくさんあって、雰囲気のある町だ。町のいたるところに語学学校があり、スペイン語研修の拠点となっているそうだ。着いた頃はもう夜だったが、町を歩いてみると、たくさんの人がいて活気が感じられた。さすがに、街灯もそれほど明るいわけではなかったが、目抜き通りのレストランやカフェにはきれいな照明が灯り、幻想的だった。マクドナルド、バーガーキングなど、ファーストフード店もさまざまあったが、街の雰囲気を壊さないためにどの店も落ち着いた外観になっていた。鮮やかな衣装を着た少数民族の人々が、歩道にお土産を広げて観光客に声をかけていた。レストランがたくさんあってどこにしようか迷った。ここでいいかと中ガイドブックの巻末にあるスペイン語の用語集を読み上げて、「お勧め料理は何ですか」と聞いて、それを注文した。出てきたのは皿いっぱいの野菜炒め。白いご飯。それになぜか食パン。量が多すぎ。なんだこりゃ。このとき初めて中国料理の店と気がついた。店内をよく見回すと、神棚のようなものがあり、山水画の掛け軸のようなものが掛かっていた。おそるべし華僑勢力。
 やっとのことで完食した。80ケツァーレス。腹いっぱい食ったのに、こんなに安くていいの??ところが、USドルでいえば8ドルというところ。それほど安いわけではない。両替した時点でもう貨幣価値がわからなくなっており、グアテマラにいる間すべての物の価格が異常に安いような錯覚に陥っていたのだ。インターネットの店がいくつもあって安く使えたので、ふらっと寄ってメールを出した。
 ホテルに戻って洗濯。テレビでは大リーグ、ヤンキースの中継がスペイン語の実況で放送されていた。こちらでも野球は人気があるのかなと思った。

■トロント〜カンクン(2004,8,2 lundi)
 〜今は年末。そのまま放り投げていたこの夏の旅を、その時つけたメモを頼りに思い起こし、記録しておこうと思う。

 2時50分起床。バスでヤング通りを南下。エグリントンで降りて、空港行きの深夜バスを待つこと1時間。30分に1本あるはずのバスがいっこうに来ない。夜風が冷たく、半ズボンで来たことを少し後悔した。いいかげん身体が冷えてきたので、結局タクシーをつかまえる。ピアソン空港、第3ターミナルまで45ドル。5時30分の開店を待ってカナダドルを両替。401.97ドルで280USドルになった。C38ゲート。さすがに朝早いので、眠い。しかも、寒い。デイパック一つの気楽な一人旅。ベンチで眠ることができないのはしかたない。
 カナダから初の任国外旅行。赴任してしばらくは許可にならないので、満を持しての旅となる。よくありがちなアメリカ合衆国というのはどうしても避けたかった。自分にしかできない旅でなければいけなかった。この頃は、赴任中はアメリカには行くまいとも考えていた。今となってはどうということのない考えだが、振り返ってみるとそこに行ったのは必然だった。不思議なものだが、旅に出る前はたまたま選んだ土地なのだが、帰ってくるとその旅なしでは語れない人生となる。常に旅のある人生でありたいと願う。
 トロントからメキシコ合衆国・カンクンまでは所要3時間25分。機内ではサンドイッチの朝食が出た。東部標準時より1時間遅れ。カンクンと世界3大リゾート地の一つとして有名だが、そんなことにはまったく興味がなく、トロントから中米への玄関口として最適だと思ったのだ。近いし、安いし、アクセスもよい。地図を広げて思案しているうちに、マヤ文明の遺跡を巡るたびというのを思いついた。かつてスペインが侵略したという歴史。そのため中南米の多くの国では、スペイン語が公用語となっている。そういう先住民のことに思いを馳せたい。それに、10年で30カ国というかねてからの目標があり、できるだけ多くの国を訪れたかった。日程や体力的な限界を考えると1週間程度。それで結果的にカンクンに入り、カンクンから出るという旅程になった。
 第1ターミナルに到着。飛行機を降りてから入国審査までの通路。入国カードにサインするのを忘れていたので記入していると、ペンを貸してくれという声。返してくれるのを待っているうちに、列の一番最後になってしまった。長い列に並び、やっとのことで入国。さっそくグアテマラ行きのチケットのリコンファームをするため、第2ターミナルまで10分くらいのところを歩いて移動。外は曇っていたがさすがに暑い。80USドルをペソに両替。
 乗合タクシーを見つける。90ペソ(USドルだと9ドル)でホテルまで送ってくれるというので即決。マイクロバスに乗り込んだ12、3人の客は、リゾートの中心であるソナ・オテル(ホテル・ゾーン)で次々と降りてしまい、僕が最後になった。道の両側には豪華ホテルが並んでいて、時々のぞく海がエメラルド色をしている。南国の並木がきれいに続いている。途中、巨大なメキシコ国旗が立っていて、玄関口としての国の威信が感じられた。ドライバーのおじさんは、スペイン語はしゃべれるかと聞いてきた。もちろん全然できない。簡単な英語で少し会話をしながらホテルに向かった。
 ホテル・バタブはセントロ(ダウンタウン)にあった。リゾート地の雰囲気とはまったく異なり、ごみごみとして地元の人々のにおいが漂っている。値段が安いからというのもあったけれど、こっちにしてよかった。
 チェックインを済ませ、部屋で1時間ほど横になった。その後、ホテル周辺を散歩。予想以上の暑さ。バンコクを歩いたときと同じようなふらふらした感じ。バスターミナルが近くにあるというのでそこに行ってみることに。路上の人に英語で道を尋ねたら、手を横に振って聞いてくれようともしない。英語はまったく通じないらしい。ちょっと行くと、商店街らしき街並みになってきた。商店街といってもビニールシートを張った、屋台の少し大きなものという感じ。靴やらかばんやらTシャツやらの店が並んでいるところを進む。もともとメキシコへの予備知識をあまりもってはいなかったのだが、どちらかというとリゾートという感覚が強かったのだろう。ところが、実際に見た街は思っていたイメージとの違いが強烈だった。むしろカンボジアやベトナムなどアジアの感じと似ていると思った。なんというか、カメラを向けることができるような雰囲気ではなかった。
 フードコートで昼飯が食えるかと思い、ショッピングセンターに入ってみた。ところが、食事できるような場所を見つけることはできなかった。バス・ターミナルにもたどり着けずに、道を引き返す。ホテルの隣の小さな店で、ポテトチップスと炭酸飲料を買って10数ペソ。屋台で小さなホットドッグが8ペソ。それが昼食。ホットドッグはハムとチーズが入っていてうまかった。暑くて長い間外に出ていられない。部屋に戻り、またしばらく休息。クーラーがついていたのがありがたかった。
 ホテル・ゾーンのほうにも行ってみようと、タクシーを拾う。空車かと思ったら、すでに小さい赤ん坊を連れた女性が乗っている。「ソナ・オテル」と言うと、構わないから乗れという感じでドライバーが手で合図した。タクシーの相乗りもあるのか。車はどこかの住宅街の奥に入って行った。その親子を降ろすと、また住宅街を抜け、幹線道路に出た。巨大な国旗が見えるあたりで適当に降り、70ペソ。
 橋の上から海を眺める。美しい。通りかかった子どもたちに、写真を撮らせてくれと言うが、やっぱり通じないらしく断念。ホテルはすべて海に面しており、ホテルの利用者専用になっているのか、外から浜に出られるところは少なかった。ちょっとだけ海岸の空気を吸って、また道路に戻る。カネをかけたものだけが楽しめるところなのだと思った。道路を歩いてみてわかったが、排気ガスのにおいで気持ちが悪くなるほどだ。バス停ではたくさんの人がバスを待っていた。バスは頻繁に発着するが、混んでいるからなのか、行き先が違うからなのか、乗る人があまりいないのが不思議だった。観光客ではなく、ホテルで働いている地元の人がたくさん利用しているようだった。
 店で買った飲料水が6ペソ。一気に飲み干してしまった。これ以上ここにいてもしかたないので、ホテルに戻ることに。来たバスに適当に乗り込む。初めに6ペソを払うと、運転手からチケットのようなものを渡された。ところが、よく見るとどこかの店の割引券みたいだった。ホテルゾーンを抜け、ダウンタウンに入る。どんどん人が降りていく。ホテルの近くを通ったら降りようと思っていたが、どこがどこなのかわからない。結局終点まで行ってしまった。どこかの住宅街の中にある小さなターミナル。運転手にホテルの名前を言うと、「あのバスに乗りな」と教えてくれた。だが、そう急ぐこともない。タコスの屋台があって、その運転手がうまそうに食べているのを見たら自分も食べたくなって、思わず注文した。店のおじさんが「二個か?」という感じVサインを出した。一個じゃ足りないから、二個頼んだほうがいいよという意味と理解し、Vサインを返した。10ペソ。当然箸もフォークもなく、手でつまんで食べたが、これがなかなかうまかった。親指を出して、うまいよという気持ちを伝える。これが晩飯になった。そばにいた奥さんはクールな感じで、話しかけようと思ったがダメだった。記念に写真を撮らせてもらった。
 気がつくと、周りにはバスが一台もなくなっていた。待ってりゃ来るかと思ったが、来ない。しかたなく、タクシーを拾ってホテルに戻る。「20ペソ」というので20ペソ渡したら、ドライバーがたいそう喜んでいたのでかえって不審だった。洗濯をし、風呂に入り、就寝。
 この旅で一番困ったのが痔の痛みだった。来る前から少し調子は悪かったのだけれど、この時点ではまだ、たいしたことはなかった。それが、日を追うごとに痛みが増し、苦痛と闘いながらの修行の旅という色が濃くなっていった。帰ってからもかなり長い間治療に時間をかけなければならず、たいへんだった。

■8月(2004,8,1 dimanche)
 8月に入ったとたんにからっと快晴。気持ちよい一日になった。午前中から車ででかけて、必要なものを調達した。ある1ドルショップに行ったら驚いた。探していたものがいくつもあった。しかも、みな1ドルだった。当たり前だが、恐ろしいことだと思った。
 明日からしばらく更新を休みます。