2004年2月

■other side of the world(2004.2.29 dimanche)
 トロントの移住者協会主催の日本語新文法講座というのに参加してきた。午前はトロント市内の日本語学校を代表して日本に研修に行ってきた日系人の生徒の報告会が行われた。そして午後には、モントリオール大学で日本語を教えている金谷武洋氏が約3時間半に渡って講義した。氏は「日本語に主語はいらない」という本で注目を集めた学者で、ケベックで日本語を教えてきた経験に基づいて独自の日本語文法論を展開している。この話がたいへんわかりやすく、しかも理にかなっていると思った。今の学校文法がいかに不合理でわかりづらくなっているかということがよくわかる。文法の授業では教科書にいつも違和感を覚えていたのだが、氏の理論によると、英語文法と同じ枠組みで日本語をとらえるためにわかりづらくなっていたのだという。そういう大昔の学校文法がいまだに国語の教科書に載っているという事実。これが実は愚民政策のひとつなのだというのを聞いたことがあるが、それもあながち嘘ではないかもしれない。
 会場の日系文化会館に行ったのは初めてだった。たいへん大きな建物で、中はずいぶんがらんとした印象だった。休憩時間にはぐるっと一回りしてみたのだが、壁にはラストサムライの大きなポスターが張ってあり、映画でトム・クルーズたちが着けたという衣装が展示されていた。ガラス張りの部屋がいくつもあって、日系人たちが武道の稽古をしていた。ひとつの部屋をのぞいてみると剣道の練習だった。次の部屋は畳敷で、柔道。そして、次の部屋は合気道だった。一言で日系人といっても、さまざまだ。すぐ日本人とわかる人もいれば、顔は西洋人とかわらない人もいる。二世、三世、四世と日本語を話せる人は少なくなり、日本人という意識も薄れカナダ人となる。それでも若者たちは自分のルーツである日本文化に触れようとここへやってくる。ロビーでは着物を着た娘たちが、扇を片手に日本舞踊の練習をしていた。師匠らしき年配の女性は英語訛りの日本語を話していた。二階の一部屋では日曜日の礼拝が行われ、また別の部屋では子どもたちが集まって母国語の英語で楽しそうに話をしていた。こんな様子を見ていて、なぜか胸が熱くなった。
 移住者協会は日本政府の助成金を受けているそうだ。その協会の日本語プロジェクトにはトロントのいくつかの日本語学校も所属しているが、日本からの援助は十分ではないらしい。しかも、その額は今後減る見通しだという。会場で会った同僚の先生からこんな話を聞いた。日本政府は国を出て行った移民に対して冷たい。他国と比較するだけの知識はまだないが、日本は国の外にいる日本人に対してはどうもそういう伝統があるような気はする。移民の人々はそのように感じているし、ここに来る前に研修でいっしょだった企業人の方も、そんなことを言っていたのを思い出した。この先生はこんなことも言った。日本からの移民が世界中にいる。その移民たちの多くは日本人であることに誇りをもち、日本のよさを広めようとして努力しているのに、政府がそういう人たちへ手を差し伸べようとしないのは残念なことだと。 
 今76回アカデミー賞の授賞式をテレビで観ているところ。これがいろいろな意味でおもしろい。授賞式が始まる前には赤じゅうたんのところでスターたちへのインタビューがあった。そのインタビュアーは、ビューティフルとか、ゴージャスとかそんな言葉を連発していた。そして、女優たちにはおしゃれのポイントみたいなことを聞いていた。女優たちもそれに答えて、ブランドの名前を言ったりしていたのを聞いた。司会者の男性はコメディアンなのかよくわからないけれど、たいへんな役者だと思った。最初にやったパロディの短いビデオがおもしろかった。ビル・マーリーがロスト・イン・トランスレーションを紹介したとき、日本のことを"other side of the world"と言っていたようだった。世界の別の側ということか。日本人がアメリカをみる気持ちと、アメリカ人が日本をみる気持ちには大きな隔たりがあるようだ。それにしても、アメリカのテレビ番組を観るカナダ人の気持ちというのはどんなものなんだろう。結構複雑な気持ちではないだろうか。

■土曜日の…(2004.2.28 samedi)
 ストリートカーが停留所でも信号でもないところで停まった。運転手が降りて向かった先はコーヒー屋だった。3分後、運転手が紙コップのコーヒーをすすりながら車両に戻り、ふたたび何事もなかったように電車は動き出した。こんなことがたまにある。乗客は少し気にしながらも怒ったりする者はいない。この国では普通のことなのだ。トロントのような大都市で、こんなことがまかりとおるというのは、奇跡といっていいかもしれない。そのため僕は今朝、いつもより3分遅れて職場に着いた。
 階段を昇りながら考えた。間違い、失敗、過ち、嘘、偽り、誤魔化し…。これらって、本物とか真理とか真実などと反対のものとされるけれど、それらは本物や真理や真実の中に含まれるものなのではないかと思った。そういったものをすべて内包しているからこそ真理は気高いものなのだろうと。相対することではなく、すべてが真実に含まれている。間違ってるか合ってるかを区別するだけは危険。以前正しかったことが間違いになることもあるし、にせものがほんものに変わることもある。嘘も偽りも、本当のことの中に入るものなのだ。
 夜には送別会があった。いろいろな話ができて、よい機会になった。みんなのさまざまな面を知ることができた。一人の人間をできるだけ多面的にとらえることができたらいいと思った。一面をみてそれだけを論じたり、一度の失敗をとりあげてそれを責めたりということは、まったく不要とはいわないまでも、あまり重要ではないと感じる。ものごとの根っこの部分、その人を支える柱の部分は何なのかをみていきたいと思う。
 
■金曜日のかんそう(2004.2.27 vendredi)
 きょうは一日中快晴で、しかも気温が高くなった。5度くらいになったのではないか。光の具合はもう春だ。でも、朝のストリートカーでいっしょだったジュニアの先生は、もう一回くらい寒くなるだろうと言っていた。それはそうだろうと思った。なぜなら、赴任した去年の4月初めには、マイナス5度を下回る気温で、雪もまだ降っていたから。
 シニアの先生から手紙が届いたので、それを翻訳しなければならなかった。午前中に通信類を仕上げていてよかった。余計な仕事が飛び込んできたように思ったが、これもひとつの仕事。むしろ、余計な仕事だと思えることに限って実はとても大事だったりするから、何でもおろそかにすることは禁物だ。詳しい話をきこうと思い教室に行ったが、その先生はきょうは休みだったので、廊下で作業していたほかの先生やケアテイカーと少し会話をした。結局きょうのものにはならなかったが、会話できたことは大きな成果だった。なんとなく英語の仕事の割合がにわかに大きくなってきているような気がする。といっても一割にも満たないほどだが、考えてみれば今まで校長にすっかり任せっきりだったことがこちらに委譲されてきているわけで当然といえば当然だ。でも、一人で外国人と対話しているときの気持ちは、ヨットで海にぽつんと浮かんでいるような感じだ。これが慣れてくると、少しは楽しくなってくるだろうか。
 それにしても、年度末の仕事がぜんぶ後回しになってしまっていて、かなり不安になってきた。もう2月も終わり。ほんとに出来るのだろうか、って、誰でもない自分がやらなければ進まないのである。かーっ。頭に血がのぼる。
 元日あたりにamazon.co.jpに注文したものがやっと届いた。まるで宝箱を開けるような気持ちだった。今回は音楽や映画のソフトを大量に購入した。2か月も間があくと頼んだことを忘れてしまっていたものもあった。ところで、アマゾンでは注文するときすでに配送料が含まれているのだが、それは日本からカナダへの船賃だけで、カナダ国内の配送は別途かかるのだということは知らなかった。そのことはDHLという運送会社から請求の電話がきて初めてわかった。確かに以前の荷物の明細が送られていたのは知っていたが、それが請求書だとは思わなかった。配送料を入れると商品の価格の三割増しくらいになった。どうしたって日本のものを買うときには割高になるのはしかたないけれど、そうそうアマゾンも使えないかなと思った。しばらくは今回のものを鑑賞していくことになるだろう。

■とりとめなく(2004.2.26 jeudi)
 きのう何を書きたかったのか、思い出せなかった。きょうになるとまた、きのうとは別のことを考える。ずっと意識の下にあることが、何かの刺激でぽこっと顔を出すのかもしれぬ。夢を見ると頭が整理されるから、また次の日には新しい自分になってスタートできるような気分になる。睡眠というのは実にありがたいものだ。眠りによって脳が最適化されるのがはっきりとわかる。
 書くということも、夢を見ることに似ている。自分の頭が整理できて、また次に向かうことができる。停滞にみえて、生きることそのものだったりする。いろいろな意味づけができて、そのどれもが真実である。
 今夜は裁判のニュースでずっと同時中継が続いている。記憶が薄れていくというのは悲しみでもあり、救いでもある。とはいえ、忘れたくても、忘れられないことがある。忘れてはいけないことがある。
 午前中の会議がのびて、昼に食い込んだ。そして午後には小学校の行事を参観した。意外と現地校の授業や行事をみることは少ないので貴重な機会だった。きょうのは、インターナショナル・ランゲージ・プログラムの時間に各教室で練習した歌や踊りの発表会だった。中国のドラゴンダンス、カリブのスティール・パン、インドをイメージした踊り、ラップ、合唱など、さまざまなパフォーマンスを見せてもらった。どこも一生懸命やって、みな満足感をもったようだった。さまざまな民族・文化が同居しているカナダだから、互いの存在そのものを認め合うプログラムを積極的に行う必要があるのだろう。子どもたちをみると、外見上もほんとうにさまざま。どの人種が多いかということも判断つかないほどなのだ。 
 小学生なので騒がしくなることもある。そうすると、先生たちは「シー、シー」と言ったり、そのうるさいところに歩いていって声をかけたりする。こういう注意は日本とあまり変わらないと思う。だが、子どもを叱ることとなるとこちらではもっぱら校長先生の役目のようだ。校長室前に子どもたちが列を作っていることがあるが、それは校長の指導の順番を待っているのだ。きょうも校長先生が体育館のステージの前に出て、注意することが何度かあった。日本では、もし校長先生が前に出て注意するなんてことがあったら、指導体制がなっていないかなりひどい学校ということになるが、こちらの常識では普通のスタイルなのだ。
 こういうものを見ていると、違和感もあり学べそうなところもありで、一言で言い表すことができない。だが、ひとつ言えることがある。いくら見ても見えないものがあるということである。いつでも、どこでも、見えないものを見る努力は怠ることはできないと思う。

■寝る(2004.2.25 mercredi)
 椅子に座ってしばらくすると、眠りに落ちてしまい、首がかっくんかっくんなってしまうのだった。
 もうこうなると終わりだ。もっといろいろ書きたいこともあったのだが思い出せない。
 とうわけで、きょうはもう寝る。

■エビフライ級の元気(2004.2.24 mardi)
 このごろ仕事で英語を使う場面が出てきて、きょうは現地校の先生と話をした。ところが、会いに行ったはいいが、何の単語も浮かんでこずしどろもどろ。相手の先生がこちらの意を汲んでくれるすばらしい方だったのでなんとか意思疎通はできたが、今後が不安になってきた。
 英語の電話がかかってきたり、荷物の配達が来たりすると、かーっとなってうまく話せなくなってしまう。数日前の電話では、先方がどこからなのかさえ聞けずに周りに迷惑をかけてしまった。これをプラス指向でとらえることが大事なのだけど。
 ラストサムライの特集の番組で渡辺謙や真田広之が英語でのインタビューに普通に英語で答えていたのを見て驚いた。やっぱりあの人たちほどになると違うのだと思った。
 はあ。きょうはサクラジャパンのエビフライ定食(味噌汁付き)を買って家で食べた。そしたら、ちょっとは元気が出たような気がした。チャイニーズだと思っていた店のおじさんは、コリアンだった。ハングルの新聞を読んでいたのでわかった。
 世界が広いというのもあるが、それより自分がまだまだ狭いのだ。世界が10の23乗の広さだとすると、自分の世界は10のマイナス23乗くらいというところだろうか。

■静電気にんげん(2004.2.23 lundi)
 休日には集中力が低下して何も頭に入らなくなる。どうにもこうにも英語だというのはやっぱりなかなかたいへんだ。
 テレビの裏側の配線が間違っていたのを直した。三つあるリモコンをひとつにまとめようと思って説明書どおりにやってみたが、どうしてもうまくいかなかった。辞書片手で説明書と格闘。まだまだそんなレベル。
 それにしてもこの静電気の激しさときたら。乾燥している上に、床はカーペット、しかも化繊のジャージを着ているので、金属だけでなく壁に触るだけで火花が散るほどだ。パソコンを触るときも指先がばちっと、椅子に座るときも尻にばちっと痛みが走る。ニューヨークでは電気の流れたマンホールの上を歩いた人が感電死したらしい。この部屋もどこか漏電しているんじゃないだろうな。
 
■Sunday Afternoon Yonge St.(2004.2.22 dimanche)
 前を歩いていた若者のポケットから帽子が落ちたので拾ってあげた。そしたら、その若者は礼もそこそこに「25セントくれないか」と言ってきた。「電話したいんだ。20セントはあるから、5セントでもいい」と言われて、それならと5セント出した。なんだかよくわからない。彼ははじめから電話をかけたかったのだろうか。コインをくれというタイミングをみていたのだろうか。
 「リターナー」を観たらおもしろかった。HMVでDVDを37ドル出して買ったのだが、リージョンコードは1。チャイナタウンでは同じものが5ドルから7ドルほど(たいてい3枚で15ドルとか20ドル)で買えるが、店によってパッケージが違っていて限りなく怪しい。おまけに、リージョンフリーだったりするからますます怪しい。金の流れを想像してもどこに行くのかよくわからないけれど、ようするに金が行くべきところに行かずに別のところに流れるのが海賊版ということになるのだろう。一生懸命つくった人たちへ利益が渡らないとしたら、その罪は重い。正規版を正規の価格で買うのもこれだけ差があると馬鹿らしい気がする。たいていの場合は買わずにすませるところではあるが、今回は主演が金城武なので惜しくはなかった。
 彼の出演した「恋する惑星(重慶森林)」から香港映画にはまり、立て続けにビデオを借りて観ていた時期がある。その後初めて海外に出たのが香港だった。以前英会話の先生に、映画俳優で誰が好きかときかれて、金城武とまじめに答えたらえらく笑われたことを思い出す。別におかしいとは思わなかったんだけど、違う疑いをもたれたようでちょっと嫌だった。そんなことがあったのが、だいたい4、5年前の話。
 神谷美恵子の「こころの旅」を読み終えた。精神科医の立場で、ヒトの発達段階を順を追って叙述しているのだが、そこには人間への温かい眼差しがあり、宗教心がある。生から死までをまっすぐに見つめると、そこには超越者の愛が見えてくるのだろう。いやおうなしに繰り返される苦しみが実は人間を成長させている元になっているのではないかと思った。いろいろな人生の課題をずっと先送りにしてきたのかもしれない。これからひとつひとつクリアにできるだろうか。時間はあまり残されてはいないと自分なりに感じる。老いて死ぬまでまっとうできればすばらしいけれど、かならず道を阻むものがある。病もそのひとつ。これから僕はどんな病気になるのだろう。どうしたってそれは青天の霹靂に違いない。そんな不条理さえもすべて受け入れながら、いつになっても切り開く気持ちをもっていければと願う。
 
■何じゃそりゃ(2004.2.21 samedi)
 それはインディペンデンス・デイの映画だった。自分が映画の中にいるのか、画面を見ているのか、わからなかった。家の窓の外にはとんでもなくでかいUFOが見えていた。でもよく見るとそれは手描きだというのがはっきりわかる粗い絵だった。こんなヘンな映画だったかなと不思議になってきた。するといきなり画面がアニメになって、3頭身くらいの間抜けなブッシュ大統領が出てきて敬礼した。この戦いに勝つか負けるか、バーの客たちが賭けをしている。コインに見えたものは、キャンディだった。「この国のやつらは賭け事が好きなのさ」という声がどこからか聞こえてきた。という夢を見た。何じゃそりゃ、という感想。
 朝7時の駐車場では、あと12時間経てば休みだと自分に言い聞かせていた。一生懸命働いた。きょうも何じゃそりゃだらけだった。
 夜にはホリー・コールという人のコンサートに行ってきた。CDも持っていて、なんかよかったなという記憶があったので、チケットを取っていたのだ。そしたら彼女はカナダ出身で、カナダのほかに日本での人気がある人なのだということがわかった。このコンサートは、SARSの時に有名になってしまったノース・ヨーク・ゼネラル・ホスピタルのキャンペーンの一環として行われたもので、司会者や病院関係者が出てきていろいろ話をした。前座として、病院のドクターがギターの弾き語りで3曲歌った。プロかと思うほどの演奏で驚いた。すごい人も中にはいるのだ。
 ホリー・コールの歌と、ドラム、ピアノ、ウッドベースという構成で、ジャズなのかカントリーなのかよくわからないけれど、心にしみる演奏だった。病院のリンクから、ホリー・コールの歌声までたどることができます。
 ところで、コンサートだけでなくどのステージでもそうだが、インターミッションでは皆、ホールのロビーに出てそこのバーでお酒やらコーヒーやらを飲みながら、立ち話をする。それが彼らのコンサートに行ったときの楽しみの一つらしい。会場の人たちがほとんど同じ行動をとろうとするので、ロビーは満杯になる。そしてバーには長蛇の列ができ、列の後ろの人がやっと買い終わったころには15分のインターミッションも終わりということになる。並んでまでそんなもん飲みたくないと思うのだが、これもこちらの文化なのだろう。もしかして、日本でもそう?だいたい僕は日本でそういう文化的なことに触れる機会があまりなかったので、実は比較ができないのだ。
 インターミッションが終わると、病院のキャンペーンを記念してのモニュメントの除幕式のようなものがあった。ベールをとってそこに現れたのは、足の形を象ったモニュメントだった。自分の感覚だと、何じゃこりゃと吹き出してしまいそうな作品だったが、なんとなく周りの人たちの拍手もちょっと気後れしていたようだった。きょうはインターミッションのときに抽選券が発売されて、コンサートが終わったあとに司会者が出てきてその抽選会をした。買った人の中から、千何百ドルが当たるというものらしかった。もちろん当選者は1名。カードの入ったドラムを回して中から一枚引き、番号を読み上げると下の客席から歓声が上がった。それと同時に皆次々と帰り始めた。何じゃそりゃ、もう終わりかよ。という感じだった。券を買わなくてよかったや。

■金曜だにゃ(2004.2.20 vendredi)
 がーっと、寝て、目が覚めた。今12時過ぎ。お、まだあと5時間くらいある。と、ほっとした。
 きのうとは変わって大荒れの天気だったが、それでも気温はずっと高かった。
 初任のときの管理職2人が、職員の前で何回かひどい喧嘩をしたことがあって、それがとても醜く感じられた。あれがあったから、おかげでああいうあり方だけは避けなければならないということは心にしかと刻まれていたようだ。
 人間、何が役に立つかわからねえ。

■春だにゃ(2004.2.19 jeudi)
 こんなに眠いのはあれだ。きょう一日暖かくて、春みたいだったからだ。なんだか欠伸ばかり出るや。
 それにしても、現実は厳しい。
 と、ここまで書いて眠ってしまったにゃ。また朝がくる。
 さあ。豆乳飲んで、いってみっか。

■一日(2004.2.18 mercredi)
 今朝は始業時間になったとたんに腹痛が襲ってきた。たいしたほどではなかったが、それを発端にぱっとしない一日となった。コーヒーを飲みすぎたのもあるかもしれないし、腹にくる風邪を引いている人も周りには多いので、そういう菌が入ったのかもしれない。仕事はもくもくとやってけっこうはかどったのだが、昼休みにはいつにも増してしゃべりすぎた感。
 しゃべりすぎていいことはない。冷静になってみると明らかだが、自分を出したくて出したくて仕方ないというところがある。そのため人が話をしてもそれについてさらに尋ねることもなく、自分の話題にもっていこうとする。周囲の人々はしゃべりたい気持ちが妨げられるので、だんだん不快になってしまう。だいたいそんなふうだから、あまりしゃべらないようにはしているのだが、きょうはよくなかった。
 夜には中華丼みたいなご飯を食べた。うまいうまいと思って食べていたら、一瞬腐ったようなヤバいにおいがした。我慢して飲み込んだらそのあと何でもなかったが、新鮮でなかったのかなと思った。帰宅したのが10時すぎだった。今なぜか体中が痒い。体調があまりよくないところに変なものを食べたせいだろうか。安さにも、それなりにリスクがともなうのだと知る。

■荒れ(2004.2.17 mardi)
 格好つけているようにみえて実は青年期の課題に躓いているだけ。そんなこと、百も承知だ。
 ノンシムのえびせんがやめられない、とまらない。

■電気スタンドと海賊版と(2004.2.16 lundi)
 ふらっと入った家具屋のIKEAで、電気スタンドを買った。CDラックのいいのがあったら買おうかと思ったのだが、ふと目に留まったスタンドの16ドルという安さに、衝動買いしたのである。イケアについては前にも書いたことがあるが、見ていてなかなか楽しいつくりになっている。無印良品とかが好きな人はきっと気に入るだろう。日本にも来年お目見えするそうだ。
 電気スタンドをつけたら、部屋全体がものすごく明るくなって驚いた。こちらの家の中は夜、ものすごく暗い。それは、備え付けのライトが一個しかなく、あとは住んでいる人が後からつけることになっているので、そのままでは暗いのだ。付け足すこともせずに使ううち、暗い部屋に慣れてしまっていた。ところが、スタンドをつけてみて、今までの暗さはなんだったのかと可笑しくなった。部屋が明るいというのはいいことだ。電気代はかかるかもしれないが、白熱灯は熱が出るからそのぶん暖房費の節約にもなるのではないだろうか。
 きのうの「GO」がよかったので、また窪塚洋介の映画が観たくなった。そこで、きょうはパシフィックモールのビデオ屋に行ってきた。5、6軒のビデオ屋一軒一軒入っては探した。海賊版は買わないようにと思ってよく見たのだが、ジャケットの写真がどれもカラーコピーみたいで、疑いだすとすべてが海賊版に見えてきて困った。その中で、一店だけこれは大丈夫じゃないかと思われる店があった。包装がしっかりしているし、値段も破格というほどには安くなっていない。そこで「ピンポン」のVCDを買った。ひじょうに面白かった。
 ところで、海賊版を作るものの背後には、マフィアとか暴力団とかがあるのだろうか。だとしたら、チャイナタウンあるいはこの街全体で、マフィアの息のかかっているところはどれくらいあるのだろう。先日きいた話だが、こちらでは商売で大儲けしたりすると「消される」という例がけっこうあるのだという。その話にもどきっとするが、それがこちらの人々には周知の事実となっているということにもっとどきっとした。海賊版がマフィアの資金源になっているとすれば、その金の流れを絶ってしまいたいと多くの人は考えるだろう。だけど、ビデオに限らず何が正規の商品で何が海賊版なのかはなかなかに判別が難しいのではないかと思った。マフィアというと、外国の怖い集団というイメージだが、日本の暴力団もマフィアのひとつということになるのだろうか。裏の世界云々というけれども、意外と裏と表の境界なんてはっきりしていなくて、普通の人々も何気なく日常的に出入りしているのかもしれない。怖い話ではあるけれど。

■海賊版(2004.2.15 dimanche)
 完全なる快晴。そのため日中もマイナス10度を上回ることはなかった。空気は冷たいのに、風がないときは太陽の光で肌が焼けるように熱かった。とても不思議で宇宙的な感じ。きっと紫外線もいっぱい降り注いでいたはずだ。
 午後になり、招待券をもらっていた日本舞踊の発表会に行こうと車を出したのだが、場所が見つからず結局帰ってきてしまった。せっかく招待してもらっていたのに申し訳なかった。
 帰宅後の時間は、先日買っておいたDVDを観た。「GO」。久しぶりに日本映画。面白かっただけでなく、かなりいい映画だと思った。何で今まで観なかったかというくらいだった。ところでこのDVD、チャイナタウンで手に入れた。3枚で20ドルという破格の値段で買ったものの中の1枚だ。観てみると映像、音声ともにたいへんきれいだったが、あの安さからすると海賊版かもしれないと後になって考えた。
 チャイナタウンの店には香港、中国、台湾のほかに、韓国、ベトナム、そして、日本の映画のDVDがけっこうある。これからも利用したい気持ちはあるのだが、もし売られているのが正規の製品ではなく海賊版だったとしたら、やはり買うべきではないか。通販で日本から取り寄せることも可能だが、種類は限られるし、注文してから到着まで1か月も待たねばならない。それを考えると、目をつぶりたくもなってしまうが…。

■人間関係・仲間関係(2004.2.14 samedi)
 朝、伝達事項を工夫したつもりが伝わらずに、すぐさま全員から「意味がわからない」と突っ込まれた。早い話が授業中ドアに鍵をかけるなということだったのだが、それとなくほのめかすつもりが回りくどい表現になってしまったのだ。
 きょうはその後子どもたちといくつかのコミュニケーションを図ることができたのだが、その際も自分の言葉が伝わらないという場面があった。自分の表現力のなさを棚に上げていうなら、ここでは「それとなくほのめかす」言い方が通用しにくいのだと感じる。結論をぼかす言い方というのが通じない。日本でなら、結論を言わずとも相手がわかってくれるということが少なからずあったのだが、それでは通らないのである。こちらの社会での生活が言葉に反映しているのだと思われる。もしかすると、自分の東北人、岩手人としての曖昧さがそれに輪をかけてコミュニケーションを困難にしているところがあったかもしれない。
 だが、きょうは皆の反応が実にストレートだったので、かえってすっきりした気分になった。こちらも開き直って話しかけようという気持ちが起こった。ただの一方通行ではないという手ごたえがうれしかった。
 子どもたちどうしでもそうだが、3学期になり、年度末が近づくにつれて互いの人間関係が深まっていくため、いろんなことを言い合えるようになってくる。実はもう卒業や進級が目前に迫っているのだが、学級などの仲間関係がかけがえのないものだという感じを強くするのがこの時期だと思う。
 職場の人間関係にも少なからずそんなことを感じて喜んでいたのだが、放課後にはまた問題が浮き上がってきたので気が滅入った。 
 そうやって浮き沈みの激しい土曜日が終わった。
 これからまた気温が下がっていくようだ。あすはマイナス18度、あさってはマイナス26度の予報。まだまだ春は遠い。

■バレンタインデイについて(2004.2.13 vendredi)
 このごろ少し春の気配を感じるようになってきた。気温がわりと高めの日が続いているせいもあるだろうが、それよりも光の具合がどうも春に近づいてきているような気がする。日の出が少しずつ早くなり、日の入りが少しずつ遅くなり。きょうは夕方6時を過ぎてもうっすら明るさが残っていて、いつの間にこんなに日が長くなったんだろうと思った。春というと、思い出すのは卒業式とかあのあたりの雰囲気で、やっぱりここでも卒業式のことを思い出した。だけど、カナダの卒業式は6月だから、こちらの人がそれを思い出すということはありえない。自分が感じる春の気配とは、気象と過去の記憶が結びついたものなのだということを改めて感じた。では、カナダの人は春と何の記憶が結びついているのだろうかという疑問が浮かんだが、答えは思いつかなかった。職場で「なんか春っぽくなってきましたよね」と言ったらスタッフが皆同意した。季節を感じる感性は皆同じようなものなのかと思った。
 明日は聖バレンタインデイ。こちらでは、女性からとかいうことはなく、男女どちらからでも大切な人に何かプレゼントをするという日になっているそうだ。プレゼントはチョコレートと決まっているわけでもまったくない。新聞の広告などでバレンタインを当て込んだ宣伝文句は目にするけれど、日本ほどレンアイと結びついている感じがしなくてよい。たとえば、この時期スーパーのチョコレート売り場に立ち入れないような、そんな空気がないのは実にいい。老若男女関係なく、贈りたいと思ったら贈ればいいし、贈りたくなかったら贈らなくていっこうにかまわない。
 昨日の牛丼の話では、読んだ方の多くが反感を抱いたかもしれないと、昨夜は眠れぬほどだった(うそ)。だけど、みんなが一斉に同じところに向かないという居心地のよさは確かにある。あ、だからといって日本を拒否するつもりはさらさらないことは断っておく。念のため。
 贈り物をもらった経験に乏しいからかもしれないが、物なんか贈らなくても心が伝わればいいじゃないかという考えをずっともっていた。むしろ、物という物をすべて排除しようとさえしていたところがある。だが、それは野暮というもので、物によって心が伝わる、心を伝えるというのは大事なことだろうと思う。プレゼントの品物には贈る人の心がこもるから価値があるのであって、すべての物はその可能性を秘めている。結局のところ、贈り手の気持ちがどれだけ強く確かなものであるかが、こういう日に試される、ということになるだろう。
 
■牛丼以外(2004.2.12 jeudi)
 牛丼が食べられなくなって、日本中大騒ぎしているようだ。店には長蛇の列ができたらしい。牛丼屋さんには悪いけれど、なんともおかしな現象だな。僕も牛丼はときどき食べたけれども、並んでまで食べようと思ったことはないな。食べられないのが残念とは思うが、それ以上の思い入れはもっていない。牛丼が食べられなかったら何を食べればいいのか。慌てることはない。牛丼以外のものを食べればいいのである。日本ならそれで何も困らない。
 もっといろいろおいしいものがあるのに、なくなると聞くととたんに列を作って同じものを食べたくなるのは日本人の特色か。それだけ食のバリエーションが少ないということか。アメリカからの牛肉が入らなくなっただけで、こんなに混乱してどうするのか。それって食料の供給路がすごく脆弱だということではないか。食文化の貧困さを示しているとはいえないだろうか。あるいはこれは、祭りみたいなものか。みんなで騒ぐのが好きなだけなのか。
 ほんとうはもっといろいろあっていい。どんなどんぶりがあったっていい。1億2千通りのどんぶりがある国だったらすばらしい。ひとり一どんぶり。それだけの個性を、僕らは表現してもいいんじゃないか。これを機会に日本の食糧の流通について、見直してみるのもいいのではないだろうか。
 昨夜僕はチャイナタウンのフードコートで、日本的に名づけるとすれば「鶏タマネギ丼」とでもよべるようなご飯を食べた。鶏肉もタマネギもたっぷり白いご飯にのっかっていた。値段は5ドルしなかったから、400円を切るくらいだ。店を選べば、3ドルで腹いっぱい食べられるところもけっこうある。驚くのは、そのメニューの豊富なことだ。100種類以上のメニューを出す店がいくらでもある。一回にひとつずつ違うものを食べたとしても、トロントを去るときまでにすべてのメニューを制覇することなど不可能だ。種類は多いし、出来上がるのも早いし、値段も安い。中国の食文化が豊かだというのは、ただ単においしいものがあるというだけではない。昨日の野菜の話にも通じるが、食料の生産から供給までの仕組み全体において、学べる点が多いのではないかと思う。

■気がつくということ(2004.2.11 mercredi)
 ミスタースポックの髪型になった。これで人様の前で1時間くらいしゃべった。
 仕事でこれだけしゃべったのは久しぶりだ。さらにその後もしゃべりたくない話をしなくてはならなかった。だが、嫌だと思っていても、取りかかってしまえばたいして苦でもないということもある。たしかに、きょうはしゃべって少しすっきりした。
 だいたい水曜日の夜はダウンタウンに出て飯を食う。そして周辺を少し散歩する。チャイナタウンではレタスが3個1ドルで売られていた。普段近くのスーパーじゃ1ドル68セントだから、異常な安さだ。3個買ってもしかたないので、1個を40セントで買った。物の値段の決まり方は中学校のときに勉強したが、この値段のひらきはいったいどういうことだろう。市場までも人種や民族によってうまく住み分けられているということだろうか。
 話は変わるが、日本では歩きながら飲み食いするのはいけないこととされている(た?)。街を歩いているとわかるが、こちらの人たちはコーヒーの紙コップを持ち歩いていろいろなところで飲んでいるし、リンゴなんかかじったり、ポテトチップスの袋を持って食べながら歩いていたりする人もよく見かける。西洋の人々にとってみれば、普通のことなのだろう。郷に入れば郷に従えという。こちらではそうなんだと素直に受け入れている。自分がやろうとは少しも思わないけれど。気になるのは、紙コップやら包み紙やらのゴミをそのまま置いて行ってしまうこと。電車の座席の上にゴミを置いていく人もときどきいるのだが、そのゴミがどうも気になってしまって仕方なく自分が片付けるはめになる。
 気になるといえば、こんなこともある。たとえば、電車の中で肩から提げたカバンが人に当たっているのにぜんぜん気がつかないとか、エスカレータをふさいで後ろから来た人が通れないのに気づかないとか。「気にしない」なのか「気がつかない」なのかわからないけれど、感性の違いを感じてしまう。こんなときは、気がついたこちらが"Excuse me!"と言うべきなのだろうか。「なんで気がつかないかなあ」と思うことがしょっちゅうあるのだ。
 そういう人たちと比べると、おしなべて日本人はよく「気がつく」人々だと思う。もしかするとアジア人に共通する感性なのかもしれない。「気がつく」こと自体はすばらしいことではないかと思う。
 西洋人の中にも、日本人のような感性をもっている人もいる。わきまえているというか、たしなみがあるというか、心がけている人もいる。そういう方と接すると、立派だなと思う。話を聞いてみると日本好き、アジア好きの方だったりするのだ。国際社会で日本人が尊敬される点があるとすれば、こんなところも間違いなく入るだろう。日本では生活の西洋化とともに感性も西洋化が進んでいるようだが、今までの感性まで失ってしまうとしたら残念なことだ。
 ただ、日本人の場合は、気がつき過ぎるということも言えるかもしれない。他人の目を適度に気にするのはいいことだと思うが、それを気にし過ぎると何事もやりにくくなって、ストレスにつながる。その点で追い詰められているとはいえないだろうか。気がつかないのも困るし、気にし過ぎるのも困る。バランスよく、気がつければいちばんいいと思うのだが、なかなかたいへんだ。
 
■記念日(2004.2.10 mardi)
 あす、といっても日本時間ではもうきょうだ。このウェブサイトを開設してから丸4年になる。日本ではそのために、ではないが祝日である。わかりやすくてよい。たった4年しか、経っていないのである。あっという間、ではなかった。いろいろなことがあった。長かった。
 日記のようなものを書くようになってから、毎日が10倍の濃さになった。それを公開するようになってから、夢の形が見えてきた。いいことばかりではなかったが、これのおかげでつぶれずにすんだ。うまく利用してきた。もしこれがなかったら、海外で生活することなど考えもしなかったかもしれない。
 インターネットには、何かを切り開いていく力があると思う。それを利用しない手はないと思うのだ。掃き溜めみたいな言葉の羅列に、読み手が不快に思うときもあるかもしれない。意味不明な文に首をかしげる見ず知らずのあなたの貴重な時間を奪っているかもしれない。あなたには申し訳ないけれど、それでも続けていこうと思っている。
 ほんとにつまらなければ見る人はいなくなるだろう。無駄だと思えば皆離れていくだろう。それならそれで自分の力不足と思えばいい。そういう気持ちで続けていきたい。その先に何があるのかわからないけれど、今のところ、そんなことくらいしか思いつかない。あせらずに、思ったとおりのことをやっていこうと思う。

■月曜日(2004.2.9 lundi)
 チャイニーズのモールのビデオ屋で、ガッチャマンのDVDを発見した。手にとってよく見たら、「ガッチャマソ」だった。明らかに海賊版とわかるものが大量に出回っているみたいだ。昼には、魚のフライがご飯の上に乗っかったものを食べた。店のおばちゃんはカナダで取れたサーモンだ、グー!と言っていたが、それは鮭ではなく何か白身の魚だった。でも味はうまかった。骨まで食えるほどにやわらかくなっていた。

The Butterfly Effect(2004.2.8 dimanche)
 どっか漏電しているんじゃないかと思えるほどの激しい静電気。何かに触れては火花を散らすのは、このごろの酷く乾いて刺々しい気持ちに似ている。何か忘れているのだきっと。周りには見えていることなのに、それが自分にだけ見えない状態。そんなとき過去を遡ろうと思っても、記憶は戻ってはこないのだろうか。前を見ていなければ、思い出せないこともある。過去も未来も、後ろにはないのだ。いいかげん、前を見よう。
 きょうの映画は、心が病んだような話だった。途中から物語がわからなくなってしまったのだけど、見終わったときには言葉にならないもやもやが残った。それは思ったより悪いものではなかった。
 アメリカのテレビではグラミー賞が放送されている。プレゼンターが出て、受賞者がスピーチしてという見慣れた光景。カナダにも同じようなものがあって、そのコマーシャルが流れていた。アカデミー賞ももうすぐか。賞は賞でおもしろいのだろうが、賞なんかには無縁の作品の中にもおもしろいものはたくさんある。華やかなショーの世界は眉に唾して見てないと、ちょっと危ない。

■土曜日(2004.2.7 samedi)
 よくわからないことだらけ。いくら話の中身がご立派でも、人の話を聞く耳を持っていなければ何にもならない。人の上に立つものが、人の話を聞けなくてどうするか。口をつくのは不満ばかりというような人間にはなりたくない。気をつけよう。
 
■金曜日(2004.2.6 vendredi)
 今朝のラジオのニュース。「グッドニュースです。きょうは金曜日です。」「ヤッホー!」
 なんたって、あすあさってはお休みなのだ。朝からもうラジオさえウキウキ気分である。そんな社会というのも、いいと思う。金曜の夜の街は、休みの前の浮かれた雰囲気に満ち溢れている。そんな気分を共有できないのがちょっと残念だが、その分月曜日が休めるのはありがたい。
 日本の教師は休日でさえ休めないのが当たり前だという状況を、教師でない人たちはどのようにとらえているのだろう。僕も今まで土日にはほとんど部活で、朝から出ずっぱりだった。好きでやっている先生の中には、週末が楽しくて仕方がないという人もいるだろうけれど、僕はどちらかというとふうふう言いながら、子どものためだからと自分を騙し騙しやってきたところがある。といっても、嫌々やっていたわけではけしてなく、子どもと関わるチャンスと思って一生懸命やった。そして、子どもたちが伸びるのを見るのが嬉しくてやってきたというのもまた事実なのである。日本の多くの教師たちが、子どものためになると思えば、休みだろうとかまわずに子どもに関わっているのではないだろうか。それはまともな教師として当然のことだ。
 だけど、いま日本を離れたところから眺めてみて、日本の教師たちが置かれた状況の異常さについて考えさせられてしまう。わいせつ事件などを起こす教師が増えている。それに、精神疾患で休職する教師も増えている。これらの現象が起きるのは実は当たり前ではないだろうか。ある新聞の社説に、教師たちを許すなという論調でまた書かれていたのを読んだ。たしかに犯罪者は許せない。だが、マスコミの報道も、サイトにみられる個人の意見も、教師や学校だけを攻撃の対象として扱い、根っこの問題に触れないようにしているものが目につく。
 子どもが襲われる事件が相次いでいる。学校の敷地内で事件が起これば、必ず学校の不手際が指摘される。虐待が起これば、どうして早く学校が発見できなかったのかと言われる。先生は何をしていたのかと。たしかに、問題がないわけではないだろう。もっとどうにかなったこともあるかもしれない。しかし、問題の根本はそこなのか。子どもを襲う人間は、この社会にすむ人間ではないのか。どうして、子どもを守ろうとせず、子どもを攻撃するような人間が出てくるのか。それは学校だけの責任か。教師だけの責任か。
 次の世代を育てていくのは、その社会全体の責任だと思うのだが、その自覚のない人間が日本には特に多いのではないだろうか。親は親の立場で子どもを育て、学校の教師は教師の立場で育てていく。だが、それだけで人間がちゃんと育つかと思ったら大間違いだ。親でもなく、教師でもない人間が、どれだけ子育てを意識できるかが重要ではないかと思う。そんな認識もなく、無責任な反対ばかりしている人間に対しては腹が立ってしかたがない。
 カナダにいるうちに、覚悟をしなければいけないだろう。それは、今後も日本の教師として続けていく覚悟かもしれないし、もう続けないという覚悟かもしれない。自分にできることはなんなのか。自分だからやらなければならないことはなんなのか。毎日毎日考えていこう。
 
■電子辞書(2004.2.5 jeudi)
 リュックの中からピコピコ音がすると思ってよく見たら、電子辞書からへんな音が出ていた。壊れてしまったようだ。電池を取り替えても、リセットを押してもダメだ。電子辞書は消耗品だというのを聞いたことがあるが、3年半も経てばこうなってしまうのか。電子辞書は普通の辞書よりずっと使い勝手がよいのでいつでもリュックに入れている。だからといって、100パーセント電子辞書のほうがよいというわけではない。たとえば、辞書の引き方に慣れるとだいたい1秒以内で調べられるようになるものだ。とはいえ、あんなに小さいのに、辞書が数冊から多いものだと十数冊も収録されているのだから、この便利さは否定できない。
 だから、新しいものを買いたいのだが、日本語の電子辞書が売っているところがあるのかどうか。通販もできることはできるが品数が少ないようだ。せっかくなので、中国語も入ったモデルを買おうと思ったのだが、扱っている店はまだ見つからない。いちばん頼りになりそうなamazon.co.jpも、電気製品は国外へは配送できないらしい。そうだ、こういうときにこそ、ウェブログで情報収集だ!というわけで、このことを載せてみよう。ひょっとすると何かいい考えが寄せられるかもしれない。

■立春(2004.2.4 mercredi)
 きょうから春だ。道路の雪が解けて、それがまた凍ったためにつるつるで歩きづらくなっていた。融雪剤が溶けた水が靴に滲みて白く跡ができてしまった。周りをよく見たら、そういう人は少なくなかった。
 カナダのいいところという話題になって、人の目を気にしなくていいということが出された。日本ではどうも人の目を気にしてしまうと感じる人も少なくないようだ。とにかく、カナダに比べるとストレスがたまる国なような感じもする。
 ストリートカーや地下鉄についていた広告。小さな紙を一枚ずつもぎ取れるようになっていた。ひとつはトロントの広報らしい。"Toronto needs a real solution" それから、もう一枚は、”Independent  Learning  Centure"英語の勉強をと思ったが、もう眠いのでやめる。

■節分(2004.2.3 mardi)
 きょうは節分か。あすから春か。きょうで冬は終わるのか。しばしの間、プラスの気温に騙されたふりをする。実家経由で届いた年賀状にやっと返事を書いた。コーヒー屋。セカンドカップが満員だったので第二希望のスターバックスとなった。たった十枚に一時間半。なんでこんなにうんうんうなりながら書かねばならないか。まいる。
 いろんな節目があるけれど、みんながみんな同じ時間に切り替えすることはない。それは社会が親切であるという見方もできるけれど、個人を未成熟なままにさせるシステムであるという見方もできるかもしれない。
 日本人とは何者か。「沈黙」「海と毒薬」と読み続けたら、気持ち悪くなった。自分が日本人であるということに、どうにもいたたまれなくなった感じ。日本人なんだから、これでやっていくしかないのだけれど。ずいぶん前に買っていたはずなのだけれど、ぜんぜん読む気にならなかった。それが海を渡って通販で手に入れて、一気に読んでしまった。これはきっとたましいがどこかで平衡を保とうとしているのだ。 

■北極圏の夢(2004.2.2 lundi)
 夕方になって急に眠気が襲ってきて、ベッドにうつ伏せのまま1時間くらい眠った。あれこれと変な夢ばかりみた。自分の頭だけが別の場所に飛んでいって、目にしたものを本体のところに伝送するという、なんとも単純な発想の夢だった。それを見ている自分の目がまたほかにあって、その目は頭と頭から下を同時に見ている。そういう第三者のような立場で、自分の居場所を眺めているのが可笑しい。
 いろんな意見というものがある。それらに左右されて、自分の進む方向が変わっていく。でも、それらの意見は所詮誰かの考えであって、自分の考えではない。どんな意見があろうとも最終的には自分で決める。意見を表明するのと、人の考えを変えさせるのとは意味が違う。誰にも会わずに過ごす日に、誰の意見も気にする必要などひとつもない。
 カナダはロシアについで二番目に広い国だ。とはいえ、人口の大半は、アメリカとの国境に近い都市部に集中している。しかし、ずっと北の北極圏に近いところには、いくつもの先住民族が暮らしていて、今でも独自の文化を守りながら暮らしている。イヌイットもそのひとつである。CBCのサイトでは、カナダ各地のラジオ放送を聴くことができる。トロントの北方約2000キロのところにあるイカルイットはヌナブト準州の州都で人口は5200人、公用語としては、英語とフランス語のほかに、イヌクチチュートというイヌイットの言葉が採用されているのだそうだ。ラジオを聴いてびっくり。このおそらくはイヌクチチュートであろう聞きなれない言葉と、英語が交じり合って聞こえてくる。なんといったらいいか、カナダってすごいぞ!あまりの認識のなさというか、事実の奥深さというか、まだまだ知らないことばかり。

■日曜日(2004.2.1 dimanche)
 スーパーボールのハデハデの中継。アナウンサーも笑顔で、見るからに張り切っている。実に明快。アメリカンのアメリカンたる由縁はこの表情にあるのではな いだろうか。僕も一度、アメリカンと言われたことがあるが、その時には浅薄だという意味だと思った。
 アメリカンフットボールなんか見たこともなかった。ハーフタイムショーの豪華な顔ぶれは、スポーツイベントとは思えなかった。アメリカを中心としたプロ スポーツはどうもワンパタンだなというのも、わかってきた。バスケットも、ホッケーも、野球も、フットボールも、おんなじだ。それがよくないというのでは ないけれど、なるほどいい商売になっている。どの場合も客はじゅうぶん満足して帰ることになる、素晴らしき世界である。
 チャンネルをかえたら、テレビオンタリオでシャルウィーダンスが放送されていた。英語の字幕付き。初めて見た。有名な役者ばかりが出ていて意外だった。 字幕はどうしても最後まで読み切らないうちに切り替わってしまう。