2005年12月 
■sabado,31,diciembre,2005
 Jane Crebaはなぜ死ななければならなかったのか。昨夜ヤングストリートで追悼集会が行われ、その模様がライブでテレビに流れた。多くの人が亡き人やほかの人々にメッセージを送っていた。トロントで今年起きた殺人事件は78件で、昨年の2倍にもなっている。そして、そのうち52件は銃による殺人だという。なかにはJaneのように、何の罪もない通りがかりの犠牲者も含まれている。
 いつもと変わらずただ買い物に来ていただけの少女が、自分で何が起こったかもわからぬままに人生を終わらせられてしまった。息を引き取るときの彼女の思いや家族の悲しみを想像すると胸が張り裂けそうになる。こうやって厳かにセレモニーが執り行われ、同級生たちが涙ながらに故人の死を悼み、迅速に警察や市長が今後の具体的対応について声明を出しても、失われた命はもう戻ることはない。
 この事件の何十倍のニュースが毎日流されている。そして、ニュースになっていない事件や事故がその何百倍もあるとしたら。たまたま自分ではなくて、運が良かっただけなのだろうか。それらにいちいち足を止めていたら次に進むことなどできないから、さっさと忘れて歩き出さなければならないのだろうか。死ななくてもいい人たちが毎日無念の死を遂げなくてはならない世の中で、生き残った人々はいったい何をすればいいのだろうか。生き残った者が、故人の遺志を受け継いで新しい世の中をつくる。自分もその中の一人なら、僕は何をしなければならないのだろうか。
 ほかの動物や植物の命を食べることでしか生きることができない。同じように、先に死んだ人たちのかけがえのない命を僕らはもらって食べて生きる。そして、新しい一日を暮らし、また何かを生み出していく。自分が生かされている意味を問い続けなければならない。生かされているものが何を生み、生かし、生きればいいのか。

2005年を振り返ってみると、全体的に言ってこれほどの年はなかった。いい年だったかよくない年だったかは判断がつかないけれど、一年を通してこれほど濃密な時間の流れた年はなかった。
 たとえば仕事のことについていうと、今まででもっとも責任を重く感じた年だった。だが、仕事上の責任はいまより軽くなることはない。立場がどう変わろうとどんどん重くなる一方であることは間違いない。だから、重圧がどうのこうのと甘いことを言ってはいられない。それを撥ね退けるだけの力をこれからもつけていかなくてはならない。どんなことがあっても言い訳は無用だし、簡単に誰かに愚痴を零せるようなところにはもういない。

■viernes,30,diciembre,2005
 雫石あたりのペンションに何人かで集まった夢を見た。一人の友達が帰るのを見送ると、入れ替わってやってきたのが大魔神佐々木主浩だった。手にはビールの大ジョッキを持っていた。僕は「待ってました先輩!」と言って彼の到来をいたく歓迎したのだが、ほんとうは泊まらずに帰るつもりだった。列車の時刻表を見たら、全部英語で書いてあった。もう最終には間に合わないので、明日の朝いちばんの列車に乗ることにする。だが、酒は一滴も飲まないと心に決める。実際には佐々木の年齢は僕より下のはずだけどと、彼が先輩であることを少し疑問に思う。翌日駅で、着いた列車から降りてくる小学生たちの列に出会う。近くにある自然観察園に遠足に来たらしい。普段の教室を離れてそういうことも大事だなとふと思う。そこで目は覚めるのだが、ペンションに集まった人々というのは、誰だったか思い出せない。そして、どうして佐々木投手が出てきたのかもわからない。ただ、酒を飲まないことに決めた気持ちはわかる。冷蔵庫には数本の瓶ビールが入っているが、まったくそれには手が伸びず、飲み物といえばもっぱら濃縮還元のレモネードばかりである。旅先ではコーラの機会も増えるけれど、日常的にはポップを飲むこともほとんどなくなった。そういえば彼は今年で現役を引退したのだったか。日本に戻ってからの彼のことを思うと、もったいない気持ちがする。でも自分にとっていちばんいいやり方を選択したのには違いない。誰がなんといっても、やりたいようにやるべきだった。やりたいようにやったことに対しては、誰もなにも言うことはできないと思う。
 夜には銀行や為替のことをあれこれ調べた。口座をどうしたらいいのか、開いたものをどう閉じたらいいものか、あるいは閉じるのがいいのかどうか。そういうところは興味もなかったし、今まで避けて通ってきたところだが、そういうわけにもいかない。それで、調べてみて思ったのだが、始めることに関してはさまざまな情報があるのに(だから僕もあまり迷うことはなかった)、終わることに関してはそれほど有用な情報が多いわけではないということ。銀行口座についてだけでなく、今度の春に新しく赴任される人たちの掲示板など見ても、これから始まることについては意気盛んなのだが、終わることについては何の話し合いも行われていない。僕はそれらを、バランスの悪い形だと考えてしまう。始まりがあれば終わりがある。とはいえ、多くの物事の場合、始まりの面しか映らないようになっている。僕にはまるで、多くの人々が、物事の終わりの面については触れたくありませんと言っているかのようにみえる。終わりは始まりのことばもある。以前より少し明るくなってきた冬至過ぎの明け方のように、クリーム色の希望をそこに感じることができる。もしかすると僕は始まりより終わりのほうが好きかな。
 ニュースハイライト。昨夜の本放送と今朝の再放送を見る。ただ、どちらもなにかしながら、集中してみていたわけではないから、二回見てようやく全部見たような感じがする。いろいろなことがあった今年。「来年こそいい年になるようにがんばりましょう」とどこかの見知らぬおじさんが言う。一年に一度の既視感。来年こそいい年にといいながら何年経ったのだろうか。
 「アジアが見つめた8月15日」という番組をテレビにかじりついて見ていた。戦争はどうしても終わらせなければならなかった。だが、その日のあとにも戦争が続けられたこと、国家の思惑同士が火花を散らして、その陰でたくさんの人が死ななければならなかったこと。このテレビを見るまでわからなかったことの多さ。そんなことも知らないでここまで来た事実。知れば知るほど空気が重苦しく感じられてくる。知るといっても、たかだか気まぐれにテレビで見たことだけなのに。これはいままで学びを怠ってきたことの報いだろうか。日本では戦争が終わって60年というけれど、この間前の年よりいい年になった経験など誰かもった人はいるのだろうか。個人の幸福感はすべて社会のあり方と連動している。その意味では、いま生きている人がいい年を迎えることなどもうあり得ない。そんな気持ちにさえなる。どうすればいい。
 いつか盛岡のメキシコ料理店で、先輩から謎の一言を突きつけられたことがあった。僕がベトナムに行ったことについて。他のどこでもないベトナムだった、自分自身も気づいていない意味について。先輩はそれを僕に当てさせようとした。自分のことばで答えさせようとした。だが、僕は最後まで答えることはできなかった。あるいは、そのときには答えられたかもしれないけれど、今では忘れてしまった。答えることができなかったという認識だけが、ずっと残っていた。そしてきょう、それはこういうことだったのかなと、ちらと考えが浮かんだ。
 
 空は快晴。ビルの屋上からもくもくと上がる白い水蒸気が、青い空にとけていく。歩道に雪はほとんどない。日の光が当たるとあたたかく、氷点下でも外を歩くのは気持ちいい。穏やかな年の瀬。
 地下街は昼休みのビジネスパーソンで溢れていた。かれらはみな薄着で、写真のついたIDカードを紐で首からさげたり、シャツの胸に着けたりしている。その中に、ホリデイシーズンに出てきた観光客と思しき厚着で家族連れが若干混じる。フードコートにもデリにも昼には毎日こんなふうに人が出るのだ。テリヤキの店で、豚カツと味噌汁を買うと、一人がけのカウンターに座ってそれをかきこむ。高い丸椅子がつるつる滑ってうまく座れずちょっと困った。ネギと豆腐の味噌汁が身体に沁みこむようだった。
 本屋ではこの時期バーゲンが行われており、ハードカバーは30パーセント引き。中には8割、9割引きになっているものもある。そこで、記念のものを物色しようといくつか本屋をはしごした。ロンリープラネットのOne Peopleという写真集を買った。世界の国々の人々の生き生きとした表情に惹かれた。

■jueves,29,diciembre,2005
 手芸好きの同僚が作ってくれたドリームキャッチャーは小さなものだがよくできている。ほんとうは吊るすのだけれど、部屋のどこにも吊るす場所がないからしかたなく枕元に置いて寝ている。これのせいだろうか、ずいぶんといろいろな夢を見る。でも、目覚めるとほとんどはすぐに忘れてしまう。ドリームキャッチャーは悪い夢を捕まえて良い夢だけ通すというから、忘れた夢は悪い夢だったということだろうか。
 ひとりで夢を描くこと、そして、みんなで夢を語り合うこと。それらが、人間が生きる上でとても重要だ。ユメユメなんていうのを聞くだけで鳥肌が立つような人もいるようだけれど、すべて夢を描くことから始まるような気がしている。描かなければ、叶うはずもない。語らなければ、動き出せない。夢を大事にすれば、それは必ず叶う。たとえば家庭も教室も夢を語り合う場所であるはずだ。それぞれの夢を実現させていく楽しい場所だ。進路と聞くとすぐに受験受験と騒ぐ人たちがいるけれど、互いの夢をどれだけ語っているか、語らせているか、それに尽きる。
 昨夜、夏に国連大学で開かれた何とか会議のテレビを見た。世界の有識者という人たちが出て、いろいろな考えを発表していて興味深かった。言っていることは難しいかもしれないが、つまるところこの会議も夢の語り合いみたいなものだなと思った。名前が会議だと堅苦しくなってしまうので、ここは「夢語り」という名前にすればいい。学校でも職場でも商工会議所みたいなところでも、こういう夢語りをどんどん増やしていけばいいと思う。
 夜でも気温は下がらず、零度にもならないほどだった。部屋の空気は乾燥している。洗面器に水を入れタオルを浸しているので、喉の調子も悪くない。これだけでかなりの効果があるようだ。
 きのうやろうと思っていたことはすべて思うとおりにやった。クリーニング屋のおじさんは、終始電話片手に話しながらの対応だった。韓国語の響きをしばらく聞いていた。意味はまったくわからないのだけれど、日本語と響きが似ていると感じることがある。たとえば駅のホームや商店街を歩いているときに向こうからやってくる人たち。見た目では日本人か韓国人かは判別できない。そして、この人たちが話している言葉から判断しようとするのだけれど、雑音の中でそれが日本語なのか韓国語なのかを聞き分けるのは難しい。
 電車に乗ると、客はほとんどいなかった。休日とはいえあまりに少なかったから、ちょっと不安になった。先日の事件で撃たれて亡くなったのは、母親と買い物に来ていた15歳の少女だった。きょうのニュースで顔写真が出ていた。ダウンタウンに行くのを控えている人も少なくないのだろうか。途中で乗り込んできた若者たちを見ながら、この人たちも銃を持っているかもしれない。ニュースには「次は何?」という見出しがあった。いつ電車の中で銃撃戦があっても、おかしくはない。そう思ったら恐ろしくなって、すぐにでも電車を降りたい気持ちになった。
 カレッジで降りた。外は今にも雨が降りそうだ。西行きのストリートカーに乗る。乗客が怒った調子で運転手に何か言っているけれどさっぱりわからない。中華街を過ぎたところで降り、リトル・イタリアを抜け、ポルトガル人街を抜ける。レンガ造りの住居とレストランの波。昼飯をどこかでとは思っていたが、喰わなくてもいいつもりだった。だいたいこの時期のレストランなど混んでいるに決まっている。食事をするほかに、というか食事よりも大きな目的として、人々は誰かと時間を共有したがっている。レストランとはそういう場所だ。
 レバノンの店を見つけたのでいくつかパンとお菓子を買う。おじさんはパンを温めてくれた。目の前に貼ってあったのは、日本人向け地元情報誌に載った店の特集記事の切抜きだった。トモコとモトコという二人の日本人が働いていると言っていた。きょうはいないけれど。温かいパンを一口と思って歩きながら頬張る。空腹も手伝って、とてもおいしく感じる。僕は買ったパンを歩きながら3個とも全部食べてしまった。
 駅にぶつかったところでまた電車に乗り、Runnymedeの駅で降りた。ヨーロピアンフードの店と書いてあったので入ってみたら総菜屋だった。うまそうなものをいくつか買って、晩飯にした。おばさんにどこの国ですかと聞くと、ポーランドと答えた。一駅歩いたところでちょうど雨が降ってきたので、そのまま電車に乗って帰った。

■miercoles,28,diciembre,2005
 昼夜逆転というほどではないけれど、リズムがまだ狂っていて、昼過ぎになったらまた眠くなり、夜中になったら目が冴えてしまった。本を読んではうとうとしていたので、夢の中で本の続きが勝手に展開したりした。
 今年ももうあと何日かで終わる。2005年の何とかランキングが出ているけれど、全然ピンとこない。だいいち出ているもの自体が何なのかわからない。テレビジャパンの契約を結局最後まで続けることにしたのは、日本の空気を忘れないようにするためだった。だけど、テレビを見ているだけではどうにも知りようのないものがたくさんある。社会とか文化とかいったものは、メディアを拾い読みしたりニュースを見たりするだけで感じられるものではないのだ。外を歩いたり、人とコミュニケーションをとったり、それだけで得られるものでもないとは思うけれど、その場にいることが、とても大事だとは言えるような気がする。
 その場にいること。その場から欠落していた3年間と、その場に付加されていた3年間。人間は同時に二つの場所に存在することはできない。当たり前のことだ。どこにいようと、一本の線の上に生きていることには変わりなく、それを善悪で括ることなど意味がない。線上の自分としては、これからも自分を生き続けるだけだ。
 夜中に除雪車のエンジン音が何度も聞こえていた。夜が明けたら雪がまた少し積もっているのだろう。日本は今年大雪だという。カナダでもケベックより東では相当な雪が降っている。2年前の冬のように暖かかったら、車で行ってみてもいいかなと思っていたが、これでは厳しい。ケベックにはもう行けないかもしれない。あそこは北米にありながらほとんどヨーロッパなのだ。いまさらになってその意味がよくわかった。そして、ここトロントはアメリカ合衆国の影響を大きく受けた都市、あるいは、アメリカ合衆国を大きく受け入れた都市だ。日本という国もまた、アメリカ合衆国ととてもとても近い国だということが、よくわかる。
 トロントでは26日の夕方、ボクシングデーの買い物客で賑わう街いちばんの目抜き通りで発砲事件が起き、若者たちが死傷した。いつの間にかいつどこで誰が流れ弾に当たって死ぬかわからない状況が普通になっている。そして、トロントを去っても、そういう状況から逃げることにはならないだろうと思う、残念ながら。
 日記と呼ぶにはあまり記録的でないものを、これから書いていくことになる予感がする。随想というか瞑想というか。あるいはそれより迷走といったほうがいいかもしれないけれど。当人にとってはわけのわからない迷走であっても、ひとりの人間の軌跡というのは、離れたところからみればまっすぐの線にみえることもあるだろう。
 コーヒーを飲みながら午前6時の朝まだき。そういえばしばらくコーヒーらしいコーヒーを口にしなかった。紙コップを見慣れてしまった僕には、旅先で見たバーで立ち飲みするエスプレッソというのはとても新鮮だった。コーヒーカップや皿が陶器であることは、見方によってはとても不便だけれど、見方によっては至極当然のこと。どれか一つの見方だけを残してあとを捨ててしまったとしたら、そんなもったいないことはない。物事にはいろいろなやり方があり、その陰にはそれだけの歴史がある。欧州で引き継がれてきたことのうち不便だったり不合理だったりしたことを、取り除こうとしてきたのが北米だったのではないか。ただ不便とか不合理とかと感じられる物事も見方によってはそうではなかったはず。どの場所に限らず、いまそこに生きている人々のことを想像するならば、そこに善悪や上下や高低などはなくて、互いを許し合ったり、互いから学び合ったりする寛容さが必要なのではないか。
 人間は同時に二つの人生を生きることはできない。他人に成り代わることができないのであればせめて他人に近づけるような手立てを講じたい。努力という言葉が、今までとは違った輝きをもって迫ってくる。
 もうすぐ7時になる。きょうはとにかくスーパーに買い物に行って、食料を調達しなければならない。そして、サンタクロースの衣装をクリーニングに出す。ついでに、ブレザーなんかも持っていこうか。公共料金の支払いのための小切手を郵送しなければならない。あとは電車に乗って本を読もう。そして各国の移民たちが作った町町を、あらためて見て歩きたい。

■martes,27,diciembre,2005
 18日の夜から昨夜にかけて不在だった。この期間のことについてはまたいつかの機会に書こう。
 コンピュータから離れて過ごしたからか、リフレッシュができたからか、首の痛みはほとんどなくなった。でも、左目とこめかみと首筋と肩のラインがなんとなく凝っているのは変わりない。自分ではそれほどの疲れとは思っていなかったが、ずいぶん溜まっていたとわかった。それが、変な形で表れてしまい、周りの人たちにも迷惑をかけた。何やっているんだと、自分に腹立たしいのと情けないのとが混ざった気持ちがしていた。それにつけても、健康であることのありがたさには、誰にどう感謝しても足りないくらいだと思う。これからもっと自分の身体を大事にしよう。

 一日中、頭がボーっとしていた。目覚めたときには、ここがどこだったかわからなかった。窓の外には山があるような気がしたが、よく見たらなかった。ここは紛れもなく自宅の一室だった。だけど、それもあと3か月を切ったと思うと、なんだか複雑な心境になった。複雑は言葉にならないから複雑なのだ。ここに暮らす時間を与えてもらったことに対して、感謝のしようもない。だけど、その時間に見合った何かを僕は得ることができたのだろうか。旅を経て、この国が、この街が、地球上でどれだけかけがえのない場所だったかということを思い知った。いまさらながらではあるけれど、残りの時間、そのことを噛み締めて生きよう。

■lunes,26,diciembre,2005
 1:05pm, Barcelona, Air Canada 9185 operated by LUFTHANSA
 3:15pm, Frankfult

 5:00pm, Frankfult, Air Canada 877
 7:45pm, Toronto

■domingo,25,diciembre,2005
 Hotel Oasis

■sabado,24,diciembre,2005
  2:00pm, Lisbon, Tap Air Portugal 738
  4:40pm, Barcelona
 Hotel Oasis

■viernes,23,diciembre,2005
 Hotel Vip Verna

■jueves,22,diciembre,2005
 Hotel Vip Verna

■miercoles,21,diciembre,2005
 12:20pm, Rome Fiumicino, Tap Air Portugal 837
  2:15pm, Lisbon
 Hotel Vip Verna

■martes,20,diciembre,2005
 Hotel Pyramid

■lunes,19,diciembre,2005
 11:00am, Rome Fiumicino,
 Hotel Pyramid

■domingo,18,diciembre,2005
 8:30pm, Toronto, Air Canada 890

■sabado,17,diciembre,2005
 サンタも無事終了し、2学期も無事終了した。クリスマスツリーももう片付けてしまった。今度子どもたちがやってくるのは1月。振り返ることもできないくらいのスピードで通り抜けた2学期だった。まだ気持ちには張りつめた感じが残っているが、しばしリラックスしてから、また仕切り直しをしよう。
 夜には忘年会があった。会場は自宅から歩いて3分のところにある「味香村」という中国料理店だった。酒は一滴も入らなかったが、次々に出てくる料理を食べながら、話をして、楽しい時間を過ごすことができた。

■viernes,16,diciembre,2005
 きのうの雪は未明まで降り続いたが、幹線道路は暗いうちから除雪され、出勤時にはそれほどの混雑にはならなかった。首の痛みが引かないので、肩の辺りに湿布を貼った。おまけに喉も痛くて、首と喉と肩に一本の太い釘が刺さっているような感じだった。昼に同僚たちに話したら、湿布はよくないと言われた。きっと目の使いすぎからきたものだろう。書いてばかりいるからと指摘された。たしかにその通り。これだけ日がな一日パソコンに向かっていたらなってもしかたない。湯船に浸かるのがいいらしい。
 現地校の向かいの教室では、きょうは「ウインター・ワンダーランド」というお楽しみ会の日。今年のテーマはイヌイット。部屋はさまざまな装飾が施されている。1週間かけて、先生と子どもたちががんばって作ったものだ。きょうは朝から午後まで他の教室の子どもたちが招待されて、ココアとウエハースの接待を受けていた。他の教室の子どもたちを迎える子どもたちは皆緑色の帽子を被って、音楽が鳴ると楽しそうに踊っていた。かれらとは毎日挨拶程度なんだけれど、思えば分けてもらった楽しみは大きかった。
 あすは恒例、幼稚園のクリスマス発表会。3年連続のサンタクロース。ところが、しまっていたはずの衣装のうち、帽子とベルトとブーツとヒゲがない。倉庫のどこかに紛れているだろうと安心していたが、どこを探してもない。この赤い上下だけのサンタなんてあまりに間抜けである。なんでないんだと腹を立てたが、そもそも1年前の行事が終わったときにちゃんと担当に返していなかった自分が悪いのだ。仕方がないので、帰りに新しいものを買うことにした。
 クリスマス前の書き入れ時。週末のショッピングモールの駐車場はほとんど満車状態でなかなか停められなかった。やっとのことで停める場所を見つけ、建物に入ると中は人でごった返していた。まったくこんな時期に買い物に出かける人の気が知れないよ。さっさと用事を済ませて帰ろう。トイザラスあたりにいけば絶対あるだろうと簡単に考えていたが甘かった。プレゼント用のおもちゃはたくさんあるが、サンタの衣装なんておもちゃじゃないし、プレゼントになるわけがない。店員たちは皆サンタの帽子を被っているのに、サンタの衣装はと聞いて返ってくるのはノーだけだった。ウォルマートの店員たちもサンタの帽子だった。でも返事はノーだった。なんだよな。それで、あらかじめ聞いていたパーティー用品の店に行ったら簡単に見つかった。これで一安心だ。

■jueves,15,diciembre,2005
 地下鉄を降りて地上に出ると、選挙のビラを配る人から声をかけられた。「日本人ですか。おはようございます。寒いですね」 流暢な日本語。ビラを見るとその人の顔写真。今度の選挙の候補者なのだ。こちらの選挙運動は日本のように選挙カーでがなりたてるようなことはないから静かでよい。だが、候補者自らが身体一つでビラ配りというのはあまりにも地味だ。しかも、ポスターも幟も出していないので宣伝効果はほとんどない。あくまでも中身で勝負なのだ。日本語上手ですねと言うと、「私は東大を出ました。あなたお仕事で来てるんですか。シチズンじゃないの。シチズンじゃなきゃ投票できないね。僕のホームページを読んでね」 なんだかたいしたものだな。この人が議員になったら日本にとってはいいかもしれんな。
 選挙が近いので、民家の庭には「○○党を支持しています」というようなことを書いた看板が見られるようになってきた。それに、きょうは政党名の入ったバッジをつけた人も何人か見かけた。こんな選挙事情を垣間見るのもちょっと面白い。
 大雪警報の予報どおり、昼過ぎから雪が降り出した。帰りの頃にはすでに10センチくらい積もっていて、歩道も歩きにくかった。少し歩いただけで髪の毛が霧氷のように凍りついてしまった。少し喉が痛くなってきた。まずい。

■miercoles,14,diciembre,2005
 相変わらず寒い。首を寝違えてしまったのか、角度によって痛みが走る。とにかく仕事を進める。
 書くことに対して、偏執的になっている。危険信号だと思う。周囲に向けて本音を伝えようとするのは悪いこととは思わないけれど、最後だからとか、もう会わないからとか、そんなふうなことを考えているのはどうか。
 だけど、書かなかった自分のことを思い出せなくなっているのはほんとうのことで。そんな自分は、まだなにも始まっていなかったのだった。書くことによって人生が始まった。始まった人生は終えなければならない。だから死ぬまで書き続けるしかない。
 などというようなことを、伝えようと思っても伝わるまい。それを伝えるにはやはり、書き続けるしかないのだ。
 
 THE NATHANIEL DETT CHORALEという人たちのAN INDIGO CHRISTMASというコンサートを聴いてきた。クリスマスにどっぷりと浸かる12月もいいだろうと思い、まったく何の予備知識もなく切符を購入した。子どもたちの合唱隊かなくらいにしか思っていなかった。ところが、そうではなかった。最高のコンサートだった。
 このグループはカナダで最初にできたプロフェッショナルの聖歌隊で、この時期のコンサートはもう7回目になるらしい。全部で25名くらいのグループ。顔ぶれをみるとありとあらゆる人種が混じり、ほんとうにカナダらしい構成となっている。うれしいことに、プログラムをみたら日系人らしき名前もあった。みな黒い色のスーツやドレスで統一されているが、何と呼ぶのかそれぞれ色鮮やかな細い布を肩に掛けたり腰に巻いたりしている。人によって色も模様も異なるこの布が、独自の民族性を象徴していることが感じられた。
 いちばん最初、民族衣装の親子が客席後方からアフリカの太鼓を叩きながら登場したときには、アフリカ音楽中心のコンサートなのかなと思った。しかし、二部構成の一部はピアノ伴奏の合唱曲中心で、曲調は日本の中高生が歌うような感じのものが多かった。絶妙な和音。抑制の効いた声量で、かえってピアニッシモの迫力というものを感じた。そして、余韻。どの曲も素晴らしかった。
 二部は雰囲気をがらりと変えて、そこにバンドが加わった。今度はメンバーが精一杯の大きな声で、身体をめいめいに揺らしながらのゴスペル。この興奮。弾けるような笑顔。みんな美しい。聞き慣れたクリスマスソングがアレンジを変えてパワフルに鳴り響く。まるでステージから強烈なパワーが降り注がれるようだ。まったく、音楽の力は偉大だ。帰ってからもなかなか寝付けなかったよ。

■martes,13,diciembre,2005
 アレン・ロードという自動車専用道路はエグリントン・アベニューに直角に交わっている。二車線はそれぞれ東行き(左折)と西行き(右折)の車線となっている。朝は左折車線の車が渋滞し、右折車線は空いている。ところが、途中まで右折車線を走ってきて、交差点近くになって割り込むずるい車が後を絶たない。朝の慌しい時に限ってそういう光景を見ることになるので、余計嫌な気分になる。割り込みは最大の犯罪ではないか、死刑にするのが相当だ。
 卑屈な感覚の人はいるものだ。何を言っても話にならない。どんなに民主的にことが運ばれていても、猜疑心や疎外感を覚えてしまうような。誰もがそれに陥る可能性をはらんでいる。自分もいつかはそうだったかもしれないし、そういう人から疑われたり、遠ざけられたりしていたのかもしれない。また、今後もいつそんな状況が訪れるかわからない。だが、この感覚を自分でコントロールすることも不可能ではない。いくら環境が過酷でも、育てられた境遇が苦悩に満ちていたとしても、やわらかなこころさえあれば、ねじれてもまたもとにもどる。年齢のことをとやかくいうつもりはないが、ある程度の年になっても変わらずそんなことをしているとしたら、もうダメだ。
 帰りには雪が降ってきた。ミシサガ中国城で麻婆豆腐飯を食べ、スーパーでリンゴとナシとカキを買った。

■lunes,12,diciembre,2005
 朝8時の気温が−14度、体感気温は−25度になった。快晴の空が一日中続いたが、最高気温は−10度までしか上がらなかった。ここまでくるとさすがに、温度設定のレバーを思い切り上げないと暖房が効かない。窓を開けてベランダに出てみる。からっからに乾いた空気。10秒もたたないうちに身体が冷やされていく。カメラの電池は充電したてなのに、すでに電池切れのサイン。バナナを出していたら釘が打てるくらいに固くなるだろうか。これまで試そうとも思わなかったけれど、一度くらいやってみてもいいかな。
 きょうは午後に荷物のダンボールが届くことになっている。それまでに少し部屋を整理しておこうと思った。小さなものを隣の部屋によけたら、何にもなくなった。家具類を処分したら、荷物はほんのちょっとになりそうだ。掃除機をかけたら、それだけですっきりした。9時前に電話が入り、1時過ぎには着くということだった。どこまでも青い空を眺めながらパソコンに向かう。いろはのページをやらなけりゃと思いつつ半年が過ぎ、ようやく重い腰を上げた。昼までに「に」から「と」までを一気に書いた。一週間に一つ書いていれば今頃はもう終わりが見えていただろうに。きょう切りのいいところまで書いたから、あとはいつになることか。でも、帰ってからでもなんでも、最後まで書いたほうがいいよな。
 休日はコーヒーばかりだ。朝飯を食べていなかったが、きのうの夕飯のグラタンの残りを温めて食べたら腹が膨れた。掃除も洗濯もしたし、ものも書いたし、それでもまだ午後1時。いつもの休日よりも時間が経つのがゆっくりに感じられた。ほどなくしてインターホンが鳴る。運送会社の人が来たのだろうと思ったが、管理人が何を言っているかわからない。どうやら来てくれということらしい。降りていってみると、書類にサインをくれという。きょうの管理人によると、何かの配達があったときにはサインをすることになっているのだそうだ。でも、そんな書類にサインしたことなど今まで一度もなかったけどな。
 サインすると、部屋で待っていてくれという。待っているとすぐに誰かがドアを叩く音がした。ドアを開けるとそこには草なぎ剛。そっくりの青年がダンボール18箱と必要な書類を届けてくれた。部屋の中で書き方などの説明を正座して聞いていたら、ちょっと足が痛くなった。いくつか質問をしたら丁寧に答えてくれて、わからないことは確認して後で電話を入れてくれるということだった。集荷は1月30日。それまでにゆっくり荷造りしよう。大物の処分はその後だ。それにしても、日本人が相手というのはひじょうに安心だな。

■domingo,11,diciembre,2005
 朝から小雪が舞っていたが、それほど寒くなかった。久しぶりに日曜日の街に出た。師走のクイーン・ストリート・ウエストは買い物客で賑わっていた。華やかなクリスマスの情緒の中を西に向かった。注文していた写真ができたというので、クイーンのスタジオまで受け取りに行ったのだ。Gary Ray Rushという人の写真は、ずいぶん前にディスティラリーで見て気に入って、いつか記念に買うつもりだった。その時もらった名刺のURLから、先日トロント・スカイラインという写真を注文した。スタジオは12時から5時まで開いているからその時間に取りに来てほしいとメールで連絡が入った。家を出たのは3時過ぎ。だいたい1時間で着くだろうと思っていたら、足元が悪いのと人込みで思うように足が進まず、着いたのは4時半を回っていた。スタジオは、ギャラリーやアートショップが並ぶ界隈にあり、写真と同じくモノトーンに統一された内装の店はすっきりとして感じがよかった。店の奥にいたおばさんに名前を告げると、すぐにわかって主人を呼んでくれた。写真家は丸顔の温厚な感じの紳士で、僕を握手で歓迎してくれた。「あなたのために特別にプリントしたのだ」と、机の真ん中に立てられていた黒い額を取って、ビニールの袋に入れ、箱に入れ、手提げ袋に入れてくれた。「タイミングがよかった。あと5分遅かったらもう出かけているところだった」 二人はすでにコートを着ていて、これから食事にでも行くのかなという雰囲気だった。以前写真を見て気に入ったと話したら、とても喜んでいた。トロントの記念にすること。祖父と父が写真をやっていたことなどを話した。日本までは何時間かかるのか、トロントでは何をしていたのかなどを聞かれた。奥さんの知人の子どもは、慶応大学に留学して東京に暮らしていたことがあるそうだ。これまで同じような会話を何度もしたが、今回の会話が総仕上げでもあるかのような気分だった。
 
■sabado,10,diciembre,2005
 路上の雪は消えたので、車も走りやすくなった。融雪剤が大量に撒かれることもあるが、日中の気温が高いことも理由だろう。このところ毎週末降雪があるが、まだまだ根雪になるほどの寒さはない。もっとも、−20度くらいになったって、それほど恐れることはないのだ。
 ニュースの質ということが話題になった。ニュースの内容ではなくてニュース番組としての質の話である。たとえば、こちらのテレビのニュース番組では、詳しく知りたければウエブサイトでということで、必ずURLのアナウンスがある。ラジオの番組も同じだ。ところが、NHKニュースではそのようなアナウンスや表示を一度も見たことがない。しかも、サイトを見てもニュースが詳しく掘り下げられているかというとそんなことはなく、番組で読み上げられた原稿やテレビ映像があるだけだ。NHKニュースのサイトCBCニュースのサイトを比較してみてもらいたい。CBCではひとつのニュースへの掘り下げ方が深いだけでなく、視聴者からのフィードバックが簡単に投稿でき、読めるようになっている。残念なことに英語だからよくわからないのだけど。情報量の違いというよりも、ネットに対する、あるいはニュースに対する考え方がまったく異なっている。NHKの「もっと詳しく」をクリックして出てくるニュースの「詳しくなさ」が悲しい。いくらもっと知りたくても、これではどうすることもできない。閉じられてしまっている。この違いをあえて日本が「遅れている」と指摘したくなるのは、外からこれを眺めているからだろうか。わかりやすく伝えようとするアナウンサーたちにまったく罪はない。だけど、一つの事柄をわかるためには多面的にみることも必要なのだ。少なくともNHKニュースには、そこへの実践というか挑戦がまったく欠けていると言わざるをえない。7時のニュースの最後に、街角の映像とともに流れてくるほのぼのとした音楽を聞いていると、なぜか大昔に引き戻されたような、取り残されたような気持ちになる。これが日本で最高の視聴率を誇るテレビ番組なのか。

■viernes,9,diciembre,2005
 未明からの大雪で、朝の交通がかなり混乱した。通勤途中、どこかにぶつかってヘッドライトがこわれた車や、スリップして反対方向に鼻先を向けて動けなくなっている車を見かけた。150件くらいの事故が起こったとラジオで言っていた。昨夜現地校では保護者の面談があったらしく、その代休?のため、授業日ではなかったらしい。市内全域の学校がそうだったようで、スクールバスの運行がなかった分よかったようだ。
 雪景色。平日の校舎がしんとしている。なんとなく落ち着いて仕事ができた金曜日。ガンガンうるさい校内放送もない。最近では放送設備の調子が悪くなってきているのか、異常な大音量とハウリングと耳障りな雑音のために、聞いていてイライラするような状態だ。今の校歌の音響は、聞くに堪えない。ひと月くらい前の校歌の録音は、今考えると絶好のタイミングだった。あの後あたりから、少しずつ音が悪くなり始めたのだった。そういえば、一昨日の面接のときにはよりによって、全校でエクササイズをする行事があった。突如校内放送で元気な音楽がかかり、それに合わせて子どもたちが飛び跳ねるものだから校舎が地震のように揺れて、とんでもないことになったのだった。借り物校舎の悲しいところで、そういう連絡は事前にはほとんど入らないのが実情である。
 打ち合わせで来た人に帰任のことを伝えると、「ご苦労様でした」と言われた。まだあと半年…と言いかけてから、「まだあと3か月後ですよ」と言った。ついこの間まではあと半年あると思っていたのが、今ではもう、あと3か月しかなくなった。この3か月とは何だったのか。時の流れがあまりに早くて、身体がついていけない。
 「帰国許可願」という書類を作って提出した。すごく矛盾を含んだ名称だ。延長を希望したにも関わらず却下され帰国せよということなのに、なぜこちらから許可を願い出なければならぬのか。こういう瑣末なところにも、なぜなぜと思うようにしないと、頭がおかしくなってしまいそうだ。
 帰り際、廊下にクリスマスツリーの飾り付けをした。2年半くらい前に、ある企業から寄付を受けたもので、2メートル半くらいの高さの本格的なツリーなのだが、ランプの接触が悪くなっており、透明のランプは点灯したが、色つきのものはだめだった。丸いガラスの飾りを、去年は何個か落として割ったのだが、今回は一つも壊さなかった。枝に飾りをぶら下げていたら、七夕の飾りつけを思い出した。クリスマスツリーと松飾りの相似性のことは前にも書いたことがるが、考えてみれば木の枝に飾りをつける行事はどこにでもある普遍的なものに違いない。そこに込められている願いだって、何一つ変わらないのではないかと思った。

■jueves,8,diciembre,2005
 午前から夕方にかけて、3つの会議を立て続けに行った。こちらでは民間企業の方たちと話す機会も多くて、とても勉強になる。きょうあった会議のうち1つは今年最後だった。そこで、役を退任する方たちの挨拶があった。自分もそうだが、その方たちも学校の教員の世界と企業の世界の違いを感じていたようで、お互いにとってとても勉強になったのではと言っていた。ここにこなければできないことをいくつも経験させてもらった。さてこれからそれをどこでどうやって生かせるか。
 企業の社員一人一人が置かれている状況の厳しさは、ひしひしと伝わってくる。ではそれに比して、学校の教員は甘いのか。甘い部分も多々あって、もっと切磋琢磨できる部分があるだろう。それはそれで大きな課題だけど、だからといって学校の世界観が否定されたり、民間への移行が取り沙汰されたりするのはどうなのだろう。たとえば、民間では評価システムの導入によって給料に格差が生じているのだそうだ。学校でも教師の評価は行われていて、一部では給料に差をつけているところもあると聞く。だが、利益が数値で表れる会社とは違って、子どもたちの成長は数字には出ない。それを誰がどのような基準で評価するのか。どうやって給料に反映させるのか。そもそもそれがシステムとして成立するのか。そんなことを考えると、頭が痛くなってくる。
 一教員の立場からすると、上司から評価を受けたい気持ちはもちろんある。なぜなら、ここに来る前までは、ちゃんとした評価書を手渡されたこともないし、口頭で納得のいく説明を受けたこともない。いったいどういう理由でそうなるのか、わからないままに次の年を迎えるということが重なった。根に持つわけではないが、いまだそこに大きな疑いをもっていることは事実だ。ここへの赴任の理由だって、真相はわからない。きっと見てくれている人がいたのだと好意的に受け止めているし、このことに関してはどれだけ感謝しても足りない。だからこんなことを言っては申し訳ないのだが、ふとしたときにへんなことが頭を掠めてしまう。ありがたいことに今の職場では、上司から最大の信頼も評価も得ているし、それを文書でも口頭でも伝えていただいている。そのおかげで自信ももて、さらにがんばろうという意欲がわいてくる。そういう上司の言うことならどんなことでもしたい。こういう日々を過ごせたことは、心からありがたいと思う。それが4月からにつながるのか。むろんつなげるのは自分の問題なのだが。とにかく、仕事に対する評価が本人にしっかり伝えられるということは、とても大切だ。
 では、誰のための評価か。民間と公務員ではそれが違う。企業の評価は社員の給料に反映し、学校の評価はすべて子どもたちに返っていくものである。だから、学校で評価を導入しようとしたら、子どもたちに先生を評価させるのがいちばんいい。年度末に、「やめてもらいたい先生はだれですか」という質問紙に書いてもらうようにすればいい。もしそれで、生徒の半分に名前を書かれるような教師がいたら、そういう教師こそほんとうに辞めるべきなのだ。

 民間でできることは民間にというお題目に沿って、公務員はこれからどんどん減らされ、教員も削られていくだろう。海外という特殊な環境、しかも日本人学校ではなく、現地校で学んでいるような子どもたちが、これからどれだけ「国益」を生む人材に育つか。国はそんなことをちっとも考慮してはいない。それどころか、我々の勤める場所は「おまけ」のようにしか思われていないのかと、ひじょうな憤りを感じている。

 帰国便の予約をした。規定のために、すんなりとはいかなかった。どうしてそのようなシステムを使わなければならないか、わからない。国の目はどこを向いているのか。こういうのを利益誘導というのではないか。
 ニュースを見ていたら、ますます頭が痛くなってきた。幹部が頭を下げる場面を、何度見たろう。経済大国日本は、どうなってしまったのだろう。立派な企業はたくさんあるだろうが、踏み外しっぱなしのところもたくさんあるのではないか。帰国とはいえ、まったく違う場所に行くような感覚である。

■miercoles,7,diciembre,2005
 ネクタイを締めていたせいか、午前中は少し頭痛があった。4人と面接をしなければならなかったが、どの人も人物としては素晴らしくて、その中から1人だけを選ぶのは困った。あまり相手に感情移入してしまうとよくない。だけど、ここに来る来ないに関わらずとも、力のある人はどこかで自分を発揮するに違いない。きっとこちらが心配するようなことではないのだ。それにしても、第一印象というのはとても大切だ。もっていないものは出しようがないし、長所や短所もなんとなく垣間見えてしまう。
 気温は氷点下。体感気温が−17度にもなった。もうそうとう寒い。だけど、まだまだ堪えられそうだ。
 きょうはまっすぐ帰った。航空券の手配をメールで依頼した。いろいろ厄介な規定があったので、あらかじめ文書を送っておいてから話ができるといい。
 以前見かけた写真屋さんのホームページからトロント遠景の写真を注文した。

■martes,6,diciembre,2005
 電飾を置く家が増えてきた。通勤途中の電飾を観察していると、首が左右に動くトナカイやら、透明なボールに入った雪だるまやら、いろいろと「新作」が登場しているのに気づく。なんとボールの中で雪が舞っているのである。だがそれはどこでいくらで売っていたものだという話を聞いた。なるほど、どんな目新しい飾りも、みなどこかのお店で売られている製品なのだ。そう思うと興醒めである。
 先週、電飾からの漏電がもとで家が全焼する火事があったらしい。それを売り出した店ではリコールを行い、すべての電飾を撤去したという。その影響か、今年は飾っている家が少ないという声が聞かれる。言われてみればそうかな。ちょっと寂しい感じ。でも、火事になるよりはいいか。

 METRO SQUAREのフードコートには6つの店が並んでいる。店の人と顔見知りになってくると、だいたい向こうの方から声をかけてくる。声をかけられると無視も出来ないので、その店で注文することになる。どこよりも先に目ざとく声をかける店は決まっている。そうして次第に行く店が限られてしまうのだ。違う店に行きたいときには、なるべくいつもの店のほうを見ないように遠巻きにして過ぎる。ほんとうは僕がどこに寄ろうが店にとっては構わないことなのだが、そういうのがフードコートの嫌なところだ。中には少し親しくなったために、かえって通い難くなってしまった店もある。
 たとえば、家からいちばん近くのフードコートのレバニーズ屋さんとドンかつ屋さん。向かいどうしなので、片方に行くともう片方のおじさんに見つかってしまう。きょうもうちに来なかったな。またそっちに行っている。などと思われたら嫌だなあ。などと、双方のことを考えるとなんだか申し訳ないような気持ちになってしまい、足が遠のいてしまった。そこにはもう1年以上も行っていない。いろいろな店とうまく付き合うためには、つかず離れずがいいということを体験的に学んでしまった。ほんとうは、そんなことはないと思うのだけど。
 TTCのメトロパスは今月限りでキャンセルした。先週ファックスを送ったら、職場の留守電に確認の電話が入っていた。航空券を手配しようと思ったが、担当の人がいなかったのでまた明日だ。

■lunes,5,diciembre,2005
 ゆっくり起床。引越業者に相談の電話を入れた。できれば机を持ち帰りたかったが、量と経費のことを考えて、こちらで処分することにした。その他に手放さなければならないものがいくつかある。掲示板に出せば買い手はすぐにつきそうだ。来週ダンボールが届いたら、少しずつ仕分けをしよう。
 ここを探すときお世話になった不動産業者の方にも連絡をした。遅くとも60日前に家主に電話を入れるようにとのことだった。そして、帰りの便をどうするか、ネットを見ながら考えた。エコノミーは狭いから乗っている時間はできるだけ短いほうがいい。ビジネスクラスには差額を払えば乗ってもいいそうだ。とはいえ、それだけのために20万払うような贅沢はできない。直行便にしたいが、明日職場で相談してから予約することにしよう。そんなこんなで午前が終わってしまった。だが、これで1月まではそれほど動くことはないので、平常心で生活しよう。
 昼飯はFirst Markham Placeのフードコートで食べた。豆腐が喰いたいと思って、「紅焼豆腐班塊飯」というのを頼んだら、先日喰ったのと同じだった。しかし、味も形も違っており、きょうのは生姜が効いていてうまかった。同じメニューでも店によって全然違うというのが面白い。

■domingo,4,diciembre,2005
 目を覚ましたときに、きょうも休みでないような気がした。やることがたくさんあるような。カレンダーや資料を見ながら見通しを立てた。頭の中を整理してみたら、年内にすべきことはそれほどないことがわかった。休みの朝はあっという間に過ぎてしまう。気がつくと12時を回っていた。
 午後からトロント・フィルハーモニアのコンサートに行った。今月は“The Gift of Music”というテーマで、クリスマスにちなんだ選曲だった。Holy Trinity Schoolの学生たちやThe Toronto Mendelssohn Youth Choirのメンバーが参加して、美しい合唱を聴かせてくれた。歌声も美しかったが、合唱団の人々の姿が妖精のように美しく見えた。クリスマスソングによって、この時期独特の情感を会場の人々と共有できた。キリスト系の幼稚園に通っていた頃の記憶があるからだろうか。いや、そうでなくても、日本で過ごすクリスマスも、ここの雰囲気と同じだったのだろう。それは日本がやみくもに西洋文化のうわべだけを取り入れたから、というわけでもなさそうだ。もしかすると、日本古来の感性こそが、いま世界に求められているのかもしれない。
 たとえばこの時期は、ユダヤ教ではハヌッカという祭りが行われる。メリー・クリスマスではなく、ハッピー・ホリデイという挨拶になってきたのも、一つの宗教に限らず特別な時期とされているという視野の広がりからだろう。冬至のこの時期に祭りを行うのは、北半球では普遍的なことなのだ。聖書以前の人々だって、大昔からこの時期には特別な祭りをしてきたに違いない。日本で冬至に南瓜を食べるのと、カナダでクリスマスに七面鳥を食べるのは、もとをたどれば同じことなのではないか。この時期にケーキを食べてお祝いする。国や信条を問わず、素敵なことではないか。
 地軸が傾いており、地球は太陽の周りを一年かけて回る。それによって季節ができたり、昼や夜の長さが長くなったり短くなったりする。これはとても普遍的な事実。それに、月の巡りも満ち欠けも大昔から変わっていないことなのだ。人間が自然の営みを神秘と感じ、そこに人間を超えた者の存在を見出すのは当然の成り行きだろう。そこに史実が関わりながらさまざまな神の姿が描かれるようになってきた。そんなふうに考えると、宗教による戦争なんてなんの意味もない。戦争をしかけてきたのはいつでも人間のほうであり、自然はその神秘をもっていつも人間を諌めてきたのではなかったか。何度も書いていることだけれど、きょうもまたそんな思いを強くもった。これは考えが停まっているということだろうか。できればもっと深く考えてみたい。

■sabado,3,diciembre,2005
 ここにきて、土曜日を平常心で過ごせるようになってきた。これは自分の成長というより、職員集団の成長と言ったほうがいいと思う。この集団の一員として3年間やってこれたこと。それは自分の誇りとなって、これからを支えてくれるだろう。
 それに比べて、という言葉がついつい出てしまうのだが…。たとえば、今の政府のやっていることはとんでもないことだ。教育を軽視する国はほんとうに滅びるぞ。
 これから先、悪くなっていくのを見るのは悲しいことだ。見ていることしかできないのだろうか。

■viernes,2,diciembre,2005
 日本との連絡がにわかに多くなってきた。最初の年に担任した学級の委員長がメールをくれた。なんと正月に女の年祝いをするというのだ。あの子らも33歳になるのか。驚きだ。自分とまったく変わりないじゃないか。三十を過ぎたら先生も生徒もなくなる。きっとみんな素敵な大人になっていることだろう。今回会えないのは残念だが、いつか酒を酌み交わすこともあるかと思うと楽しい気持ちになる。今度は42歳かな。楽しいけれど、当時の失敗や自分の酷さを思い返すと、申し訳ない気持ちも同時に蘇る。それを背負いながらこれまで過ごしてきた。それがあったからこその今である。何か手紙を書いてくれということだった。間に合うように送ろうと思う。
 それ以外にも、ここ数日で来年度に関する重要なメールが何通か届いた。自分がどうなるのか、今の職場がどうなってしまうのか、今の時点では何とも判断がつかないことばかり。

■jueves,1,diciembre,2005
 
ミシサガ・チャイニーズ・センター。向かう前は最後になるかもと思っていたが、飯を喰ったらそんな考えはどこかに吹っ飛んだ。なんとか豆腐飯という豆腐と白身魚の唐揚げのかかったご飯。盛りもいいし、何より味がいい。まだまだ来て飯を喰うぞと心に誓った。
 帰国が決まってから、へんに焦りのようなものを感じてしまってあたふたしていたが、もう少し落ち着いたほうがいい。まだ3か月半あるのだから、地に足をつけて毎日の生活をしなくてはいけない。やらなければならないことを整理したら、それほどのことはないとわかった。計画的にやっていけばどうということはない。
 カナディアン・タイヤで冬用の分厚いワイパーを買ってきて取り付けた。これで雪のときも心配ない。こんなに簡単に付けられるなら、これまでふた冬、普通のワイパーで我慢することもなかったのに。