2005年 7月
■domingo,31,julio,2005
 早朝から雷雨。暗い空。8時というのに真っ暗。9時に宿を出て、北へ向かうが、雷が恐ろしい。雨が激しく、前が見えない。これではだめだと途中で引き返す。ティムホートンズで朝食。
 スペリオール湖をひと目は見ようと、西の端まで車を走らす。その後は、ひたすら東に戻る。雷雨が追いかけてくるようだった。エリオットレイクというところまで行こうと道を外れたが、そこでも激しい雷雨。車内で少し眠る。
 後は、とにかくトロントまでの道のりを走る。7時前には帰ってきた。

■sabado,30,julio,2005
 サドバリーを7時に出て、1時間ほど西に向かい、エスパノラというところから南に入る。マニトゥーリン島まではそこからさらに1時間くらいかかった。ここは淡水に浮かぶ島としては最大の島で、ファーストネイション、つまり先住民たちが暮らす島だという。ブルース半島の先端、トバモリーからフェリーが出ているのだが、この連休中の予約はできなかった。そこで遠回りをして、陸路をやってきたのだ。
 島の入り口の案内所で資料を収集。博物館や土産物店、ギャラリーを回る。「インディアン」が差別語なのかどうか、ここではたくさんの「インディアン」という言葉を多く目にした。アボリジニピープルという言い方もあるし、どう呼ぶのが正しいのか、よくわからない。
 ここでおおきな祭りを見た。これについては、しっかりと記録しておかなければならない。昼はムース・バーガーを買って食べた。
 祭りを出たのが、2時半、そこから1時間でエスパノラまで。さらに西に進路を取る。スー・セント・マリーのモーテルに泊まった。

■viernes,29,julio,2005
 オンタリオ州の北のほうにはほとんど行ったことがない。一日に車で4、5百キロ走ったら、日本ではもう疲れてくたくたになってしまうことだろう。しかし、ここカナダではそれほどたいへんな距離ではない。トロントからケベックシティまでが7百キロということを頭に入れると、それくらいを一日で行くのはさほどつらいことはない。ただし、こちらの人が遠出をするときは、一日6百キロを超えないようにするのが目安だと聞いたことがある。
 職場から直接、400へ。サドバリーまで休みなしで4時間。400キロの行程を来た。

■jueves,28,julio,2005
 空が青い。車の天井から上を見ると、青い色しか見えない。さわやかな一日。
 朝は7時半に目覚めた。自分にしては異常に遅い。だが、8時過ぎには家を出て、8時半には仕事場に着いていた。こういうリズムもあるか。

■miercoles,27,julio,2005
 朝はどんよりと曇って、明るくなるのが遅かった。気温が下がったらしく、眠っていても寒く感じた。6時に外に出ると、まだ薄暗く、小雨がぽつぽつ降っていた。日の出の時刻がどんどん遅くなる。日の入りの時刻がどんどん早くなる。朝方の気温の下がり方が大きくなる。これはもう秋の気配。なんとなくさびしくなる。
 
 夕方にはさわやかに晴れ、湿度もなくて、ドライブには最適。ミシサガの中国城まで飛ばして、茄子蝦仁飯を食べた。25セントのつもりで出したのが5セントで店員に笑われた。まったく大きさが違うのに。

 その後、果物を見ていたら安かったのでいろいろ買った。パイナップル、ライチ、蜜柚というでかいみかん、小さいバナナ。南国の気分だ。

■martes,26,julio,2005
 杉浦日向子さんが亡くなった。46歳、あまりに早い。最初に出会ったのは、江戸情緒を描いた漫画の文庫本だった。あの絵がなんともよかったのだ。江戸っ子への憧れを感じさせてくれたのは、ほかでもない杉浦さんだったのではないか。ああいうひょうひょうとした方が亡くなったなんてなんか信じられない。

 自分の宝物はなんだろうと考えた。命や家族などということではなく、箱に入れてしまっておきたいようなモノは。部屋の中を見回すに、それほど取っておきたいものなんてない。それほどというか、考えてみるに何もない。だれかの形見の時計とか、だれかからもらった指輪とか、そういう心のこもったモノというのも、思いつかない。こんなことを書いたら、くれた方には悪いけれど、思い当たるモノはひとつもない。ようするに、何にもいらないのだ。

 万歩計を買おうと思って、Vaughanmillsアウトドア店をのぞいてみた。ここはスケールが違う。店内に水族館みたいなのがあったり、熊や鹿の剥製があったり、ゆっくり一周すると1時間はかかる。そこで見つけた万歩計はカロリーや心拍数が測れるものや、ラジオつきのもの、警報ブザーにもなるものなど、高機能のものばかりだった。だが、本来の目的を果たすだけの単純な万歩計は置いてなかった。もしやと思ってダラーショップも見たが、なかった。そうやって店を回っているうちに、なんだか買う気が失せてしまった。

 フードコートで、久しぶりにパニーニでも喰うかと思った。店員が「ホット?」と聞いてきたので、温かいサンドイッチのほうがいいなと思って、ホットなやつを頼んだ。ところが、パンは全然温かくない。なんだよと思いながらがぶりと頬張ると、すごく辛い。緑色の唐辛子のつぶつぶがびっしり入っている。辛くて涙が出るほどだった。なんだこりゃ唐辛子入れすぎだと文句のひとつも言いたくなったのだが、そこではたと気がついた。「ホット」というのは「温かい」でなくて「辛い」だったのだ。ばかだねえ。
 
■lunes,25,julio,2005
 道路公団の汚職は酷いものだ。天下りの奴らが私服を肥やすせいで、無料になるはずだった高速料金はどんどん釣りあがり、とにかく高い金を払わなければ移動できないような社会になってしまった。おそらくはそういう体質が何十年と続いてきたのであり、もう元に戻すことはできないだろう。ほんとうにばからしい。

 ここでひそかに宣言する。帰国したら高速道路はできる限り使わないことにしよう。あんなに法外な料金を払ってられるか。このことを考えると腹が立ってしかたがなくなるのだが、こういう構造は道路公団だけではないだろう。

 デビットカードのことを調べていて、銀行から現金を引き出すときの手数料というのも、ばからしい。他行のATMを使うならいざ知らず、自分の銀行のATMを使って自分の金を下ろすのに、どうして105円、210円も払わなければならないのだろう。それは手数でもなんでもなく、銀行の収入源になっているだけなのだ。そうやって、払わなくてもいい金を払わされているのが、日本社会の特徴ではないか。

 もうひとつ宣言するとすれば、銀行に手数料と名のつく金は1円もやらない。極力デビットカードで済ませるようにしよう。

 ところが、日本のコンビニエンスストアでは、デビットカードはほとんど使えない。どの店も、何とかカードの会員募集には躍起になっているが、ビザやマスターが付いていて特典もいろいろあるようだけど、あまり実用的でなさそうに見える。同じカードでどこの店でも買えるようでなければメリットは小さい。スイカとビューカードがついたものを発見したが、岩手にスイカが使える駅はないようだ。

 なんだかもともとのケチにドが付いてしまったようだけれど、ほんとうにばからしいと思うのだ。わからないというのは恐ろしい。行財政改革なんて、何にも進んではいないような気がする。小泉首相がかつて声高に叫んでいた「痛み」というのは、なんだったのか。つまるところ、国民を痛みにさらしながら、麻痺させる政策だったということではないのか。

■domingo,24,julio,2005
 午前4時に起床。コーヒーを飲んで頭痛予防。日記の更新を9月にきめる。きっとレイバーデイのあとになるだろう。更新はせずとも日記は書く。そこにどんな差が出てくるかはひとつの実験。夏休み期間とこじつけることもできるが、そんなわけでもない。

 チャンネルを回していたら、パット・メセニーのライブ。2時間番組の半分を終えたところだった。モントリオールのジャズ・フェスティバル。ひとりひとりの表情がよくわかって楽しい。

 カナダ滞在中に外国に旅をするのはおかしいだろうか。僕は知らないところを旅したい。自分の世界を広めることで、世界を広めようとする人を育てられる。教師が自分の自由な時間に旅をすることには大きな意味がある。だから可能な限り僕は旅をする。カナダだけ知りたいわけではなくて、世界を知りたいのだ。この目で確かめたいのだ。自分に与えられた休日に、自分に与えられた給料を使って、自分の行きたいところを旅するのが、そんなにいけないことなのか。それを声高に言えば角が立つのはわかっているけれど、こそこそする必要もないはずなのだ。それが認められないようなら、そっちのほうがおかしいのではないか。

 ロッキーに一度も行かないのはおかしなことだろうか。カナダの中でいちばん行ってみたいと思わないのが、あの有名なカナディアン・ロッキー。もちろん見てみたい気持ちはあるけれど、日本人だらけでにぎやかな観光地に、ひとりで行ってハイキングしようとは思わないのだ。P.E.I.も同じ。だから、この夏行くならニューファンドランドとか極地とか、そちらの方面になる。はじめの気持ちにしたがうとすれば、行ったことのない東に行くのが筋だろう。

 夜にはカレーを作った。自分としては会心の作であった。

■sabado,23,julio,2005
 1学期終了。粛々と任務を遂行する。スクールバスが発った後の安堵感、しかしそれはいつものことだ。来週も再来週もいつもどおりだから、学期の終わりだからとどうという感慨もなく。自分のやっていることはほんとうに何かの役に立っているのだろうかとちらと思う。こんな形の日記ではなく、ちゃんとした仕事をしてちゃんとした成果を残したんだよと、いずれ誰かに伝えられるようでありたい。とりあえずの区切り。また来週から一生懸命働こう。

 東京では震度5強の地震が起こったらしい。それでもそれほどのことはなかったらしい。来るべきものはもっと違う形相をしている。

 8時までの立ち話を終えて、足が棒のようになる。帰ってシャワーを浴びるとすっかり生まれ変わった気分。缶ビールを3本空けて、そばを茹でて喰った。その後の記憶はなし。

■viernes,22,julio,2005
 金曜日だ。朝の情報番組の「きょうは金曜日」というフレーズは特別な意味を持つ。僕はそれをしゃべるキャスターのしゃべりかたも、それを聞いて喜ぶ相手の反応も、楽しくて大好きだ。休みの前日は朝からうれしいのが当たり前で、社会全体がそういう気分になっていたっていいじゃないかと思う。金曜日には金曜日の働き方があって、学び方がある。そしてこれは、けしていいかげんということではないし、やるべきことをおろそかにすることでもない。おカタく考えることなんかないんだ。

 朝の地下鉄。何かの都合で、駅でないところで電車が立ち往生した。スピーカーから途切れ途切れに連絡の声が聞こえてくる。聞こえてくるが、聞き取れない。だが、そんなことに関わらず、内容には察しがつく。誰一人変わった動きをする客はいない。停まっていたのは5分だったろうか。10分だったろうか。おかげでその分本を読み進めることができた。地下鉄を降りてからも、きょうは歩かずストリートカーに乗る。今にも降り出しそうな空だったから、ということもあったが、きょう中にこれを読んでしまおうと思ったのだ。

 朝8時で体感温度は30度を超えている。火曜水曜あたりはちょっと涼しかったが、校舎内には熱がこもって朝から気持ちが悪い。おまけに屋上というか天井裏では工事が行われており、どんどんとうるさい。いっこうに進まない工事。おそらく9月になっても終わらないだろうと話している。

 変わらない毎日なんていう感覚がない。同じような時間に同じようなことをしているとしても、頭の中は新鮮だ。同じことを考えるということができないのだから。常に、新しい考えを求められる。きのう考えていたことは、きょうにとってはもう古いのだ。たえず頭の中を新しいものに置き換えていく。それが当たり前の生活は楽しい。なんでもないような毎日に見えて、ほんとうはいろいろあったんだなんて、ゆとりのない国では見つけ難い事実である。それを見つけたからには、生かさなければね。

 帰る頃にはすっきりとした晴天になっており、それでもストリートカーに乗った。もちろん本を読み終えるためである。音楽や映画はこれこれを聴いた観たと書けるけれど、本はそうはいかない。書いてしまったら、心のうちを覘かれるような心地がするからだ。

 読書好きだということが、あたかも読書嫌いよりも上位のことであるかのような誤解を抱いている人が現代人には多いように思う。だけど、それには反対。一生に一冊の本さえ読まなかった人でも、豊かな人生を送ることができる。本なんか読まないというような人の生活を応援したい。しかしまた、そういう人たちに本を読みなさいというふうに押し付けるつもりは一切ない。素敵に感じることは、人によって違うのだ。自分が素敵だと思えるような時間の使い方ができるように、いっしょに考えていけたらいい。

 帰ってきて読了。すっきりした気持ちはあまり続かず、なんだか力が抜けて、バカみたいになった。それは、「みんなして俺のことをバカにしやがって」という言葉が頭の中に渦を巻く状態で、だいたい一週間に一回くらいそうなるのだけれど、顔を洗ったり、水を飲んだりすれば一気に払拭できるような、体積のごく僅かなため息のようなものだ。とりあえず、荷物を置いて買い物をしてきた。

 テレビのナイトゲームを観る。ゆったりした金曜日の夜である。

■jueves,21,julio,2005
 夜、「桂」という日本食レストランで小さな会合があった。トロントではかなり有名な、高級店。この店の中はほとんど日本なのだが、違っているのはちょっと英語なまりの給仕さんと、行書体のメニューの金額がドル表示なことくらい。そこで、仕事の話や仕事以外の話をした。お刺身や焼き魚や、胡麻豆腐や焼き茄子を食べた。腹いっぱいになった。しかも、ビールに日本酒は「あさ開」の吟醸酒。しめはなんと鮭イクラの親子丼。ほろよい気分で3時間半があっという間だった。あと一度でも、こういう機会はあるだろうか。もう最後だったかもしれないな。ごちそうさまでした。

■miercoles,20,julio,2005
 道を歩いているときにしか浮かばないことがある。ちょっとした思いつきなんだけど自分にとってはおもしろい。だから、すぐ思い出すだろうと暢気に考えていても、後になったらもう出てこない。

 携帯電話で話しながら歩いている人がたくさんいる。何をそんなに話すことがあるのかと不思議に思っていたが、もしかするとあれは電話型のボイスレコーダではないのか。思いついたことを声でメモしているのだ。そう考えると納得がいくし、自分もそういうふうにだったら使ってみようかと思う。

 きょうもさわやかだったから、歩いているだけでうれしくなるくらい。ものを見るたびに言葉が浮かび、その発想はいいとか、その文は名文だとか、自画自賛しているうちに景色が移り変わっていく。しかし、その発想も名文もすぐに消えてなくなり、まあ後で思い出すだろうと、そのことすら記憶から遠ざかっていく。何かを考え付いて、それを忘れてしまうという流れ自体が、ひとつの記憶になる。つまり、忘れるということは記憶の一部ではないかと思う。なくなってしまうということは、ないのだろう。

 セントアンドリューの地下のフードコートで久しぶりにとんかつ。注文を終えて待っていると、アイスクリーム片手の女性がこちらに元気よくあいさつしてきた。誰だろうと思ったらこの店の店員だった。「待たせてごめんね!」みたいなことを言って、「そのお詫びにこれをあげるね!」と、エッグロールをひとつおまけしてくれた。僕の注文はさっきもうひとりの店員が聞いてくれたのだから、君が来るのを待っていたということではまったくないのだが。アイス片手でというのも笑えるが、これだけ元気に笑顔で言われるとこちらも思わず笑いたくなってしまった。

 MECでついにバックパックを購入。今使っているのよりも大きいから、2週間の旅くらいならだいじょうぶだろう。

■martes,19,juio,2005
 きのうまでとは変わって、少し湿度の低い日。特に午後からはさわやかな青空が広がり、散歩が気持ちよくできる陽気になった。きょうと比べるときのうは青空の青が見えないくらいに煙っていたな。ところが、これほどさわやかな晴れだと、秋の空を思い浮かべてしまって少し寂しい感じもする。7月も後半とくれば、こちらではもう夏も折り返しという感覚だろうか。

 帰り道なんとなく南へ歩を向ける。コリアンタウンを歩いていると、冷麺を食べたくなって、ふらっと店に入る。何度か来たことのある店だったか、店員のお姉さんの顔に見覚えがある。だが、見覚えがあるというより、いろいろなところで似た顔を見ることが多い。コリアンの女性の典型的な顔なのだろうか。あるいは、整形をするとこんなふうになるのだろうか。

 一つ覚えのムルネンミョン。なるほど聞き返されたネンミョンの発音がレーメンに聞こえた。ネとレ、ミョとメ、ひじょうに近い。朝鮮半島から中国までの道筋が頭の中に展開される。同じ東アジアの一角にありながら、皆言葉が違うことの残念さ。どこに行くにも、満足な会話ができないではないか。このことだけをとっても悪い歴史を引きずったものだ。カナダとアメリカとは言語の壁がない。これだけで平和的な国境だということがいえるだろう。日韓の壁を越えなければならない。コリアンタウンで飯を喰うことも、一般庶民ができる国際交流ではないか。

 そば粉の入ったような色をした細い麺。銀の器はきんと冷えて、氷がじゃきじゃき浮かんでいる。別皿でキムチにカクテキ、そしてもやしのナムルとなぜかたくわんが出た。ハサミで麺を切って食べる。うーん、まさしく冷麺。もうちょっと辛くてもいいかな。でも、これでいい。ここで食べる冷麺より岩手で食べるもののほうがよっぽど辛いと思った。

 そのまま足はロジャーズセンターのほうに向かう。きょうからマリナーズとの3連戦。まったくそのつもりはなかったんだけど、人の波につられて、見ることにした。5階席、11ドルのチケットを買って、エレベータで登る。開かれた天井からCNタワー。抜けるような青空に白い雲。吹いてくる自然の風。きょうのような日の観戦は最高。隣の男性はドイツ語で彼女にいろいろと喋っている。野球を知らない人に一から説明しているような感じ。いきなりこちらに「今何対何か」、「スコアボードはどこにあるか」と聞いてきた。それくらいなら。しかし、「あの打者はどうして塁に出たのか」という質問。デッドボールの瞬間を見ていなかったらしい。「デッドボール」と言ったら、「それはヒットバイアピッチのことだね」と教えてくれた。そうだった。デッドボールじゃ通じない。タッチアップで三塁走者が帰還したときには、「どうして彼はホームインしたのか」と聞かれたが、これには詰まってしまった。完全にしどろもどろ。その後は話しかけられることはなかった。

 試合は乱打戦となり長くなった。イチロー選手はちょっと不調、というよりもブルージェイズがよく抑えたととったほうがいいだろう。ブルージェイズのファンの中にも、イチロー選手のすごさを認める人は多いようで、イのところにアクセントのかかった英語訛りのかけ声がけっこう飛んでいた。長谷川投手も途中から登板したが、連打を浴びて苦しんでいた。ハセガワーという淀みない日本語の声援も聞こえてきた。

 大リーグで普通にプレーする選手たちを間近で観られるありがたさ。何年か前に描いていた夢が現実になっている幸せ。

 ホームの観客たちの雰囲気を身体に浴びながら、落ち着いた気持ちで3時間半。野球というスポーツはなかなかおもしろい。なんとなく、相撲と似ているような気がするのだ。間合いの長さとか、立ち合いの緊張とか、近いリズムがあるように感じる。

 とまれ、ブルージェイズが勝てばそれでいいのだ。ヒンスキーの2本塁打などで12対10の粘り勝ち。地元チームの勝利で皆和やかなムード。首位とのゲーム差は5くらいだが、順位とか、優勝争いとか、あまり関係ないみたいだ。その一戦一戦楽しめればそれが何よりなのだろう。

■lunes,18,julio,2005
 このままだと2週連続でごろごろ過ごす週末になってしまう。というわけで、12時過ぎに家を出る。しっかり歩いて汗をかいてこよう。きょうも最後の場所になるかもしれないから。

 地下鉄をブロアで乗り換え、東行きキャッスル・フランクで下車。橋を渡るつもりでいたが、案内の看板を見ると面白そうな道があったので針路変更。ディスカバリー・ウォーク。高架の下をくぐってけもの道のような人通りのない土の道を進む。葉陰の道は涼しくてよい。セミの声がわずかに聞こえてくる。キャベッジ・タウンの公園にぶつかった。園内のリバーデール・ファームという牧場を一周。ちょっとした動物園、色とりどりの夏の花。サマーキャンプの子どもたちがヤギのところで騒いでいる。きょうも蒸し暑い。「えさをやっちゃダメだぞ!」 疲れた様子の引率者が叫んでいた。

 ジェラードの通りに出て、橋を渡り東側へ。ここのチャイナタウンは規模は小さいが、けっこう賑わっている。以前通ったときよりも息吹が感じられる。町の表情なんて刻々と変化し続けるものなのかもしれない。角の果物屋でプラムを買った。2時半を回っていた。北方小館という店で魚香茄子飯を食べる。いわゆるマーボー茄子のかかったご飯。最高最高。いちばん好きな料理はこれかも。

 そのまま東へ。モールの入り口で店員のおばさんが、「水曜まで閉店です」とひとりで連呼している。客がどんどん帰っていくところをみると、さっきまでは開いていたんだ。「ブラックアウト」という単語が聞こえてくる。停電したのか。どのくらいの規模の停電か少し心配したが、近くの信号もついているし、マクドナルドも明るいし、店の電気が落ちたという程度だろう。

 リトル・インディアのスーパーマーケットで涼む。見慣れない缶の飲み物と袋入りのカレーラーメンを買う。外で缶を開けて一気に飲み干す。味は悪くない。よくみるとパキスタン製。砂糖が46グラムも入っていた。うひゃ。少し後悔。

 コックスウェルをまっすぐ北上。ダンフォースに出る。西に進むとグリークタウン。スーパーマーケットで、茄子のペーストとパンとヘンなコーラを買う。オリーヴを買おうと思ったがやめた。なるほどこうやってコミュニティのスーパーをはしごするというのは、トロントの面白さのひとつだ。

 橋を渡って着いたのはキャッスル・フランクの駅。地図でみたらたいした距離ではないのだが、歩いて4時間くらいかかった。真夏の街歩きというのもいいもの。

 帰ってから調べてみた。パキスタンの飲み物は、“Pakola”のアイスクリームソーダ。グリークタウンで買ったのは、“Inca Kola”というペルーのものだった。なんとコカ・コーラ社の製品だった。茄子のペーストを焼いたパンにつけて食べるとこれがうまかった。“fontaine sante”というメーカーの“Baba Gannouj”。日本でも手に入るだろうか。

■domingo,17,julio,2005
 早朝、雷雨。気温は下がっても、湿度は高いまま。午前中、大いに汗をかく。日本では三連休の中日か。いったい何の日だっけ。野球を見ていたら眠くなって、夜まで眠った。そのあともだらだら。いろいろソフトがたまっているから、それを観たり聴いたりする時間にすればいいものを。閉店間際のスーパーで、惣菜のところを見ていたら、ひとりのおばあさんが「今の時間は半額になるわよ」と話しかけてきた。それはお得と思い、僕もご飯物を一パック取って、割引の値札をつけてもらおうとしたら、店員のおにいさんは、「安くはならないよ」と言った。おばあちゃん話が違うじゃん。

■sabado,16,julio,2005
 きょうも蒸し暑い日。職場の近くのセント・クレア通りで、サルサ・フェスティバルが行われていた。帰りがけ、校長と二人でちょっと寄ってみた。通りにはラテン系の人々が溢れていた。ところ変わっても、夏祭りの雰囲気は同じだ。大きなスピーカーからドンドンと音楽が聞こえてくる。特設ステージでは司会の人がスペイン語で何か言っていた。「コロンビアの人」と言ったら、たくさんの人が反応していた。踊りのチームが出て、次々と踊りを披露していた。少しずつ、自然に身体を動かす人が増えてきた。ごきげんな音楽が聞こえてきたら、踊りたくなるのが自然。黙って聞いていただけでは面白くない。辻々では男女がサルサを熱く踊っていた。写真をいくつか撮ったが、このサイトのスライドショーのほうが様子がよくわかる。雨が落ちてきたのでその場を後にした。11時まで祭りは続くという。雨に構わず、みんな踊り続けるのだろう。

 ヨークデールモールに寄って、A&Wで飯を喰った。いつのまにか、ルートビアが好物になった。湿布臭くて半分も飲めなかったのにね。

 HMVでCDを、LCBOでビールを買って帰る。M.I.A.という人のアルバム。クール。

■viernes,15,julio,2005
 しばらく月を見ていない。この季節は窓から見えない角度で上がるからだろう。野球をつけながら、裁縫をする。買ったばかりのズボンの尻の縫い目がしゃがんだ拍子にぷつぷついって見事にほつれた。こんなことがここに来て多くある。けして、体型と合わないものを履いているわけでない。同じ中国製でも、縫製の基準が日本と違っているのではないだろうか。

 街で日本人の若者たちを目にすることがある。きょうはたまたま頻度の高い日だった。乗り物の中で日本語を聞くのはどうということはないが、その話し方や笑い方や態度を見ていると恥ずかしくなることもある。ほかの人が日本語を知らないと思ってかどうかは知らないが、あまり周囲を考えずに馬鹿笑いしているようなかたまりもある。いくら内容が理解されなくても、あれは日本語だな、日本人だなというのはわかるし、どういう会話をしているのかもわかるものである。さらに、日本や日本語に興味をもっていたり、日本語を勉強していたりする人は意外と多いのである。日本人はこんなふうな人たちなのだと思われたら嫌だと思いながら、その場をやり過ごす。

 例えばワーキングホリデーで来なくてよかったと思うときもある。1年ではわからないことを日々体感しているはずだからである。それに、20代の感性ではわかりえない叙情を味わえているはずだからである。この年齢にして、少なくとも3年、この街や国、そうして自分自身とこうやってたっぷり向き合える。そのことが自分にしかできないことではないか。

 というように言い訳めいたことを書こうとすること自体、事態は行き詰っているといえるだろうか。それはわからない。

■jueves,14,julio,2005
 朝のテレビで地下鉄が止まっているというので車で出た。CNタワーはスモッグに煙っており、きょうもすっきりしない。もちろん変わらず蒸し暑い。集中力ゼロ。仕事部屋に冷房の装置はあるが、効きが悪い。そこで、中のフィルターなどを手洗いしてみたが、それほど効果があらわれたわけではなかった。

 問題は、この湿気である。教科書に出ていた「六月の蠅取り紙」という小説を思い出す。はじめはおもしろいと思わなかった。だけど、授業するからには授業者がおもしろいと感じなければならない。おもしろいと感じるようになって初めて、おもしろさを伝えることができる。だが、ようやく心からおもしろいと思えるようになったとき、その教材は教科書から消えていたという話。そんな教材の選び方は、教科書に載っているからとはいえ、お粗末なのであった。教師失格である。

 とにかく、蒸し暑い。日本と変わりないと周りの人々が言う。そう感じる。日本の気候が亜熱帯に変わっているという。それをいうなら、ここの夏もすでに亜熱帯である。

 帰り道。トロントの西隣ミシサガのチャイニーズモールでかた焼きそばを食う。モールには冷房が効いておらず、フードコートはまるで香港の屋台街の雰囲気。やっぱり亜熱帯。

 なんだか毎晩麺類ばかり食べている。

■miercoles,13,julio,2005
 天気のことばかりだけど、きょうも蒸し暑い。記録更新の夏。忘れられない夏になる理由がいくつも。日本はこれから梅雨明けで、夏本番を迎えるという。感覚に時差がある。こちらでは8月の声を聞くあたりにはもう秋の気配が漂い始めることだろう。

 それにしても、どうしようもない人というのはいるものである。がっかりさせられることが多い。こういうことを考えるときには、自分も誰かからそう思われていることを想定する。きっと自分も誰かをがっかりさせていることだろう。好意的にとれば、まだ自分の中で生かしておくことはできる。でも、もうその必要もないだろう。人殺しは、心の中でなら何人だって許される。心の残酷さを覆い隠すように、僕はきょうも笑顔になる。目の前の人々に対して、誠意を尽くせるような気になる。これって偽善か。僕は何人の心の中で殺されているだろうか。

 帰りには、MECに寄ってバックパックを見る。機能的で美しいデザインのものが目に付く。いいものはやっぱりいい。背負っても楽だろう。それに比べて今使っているやつの貧弱なこと。鏡に映った背中がかっこ悪くてしょうがなくなった。きょうは見るだけ。今度来た時に買おう。

 その足で、CBCの地下のフードコートに入る。夏休みの子どもたちがマクドナルドの前にたむろしてだべっている。カウンターに並んでいる高校生たちは、前後の人と身体をぴったりくっつけている。冷房の効いた地下街とはいえ、蒸し暑いのは同じ。あんなに密着して、見た目暑苦しい。パーソナルスペースが狭いというか、共有範囲が広いというか。劇場の座席の狭さなどにも感じるが、日本人の僕からすると、こちらでは意外と不自由な空間感覚がまかり通っていると思われることが多い。

 8時までやっているタイとベトナムの店。熱いラーメンのスープが飲みたくなる。ラーメンはなかったが、鶏肉の入ったうどんを頼む。汗をだらだら流しながら、うどんをすすり、汁を飲み干す。うめえ。

■martes,12,julio,2005
 朝から蒸し暑くおまけにスモッグ警報。煙った空気。目と鼻の奥につんとした刺激がある。8時ですでに30度になろうとしている。セントクレア駅から歩くと、シャツのバックパックのところがすでに汗でぬれている。顔からも汗が噴出すのだが、それでも歩くと楽しい。タオル片手の出勤。きょうも予想は35度。とんでもない暑さの夏になった。よく聞く話だが、以前はもっとさわやかだったのだそうだ。

 帰りも駅まで歩く。蒸し暑さで少し気持ちが悪い。だけど、最後の夏を味わうようにしっかり踏みしめる。道沿いで子どもたちが遊んでいる。夏休みの子ども。2歳くらいの子が玄関先で泣きながら地団太踏んでいる。母親が何か喋って先に家に入っていった。裏通りに面した家の軒先には、プラスティック製の椅子が並んでいて、人々が座ってじっとしている。暑さを凌ぐにはいちばんいい方法かもしれない。ベトナムのビアホイを思い出す。歩きながら、熱でおかしくなった頭でいろいろなことを考えた。いまここでしか考えられないようなことをたくさん考えたなあと満足げに思っていたのだが、帰って風呂に入ってさわやかな気持ちになったらそんなことを忘れた。寝る前にできるだけ思い出して記録しておこう。

 小さい子どもたちがかわいい。なんだかとっても健気に生きている感じがする。それなら自分の子どもがもてたらもっとかわいく思うだろうかというと、どうだろう。他人の子どもだと思うから、かわいがることができるのではないだろうか。だいたいそうやって、好きなものには遠巻きに付き合うというのが、今までの自分の関わり方だった。教師の仕事は、所詮親でないのだし、とことん付き合うとしても仕事止まりなのである。仕事として責任を持ち、仕事として成長を期す。現代に適応し、社会を創造する人材として育て、世に送り出す。仕事としての愛であり、それはとても間接的だ。以前にもまして学校の責任、教師の責任が重く問われるような世の中になってきているけれど、その中に責任回避しようとしている親はいないだろうか。

 ずっと先、社会がもっと高度化していったら、教師という仕事は必要なくなるかもしれない。親が直接的に育てればいいのだから。親の責任で、我が子を育てることができればそれがいちばんいい方法だろう。少なくとも小学校中学校は、そうなるまでの過度的な役割と考えることができるのではないか。

 カナダでは、その地理的条件から、学校に通うことを免除されている子どももいるそうである。つまり、自宅で親が教育することで、学校教育に振り替える制度らしい。たしかに、学校に通わせたくても近くに学校がない地域がカナダにはたくさんあるに違いない。そういうところに住む子どもの教育を国が保障しようとしたら、そういう選択を用意するのは当然だろう。日本でも、学校を減らしている現状を考えれば、学校に通わせないで教育するという選択肢を設ける必要があるのではないだろうか。これを消極的な意味でなく、教育の枠組みを考え直すという意味で、ひとつのヒントとなるように思う。

 いずれ、僕は50歳を目処に今の仕事に区切りをつけよう。あと10年のところで、その次の身の処し方を決める。いつまでも好きなことだけしていたい。自分にはそれができるだろうと思うし、自分だけは、そうしなければならないと考えている。そのために、愛情を犠牲にしたとしても。

■lunes,11,julio,2005
 土曜の夜からほぼ48時間部屋に閉じこもっていた。2日間ともよく晴れて暑くなった。スモッグ警報とエクストラのつく高熱の警報。暑さを避けたわけではなかったが、結果的には涼しい室内でごろごろと過ごしたことになる。夕方から3時間くらい車を飛ばす。シャツなど少し買う。飯を喰おうとするが食欲がない。帰ってから麺を茹でて喰った。
さえない休日が終了。早めに就寝しよう。

 サイトの日記更新を停止して一週間が過ぎました。ブックマークしてくれていたかたにも何の連絡もしていません。日記才人も解約してしまいましたので、マイ日記に登録してくれていた方からもアクセスがなくなりました。

 ずいぶん一方的で、自分勝手なことをしてしまいました。楽しみにしてくれていた方の気持ちを考えると、たいへん申し訳ない気持ちです。


 更新再開は9月はじめと考えています。それまでは、日記の公開は控えさせていただきます。

■domingo,10,julio,2005
 ゆうべ早く就寝したため、夜中の2時過ぎに目覚める。少し頭痛。もう一度寝て、起きたら8時だった。頭痛。コーヒーを淹れる。午前中は例によって、ボーっとしていた。きのうの話でも、休みの日にはどうして過ごすんですかなんて質問があって、午前中はボーっとして過ごしていますなんて正直に答えた。ちょっと失望させたかもしれない。すばらしく、スポーティヴな休日を過ごせればいいのに。

 テレビはなるべくこちらの放送を見よう。あまり英語が耳に入らないのだけれど。それでも毎日英語ばかりの環境にいれば、少しはいいと思う。

 午後はどうやって過ごしたか。スポーツニュースを見て、野球を見ていたら眠くなった。それで2時間くらい眠った。外に出る気持ちも起こらない。

■sabado,9,julio,2005
 一日動き回っていたような。インタビューをされる側を体験。職業についての素朴な質問。あらためて聞かれると、はっきりとは答え難いこともある。でも、素直な目が新鮮。この仕事のたいへんなところも楽しいところも皆コミュニケーションにあるということは、子どもたちも感じているようだ。君たちとこうやってやり取りできることが何よりの素敵なことなんだよというメッセージを、僕らがまっすぐ伝えていくことの大切さ。

 サラダパーティの学年は、皆色とりどりのエプロンに三角巾をつけて、野菜を切って、グループごとに工夫した盛り付けをする。みずみずしい7月の野菜の香りがひろがっていた。おいしいという言葉に、満足そうな顔。こちらもうれしい。人に喜んでもらうことの喜びを覚えたこの子たちが、その気持ちをいつまでも忘れないように、ずっと守っていかなければならない。

 放課後は会議や講習会が続く。視聴覚機器の扱いを、これだけまとまってやったのは初めてだった。必要に迫られて、身につけていく。どんなことも、そこから。

■viernes,8,julio,2005
 あと1年とか半年とか、滞在時間や残り時間などはあまり重要ではなくて、ここにしばらく身を置いたという体験こそが重要なのだろうと思う。その意味を問いはじめている自分がいるが、その答えはおそらくここを去ってからもしばらくはみつからないだろう。以前はかりに3年の期間だとしたら帰ってからまた3年かかるなんて考えていたが、そういうものでもないような気がしてきた。意味を問うには、離れてみることが必要だ。いろいろな場所に移動するのは、今までの自分とこれからの自分を見定めるため。他人との距離を測りながら、自分の立つ位置をできるだけ正確に特定するため。

 考えていることを誰かと共有したい気持ちもある。でもそれは不可能だと思う。想像してみようとすることはできるかもしれないが、わかることはできない。そうかなあと声が聞こえてくるけれど、自分が誰かになることはできないのだ。それをわからなければ、人と結びつくことなんてできない。できない。できない。とまあそう割り切ってなにかをするときがあってもいいだろう。希望は捨てていない。

■jueves,7,julio,2005
 世の中、毎日いろんなことがありすぎて、あれよあれよという間に通り過ぎていく。ロンドンのテロを朝のニュースで知り、夜のニュースを見て、もうずいぶん前のことのような気分になっている。血だらけの人がインタビューに答えているのを見ても、救急車がサイレンを鳴らして走るのを見ても、いまひとつ現実感がない。トロントでも、公共交通のセキュリティについて議論になっているけれど、どの都市でもそんなことを言い出したらきりがないような気もする。日本のニュースをみると、国全体がずいぶん間抜けに見える。まるでひとごと。あれだけ大規模なテロを経験しているのに、すっかり忘れてしまっているような感じだ。東京は危ないと思う。地球上のあちらこちらがもうテロと隣り合わせの日常になっている。誰かがしかけた爆弾で自分が死ぬかもしれない世の中になった。

■miercoles,6,julio,2005
 2か月くらいはこのまま更新せずにいこう。旅を終えてそんな気分になった。さまざまな要因があるのはわかっているが、旅によって変化が具体的になったということは、それだけこの旅がいい旅だったということになるのではないか。

 日記才人のリンクもすっかり外してしまった。誰のアクセスもなくなった。地球にぽつんとひとりになったような感じで、孤独感が増した。でも、よりそのほうが真実に近い。誰に気にかけられるでもなく、ひとりで生きていく。これから先も何も変わらないだろう。現実世界との輪郭がくっきりする。皮膚がむき出しになる。ネットで夢を見るよりも、あちこち傷を作りながら地球上を歩き回るほうが面白い。

 顔も見たことがない誰かの言葉に頼るような存在でいたくない。会ったこともない人との結びつきなんて幻想だ。愛すべきその日常から少し離れよう。ネットの中で自分ひとりが不意に欠落しても、誰もなんとも思わない。バーチャルなことのつまらなさ。そんなの命でもなんでもない。そんなところに身を置く必要などないのではないか。

■martes,5,julio,2005
 しばらく更新を休みます。ありがとうございました。

■“Google Earth” lunes,4,julio,2005
 見てみたら驚きました。住所を入れたら、我が家の建物の上まで飛んでいきました。もちろん日本上空からの写真も見ることができます。試しに自分の住んでいる町を入れてみてください。すごいよ。もうすごいどころじゃない。世界は変わった。世界なんて呼び方はもう古いかも。

 ちなみに、私が現在住んでいるところへは、次のように入力すると飛んでいくことができます。M2N6Y6。これはカナダの郵便番号に当たるポスタル・コードというものです。