2005年11月
■miercoles,30,noviembre,2005
 帰りにはモールに寄って飯を喰った。Roasty Jackはいろんなところにある。鶏肉がジューシーでうまいときもあるし、パサパサしてそれほどうまくないときもある。今回はわざわざ焼き直してくれて、熱々でうまかった。これも最後か。なんだか、これも最後かなどと考えてしまうことが多いが、あまりいいことではないと思う。考え方を変えたほうがいいだろうか。
 何か自分のためのものをさがしに、平日夜10時までやっているOne of a kind showに行ってみた。ナショナル・トレード・センターの広大な展示場にカナダ各地のアーティストが集まって作品を展示即売するこのイベントに、去年初めて行ったときにはなんて素晴らしいんだろうと酔いしれるような心地で眺めて歩いた。しかし、今回何かを買う目的で隅々歩き回ってみると、欲しいと思うものはそれほどなかった。人にあげるのなら簡単に選べるのだけれど、自分のためと考えるとひじょうに難しい。素敵な飾り物はたくさんあるのだが、自分の部屋に置こうとは思えない。なるほどこの時期に開催するのはクリスマス・プレゼントのためなのだ。
 プレゼントはずいぶん無責任なものだ。相手がほんとうに喜ぶものをあげるには、相手のことを深く思えなければならない。もらった側も、そのときは嬉しくてもだいたい時間が経つと飽きてしまう。心が結びついていなければ、プレゼントの習慣などただの消費行動に過ぎない。美しき作品群を見ていたら、そんな冷めた考えが浮かんできた。
 だが、見方を変えると、カナダ人のプレゼントの習慣は、もののやり取りではなく心のやり取りなのかもしれない。もらったその場で包み紙を裂いて中身を出し、大げさに喜んでみせるというのも、相手への思いやりだろうし、それが1か月後部屋の片隅で埃をかぶっていようとも、そんなことは構わないのだ。時期になればまた新しいプレゼントを贈って、心の繋がりを確かめるのである。などと考えてから、そんなふうに斜めに見てしまう自分が少し嫌になった。プレゼントの習慣、大いに結構ではないか。洋の東西を問わず、どこにだってあることだろう。ただ一つ買ったのは、赤いメープルリーフが入った木製のクマのパズルだった。トロントの街角を描いた額が目を引いたが、そこではビジネスカードだけもらってきた。ネットで見てから検討してみよう。
 ただ、引っかかっていることはある。お金を出して買い、飽きたら捨ててしまうというのなら、それは芸術とは呼べないんじゃないか。岡本太郎の言を借りれば、「芸術は自らが創らなければならないもの」なのだ。何にしても、自分で創るのでなければダメだと思っているから、買うという行為にも引け目を感じてしまうのだ。

■martes,29,noviembre,2005
 なんとなく気持ちがもう違ってしまっていて、だめ、というわけではないのだが、これまでと同じようには考えたり、話したりできない。職場のネット関係がいよいよ危機的状況になり、丸一日仕事にならなかった。ちゃんとやろうとするときに、きまってこんなふうにへんなことが起きるのは、どうしてだろう。
 Movin'Outはビリー・ジョエルの往年のヒット曲を連ねたミュージカル。舞台の上の橋桁のようなところにバンドがいて、終始演奏している。その下で若者たちが踊る。台詞は一切無し。いや、軍人が行進する場面で掛け声があったか。それだけ。見ている分にはこんな楽なステージはなかった。音楽を聴いていると、ビリー・ジョエルがいかに偉大なミュージシャンだったかをあらためて感じることができた。物語は、ミス・サイゴンと同じくベトナム戦争がらみなのだが、戦争をも明るく乗り越えるUSAの強さがあった。明るくといっても、けして軽薄ではない。とてもポジティヴで前向きな気分。前半は、踊りだけかよと思ってやや拍子抜け。しかし、後半が進むに連れて踊りの素晴らしさが際立ち、観客の反応もよくなった。そもそもこういう舞台に立つ役者の、基礎的なダンスの能力は並外れている。見ていると、これはクラシックバレエの動きだとわかる部分も多かった。これだけの舞台をこなすこの人たちの凄さ。日本で同じ舞台をつくろうとしたら、果たして人材が集まるだろうか。何を身につけるにせよ、しっかり下積みすることが大切だ。華やかな部分にばかり目を奪われていては、いいものをつくることはできない。
 劇場で同僚二人に会った。この街に住んでいれば、観劇が趣味という人も多いのだ。いつも観に来ていれば、それだけ詳しくもなる。これからもずっとそういう暮らしができる人たちをうらやましく思った。僕は、帰国したらもうこの世界から遠ざかってしまうのだろうか。いつまでもミュージカルやダンスが身近にある暮らしがしたい。

■lunes,28,noviembre,2005
 雨に煙る月曜日。気持ち悪いくらい暖かい。午前中に買い物に出かけ、近所を一周。朝飯を食べないうちに昼になる。何か進めなければと思うが、できることはたいしてない。銀行口座の住所を自宅から職場に移し、ステートメントの送付を停めた。
 カナダでは内閣不信任案が可決され、1月に総選挙が行われることになった。テレビを見ていると、政治家たちが元気だ。与党も野党も、政治家たちがいい顔をしている、ように見える。言葉がわからないからそう思うのだろうか。日本のニュースに映し出されるわが国与党のなんとか長はばかに見える。話を聞くと、絶望的な気持ちになる。
 一眠りしてから、車を西へ走らせる。ロンドンまで、ミュージカルを観に行く。ミス・サイゴン。雨で視界が悪かったためか、出口を30キロも行き過ぎてしまった。余裕を持って出たからよかったけれど、土曜日といい、この日といい、まだ夢の中にいるようだった。
 1時間前に到着。窓口で切符を受け取ってから、小雨の中、市街地を散策する。いたるところにクリスマスの飾りが施されていたが、6時過ぎにはすでに人通りが少なくて寂しかった。この街に来るのはこれが最後だろうか。ビクトリア・パークの何十というクリスマス・ツリーを眺めた。
 ふだんはアイスホッケーが行われるジョン・ラバット・センターの特設ステージで、二日間の公演の初日。フロアに置かれたのはパイプ椅子だったが、スタジアムが劇場に見事に作りかえられていた。
 ミュージカルはさすがに素晴らしいものだった。キム役の女性の歌も伸びがあってよかったが、楽しい歌も悲しい歌も淡々と歌っている印象を受けた。これが本田美奈子だったらどうだったろう。もっと情感ゆたかな歌声だったかもしれない。いちばんの見所だったのは、エンジニア役の男性の独演の部分かな。あの華やかなステージがまさにエンタテインメントという感じだった。帰りの車の中で考えた。日本のミュージカルとこちらのミュージカルでは、同じ演目でもそうとう違ったものになるのだろうな。日本で日本語のミュージカルをぜひ観てみたい。もっと味わい深く感じるのではないか。

■domingo,27,noviembre,2005
 アボリジナル・フェスティバルに行こうと思っていたのに、だんだんその気持ちが薄れていって、気がつくと暗くなっていた。夏にマニトゥーリンで見たような踊りを、ロジャーズ・センター(旧スカイ・ドーム)なんかでやるのだ。あのときの感動ほどのものがあるわけがない。などというのは言い訳。ここでしかできないことをまた一つ逃してしまう残念な気持ちとそうでもない気持ちが混じっている。どこにいるに関わらず、きっと生涯のテーマになる。先週とは打って変わって気温が上昇。まるで春先だ。チャングムに涙し、義経に涙して終わる日曜日。

■sabado,26,noviembre,2005
 朝の高速の入り口が閉鎖されていて、一つ先まで回り道をするつもりが、知らない間に通り過ぎていた。2度3度道を間違えながら職場に着いた。まだ夢を見ているような感じなのか。
 綿密な計画ではない、雑駁な見通しをもって、資料は用意するも、切り口はどこからでも構わぬつもりで。子どもたちの前に立てば、自然に言葉は紡ぎだされ、かれらは声を出してくれる。この感覚。蚕が糸を吐くイメージ。おなかの中には何もない。ただ思いや願いが充満していて、かれらの言葉によって、それらが勢いよく引き出される。僕の口から瞬時に真っ白な糸が生成され、かれらの上に降りそそぐ。
 風景の記憶というのは、場所だけではない。そこに時間と結びついたものが記憶されていることに気づく。この体験がかれらの原風景になるのなら、この時間僕に必要なのは、せいいっぱいの表現、ただそれだけだ。
 どれだけの言葉がこころに残るのだろう。残った言葉はかれらに何かをもたらすだろうか。かれらに幸せをもたらす言葉のみを、僕らはもたらさなくてはならない。それでなければ、ここに立つ意味などない。
 
■viernes,25,noviembre,2005
 さて、頭は切り替えたつもりが、夢の中にいるような心地がする。これから何をどうすればいいのやら。
 このところ教壇に立ってほしいという要望があって、その準備もしたいのだが、職場のコンピュータの調子が一日中悪くて、それどころではなかった。ネットが使えないと仕事にならない。そんな仕事もあと数か月。
 頭の中に、いろいろなBGMが鳴る。音楽と、場所の記憶が結びついていく。思い浮かべた場所にいる記憶が、どこにいても、音楽とともに蘇るのなら、それはとても素敵なことだ。

■jueves,24,noviembre,2005
 雪が降った。この冬初めての本格的な降雪。気温も下がり、午後8時のウインドチルがマイナス22度。風があるととたんに寒く感じるようになる。今朝、先日買ったコートに初めて袖を通した。地下鉄を降りて歩き始めたところで、袖口のボタンが取れていることに気がついた。よくありがちな展開にはがっかりもなにもない。だいたい、こういうことになっている。安物のさだめ。

 夜になって、来年度の処遇に関して上司から電話があった。いよいよ本決まりである。期待する気持ち半分、期待できない気持ち半分で待っていたのだが、決まってしまうと腹が据わるものである。これから慌しくなりそうだ。

■miercoles,23,noviembre,2005
 勤労感謝の日か。米国では明日が感謝祭か。同じ頃に同じような祝日が重なるものだ。温帯だったら、それも当然といえば当然か。カナダは温帯のところはむしろ少ないからな。
 朝は氷点下10度くらいまで下がった。寒いには寒いが、すっきりとした青空で風もないので意外にさわやかな感じ。まだあと10度くらいは大丈夫かな。部屋の暖房の温度設定は最低にしている。だからほとんど暖気は来ないけれど、着ればまったく寒くない。
 帰りはフードコートで広東炒麺を食べた。久しぶりの熱々の固焼きそばはうまかった。明日の昼飯用にパンも買った。なんだか建物の暖房があまり効いていない。石油が高いから節約しているところが多いようだ。
 本屋に寄ったら、店内のスターバックスのほうから歓声や拍手が聞こえてきた。行ってみると小学生たちがクリスマスの合唱をしていた。周りを取り囲んでいたのは保護者たちだろう。お父さんたちはビデオカメラやデジカメをかかげて撮影に夢中である。こういう場所でこういう発表会をするのだな。きれいな歌声ではあるが、声量がない。本屋の中だから
抑えていたのだろうか。それとも、店自体が吸音のつくりになっているのだろうか。みればクリスマスのイルミネーションが日に日に増えている。商店街も、住宅街も。
 コンピュータの調子がおかしくなってきた。たまにいくらたっても起動できなかったりする。2年も使っていないのにこんなふうになってくるのか。きょうは帰ってきてすぐにデータのバックアップをした。

■martes,22,noviembre,2005
 テレビでタイガー・ジェット・シンのドキュメンタリーが放送されている。むかし日本で活躍していた頃の映像。アントニオ猪木との闘い。パイプ椅子を観客に向けて投げ飛ばしている。今度は小川直也が出てきた。これはいまの映像?凶器を出して小川の額に突き刺すタイガー。唖然とする観客たち。放送していいのかと思えるほどにに暴力的。吹き替えも字幕もなしで日本語の実況が流れ、日本語の新聞記事のアップが次々と映される。その文字を目で追うのだが、ランダムな文字が映されているだけだから意味がとらえられない。へんてこな言葉、へんてこな文字、アジアのどこかにあるへんてこな国。そんなイメージが延々と流れる。そしてバックに聞こえているのはなぜかおきまりの中国っぽい音楽。中国も韓国も日本も区別できない人は意外と多そうだ。
 ところで、GMの合理化が発表され、カナダにある工場も閉鎖されることが決まったらしい。それと対照的に、トヨタ、ホンダ、マツダ、スズキなど、日本車の人気は絶大なものがある。日本のほかにアジアで健闘しているのはHYUNDAI。安いわりにデザインがよいというので人気があるようだが、日本車にはまだまだ及ばない。コマーシャルのつくりがなかなかに魅力的で、おっ、これはどこの車かなと思うとHYUNDAIだったりする。ところが、HYUNDAI車の形は他社の人気車種の格好と部分的にそっくりだという噂を聞く。それに、こちらでHYUNDAIがどのように発音されているかというと、けして「ヒュンダイ」ではない。テレビのコマーシャルで聞く分には「ハンダィ」に聞こえてしまう。「ハンダィ」の「ハ」はやや「ホ」に近い「ハ」であり、「ハンダィ」の「ィ」は小さい「ィ」なのでひじょうに紛らわしい。聞きようによっては「ホンダ」に聞こえてしまうくらい酷似しているのだ。さらに、社名の発音のみならず、エンブレムの“H”も同じでこれも紛らわしい。これではHONDAと間違ってHYUNDAIを買ってしまう人がいてもおかしくない。同僚から聞いた話だが、彼の友人はHYUNDAIをもう何年も日本車だと思っていたらしい。
 他の産業をみてみるとLGやサムスンのようにカナダで業績を上げる韓国企業もあり、それらの多くは正々堂々と勝負しているといっていいだろう。だが、トヨタと並んでおそらく人気も売り上げも最高の部類に入るホンダに、あえて似せて売り込もうというのが社の方針だとしたら、そんな会社は果たしてどうなのだろう。

■lunes,21,noviembre,2005
 こんなに暗い昼間も珍しい。空は雪雲。道路は乾燥して白くなっている。ここに来た頃に読んだ本を開いてみる。いろんな横文字がページに踊る。タイミングがよかったのか、単なる偶然か、それともそのとき必要だったことを自然に抽出して読み取ったのか。いずれにせよ不思議な出会い。次に進むことを考える。書物の知識をここに置いて行く。たくさんの人たちとサヨナラをする。

■domingo,20,noviembre,2005
 日曜日の朝方はきまって悪い夢をみる。あるいは仕事上の嫌なことを考えてしまう。それは仕方のないこととは思うが、きょう一日は何も考えないようにしようと頭から問題を振り払ってから起き上がる。その反動なのか、何も考えることができないまま夜になってしまう。

 土曜の夜には、とある教会のクリスマス・コンサートに行った。同僚の幾人かが参加するというので、招待券をもらっていたのだ。仕事を終えて直接会場に向かった。このコンサートを聴きに行ったのはハレルヤ・コーラスを歌った時以来2年ぶりだった。コンサートは教会ごとの音楽発表会というおもむきで、立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。一昨年とは雰囲気が違っていた。昨年から加わったトロント大学聖歌隊のゴスペルを聴きに来る人が多いのではないかと思った。噂に聞いたそのゴスペルはたしかに素晴らしく、一人一人の花が咲いたような表情やめいめいに身体を揺らして歌う姿が印象的だった。ゴスペルはテレビでは時々見るけれど、直に目にしたのは初めてだった。この音楽がなるほどブラック・コンテンポラリーとか、ファンクやヒップホップにつながるものだというのがすっと納得できたような気がした。
 日本からカナダに移住した人々の歴史は130年近くになるそうだ。その間の道のりは苦難に満ちていたに違いない。移住の始まった頃。抑圧政策のあった戦争中。最近になって入った新移住者と呼ばれる人々。一言で日系人といってもさまざまだ。日系コミュニティという言い方もよく耳にするけれど、それもずいぶん曖昧だなあという印象がある。英語を母語とし、カナダ人としての意識しかもたない人々もあれば、日本語環境で生活している人々もある。日系人すべてが一つにまとまっているわけではなく、さまざまな日系のグループがそれぞれに活動しているといったほうがいいのではないか。だが、アイデンティティをどう形成するか、そして、偏見や差別とどう向き合っていくかというのはどの世代にもどのグループにも共通する大きなテーマだと思われる。そこで魂の救いを信仰に求める人々によって教会が作られ、そこに集う人々が増えてきたという経緯があるのだろう。
 聖歌隊のステージの後で司会者がこのようなことを言った。「どうしてあんなに笑顔が輝いているのでしょう。そうです。それは神様を信じているからですね」 そうなのかもしれないけれど、そうなのかなあと思った。歌う人々の笑顔が輝くのは、歌を通して自分を表現しているからではないだろうか。悩みや苦しみに向き合いながらも堂々と自分の人生を生きるときに、その人の生き様が表情となって表れるのではないだろうか。一生懸命生きている人にふれることで、聞き手のわれわれはそのエネルギーをもらって元気になるのではないか。「神様を信じているから笑顔が輝く」という言葉を僕はすごく短絡的に感じたのだが、信仰の中では当然の論理なのかもしれない。
 そのあと牧師がクリスマスについて話をすると、司会者から寄付を呼びかける言葉があり、係の人たちがお金を入れる金色の皿を座席に回す準備を始めた。そこで財布を持っていないことに気づき、これはいかんとさりげなくその場を後にしてしまった。覚えていなかったけれど、前もこんなふうにしただろうか。でも当然といえば当然で、無料だからと手ぶらで入ったのは浅はかだった。結果的に中座することになってしまい、最後のハレルヤまでは聴くことができなかった。
 だが、ハレルヤを歌うことについて考えていたことがあった。この歌は、以前勤めていた学校の卒業式で全校合唱をするため、生徒といっしょに練習したからテノールのパートをだいたいそらで歌えるくらいになっていた。だから、2年前に練習会に誘われたときはとても嬉しかった。こちらの人たちと歌えることもありがたいと思った。そして当日、教会のステージに登った。前奏が始まると今まで座っていた会場の人々がすべて立ち上がった。そのとき、この歌がキリスト者にとってどれだけ特別なものかということを悟った。日本の音楽教育には、合唱曲などを宗教とは切り離し、古典芸術として鑑賞したり歌ったりするというひとつの考え方があるそうだ。たしかに、西洋の合唱曲にはもともとキリスト教と密接に結びついているものが多いから、そうしなければ合唱に取り組ませること自体、公教育の宗教的中立性と矛盾が生じてしまうことになりかねない。もっともそんなことを厳密にいったら、いただきますのときに両手を合わせるのも、修学旅行で神社仏閣にお参りするのも、全部問題になってしまう。(なっているところもあるようだけれど。)
 あの学校では、合唱コンクールでもゴスペルを英語で歌うくらいだったから、問題にもならなかった。
だけど、それを問題にもしなかったというのは、今思うと感覚がいささか鈍感であったような気がしてならない。これを日本的なおおらかさや寛容さなどと表現していいものかどうか、もうわからない。誰も問題にする人がいないからといって、教師の側がそれを続けるとしたら。いまあの学校に戻ったなら、国語教師の立場からも取り組まなければならないことがたくさん見つかるだろう。たとえば曲の生まれた歴史的背景を踏まえて、歌詞の詩的解釈をしなければならないだろう。僕はあの全校合唱を組織して仕上げた音楽科の先生方の技量には心から感服したし、かれらから多くのことを学んだ。当の生徒だって合唱によって卒業の感動が倍増したことは疑いない。だけど、ここにきてあの時期のことが非常な疑問を伴って蘇るのは何故だろう。
 2年前のコンサートでは感動した。だけど、翌年も今年も再びいっしょに歌いましょうということにはならなかった。もちろんそれは僕が積極的に望んだわけではなかったから当然だけれども、反対に僕がぜひ今年も!と熱烈に希望したら周りはどう感じただろう。キリスト教徒でないものがクリスマスにあの歌を歌うことのおかしさをかれらは感じるのではないだろうか。それは日本の家庭が普通に行うクリスマスの各種のセレモニーにも通じるおかしさかもしれない。西洋の行事を取り入れることが必ずしも悪いとは思わないけれど、表面的な部分だけを真似てその心を軽視してしまうのは日本的な傾向だとはいえないだろうか。
 話がだいぶ横道に逸れてしまった。寄付をしなかったこととコンサートを退席してしまったことは申し訳なかったけれど、ハレルヤを聴かなかったのは、残念というより少しほっとしたような気分だった。
 このサイトでキリスト教について自分の考えを書いたとき、メールをもらったことが何度かあった。それらはどれも自分の無理解に対してやわらかく諭すような書きぶりだった。僕はそれを自分のいいかげんな態度に対する戒めと受け取って、自分なりに反省した。そして、そのときに比べればどの宗教に対しても少しは真面目に向き合えるようになったと思っている。キリスト者に限らず、信仰心の厚い人を僕は尊敬する。だけど、世界にはさまざまな宗教があって、それぞれが自分の神を主張するだけではいつまでも戦争は終わらず平和は訪れない。まったく信仰の異なる人々をも受け入れ合えるような寛容さ(これを寛容さといえるのかわからないけれど)を互いがもてれば、問題は解決するかもしれない。そんなことを思っているから、ひとつのことを信仰して生きようと思えるまでにはまだまだ修行が必要なのだ。

■sabado,19,noviembre,2005
 金曜の夜には思いもしなかった突発的な出来事が、土曜の昼一気に噴き出す。スタッフの総力を結集すればなんとかならないことはないから、心配することなく対処はできる。だが、物事が起こる前にその予兆はあったのではないだろうか。起こったことのいくつかは、打ち合わせの段階で見抜けないことでもなかった。それらを見抜けなかったことが悔しい。いつももう少し事前にどうにかならなかったのだろうかと考えてしまう。起こった時点で考えればすむことであり、悩む必要はないかもしれない。過去のことをあれこれ考えるより、次にどうするかを考えるほうがよほど生産的で前向きだ。だが、過ぎたことを整理して考えることで、次につながることもあるのではないか。しかたがないで片付けてしまうことが、おもしろくない。この後味の悪さが週末を挟んでリセットされてしまうのはたえられない。ゆっくり休むよりも前にしなければならないことがあるのではないか。日曜日の未明にはいつも嫌な夢を見るのは、そんなふうに考えているからだろうか。もっともっとこころを研ぎ澄まして、もっともっと思うようになにかできるようになりたい。

■viernes,18,noviembre,2005
 日中細かな雪が降り続いて午後には真っ白になった。気温はそれほど低くないから、すぐに解けるだろう。雪景色はいいものだ。冬はいいものだ。寒い時期の記憶はなぜかあたたかい。
 どんなに寒い冬になっても。たとえ春が来なくても。寒さに震え上がっていたかつての自分と。痛みを恐れて歩き出せなかった自分と。季節を迎える自分と。季節を送る自分と。みんな同じ。
 能力以上のことを要求されるというのは困るが、取り方によっては有難いことともいえる。できると見込むから求めるのだろう。能力がどれだけあるかなんて、自分にも増してや他人にもわかるわけがない。だけど、伸びる人間かそうでないかは見分けることができる。やってやろうと思えたら、大概のことはできるのかもしれない。そう思うことができなかったとしたら、相手の人を見る目がなかったのだ。自分を責める必要もない。

■jueves,17,noviembre,2005
 朝に小雪が舞っていたのをテレビのニュースで知った。外に出たときにはもう止んでいた。氷点下の街に飛び出したとき、それほど寒いとは感じなかった。冬はまだまだこれからだ。とはいえ、冷たいビル風が肌を刺す。コーヒーの紙コップやマイカップを手にして歩いている人が目立つ。初めは違和感を覚えたものだが、今ではもう普通になった。ただ、飲んだ後の紙コップがあちこちに捨てられているのを見ると首を傾げてしまう。たとえば公園のベンチ、電話ボックス、店の玄関など、いたるところにある。ゴミ箱がないわけではない。むしろ、ありすぎるくらいである。それなのに、自分の使ったものを片付けようとしないのはどうしてだろう。紙コップだけでなく、街にはさまざまなゴミが散らかっており、汚い。建物や木々の美しさとは対照的だ。
 日本の学校では、子どもたちが自分たちの使った校舎を掃除する。学区のゴミ拾いをすることもよくある。自分たちの生活環境は自分たちがきれいに保つものという意識をもたせる取り組みが当たり前に行われている。ところが、こちらの学校では校舎を子どもたちに掃除させることは皆無だ。先日は、子どもたちが先生といっしょに色画用紙を切り貼りして廊下の壁に掲示していた。後の床には色画用紙の細かい切りくずが散乱していた。先生も子どももそれを片付けようという感覚はない。先生が指導すべき範疇ではないし、壁を飾った子どもたちの美意識もまったくそこには及ばない。なぜなら校舎を掃除するのはケアテイカーの仕事であり、帰りにはいくら汚い状態になっていても、放課後にはケアテイカーがゴミを取り、モップをかける。翌日の朝、子どもたちが登校したときには再びピカピカの廊下になっているわけである。
 街も同じで、掃除をするのを仕事とする人々が職業としてやっている。片付けはかれらに任せておけばいいことであり、それをもし生徒会活動なんかでやろうとしたら問題になるかもしれない。その人たちの仕事を奪うことになるからだ。住宅地での清掃奉仕活動はときどき行われているようだし、落ち葉を拾ってゴミに出すのは住民の責任らしいから、市街地と住宅地では状況は異なる。こちらの人々にも生活環境を自分たちで守る気持ちがまったくないというわけではないだろう。だけど、日本の学校教育で培おうとしている感覚とはかけ離れているといわざるを得ない。
 カナダの文化を否定するわけではない。だけど、こちらの様子を見れば見るほど、日本の文化は素晴らしいと感じるし、胸を張っていいことだと思う。日本の良さとして、もっともっと伝えていきたいことだ。

■miercoles,16,noviembre,2005
 雨は朝早くに上がり、少しずつ水溜りも乾いてきた。午後から気温が下がって、明日には雪になるという。ほんとうならあの雨も雪になるはずのものだったのだろうが、気温が高いから凍らなかったのだ。

 理想が高すぎるのではと指摘された。高すぎるというのはいったいどういうことなのか。その人にちょうどよい理想があるとでもいうのだろうか。いつも心に最高の理想を掲げて生きる。誰でも同じではないか。妥協が必要だ、諦めが肝心だと他人は言う。妥協と諦めの連続の日々。だけど、何のための妥協か、何のための諦めか。理想があるからこそ、次に進むことができるのではないか。すべて放り出してしまってはおしまいだよ。

 時間を経て、見慣れた風景が増えてきた。だが、見慣れるということはそれだけ見えないものが増えることでもある。よく見えているようでいて、見えなくなっているもの。それは無意識に捨てているものだ。粗末に扱っているもの、つまらないと感じるもの、必要ないと思うもの。見慣れることは、それらを許すこととは違うし、妥協とも違う。風景に溶け込もうとするのではなく、風景を遮断してきたんだ。新しい気持ちで、ものを見よう。見えなくなったものを見つけに、外に出よう。 
 
■martes,15,noviembre,2005
 夜になるとどうしてこうも眠くなるのだろう。だいたい9時過ぎには布団に入るようになってしまった。だけどそれは当然だ。なぜなら起床時間がそれだけ早まっているのだから。3時過ぎには目覚め、コーヒーを飲みながら夜を明かす。時間は早いが平均睡眠時間が6時間前後というのは前と変わりない。さらにもう少し早起きすれば、帰国後の時差ぼけもそれほどひどくはならないのではないか。なんて。
 週明けは雨。気になっていた公孫樹の葉っぱはすでに散っており、箒のようになっていた。朝の光の中で音を立てて葉を落とす様子は見ることができなかった。だが、それほど残念な気持ちはしなかった。見回すとほかの樹木もほぼ葉っぱがなくなっており、視界は開け、景色がなんとなく白っぽく感じられた。自分が見ているいないに関わらず、季節はまわり続ける。
 きょう同期の何人かから帰国日程が決まったというメールが届いた。3月、久しぶりに東京で飲もうと。だが、まだ僕のところには日程の知らせは届いていない。というより、帰国になるかどうかもまだわからない。そろそろ来るだろうといわれながら、気を揉む日が続いている。はっきりしないことのつらさ。でも気持ちの整理はついている。帰れといわれれば帰る。残れといわれれば残る。それだけ。
 ニュースで政治家が何かを話す。言葉の終わりの「しなければならない」というのが耳につく。思い出すのは、もう10年くらい前の話。会議で「しなければならない」という言葉を使った者何人かがこっぴどく叱られたことがあった。どうして「しなければ」でなく「したい」と言えないのかと。心から自分が望めばそれが言葉に表れるはず。やらされる意識ではなく、自分で考えて必要だと思われることをやるのだと。
 同じ声を耳にしても、そこから受けとれるサインは、人によって、時によって、場所によって異なる。「しなければならない」という言葉が出るのはなぜだろう。昔の言葉に縛られるのではなく、自分の中での意味を広げてみたい。その人がたましいを込めて言われた言葉の、どれだけの意味を理解できているか。そして願わくばその意味をも超えられたら。心に残る言葉を何度も何度も噛み締める、まるでするめかなにかのように。

■lunes,14,noviembre,2005
 冷蔵庫の中ががらんとなったので朝にスーパーへ買い物に行った。まだ客が少ないからと、珍しくカートを使った。ところが角を曲がろうとするときどうしても人にぶつかりそうになるので嫌だった。せっかくなので冷凍食品などを買い込んだ。冷凍食品にはボール紙の立派な箱に入っているものが多い。かなりの過剰包装。大量に買って大量に捨てる社会では問題にもならないのだろうか。
 少年や少女にまつわる事件が相次いでいる。愛する者を殺そうとするのは異常なことではない。ただ多くの人はそれを象徴的にやりながら大人になっていくものだ。親を超えるためには親殺しが必要だし、叶わぬ恋愛に区切りをつけるには相手を殺すか自分が死ぬかしかない。誰もがそれをやる。象徴的な儀式としてではなく、現実世界でそれをやってしまうことの意味や責任を、個人の事情にばかり求めてはいけないのではないか。小奇麗なようにみえて、若者に儀式をさせない社会。言いかえると、子どものまま歳をとらせるような社会。そんな気持ち悪さを感じてしまう。命が奪われるのは、奪うものの命が奪われているから。
 昼から散歩に出た。飯を喰うつもりだったが、人の多いところには行きたくなかった。休みには人とコミュニケーションをとろうという気持ちが薄らいでいることに気づいた。かといって一人でなにかするのも面倒くさい。道路を歩いていても、たいしておもしろくもない。商店街でも、足を止めたくなるものは一つもない。食い物屋も人ばかり。抜け殻みたいになって、結局は何も喰わずに戻ってきて、屋台のホットドッグにかぶりついたのは3時を過ぎていた。
 図書館に寄ってみた。日本語の本があるかと思ったが探すことはできなかった。司書に聞けばいいものを、それもしなかった。真剣な表情で勉強している学生たちは東アジアの若者たちが圧倒的に多い。ファーストネイションに関連したものをいくつか眺めてみる。3年なんてあっという間だった。ここで何を為したというのだろう。仕事とは所詮仕事。職業人である前に生活人。そして、真の生活人というのは探求者でなければならない。何を探求するか。自分が個人としてここに来た意味について、もっと深く考えてみなければと思った。
 NHKのニュースでは東北の津波注意報のニュースが55分続いた。大船渡で50センチの津波。インドネシアのことがあったからというのはわかるが、あれでは世界中に配信する意味がない。残りの5分は結婚式のニュースだったから、あまりにバランスが悪い。きっと意図的に政治などのニュースを伝えないようにしているのだ。ニュースチャンネルのあるなしということでもなさそうだ。もしかするとジャーナリズムのあるなしということだろうか。政治もジャーナリズムも、弱い立場の人たちや少数の人たちをたすけるものでなければいけないのではないだろうか。

■domingo,13,noviembre,2005
 鳥インフルエンザが新型インフルエンザに変異するのは時間の問題のようだ。世界的に大流行したら人口が減るかもしれない。これが自然の作用だとしたら。人類は何者かの掌の上で生かされている小さな生き物に過ぎないのだ。
 朝にはテレビを見て、昼寝したらもう真っ暗な夕方だった。嫌な夢ばかり見た。夕方からまたテレビを見た。何も考えが浮かばない。思考が停まる日曜日。5年前に戻って、いろいろな人のことを思い出した。

■sabado,12,noviembre,2005
 早朝こそ校庭が一面霜で真っ白になったが、日中は気温が上がった。青空が広がって、日向ぼっこにはちょうどよいような暖かさだった。日がとっぷりと暮れてからも、風がなく、空気が澄んで、まるで9月の頃のようだった。鍵を閉めて駐車場に向かうと、まだ立ち話をしている人たちがいた。暖かくて過ごしやすくていいと考えるのが普通の感覚。だけどこれが温暖化の所為だとしたら。
 土曜日を迎えるときの緊張感がここにきて薄まってきているのを感じる。弛んでいるというのではなく、無用な心配に悩む必要がなくなっているという意味で。問題は山積しているけれど、どんなことにも手を取り合って突き進んでいける感じがある。ひとつの目標に向かって、誰も足を引っ張ることなくやれるとしたら、それは喜ばしいことだ。みんなでここまでやってきた。そのうちの一人であることを誇りに思う。

■viernes,11,noviembre,2005
 リメンバランスデイは国民の祝日でありながら、学校は休みにならない。この日は半旗が掲げられ、全校集会が行われたようだ。きっとこの日の意味について校長から話があったのだろう。日本できわめて重要な日は8月15日だろうか。その日は夏休み中だけれど、お盆の真っ最中だから、夏休みに入る前には、お家の人から話を聞こうという一言をいつも忘れない。国語の教科書には毎年必ず平和教材というのがあって、国語の時間を利用して平和教育が行われるような感じになっている。この点をとっても、国語教師の責任は大きい。12月8日には、開戦を知らせる新聞のコピーを配りながら授業をする。憲法さえどうなるかわからないような国で、政府のビジョンを求めようとするのは無理がある。自由ではなく、放任。その中で戦争を教えるというのは教師個人の良識によるのが実情だが、戦争こそ学校で教えなければならないことではないか。戦争を教えるというのは、平和を教えるということ。だから、目をつぶってはいけない。大真面目に平和について考え、それを語るのが教師であり、学校というものだろうと思う。

■jueves,10,noviembre,2005
 ほんの2、3年前の、たしかサッカー関連のニュースか何かで、「日本にも健全なナショナリズムが見られるようになってきた」と、好ましいトーンでコメントしていたキャスターの口から、「ナショナリズムが高揚してきて、近隣諸国に向けられている」という発言があった。「ナショナリズムが近隣諸国に向けられる」という表現に違和感を感じた。ナショナリズムを訳すと国家主義となるだろうが、それはもともと自国を愛し、誇り、守ろうとすることではないのか。他国を排斥しようとすることと、自国を愛することとは違うのではないか。
 あすのリメンバランス・デイを前に、トロント・フィルハーモニアの公演を聴きに行った。演奏される曲目には聞き覚えがあるものが多く、僕みたいな万年クラシック初心者にはちょうどよい。秋から春にかけて月に一度くらい演奏がある。会場が目と鼻の先にあるのでふらっと行ける。今月のテーマは“Voices of Victory”。コンサートの始めに、会場の退役軍人たちが立って拍手を浴びた。誇らしげに立つ顔を見回し歳の頃から推測するにやはり第二次大戦で戦った方々が多いのだろう。昨年はもっと数が多かったように思うのだが。聴衆の3分の2くらいはお年寄り。多くの人が、リメンバランスデイを祝福するシンボルの赤いポピーを胸につけている。街頭募金をすると共同募金の赤い羽根みたいに胸につけてくれる。この時期のテレビキャスターたちは皆これをつけている。1曲目のオーカナダに始まり、合唱の入った曲中心の構成で、最後は“God Save The Queen”だった。合唱団の人たちが、カナダ国旗やイギリス国旗を出してステージ上で左右に振っていた。
 勝利のために戦った人たちの功績を忘れないのがこの日の意味と言えるだろう。国歌を高らかに歌い上げたり、国旗を振りかざしたりする姿、そして、ともに口ずさむ聴衆たちの姿からも、愛国心や誇りが真っ直ぐに伝わってくる。そこにいる僕もとても気分がよかった。単に勝利者だからということではなく、カナダの人々は、このような愛すべき自国を作り上げてきた歴史があるのだろうと思う。
 自分の国の国歌を堂々と歌えず、国旗を掲揚することに躊躇いを感じてしまうというのは実に不本意なことだ。骨抜きにされているような気がしてならない。それは、敗戦国だからだろうか。GHQの所為なのだろうか。そうとは思えない。また、国旗も国歌も個人の問題だろうという見方があるかもしれないが、はたしてそうか。現在の日本の学校では、国旗国歌は強制されているに過ぎず、子どもたちが心からそれらを好きになるような手立ては講じられてこなかったのではないか。これまでの教師の歩みにも、正直引っかかるところはある。戦争であれだけの犠牲を払っておきながら、退役軍人に対する敬意も何も戦後の人々は培われてきていない。終戦でそれまでの体制が全否定されたとはいっても、その下で健気に生きてきた民の人生を否定するものではけしてなかったはずである。それなのに、「お国のために」戦った人々さえ、国は大事に扱ってこなかったのではないか。この国が国として得たものは何もなかったのだろうか。
 自国を愛することと、他国を排斥することとは本質的に違う。考えたくないことだが、社会全体を覆う病理のようなものがあるのではないかと、ちょっと疑ってしまう。

■miercoles,9,noviembre,2005
 日中は風雨が続いて、時折激しい雷鳴も聞こえた。ナイアガラに行く途中のハミルトンで竜巻が発生して被害が出たそうだ。昼なのにまるで夕方ほどの暗さしかなく、なんとなく力の入らない一日だった。公孫樹が気になっていたけれど、帰りに見たらまだ葉っぱはついていた。あれほどの雨風に打たれても葉は枝にしがみついている。その時が来るまで葉を落とすことはないのか。
 北のほうでは雪だそうだが、こちらはまだ気温が高いので雨になっている。これが昨年の今頃ならとうに10センチ位は積もっているところだ。オーロラを見た帰りに吹雪に遭ったのは、ちょうどこの時期だった。
 
 銃による暴力が収まらない。きょうもトロントの隣町ブランプトンで十代の生徒が撃たれたというニュース。帰り道には2か所で道路が閉鎖されており、警察が実況検分しているのを見た。おそらくこれも発砲事件だろう。何処にいても、運が悪ければ流れ弾に当たってしまう状況がある。連邦政府のポール・マーティン首相がトロントのデイヴィッド・ミラー市長といっしょに市内の施設を回って、若者やギャングの銃暴力抑制について声明を出した。日中に歩いている分には怖い思いをすることはまずないけれど、治安が良いから安心です、などとはもう胸を張っていられなくなってきた。

■martes,8,noviembre,2005
 地下鉄を降りてからヤング・ストリートを少し南下。吐く息は白いがまだ寒さの一歩手前の秋の朝。襟巻きをする者もいれば、黒い皮手袋を嵌める者もいる。だがその横を半袖短パンで駆け抜けてゆく人もいる。
 いつものセントクレア・アヴェニュー・ウエストのひとつ南側、バルモラル・アヴェニューという名前の道路に入る。ここは住宅地。仕事帰りに通ったことはあったかもしれないが、朝に通ったのは初めてだ。表通りこそ慌しいが、7時過ぎの住宅地ではまだ人通りが少ない。しっとりとした建物や庭や木々の風情を眺めながら歩く清清しさ。新しく生まれ変わったような心地がする。
 日曜日の嵐のために街路樹のメイプルの葉っぱがかなり落ちて、歩道に病葉色の絨毯が敷き詰められていた。ここの人々はそれほど神経質になって落ち葉を拾い集めることやブロアで吹き飛ばすことをしないらしい。庭の芝生の上に幾重にも葉っぱが折り重なっていたり、側溝辺りに黄色の葉っぱが濡れて重く溜まっていたりした。
 視界の中で黒く動くのはリス。せっせと餌を拾い集めては口いっぱいに貯め込み冬支度。オークの樹には真丸の団栗が生る。今年は豊作だから餌にも困らないだろう。リスは自分が集めた餌を土の中に隠そうとする習性があるそうだ。ところが、どこに隠したかを忘れてしまう。全く不合理。どこか絶滅寸前のアンモナイトに似ているような気がしないでもない。(どこが?)
 玄関先には橙の南瓜を置いている家がまだたくさんある。目と鼻そして大きく裂けた口を彫り込んでいるものもあれば、何も彫らずただ丸ごとどんと置いているだけのものもある。直径7、80pはありそうなお化け南瓜があったり、プラスチックでできた玩具の南瓜が並んでいたりもする。ハロウィン用の飾りだと思っていたが、この時期にはしばらくこんなふうに置いておく慣わしなのか。それとも、祭りが過ぎてもすぐ片付けようといった風習がないのか。そうかと思うと、ゴミ置き場に腐って崩れた南瓜の顔が転がっていたりもした。
 
とにかく南瓜は今の時期にとても似つかわしい色をしている。まるで自然物ではないような鮮やかな橙色。だが、言ってみれば南瓜に限らずこの季節の葉も実もどこか誰かが態と作ったように神秘的な色をしている。
 学生時代、クリスマスの時期と冬至が重なるのは偶然ではないという話を聞いて酷く興奮したのを覚えている。冬至といえば日本では南瓜を食べる習慣がある。ハロウィンはヨーロッパ各地のさまざまな祭りが融合したものだというが、それがちょうど立冬の時期に当たり南瓜がシンボルになっていることと、日本の冬至の南瓜は、無関係ではないような気がする。
 途中で白い犬を連れたおばさんとすれ違う。犬が彼方此方歩き回って真っ直ぐ進もうとしないので、僕の行く手を塞いだ。するとおばさんはニコッと笑みを浮かべて僕を見た。ハイと挨拶を交わすと気分が良かった。
 いつも歌を口ずさみながらあるいは頭の中に浮かべながら歩く。いいメロディが生まれると、忘れずに取っておこうと思うのだが、たいていは忘れてどこかに消えてしまう。これもいつものことだが、言葉を思い浮かべながら歩く。いい言葉を思いつけばこれも忘れずにとっておこうという気になる。メロディよりはずっと残る率が高いけれど、それでも微妙なフレーズを忘れてしまうことは多い。その感覚が僕は大嫌いで、そんな大事な閃きをいとも簡単に忘れてしまう自分を情けなく思う。
 だが、きょう歩いていてふと、忘れてしまってもいいんじゃないかという考えが浮かんだ。そのときに最高と思ったものをすっかり忘れてしまっても、自分以外の人間にふれることなく消えてしまっても、まったく構わないじゃないかと。もしかすると、こんなふうに日記に書くことも日々何も書かないということも、それほど違いがないことなのかもしれない。人生は大げさなものじゃないと、佐藤伸治も言っていた。でも、仮に心からそう思えるとしたら、この景色はどんなふうに見えるのだろう。かけがえがないとは、どういうことだろう。
 職場の窓から見えるところに立つ公孫樹。先週の内に見る見る葉が黄色く変わってきて、何時落ち始めるかと気になっていた。テレビでは、強風のために市内の老木が倒れて車が押し潰されたなどというニュースがあったから、これではもう葉を落としてしまったかもしれないと半ば諦めていた。だけど、今朝見るとまだ散っておらず、胸を撫で下ろした。

■lunes,7,noviembre,2005
 ここに来てから2年と7か月が過ぎた。この間にも僕の知っているたくさんの人たちがこの世を去った。祖母や親戚、教え子、同僚、そして尊敬したり応援したりしていた多くの人たち。身内や長い時間をいっしょに過ごしてきた人たちの死はつらい。そうでなくとも、気になっていた有名人の死もひじょうに悲しい。本田美奈子さんの死。この2日間どうしようもないくらい落ち込んでしまった。
 学生のとき、家庭教師としてある中学生の兄弟をみていたことがあった。その兄弟の部屋にあったのが本田美奈子の「キャンセル」というアルバムで、ある日勉強に飽きたひとりがそのレコードを大音響でかけ始めた。両親は離れで食堂を営んでいたので、いくらうるさくしてもわからないようだった。僕はそのとき聴いた「涙をF.Oして…」という曲がとても気に入って、その後ラジオでエアチェックしたテープを、しばらく何度も聴いていた。
 その頃の彼女のヒット曲のいくつかを聴くと、大学時代のあまりよくない思い出も蘇ってくる。取り立てて好きだったというわけでもないが、当時から他のアイドルとは違うなという印象はあった。その後しばらくたって、ミュージカルに出て活躍していることを聞いた。歌うことが心から好きで、観客の前で歌えることを素直に喜び、歌がうまくなるために前向きに努力を続ける、そんな姿勢に好感をもった。
 “JUNCTION”というアルバムの中に、「ミス・サイゴン」で歌った歌や、「つばさ」という歌が入っていて背筋がぞくっとするような感動を覚え、これは買ってよかったと思った。いつか彼女の舞台を観てみたいものだと思っていた。
 もともとミュージカルのことはまったくわからず、知っている俳優なんて今でもごくわずかしかいない。東京に行かなければ観ることができず、チケットを取ることすら難しい状況では、ミュージカルが身近なものとはとうてい考えることができなかった。一度東京でライオンキングを観るチャンスがあったが、どういうわけかつぶれてしまった。
 それが、トロントでミュージカルのおもしろさにふれ、ミュージカルにすっかりはまってしまった。ライオンキングはここで観ることができた。ニューヨークにも2度ミュージカルを観に行った。それはいままで出会ったことのないパフォーミング・アーツであり、エンタテインメントだった。英語さえもっとわかったらどんなに感動が増すだろうと、英語圏の人間をうらやましく思った。そして、いったいこの素晴らしさを日本語に置き換えるなんてできるのだろうかと思った。でも、日本にはそれを日本語で表現しようとして奮闘する人たちがたくさんいる。日本でも、僕が岩手に帰ってからもミュージカルを身近に観られたらどんなにいいだろう。日本のミュージカルについて考えるようになると、浮かんでくるのは本田美奈子の存在だった。少なくとも僕が日本のミュージカル女優として身近に思える人は、本田美奈子しかいない。
 クラシックのアルバムを出してから、ネットでいくつも彼女の歌唱力についての評価を読んだ。以前より歌がうまくなりもっとうまくなるだろうという、これまでの努力を認めこれからに期待を寄せるコメントが多かった。本人の言葉をあまり見つけることはできなかったけれど、記事や彼女と仕事をともにする人のサイトから、志を高くもってよりいいものをつくろうと常に自分を磨く姿勢が感じられた。何かのイベントで少人数の前で歌う彼女をネット上のビデオで見た。CDを買って聴いてみた。歌に魂がこもっている。プロフェッショナルとはこういう人のことをさすことばではないかと思った。そして、ミュージカルと同じように、クラシックを身近なものにしてくれる存在になりそうだと思った。
 本田美奈子は僕と同じ年だった。願いはかなわなかった。どうして彼女が逝かなければならなったのか、全然納得がいかない。残った僕らは、彼女のために祈ることしかできないのだろうか。きのうのニュースの中に、岩崎宏美が故人について語ったことばがあった。「人の悪口を絶対に言わない」。これが人間としてどれほど尊いことか。ひとりの歌手は、歌手である前にひとりの人間だった。そのひとりの人間が、歌手としての人生を生ききったのだ。そう思いたい。
 人の死にふれるたびに、なぜこんな不条理なことが人を襲うのだろうと考える。人が死ねば、いつもそこに残される者がいる。その残された者が変わり続けることで、亡くなった人の気持ちに報いることができるのではないか。生きている者が故人の生き方から何かを学び、それを少しでも生かせるように努める。そのことが、故人の恩に報いることになるのではないかと思う。

■domingo,6,noviembre,2005
 6日の朝、本田美奈子さんがなくなったのをニュースで知った。これからを期待していたのに。快方に向かっていると思っていたのに。なんてかわいそうなことだろう。この日を彼女のために祈る一日にする。

■sabado,5,noviembre,2005
 ここに来る前の自分が何者であったのか、まったくわからない感覚。みざる、きかざる、いわざるではないけれど、なにもみえず、なにもきこえず、なにもいえず、なんにもできなかったのだ。そして、それは今でも同じこと。できることをやれればいいというけれど、できることのひとつも満足にやっていないじゃないか。だいたい、自分のやるべきことすら、みえていないじゃないか。他人の真意をきこうとしていないじゃないか、自分を伝えようとしていないじゃないか。

■viernes,4,noviembre,2005
 録ろうと思っていたのは、毎朝9時前に流れる国歌。これを皆で立って歌う。きょう流れていたのはフランス語バージョン。僕らは建物の一角を借りているだけなので立つことも歌うこともないが、毎日のBGMとして耳にすっかり馴染んでしまった。メロディのよさもさることながら、アレンジのさわやかさがいい。これを小さな頃から毎日聞いて育ったら、国も国歌も好きになると思う。ぜひ聴いてみてください。これが国歌です。

■jueves,3,noviembre,2005
 秋の夜長とはいうけれど、家に帰るととたんに眠くなってしまう。あんなこともあった、こんなことも書ける、と考えていはいても、それが夜まで残らない。今夜やりたいこともいろいろあったはずだが、とりあえず寝よう、ということになる。寝ているときに記憶は整理されるというから、夢を見ながら体験の神髄がまとまるのならそれもいい。朝早く起きて、頭に浮かんだことを書き連ねるパタンが続きそうだ。

 ゆうべ飛幡祐規という人の文章を読んだ。アメリカ合衆国の国を動かす人々の身勝手さはテロ以前に比べてもますます進行しているような印象を受ける。だけど、僕が出会ったアメリカ人は明るくてからっとしていてほんとうに愛すべき人々だった。外から見ての勝手な考えだが、偉い人たちがあのような善良な人々をだまして自分の金儲けのために突っ走っているとしたら酷いことだと思う。

 前にも書いたと思うが、「アメリカ合衆国のことをアメリカと呼んだら、ユナイテッドステイツと直された」という体験談を以前知人から聞いた。「アメリカ」は北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の総称であって、南米もアメリカだし、カナダもアメリカだし、キューバだってアメリカなのだ。それを、合衆国ひとつを差してアメリカと呼ぶことには問題がある。少なくとも、外国人と話すときには気をつけたいことだと思う。
 
 帰りにはAlbion Centreというモールに寄った。ここのモールの雰囲気が大好きだ。インド映画の映画館があって、レゲエのかかるレコード屋があって、衣料品店にはどことなく箪笥の奥のようなにおいが漂っていて、ギラギラビカビカのアクセサリーを売るワゴンがあって、床屋がたくさん入っている。ここにいる多様な人々を見るだけで元気になる。LCBOGuinnessとBorisというフランスのビール。電気屋でこちらではほとんど見かけないMDのディスクを買った。ぜひとも録音しておきたいものがある。うまくいったらこのページにのせたいと思う。

■miercoles,2,noviembre,2005
 無駄話にみえて無駄話ではないということがたくさんある。話すことで互いの思考が整理されるから、一人で黙々とやるより、適度のおしゃべりをするほうが効率的かもしれない。遊んでいた時間はないのに、思った以上に時間がかかってしまった。きのうもきょうも気づくと真っ暗になっていた。チームで事に当たる意味についてちょっと考えた。
 きのうの日記などを読み返すと、長い周期での堂々巡りの感が否めない。螺旋状のイメージはあるけれど、回りながらほんとうに発展しているのだろうか。自分と向き合うことの限界がきているのではないか。いくら自分自身でも、中身のない人間に向き合ったところで何もない。そして、中身をつくるにはどうしても自分以外の人間のたすけが必要になる。
 
 帰りに床屋に寄った。何か月ぶりか。いつも重要な節目を過ぎてからの散髪になってしまう。むさ苦しくなっていたから、きょうこそはと思っていた。セントクレア・ウエストをいつもとは反対方向に歩く。少し人通りの少ないブロックを越えるとまた賑やかになる。ダファリンとの交差点。バス停の近くの店に入る。客はおらずおばさんが一人いるだけ。スペイン語のラジオが鳴っている。音楽はなく、ずっとしゃべり続けているだけ。「出身は?」と聞かれて「ジャパン」と答えると、おばさんは「オー、ジヤパァーン!」というふうに、厭味と一応の敬意が交じり合ったような独特のイントネーションで反復した。きょうみたいに「ジャパン」と答えて「ジヤパァーン!」と返されることはよくある。
 「これスペイン語ですね」とラジオのことを尋ねるとおばさんはメキシコから来たのだと言った。これはちょうどいいと、今夏の旅の話を少し出すと嬉しそうにしていた。メキシコシティから北にバスで2時間半のところにあるサン・ミゲル・デ・アジェンデというところの出身だそうだ。豪華なバスの話、料理の話、通りに溢れる音楽やダンスの話。夏にこの通りで行われたサルサの祭りの話も聞いた。以前メキシカンの同級生からも聞いたことがあるモレという料理。これは誕生日とか結婚式とか、何か特別な日に食べるのだそうだ。トロントでも食べられるかと聞いたら、すぐ半ブロック先のレストランにもあるよ、と言った。「ここの通りはイタリアンが多いけど、メキシカンもたくさん住んでいるんだ。多くは違法だけどね。メキシコはいま経済状態がよくないから、どんどん外に出る。収入が違うんだ」というようなことを話していた。メキシコ人の不法滞在が多いのは、アメリカもカナダも同じなのかと思った。このおばさんも? まさかな。この人懐っこいおばさんとはグラシアス、ブエナス・ノーチェスとあいさつして店を出た。
 もし国に残るよりずっといい暮らしができるとわかったら、あるいは、飢えや貧しさの危険を避けられると思ったら、法を犯してでもこちらに住もうと思うだろう。生きることと法を守ること。どちらを優先するかと言われればもちろん前者にきまっている。きれいごとでは済まされない現実がある。

■martes,1,noviembre,2005
 
気温は高いが、天気が悪い。インディアン・サマーなんて呼べないような、暗い一日だった。建物に暖房が入るようになったため、これまでと同じ服装ではかえって暑さを感じる。外と内の温度差が広がり、こういうときに風邪を引きやすいのだろうと思う。今年のインフルエンザは強力だから予防接種を受けたほうがいいと言われる。ショッピング・モールなどを巡回してフルー・ショットと呼ばれる無料の注射がすでに始まっている。まだ受けたことはないけれど、最後まで受けずに済めばそれに越したことはないと思っている。

 何でも経験しておくのは悪いことではない。逆の言い方もできる。経験しないことは悪いことではない。どこに暮らしていようと、自分と関わりがもてないことはあるし、しようと思ってもできないことがある。また、反対に、なぜか関わることになってしまうこともあるし、したくもないのにしなければならないこともある。つまり、たいていのことは思い通りにならない。そして、その思い通りにならない道の途中で、性懲りもなく思いを実現しようとする。驚くべきことに、人間にはそれを叶える力があり、思い通りにならない人生を思い通りに変えることができる。人々の奇跡を横目で見るたび、また一歩、絶望の淵に追い詰められるような心地がするけれど、希望という言葉はただの慰めでしかないと思うけれど、それでも相変わらず、腹が減ってはものを食い、明日を夢見ては眠りに就く。万事なるようにしかならない。だけど、なるようになればそれでいい。