2005年 5月
■月末 martes,31,mayo,2005
 こちらの現地校では、夏休みまで一か月を切っていることもあって、子どもたちがかなり浮かれてきている。子どもたちばかりでなく、先生方も浮き足立っているように自分には見える。朝から廊下で歌ったり、暴れたり。きょうの午後には2教室からビデオとテレビを借りたいと申し出があった。授業ではなく、何かの映画を見せてお茶を濁そうというのだ。日本の教師なら、学年末の締めをしっかりやろうと考えるところだが、どうにも気分がだらけてしまっている。いいのだろうか。
 今朝のメトロに、オンタリオ州が学級の定員を引き下げるというニュースが出ていた。2007−2008には20人学級になるらしい。日本ではようやく30人になるという。人数の多いところでよくやっている。学級定員の話だけではなく、日本の教師というのはたいへんまじめに仕事をしていると思う。カナダの教師がまじめでないということではないが、まったく異なる感じは否めない。

 帰宅後車で買い物へ。交差点で待っているすぐ横の対向車線で、追突事故があった。女性ドライバーが急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。その拍子に、2台後ろの車もその前にぶつかった。女性の前の車に乗っていたスーツの男性が静かに下りてきた。きっと彼はむち打ちになるだろう。後ろでぶつけられたピックアップトラックからはスキンヘッドの若い男性が2人下りてきて、怖い顔でこの女性に何か言った。すると女性も怖い顔で負けずに何かしゃべった。信号が変わったのでその場を去ったが、事後のことを考えるとみな気の毒だ。絶対安全運転を貫こうと思った。

■ブルース半島 lunes,30,mayo,2005
 ヒューロン湖に面するブルース半島というところに行ってきた。途中まで天気はよかったが、北に向かうにつれて雲が厚くなり、半島の突端に着いた頃には小雨が降り出したがほどなく止んだ。灯台のところで少し休んでから、国立公園内のブルース・トレイルという散策道を歩いてみることにした。半島には大小さまざまな湖があって、いくつもの小道がついている。入場料を払い、駐車場に車を停め、サイプラス湖という湖からジョージア湾に抜ける道を、ゆっくり1時間くらい歩いてこよう。案内板にはクマに注意の文字があるが、まさかこの日中には出ないだろう。何ももたず、軽装で軽い気持ちで出発した。平日なので人もいない。10分と経たないうちに湖に出た。眺めていると、向こう岸になにやら黒い影が。すぐにクマとわかった。ずっと水際を歩いている。そして、どんどんこちらに近づいてくるではないか。しかも、思ったよりもでかくて、体長2メートル以上あるだろう。このまま歩いてきたらたいへんだ。鼻のところが白くなっているのも判別できるくらい近くに来た。このままだとクマにぶつかってしまう。危ないと思って引き返した。
 駐車場の近くまで戻ったところで2人の女性とすれ違った。「気をつけて。今湖のところでクマを見ましたよ、でかいクマ!」とジェスチャー付きで精一杯伝えたのだが、2人は「オーケー、サンクス」と言ってそのまま行ってしまった!どうしよう。体を張って引き止めるべきだったんじゃないか。あるいは、こういうことは日常茶飯事だから、驚きもしないのだろうか。何もなければいいけれど…。帰り道は気が気でなかった。帰ってテレビを見たら、オンタリオではなくどこか別の州でクマに襲われた人がいたというニュースが流れていた。ということはさっきの2人には何もなかったわけかと思ってほっとした。

 野生のクマに出会ったのはこれが2度目。1度目は北上山地で、早朝5時くらいだった。あのときは車の中からだったけれど、今回はまったくの無防備な状態だった。あまりになんの準備も心構えもなく、自然の中に入り込んでしまったのだと反省。思えば岩手の山中でもそれは同じことだったのだ。いままで何もないというのは、幸運なことかもしれないと思った。デジカメで動画を撮影したのだがまだ見ていない。うまく映っていたらアップしようと思う。

■日曜 domingo,29,mayo,2005
 元気だったら遠出をしようかとも思っていたが、やめた。やっぱり疲れが出た。休みになると、何も考えられなくなる。こういうときには考えないほうがいい。週のはじめからちゃんと頭が働くように、ゆっくり休みましょう。そう思って、2度寝、3度寝。
 夕方5時、行動開始。太陽はまだまだ高いところにある。気持ちのよい風が吹く日。寝ていたのはちょっともったいなかったか。メトロスクエアで、遅い昼食に麻婆豆腐飯を食べた。

■土曜 sabado,28,mayo,2005
 さわやかな日が続く。からっとしてはいるのだけれど、なぜか汗ばかりだらだら流していた。いつも土曜日はそんな感じだ。帰ってからはテレビを見ていて夜中になった。オレンジでまた太腿がつった。来週はますます忙しくなりそうだ。明日は休みだというのに、気がかりで落ち着かない。これではいかん。

■プレイデイと夕立 viernes,27,mayo,2005
 朝早くは曇っていたが、9時頃にはすでに青空となり、日中はきょうも夏の陽気だった。だが、湿度がいくぶん高くなり、不快指数は若干増した。卒業式までひと月を切り、きょうの午前中はプレイデイ。3階の窓から見下ろすと、子どもたちが校庭に出て、いくつものグループに分かれて遊びをしている。縄跳び、リンボー、バスケット、ポテトサックレース、フラフープ…。それぞれがそれぞれで遊ぶ。運動会とはまったく非なる学校文化。ひとりの先生がDJのようにかっこいいアナウンスをし、皆が一緒にカウントダウン。3、2、1で次の遊びへと一斉に交代する。そして、10分くらい遊んではまた次の遊びへと移動する。スピーカからの大音響で、オフィスの電話もままならない。さいわい深刻な電話がなくて助かった。ボランティアの保護者たちが、飲み物や果物を用意して、休憩の子どもたちがそれを口にする。

 夕方一瞬電気が切れた。しばらくして一度だけ大きな雷がとどろき、音もなく雨。夕立にしては勢いがなく、10分ほどでまたぴたりと止む。すぐに青空も現れた。立ち上るアスファルトのにおいもまた夏のにおい。

■草のにおいとオレンジジュース jueves,26,mayo,2005
 すっかり夏になった。遅い春なんて言っていたのが、もうどこからどう見ても夏だ。8月の装いとなんら変わりないのだから。朝の街で、山の中に住んでいたときと同じにおいをかいだ。青い草のようなにおい。この街にも緑が多く、それがいっせいにフィトンチットを噴き出しているのだ。400人の村と250万人の都市と、この時期に同じにおいが広がっている。だけどそれは当たり前の話で、そういうにおいのしない土地など、ほんとうは人の住むところではないのだ。

 オレンジジュースはなんてさわやかな飲み物なんだろうか。果物の恵みを考えると、どうしたってこの世界が偶然のものだなんて思えなくなる。誰かがわざと創ったに違いない。その人の人格がいろいろと複雑なために、いろいろと複雑なことが起こるのに違いない。

■音楽 miercoles,25,mayo,2005
 朝から夜まで最高の天気。仕事場までの道のりも楽しくて、すれ違う人と笑顔であいさつを交わしたくなる気持ちもわかる。仕事を終えてさわやかな夕暮れ時に外で立ち話したくなる気持ちもわかる。5月は、外の季節のはじまりなのだ。
 そんな素敵な季節にも関わらず、ヘッドホンをしている人がたくさんいてもったいなく思う。この風を聴かないで何を聴くというの。今しか聴けない音楽、ここでしか聴けない音楽が、流れているのがわからないか。

■アップル・ストア martes,24,mayo,2005
 21日に開店したアップル・ストアに寄ってみた。モールの一角、それほど広い面積ではないけれど、どこをとっても心ときめくつくりだった。こちらのコンピュータ屋ではあまり買いたいとは思わない。なんだかよくわからないパソコンばかり置いているような感じがして。それに比べると、アップルはどこをとってもアップルだから、安心だ。次はやっぱりマックにしよう。

■ビクトリア・デイ lunes,23,mayo,2005
 天気はあまりよくない。疲れを取るために一日ゆっくりと過ごす。旅の行程をつぶさに記録しようというのは自分の癖だが、これをやることで整理がつく。旅の意義はこれからじわじわと感じられればいい。眠いのと集中力が出ないのが困った。今回の旅でわかったことがある。運転のしすぎはよくない。時間がかかったことは、クジラが目的だったからそれはいい。だが、これほどまで疲れると後に影響が出る。
 ビクトリア・デイの花火が窓の外に見える。ここから見る3度目の花火。結局一日どこにも行かず、家でじっとしていた。夏が来る。頭はもうそのことでいっぱいになっている。

■帰路 domingo,22,mayo,2005
 きょうもどんより曇り。7時過ぎに宿を出て、シクティミから西に車を走らせる。Lac Saint-Jeanという湖まで行く。通り過ぎる静かな村々には、まるで日本のような建物が立ち並んでいた。それは、建物の色の感じや、材質が似ているからだろうか。冬にはそうとうに雪が積もるところだろう。歩道には、スノーモビル用の看板があった。湖への客を当て込んだアイスクリーム屋などがあって、短い夏への人々の期待が感じられた。日曜日の早朝、通りでは誰にも会うことはなかった。

 湖畔に出ようと思ったが、出られる道がない。水縁はどこも別荘や住宅になっており、徒歩でさえ勝手に入ることができない。日本の感覚では湖に面した土地はみんなのものだが、ここでは個人のもの、私有地だ。もし湖で遊ぼうと思ったら、クラブ等に予約を入れる必要があるのだろう。地図によるともっと回れば自然公園があるようだが、そこまでは50キロ以上ある。あきらめてまた引き返した。

 シクティミからラ・ベエという町へ。フィヨルドの最終地点のひとつがさっきの湖であり、もうひとつがこの港町である。湾の名前はBaie des Ha! Ha!(ハ!ハ!湾)。地名に“!”がつくのは珍しい。なぜこんな名前が付いたのか不思議だ。物語を聞いてみたいと思った。ここから海がはじまる。フィヨルドを100キロ進むとセントローレンス川に出、そこからさらに数百キロで北大西洋に出る。昔から、ここが海への旅のはじまりの地だったのだ。なぜその湾の名前が「ハ!ハ!」なのか。

 そこから381号線に入り、ひたすら南下する。ここは山岳道路で、上のほうにはまだ雪渓が残っており、湖が凍っていた。Lac Ha! Ha! (ハ!ハ!湖)という湖があり、近くに小さな屋根つき橋があった。2時間の道のりは起伏が激しく、景色は絶景で、やはり岩手の山中を走っているのと同じような感覚になった。平地をまっすぐ走るのもいいが、こういう曲がりくねった道も走りがいがあってよい。

 ベ・サン・ポールという町の北で138号線に合流する。きのう北上した道を南へ下る。ベ・サン・ポールのダウンタウンに入ると町のロードレース大会の最中で、ゼッケンをつけて走る老若男女がいた。教会の駐車場に車を停めて歩く。オンタリオの町とはまた違った雰囲気のきれいな通りには、両側にギャラリーばかりがびっしりと並んでいる。きれいなギャラリーを3つくらい見て回ると、なんだか豊かな気持ちになった。さすがに雪景色を描いた作品が多く、特にNicole Laporteという人と、Lise Labbe'という人の絵が気に入った。冬に外で子どもたちが遊んでいる絵がいい。

 ケベックシティの手前で360号線に入る。地球の歩き方によると、ここは北米最古の街道で「王の道」と呼ばれており、19世紀の入植当時からのケベック様式の民家が残っている道である。なんともいえぬきれいな色合いの民家がいたるところに普通に建っている。家々によってペンキの色が違うのだが、それらが不思議と調和している。どうしてこういう微妙な色遣いができるのか。大聖堂や大きな滝を通り過ぎ、今回はオルレアン島にも行かずに通り過ぎた。

 その後立ち寄ったのは、セントフォワというところのショッピング・モール。朝から何も食べていなかったので、フードコートでピザを食べる。CDの店で何枚か買った。試聴コーナーにあればそれを聴いて、あとは、ジャケットの良し悪しだけで決める、くじ引きみたいなものだ。以前ここで素晴らしいアルバムに出会って以来、1、2度なんとなく立ち寄ってはCDを買っている。今回の収穫はOZTARAというグループのCDだった。サイトの“Le CE'DE'”と書かれたところから入ると試聴ができます。

 今回はケベックもモントリオールも見ずにこのまま帰ることにする。火曜日から仕事するには、1日ゆっくり休まなくてはならない。この2泊3日の旅の総走行距離は2500キロになった。もう若くもないのに無茶なことをした。岩手と大阪を往復してさらに東京まで行った距離と同じだ。むろん日本で高速を運転するときとは比べものにならないくらいに楽ではある。帰りは何度か休憩しながら走り、家に着いたのが1時半だった。

■ホエール・ウォッチング sabado,21,mayo,2005
 明るくなってわかったことに、モーテル「カプリ」はセントローレンス川沿いにあった。曇っていたが、そこらを歩くと気分がよかった。岸へ出ようと思ったが、どこも私有地になっており出られなかった。

 よくあるコンチネンタルの朝食はあまり好きではないけれど、今朝はたっぷり食べることができた。自分でパンを焼いて食べる式は人がいると落ち着かない。以前京都だったかのホテルの食堂でトースターのパンを取って食べようと思ったら、「それはオレのだ」と言われて跋が悪かったのを思い出した。きょうは朝一番の客だったらしく、主人が慌てた様子で新聞を持ってきてくれた。しかし、あいにくフランス語だったため読めなかった。タドゥサックまではどれくらいかと聞いたら、ケベックシティからは2時間か2時間半だと教えてくれた。

 建物の前で、中国人の家族とすれ違った。母親と小さな女の子がボンジュールと言ってあいさつしてくれた。後からその父親が来て、「チャイニーズ?」と聞いてきた。「いいえ、日本人です」と答えると、その人の口から「おはようございます。こんにちは。さよなら。おやすみなさい…」と、あいさつ言葉が次々と出てきた。驚いて聞くと、これらはすべておじいさんから教わったそうだ。おじいさんは、第二次大戦中、日本が中国を占領していた頃に覚えたのだという。彼は笑顔だったが、まだ何か言いたそうだったように見えた。「朝食は済んだのか?」と聞かれたので、「今食べたところです。お気をつけて」と言って別れた。

 車に乗ってからしばらく、複雑な心境に陥る。こうやってアジアの人とコミュニケーションをとるとき、少なからずこういうことがある。もしさっきの家族と食事を共にしていたら、どんな話になったろう。楽しい話になったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。今月の4日にはバンクーバーでもデモがあったという。感情をぶつけられたら、対処のしようがないだろうなと思った。民族的といったらいいのか、国家的といったらいいのか、そういう経験は忘れることはできないものだ。ドイツはそれを永久に忘れまいと誓った。そして、日本はそれを水に流そうと考えた。そんな認識は誤りか。60年も昔のことなのに、どうしてこんな気持ちにさせられなければならないのだろう。

 ケベックシティに着いた頃から雨。この連休は天気がよさそうだというのはオンタリオの話だったのか。ガソリンスタンドで料金を払おうとすると、店のおにいさんがフランス語で何か話しかけてきた。わからないというと、「何か飲み物は?」と言うので要らないとことわった。タドゥサックの鯨ことを聞こうとしたが、“whale”の発音がどうしても通じない。「ホエール」じゃだめか。紙とペンを渡されて、それに書いてやっと話が通じた。彼はタドゥサックの近くの出身だという。ここから2時間で着くそうだ。最後に言われた“Keep your smile !” という一言が気になった。単なるあいさつなのか、それほど顔が引きつっていたということか。

 138号線をひた走る。雨は激しくなる。ガソリンスタンドの価格表示はどこも同じリッター92.4セント。州内は共通なのか。しばらく行くと90.4セントに変わった。いずれにせよロングウイークエンドは高い。

 途中の案内所で、ホエール・ウォッチングの詳しい情報を得る。船が出ているのは3つの港からで、だいたい午後1時の便が最終らしい。4つの会社のパンフレットと周辺の観光地図をもらった。うまくいくと間に合うかもしれない。しかし、地図をよく見るとタドゥサックはサグネー川の向こう岸にある。橋はないのでフェリーに乗らなければならない。その時間を考えると、タドゥサックからの船にきょう乗れるかどうか。川のこちら側、サン・カトリーヌからも観光船が出ているらしいので、とりあえずそこで聞いてみよう。

 着いたのは1時過ぎ。雨は止んでいたが、山道は思った以上に時間がかかった。一つの土産物店兼券売所のようなところで聞くと、きょうの船はもうないという。「ゾディアック」という20人乗りくらいの小型船は予約が満杯で、大型船は波が荒れているから出ないのだと。ところが、その建物から離れた別の会社の券売所に聞いてみると、「1時45分発の船があるよ!大型船だから寒くないよ!」とおじさんが歌うように言う。約2時間半、税込みで59.8ドル。聞いてみるものである。

 どこかの中学校のスクール・トリップなのか、波止場で生徒たちが20人くらい騒ぎながら船を待っている。言葉や肌の色こそ違えど、やっていることは似たようなものだ。外は風が強く、薄着できたことを少し後悔した。小型船に乗り込む人々は、全身オレンジ色のお揃い防寒着を装着して待っていた。観光バスが何台か来て、人がにわかに多くなってきた。やってきた船にはもうすでに何人かが乗っていて、降りても来ない。タドゥサックを1時半に経った船がここに寄るのだ。わざわざ向こう岸に渡る必要もなかったわけである。

 船の上はさらに風が強く、波も荒く、大揺れ。しばらくは他の人々と甲板の前のほうに出ていたが、30分ももたなかった。それに、時おり水しぶきがかかって冷たかった。場所によっては頭から水をかぶり全身ずぶ濡れになってしまった人もいた。それでも、人々は大笑いしてその状況を楽しんでいるようだった。

 大西洋に注ぐセントローレンス川。川といっても向こう岸がまったく見ることができないくらいに広い。降りかかった水をなめたら塩からいのがわかった。こういうのを汽水域というのだろうか。ここにクジラやイルカが生息しているということだ。女性の声でフランス語のアナウンスがスピーカから聞こえてくる。ベルーガという単語がしきりに聞こえてくる。ベルーガとは白いイルカのことをいうらしい。どうやら、それが右に顔を出した、今度は左に出たとしゃべっているとみえ、それを聞いた人々がいっせいに船の右に行ったり左に行ったりしていたのがおかしかった。しばらくして英語が聞こえてきたが、フランス語に比べるとあっさりしたアナウンスだったように思う。クジラは15分に一回は呼吸をしに水面に顔を出すんです。ですから、見つけるのは難しくはないんです。そんな台詞が何度か聞こえてきた。よく考えてみるとこの女性は2時間半の航海のあいだ、ずっと休みなしでしゃべり続けていたのではないだろうか。ガイドブックには6月から10月がシーズンだと書いてあったから、きょう見られるかどうかはわからなかった。それでも、人々の動きを見るだけでもこの船に乗った価値はあると思った。観察がいちばんおもしろい動物は、なんといっても人間だ。

 途中最下の部屋にある売店でコーヒーを買って休んだ。船室の中は暖かく、外には出ないで終始座席に座っている人もいるようだった。それに、テーブルにうつ伏せになっている船酔いの人々も多かった。さっきは元気だった中学生たちの中にも青い顔をしている人たちがいた。見ているだけでこちらも気持ち悪くなりそうだったから、早々にまた外に出た。

 外でも船の後ろ側に回ると風も来なくて意外と暖かい。いい場所を見つけて、そこから水を眺めていた。船が港に近づいてきてもう旅も終わりかという頃になって、またアナウンスがうるさくなった。水の上を見ると、白いイルカが近くに顔を出したり、くるんと飛び跳ねて背中を見せたりしていた。お、ベルーガベルーガ!何枚か写真にもおさめたが顔は写せなかった。クジラこそ見られなかったが、ベルーガが見られたのでじゅうぶんよしとしよう。さっきまでは何も見られないと思っていたのだから。イルカが出たとき、人々はもっと騒ぐかと思いきや、急にしんとなったような感じだった。ビデオ片手の若者二人組がいたが、どうもチャンスを逃したらしく残念そうな表情をしていた。

 港に近づいてきたからそろそろ終わりかと思ったら、船はそのまま入り江の奥に進んでいった。サン・カトリーヌとタドゥサックに挟まれたサグネー川は、フィヨルドを形成しており、水際がすぐ切り立った崖になっている。この船は、クジラやイルカだけでなくフィヨルド・ウォッチングの船でもあったのだ。百聞は一見に如かず。なるほど幅の広さはリアス式海岸とは別物だということがよくわかった。だが、この崖を見ていると北上山地の山々とちょっと似ていた。

 この入り江の約100キロ先にはシクティミという町がある。昨年の10月に、アイルランド沖を航行中のカナダ軍潜水艦「シクティミ」が火災を起こし死者を出した。イギリスから払い下げた中古潜水艦の事故ということだったが、この事故でシクティミという名が耳に残っていた。

 船から下りたのは4時20分。さっきオレンジ色の格好をしていた小型船の人々も同じくらいの時間に戻ってきたらしい。みんな頬のあたりが真っ赤になっており、寒さで震えているようだった。あの風と波の中で2時間半揺られ続けたのかと思うと気の毒だった。

 昼食がまだだったので、近くのレストランに入る。サンドイッチとプーティーン。プーティーンはフライドポテトの上にチーズとグレービーソースをかけた食べ物で、ケベックの発祥だというがトロントでも普通に食べることができる。たまに食べたくなるが、かなりの高カロリーに違いない代物だ。今回の旅でもっとも豪華だったのはこの食事だった。

 フェリーでタドゥサックへ渡ることにする。乗り場で車の列ができている。2隻のフェリーがこちらと向こうを20分感覚で行き来していて、料金は無料。橋がないので、唯一の交通手段として無料なのは当然ともいえる。車から降りて、船室に入る。ドアを閉めようとするが、固くて閉まらない。踏ん張っていると、前で女性たちが笑っている。もしかして「自動ドア?」、顔を見合わせて笑った。船室といっても中は細長いところにトイレと自販機があるだけだった。

 タドゥサックはこぢんまりとした町で、やけにレストランばかりが目立った。中央に立派なホテルが建っていた。カナダ最古の木造の教会があるというので行ってみた。歩いていて宅地に迷い込んだら、家から太ったおばさんが出てきてフランス語でべらべらと何かをしゃべりだした。目の前の道を行けば表通りに出られるということを説明してくれているらしかった。わかりましたと言ったら、笑いながら手を上げてまた家の中に戻っていった。

 持ち合わせの現金が少ない。どこかの銀行で下ろせばいいやと思っていたのだが、銀行がない。タドゥサックでATMを一軒見つけてやってみたが、下ろせなかった。このときの心境はずいぶん懐かしかった。週末現金がなく銀行も5時を過ぎて使えない。そんな焦りはしばらく感じたことがなかった。結局そのあとシクティミの銀行で下ろすことができた。あとからわかったが、タドゥサックのATMで僕は、押すところを間違えていたらしい。

 シクティミへの道は岩泉街道そっくりだった。途中ほとんど村らしい村もなく、文字らしい文字も目にしなかった。山といい、川といい、ここは日本だと言われればそう思ってしまうくらい似た景色だった。車を100キロで飛ばしていると、やがて岩手の山道に瞬間移動するのではないかという気持ちになった。しかも、現金がなく、ガソリンも残りわずか。ほかに車は通らないし、天気も悪くて暗いし寒い。ここで何かあったらどうしよう。岩泉に赴任していたときに車を運転しながら感じていた心細さと同じだ。不思議な懐かしさだった。

 シクティミに入る。サグネー川の両岸に開けた町には坂が多く、そこから見下ろす対岸の町は美しい。ダウンタウンを少し歩いてみた。街頭が暗過ぎるのではという感じがした。観光案内所の近くの空き地に、キャンピング・カーの基地があって、2、30台の車が停まっていた。中には、衛星放送用のパラボラアンテナを組み立てている人もいた。川沿いのテントから、大音響で音楽が聞こえてくる。入り口から中をのぞくと、ビアホールのような雰囲気で座席いっぱいに人が埋まっており、ステージではひとりの女性がカントリーを歌っていた。

 夜は川沿いのモーテルに泊まった。宿の隣のレストランは団体客でいっぱいで断られてしまった。スーパーでビールを買い、ケンタッキーでチキンを買って部屋でそれを食った。テレビで放送されていた「地下鉄のザジ」。すごい世界と思ったが、途中で眠ってしまった。

■朝と旅のはじまり viernes,20,mayo,2005
 朝、いつもより五つ手前の駅で降りて歩いた。きのうと同じく爽やかな快晴。ひっきりなしに往来する高速道路の車。高架の下をくぐり、高架の上にあがり、坂を登り、坂を降り。

 コーヒー屋の前のベンチには、マフィンやらなにやらで朝食を済ませようとする仕事着の人々がいて、新聞を読んだり、何か盛んに議論したりしていた。朝食をどこかの店でとるのもたまにはいいが、日常生活に取り込んでしまったらおもしろくない。店のコーヒーはなるほどうまいが、外で買って、歩きながらまで飲もうとは思わない。家で淹れてゆっくり飲めればそれでいい。

 午後、2時半に家を出発し、東へ車を走らせた。モントリオールの北、ラパンテニー(Repentigny)という名の町に宿を取った。高速を下り、どこをどう通ったか、モーテルの看板だけを頼りにここまで来た。まったくの無計画の旅。宿は、選ばなければまったく飛び込みでなんとかなる。隣のコンビニでビールを買う。オンタリオではコンビニにビールは置かれないが、ケベックに入ると状況が変わる。店員に「ボンソワール ムシュー メルシー」なんて笑顔で言われるだけで、トロントとは違うと感じる。言語だけでなく、ホスピタリティの違いだろうか。一連の文化が変わる。ラテンの香りということなのか。ケベックにいるときめき。異文化の中の異文化。

■頭 jueves,19,mayo,2005
 来週の月曜日がビクトリア・デイの祝日のため、今週末は三連休となる。気持ちが百倍楽だ。きょうは、部
屋の片付け方を中心にあまり頭を使わないことばかりした。それではいつもは頭を使っているのか。少し前なら自信をもってそう答えたが、今はいつでも頭を使わずに一日を過ごしているような感じだ。
 何か刺激をしないと、硬くなってしまう。その刺激の積み重ねが、きょうみたいなときに経験となって表れる。生き方が希薄だというか、幅がないというか。頭を冷やさなきゃ。
 過去のコンテンツへのリンクはすべて外しました。またしばらくしたら、つなげると思います。
 
■朝と蒲公英 miercoles,18,mayo,2005
 朝、いつもより四つ手前の駅で降りて歩いた。爽やかな快晴の中を歩く。木々の中に暮らす人々。一日一回平等に、私たちには朝が与えられている。朝をどんな気持ちで過ごせるか、試されているのだ。ある者は仕事のために頭を悩める時間となり、ある者は昨晩の夜更かしのために慌しく動く時間となる。しかし、いくら仕事があっても、寝不足であっても、朝を楽しみ、ゆったりとした時間を過ごしたいものだ。朝のひらめき、朝の計画。朝の感性は朝にしかもてないものだから。誰の責任でもなく、自分の思ったように展開できる話。

 蒲公英にはどの家でも苦慮しているらしい。除草剤を撒いたり専用の道具を使ったりして、「駆除」すべき「邪魔者」である。庭に生えているのを放置していると、近所から苦情が出るそうだ。近くにあると種が飛んできて増えるから芝生に悪いのだろう。深く根を張って、引き抜こうと思ってもなかなか抜けない厄介者。生命力の旺盛なものは、それゆえ皆の嫌われ者になる。
 この話を聞くのはあまり好きではない。もともとこの花が好きだし、この花の咲く場所が汚いという感覚は持ち合わせていない。そういう立場に哀れみを覚える。何が悪いのかと思う。
 似たものどうしの気がする。誰かの駆除の対象であり、邪魔者であり、厄介者であり、嫌われ者だと、いつもそんなふうに感じているのかもしれない。それでも、いまこうして生きている自分自身を、どうして否定できるだろう。一本の蒲公英でありたい。容赦なく他者は否定する。それが自己の生きてやろうという精神に繋がっているともいえる。しかし、視点を変えると、自分も誰かを邪魔にして、排除しようとしてきたといえないだろうか。それはけして、他人を生かすことにはならない。いつまでも悔やまれることだ。
 このバランスは怪しくて、なんだかとても難しい。いつぽっきり折れるかと思うと恐ろしい。

Sarah McLachlan martes,17,mayo,2005
 ずいぶん前に“afterglow”というアルバムを買ってそれほど聞きもしないでいたのが、この頃になって気にかかり、車で何度も聴くようになった。はじめは印象が薄かったのだけれど、自分の中での重要度がどんどん増していくような感じを覚えていた。そして、きょう改めて、うわすごい人だなあと思った。懐の深さというか、心の温かさというか、精神性がひしひしと伝わってきて感激した。
 カナダには素敵なミュージシャンが多いと感じる。それは、自分がそこで生活しているからそう思うのだろうか。それともそういう土壌なのだろうか。たまたま自分の嗜好と一致する人が多いのか。きっとどれも当てはまるだろう。そして、ジョニ・ミッチェルから?の伝統、なのかどうかは知らないが、それぞれ独自の世界観をもっているように思う。
 ここ2、3日、“world on fire”が頭の中で鳴り続けている。それで、きょう初めてサイト経由でビデオを見たら驚いた。できることをしようという気持ちを、思い起こさせてくれた。この曲以外にも、サイトでいくつかの曲が視聴できます。ぜひ聴いてみてください。
 “world on fire”の歌詞の日本語訳が見つからなかったので、翻訳サイトを頼りに訳してみました。間違いはご指摘ください。

  世界は手をつけられないくらいに燃えている。
  自分が持てる限りの水を持ってこよう。
  自分ひとりが持てるよりもっと多くの水を持ってこれるように努めよう。
  水をテーブルに持ってこよう。
  持てるものを持ってこよう。

  暗い時代に心がすり減る。
  あなたはこの物語のページの中でひとりではない。
  光が生と死の中に落ちていこうとしている。
  それを止めよう。
  それを止めよう。
  
  天上を見つめるけれどそこに声はない。
  未来を変えるため私にできる何か。
  空が落ちるとき、私のそばにいて。
  ひとり残されたくない。
  ひとりになりたくない。

  心が傷つき、心が癒え、それでもまた愛は傷つけ、
  考え方が衝突しても、飛行機が墜落しても、
  寒さが私たちに迫ってきても、
  たましいを救うためにまだ話すことがある。
  
  私たちで暗黒の太陽にかかったベールをはがそう。
  この短く急ぐ直線から外れよう。
  私たちはこれからより多くのものを手にし、
  より多くのものを減らしていく。
  ひとりの富の意味など取るにたりない。

■町 lunes,16,mayo,2005
 きょうも天気はよくない。晴れたり曇ったり。近郊の小さな町をいくつか巡る。ロイヤリストたちが拓いた町が点在する南オンタリオ。車を停めて、初めての町を歩いたり折り畳み自転車に乗ったりして行き過ぎる。似たような色調の町並みでも、不思議なことに写真を撮りたくなる町とそうでない町とがある。こうやってレンガ色の風景を眺めていると、また別のところに行ってみたくなる。こんなだから、いつまでたっても行ってみたいところにたどりつくことはない。
 昼飯はあれこれ迷った挙句ティム・ホートンズでドーナツ二個とコーヒー。農場の風景は、もうずっと昔から見慣れている。五大湖に囲まれたこの狭くみえる土地も、実は相当に広いのである。5時間ちょっとのドライブから帰って、昼寝をすることもなく夜を迎える。空はいつのまにか快晴になり、9時近くでも明るい。また車を出して、本屋に出かけ、そのあとリックスのハンバーガーを買って帰る。ファースト・フードがよくないっていうのは嘘。スロー・フードだけで間に合うような世界には住んでいない。問題は早い遅いではない。

■コーヒー domingo,15,mayo,2005
 休日の頭痛について、日加タイムスに書かれていた原因はカフェイン中毒だった。平日にコーヒーを飲む人が休日だけ飲まないでいると、カフェインが切れて頭痛が起きるのだそうだ。きょうは起きがけにコーヒー二杯飲んだので、頭は痛くならなかった。しかし、そんなことが原因だったとはちょっと考えにくい。
 天気は悪く、肌寒い。何もしないと、一日は長い。そんな無為にみえる日曜日に、一つの計画を立てた。

■公園 sabado,14,mayo,2005
 昨夜は雷雨だった。歩いて10分の公園まで、往復2時間足らず。朝の時点では天気がどうなるかわからなかったが、出発する頃きれいに晴れて、公園では青空が広がって、帰ってきた頃にはまた曇った。そして、夕方にはまた雨が降り出した。なんてタイミングのいい。この子たちの日頃の行いがよかったのだ。鬼ごっこにだるまさんがころんだ、花いちもんめにハンカチ落とし。一人の子が皆に追いかけられて、その子にタッチした子がまた皆に追いかけられる。ルールがよくわからないけれど、そんな遊びをすぐさま開発するかれらの器用さ。だるまさんがころんだでぴったり動かなくなった子どもたちを、休日の家族たちが珍しそうに見ていた。記念撮影のときには、「にー!」という声がだんだん大きくなり、ひとつのうねりになって公園の上空に渦を巻いていた。きっとかれらの力は気象をも変えるのだ。
 あの子たちは皆素晴らしい表情をもっている。表情が人と人とを結び、表情から真の友情が育まれる。その表情の振幅をこれからの十何年で百万倍にして、未来をつくるエネルギーに変えていく。かれらなら、世界のすべての困難を乗り越えることができるに違いない。

■切り替え viernes,13,mayo,2005
 朝、いつもより三つ手前の駅で降りて歩いた。朝の空気と商店街。さまざまな店。「タンタンの冒険」の絵が飾られているショーウインドーの前で足が止まった。そのうち多くは背景がアジアの世界で、漢字が使われていた。フランス語と漢字の取り合わせが新鮮だった。
 朝にはその日の仕事のことを考えて、あれこれ頭の中で整理して、何をするか何を話すか、完璧に準備しておかなければならないと考えてきた。ところが、それを意識することで目の前に見えるものも見えなくなっていたとしたら、なんてもったいない話だと思う。完璧な準備なんてありえない。気持ちを切り替えることこそが必要ではないのか。もっとその瞬間に自分を賭けてみようか。

■朝夜夏冬 jueves,12,mayo,2005
 朝の気温は2度。日中も8度までしか上がらなかった。この極端さ。しかし、快晴が一日中続いた。日差しはじりじりとして、日向にいればじゅうぶんに暑かった。空気は冬なのに、日差しは夏。黄緑だった木々は、もう緑色になった。建物の中、窓のある部屋の温度はぐんぐん上昇。ところが、廊下は冷え冷えとしていた。こういう日の夕方に外にいるといつまでもおしゃべりしていたくなる。バーベキューもしたくなる。きょうは9時近くまで明るかった。朝もいいが、夜もいい。

■“Ain't Misbehavin'” miercoles,11,mayo,2005
 朝、いつもより二つ手前の駅で降りて歩いた。空は曇っていたが、やはり変わらず朝はいい。まだ動き出していない商店街を、みんなが通る前に通り過ぎる。そんなぜいたくな朝。
 日中はいつのまにか晴れて、きのうより暑くなった。すっかり夏の陽気。こんなに暑いのなら、外に出たくなるのは当然だ。こんなに暑いのなら、外でご飯を食べるべきだ。外でコーヒーを飲むべきだ。多くの人々は、それをちゃんと実践している。

 表情の豊かな人が好きだ。さまざまなパフォーマンスを観るたびにそう思う。顔の表情、身振り手振り。それらも人間に与えられた手段だから、使わなければもったいない。言葉じゃない部分が豊富であればあるほど、かえって言葉が生きてくる。悲しいのは言葉で「悲しい」なのではなく、心が「悲しい」だけでもなく、身体全体で悲しいのだ。楽しいのは言葉だけで「楽しい」と言っても伝わらず、心だけが「楽しい」なんてことはあり得ず、やっぱり身体全体が楽しいのだ。「悲しさ」も「楽しさ」も、身体全体で表現することなのだ。言葉だけに偏ったら、ほんとうのところから離れてしまう。そんなことを感じた今宵。ぜったいに忘れない。 

■朝 martes,10,mayo,2005
 朝、いつもより一つ手前の駅で降りて歩いた。夏の日差し。朝はいい。朝はいいなあ!朝の気持ちのまま昼を迎え、夜を迎えることができたならどんなにいいだろう。一日じゅう、朝だったらいいのに。などとばかなことを言っているうちに、太陽は高くなり、仕事の時間が始まってしまう。きょうは半袖シャツでじゅうぶんだった。今年初めて、一日窓を開けっ放しで仕事をした。

■暑い休日 lunes,9,mayo,2005
 暑い休日、車を飛ばした。きょう行ったところへは、もう二度と行かないかもしれない。毎日がその繰り返し。書きたいことがたまっている。でも、そのまま放っておいたら、忘れてしまうだろうか。一日にあったできごとを、ゆっくり噛み締めながら、文字にして残せたらいい。毎日の体験のほとんどは、風に吹かれてどこかに飛んでしまう。もったいない。

VE-Day domingo,8,mayo,2005
 VEというのは、“Victory of Europe”。第二次世界大戦で、ドイツが降伏してから60年がたった日。ヨーロッパに、連合国の勝利がもたらされた日。朝からオタワでの記念式典がテレビで中継されていた。国会議事堂の建物が、五月の青空に映える。制服を着て赤いポピーを胸につけた誇らしげな退役軍人たち。
God Save the Queenが演奏されている。軍隊車両のパレードが続く。手を振る軍人たち。拍手する人たち。国旗を振る人たち。ピーター・マンズブリッジは盛んに“Special Day”という語を発している。子どもたちへのインタビューからは“Amazing” “Cool” “Interesting” “Proud”という言葉が聞かれた。
 カナダはイギリス連邦の一つであり、先の戦争の戦勝国の一つ。軍人たちの胸の内を推し量ることはできないが、この儀式はあの戦争での勝ちを祝福するものであり、それを誇りと感じている国民も少なくないはずである。勝った国にとって、勝ったという事実の重みはいつまでも消えることはない。
 60年もたっているというのに、戦争の跡はこんなにも厳然と生きている。勝った国でさえこうなのだ。負けた国でも、同じく残っているはずではないだろうか。そしてさらに、占領から解放された国にとっては、そこからがまた戦いの始まりと意識されるのかもしれない。
 いつまでも過去にとらわれないでこれから先をみようなんて、取る人が取ったらあまりに都合のよい言い訳に聞こえるだろう。いくら時が過ぎても、償えるものではない。関係を立て直せるものではない。
 人間は、勝つとか負けるとかを超えなければならない。としたら、そのためには縋るものが必要ではないか。

■ピンチ・ヒッター sabado,7,mayo,2005
 朝に突然出場が決まり、6打席5安打。うそ。5打席に立って、どれほどヒットを打てたかはわからない。それを評価できる人間はいない。楽しかったとか、うまくいったとかなんてどうでもいい。確実に成果を挙げなければ、出る意味はない。そんなふうにばかり考えていたら、おもしろくないか。

■新緑 viernes,6,mayo,2005
 久しぶりに一日よい天気で暖かかった。街は新緑がまぶしい。いつの間にか花も増えた。チューリップやらスイセンやら、何もなかった庭が一晩で見違えるようになっている。
 街にはいろいろな人が現れた。レストランやカフェではパティオが登場して、外で飲み食いする人たちがたくさんいた。歩道に座ってギターを弾くおじさん。アイスクリーム屋の前にできる行列。お父さんもお母さんも、子どもたちといっしょにアイスクリームをおいしそうにすくって食べている。
 地下鉄の女性車掌のアナウンスでさえ、完全に歌声となっていて、ぷっと吹き出したくなった。
 とにかく、長い冬を終えて春が来たということは、すばらしいことなのである。

■五月病 jueves,5,mayo,2005
 なんだかどうも頭が回らないしやる気も起きない。夜の講座もサボった。あと3回あるけど、もう行かないかもしれない。ゴールデンウイークもないのに五月病か。きょうの会議はたぶん最長記録。内容が充実していたからよしとするか。
 ベテランという言葉に違和感。10年そこそこでベテランなのか。それじゃ自分も相当なベテランだな。ど根性ガエルの町田先生はいつも「教師生活25年…」と言って泣いていたが、25年やってりゃベテランだというのはどうかな。イメージの問題だな。ベテランベテランって、長い人が何でも完璧にできるなんてことはありえないだろう。一生懸命やろうと思ったら、いつまでも悩みは尽きない。
 英語では、ベテランとは退役軍人のことを指すらしい。意味の移り変わりというのは不思議だ。
 ひどく乱雑でなんとかしなければと思っていたので、家に帰ってから徹底的に掃除をした。気持ちが切り替わった。でもすぐ眠くなった。で、横になってうとうとしたら、夢を見た。なんだかな。
 もうこの世にはいない人の夢を見た。死んでしまってからも、何かをずっと教えてくれようとしている。生きている人がそれを受け止めようとしなければ、その死は無駄になってしまう。

■夏時間 miercoles,4,mayo,2005
 夏時間といっても、平日にはやはり仕事をするために生きていて、終わるとしぼんだようになってしまう。無理やりにでも予定を入れてそれをこなす生活にしなければ、長い昼もなかなか楽しめない。制度は前提だが、生かすも殺すもそれを使う人間の気持ち次第。
 日本でも導入をという動きがある。大賛成。一度やってみればいいのだ。やってみてダメだったら、また元に戻せばいい。

■EVITA martes,3,mayo,2005
 映画は観ていないが、主人公はマドンナに似ていた。あらすじを調べていったので流れがわかってよかった。中央にスクリーンをあしらって、白黒の映画や実物の映像を映し出すという演出が終始続いた。伝記をそのまま年を追って演じる感じで、笑いの部分もあまりなかったのだが、それなりに楽しめた。キャラクターのせいなのか、主人公の女優への拍手が心なしか少なかった。このサイトはイタリアのもの。曲が聴ける。

■散歩 lunes,2,mayo,2005
 朝5時起床。汗を流してから、朝飯を喰う。タマゴかけご飯とキムチと韓国のりの朝食は最高。その後、車をメンテナンスに出した。10時に出して、3時間かかるというから1時に取りに来ればいいのかと聞いたら、昼休みがあるから出来上がりは2時だという。そりゃそうだ。
 きょうはセントクレア・ウエストを歩く。いつも職場へ行く道を通り過ぎ、コルソ・イタリアと呼ばれる通りを過ぎる。先日のリトル・イタリーほどレストラン街っぽくもなく、いい雰囲気だ。天気はあまりよくない。ときどき雨が降ってきて、店の軒先で少し雨宿りをした。カフェや靴屋が多い。そこのベーカリーをはしごして、パンを少しずつ買った。やっぱりヨーロッパのにおいには心惹かれるものがある。
 「デルタビンゴ」と大きく書かれた看板。屋根の高い建物で、最初は家具屋かと思った。確かめてみようと中をのぞいたら、皆でビンゴをしていた。ギャンブルの会場らしかった。シーンとして異様な感じ。
 キールを南に下がって少し。ダンダス・ウエストの交差点のところに、黄色いタクシーが7、8台停まっている。よくみると、映画の撮影のようだった。ホットドッグ屋のおじさんは、スライドを撮っているんだと言っていた。ハリウッドの?と聞くと、そうだと答えた。スライドとは、映画のことなのか。
 ダンダスを行くと、ブロア通りに交わる。そこから東へ歩く。活気のある町並みを通り過ぎる。先日のエチオピア文字のあたりのレストランに入る。メニューはないという。なぜなら、きょうがちょうどオープンの日だから。もしかすると記念すべき第1号の客かな。店のおばちゃんは人懐っこい笑顔で注文を聞いた。ランチを頼む。ご飯なのか、パンなのかと聞くと、どちらかというとパンに近いという。エチオピア料理は初めてか。辛いのは好きかと聞いてくる。肉は大丈夫かと聞くので、問題ないと答える。カウンターには夫らしき人がいたが、ずっといろいろなところに電話をかけていた。窓の外を見ると、雹が降っていた。
 料理が運ばれてきた。直径30センチはあるクレープみたいなものの上に、野菜のサラダと、牛肉をトマトで煮たようなシチューがのっている。そして別の小皿にもう1枚、そのクレープみたいなのが四つ折になって置かれた。食べ方を知っているかと聞かれノーと答えると、教えてあげるといって、そのおばちゃんは僕のクレープを一つちぎり、肉片を手で包んでそのまま口の中にぽんと入れた。なるほどそうやって手で食べるのか。インジャラというそのクレープみたいなものは少し酸味があり、野菜や肉を包んで食べると悪くなかった。青色の唐辛子が入っていて、それをかじるとすごく辛かった。うまい。うまいが量が多い。1枚は食べたが2枚目になるとかなり苦しい。苦しいががんばって食べる。途中からは水で流し込むようにして食べる。そうこうしているうちに2時を回ってしまった。おばちゃんには悪かったが、インジャラを少し残してしまった。
 夜、映画を観た。ザ・ヒッチハイカーズ・ガイド・トゥ・ザ・ギャラクシー。コメディというか、完全なおバカ映画。だけど、すばらしかった。
*St Clair West stn〜Hillcrest Village〜Corso Itaria〜St Clair Gardens〜Keele〜Junction Gardens〜Dundas st West〜Bloordale Village〜Bloorcourt Village〜Ossington stn

■見通し domingo,1,mayo,2005
 何もしない一日。頭痛はなかった。計画はない。立てようがない。見通しをもてというけれど、一人でかってに見通せるというわけではない。すべては自分以外と自分との関係から作り上げられていく。つまり、枠組みがあって初めて力が出せるということである。
 一か月後にまとめて更新ということにしてみようか。何のために書くのか。何のために生きるのか。そこに立ち返って考える時間があっていい。リアルタイムで自分を生きるのは自分だけの特権。この小さな窓に綴られる断片の断片でしかない言葉たちには、自分の1パーセントも語ることはできないから。

Since 2000,2,11 Copyright(C) 2000-2005 Yu,All Rights Reserved