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2006年5月
■quarta-feira,31,maio,2006
 5月も今日で終わり。少し気持ちが吹っ切れた気もするが、とにかくここまで適応に苦しむとは思わなかった。日本とはかくも住みにくいところだったか。自殺者の増加が止まらないという。当然だと思う。不登校とか、引きこもりとか、ニートとか、ある意味健全な反応だと思う。この社会にどっぷり適応してしまう ことのほうが、むしろ不健全なことではないか。

■terca-feira,30,maio,2006
 平均点という考え方が嫌いだと言ったら、あなたはこの国では生きていけないと言われてしまった。今まではそれをはじき出すことすらしなかったのに、今はそこまで意地を張るつもりはない。それはトーンダウンだろうか。アベレージが意味を持つ社会は日本だけではないと思うけれど。怖いと感じるのは、渡加前と は世の中の雰囲気が違ってきていると感じることだ。何とははっきりと言えないけれど、何かがどんどん進んでいる。その流れに逆らって生きないと、だめになってしまうような気がする。

■segunda-feira,29,maio,2006
 案ずるより産むが易し。土日に悶々としながらも、問題を直視しようとはしていなかった。月曜日の朝になって、あれこれ考えを巡らすと、問題自体はそれほどのことではないと思えるようになった。困難は分割せよというが、確かに細かく割って一つ一つ地道に片付けていくしかない。一度にすべてを完璧に直すことなどできないから、一つ一つできることをするしかない。一つ一つできることをする。それが最善の方法なのだ。

■domingo,28,maio,2006
 昼前から雨。暗い日曜日。せっかくの何もない土日だったのに、気持ちは落ち着かなかった。昼時、街道沿いの飲食店はどこも混雑していて、特にラーメン店には列ができているところがいくつもあった。休日の食事は、時間をずらさないとしにくい。

■sabado,27,maio,2006
 車を点検に出さなければならなかった。それと、歯医者へも。五月の街は晴れやかで、ことし初めて半袖シャツを着てさわやかな風を浴びながら歩いた。でも、心の中には重い雲がたれ込めて、人通りを避けたかった。新しくできたラーメン屋に行列ができていた。並んでまで待って食べれば、その分おいしく感じられるとでも。なんて、これではおいしいものにはいつまでたってもありつけないだろうか。
 裏通りを歩いたほうがおもしろい。人気のないところのほうが発見がある。というのは言い訳で、必要以上に外気に触れたくなかった。岩手公園の石垣の横を通り、
中津川沿いに出た。河川敷に下りてみると、草と黄色い花と、青い空だけが見えた。人はいなかった。川の音 は聞こえるけれど、流れは草に隠れて見ることができなかった。川の両岸の高い堤防に雑踏が遮断され、しばし空だけの世界に隔離された。
 車を引き取って、街を後にする。帰国してから今まで、遠くに行きたい気持ちにはまだ至らない。だけど、ここに暮らし続ける覚悟もまだもてないでいる。仕 事もそれ以外のことも思う通りには運ばない。まるで日本語を忘れたように、言いたいことが言葉に出ない状態が続く。ここはこんなに住みにくいところだったろうか。だけど、そんなことは口に出せない。
 そう感じるのは想定内ではあった。けれど、さて、これからどうしよう。

■sexta-feira,26,maio,2006
 言葉を磨くにはやはり書くしかない。とはいえ、こんなふうな日記では話にならない。むしろ、こんなサイトは止めてしまった方がいいかもしれないとさえ、 今朝起きたとき強く思った。それでも続けていく。継続は力なりというから、10年は続けてみる。

■quinta-feira,25,maio,2006
 今週は3日しかない。その2日目だというのに、この疲労感は何だ。そして、いやになるほど言葉が出ない。すり減っている感性。平たく言えば、勉強不足。 言い換えれば、暮らしの中に詩がない。鍛える必要を強く感じる。

■quarta-feira,24,maio,2006
 不愉快だと書いてしまうと、話してくれた人に対して失礼だ。昨日のような態度が身体に染み付いているかもしれないと考えたら、今日起きたことも納得がいく。と、そうやって自分自身を追い込んでいく。

■terca-feira,23,maio,2006
 朝食抜きで昨日と同じ病院へ。検査を終えて帰宅すると、すぐに昼になった。そして、午後には親戚のところへ。よくわからない話を聞きながら、ばかにされた気分になる。せっかくの連休は実に不愉快な幕切れとなった。

■segunda-feira,22,maio,2006
 今日と明日は何もない休日。朝は普段通りに起きて、予てから決めていた通り病院に行く。医師の問診を受けると、なぜだか腹が立ってきた。相手の目も見ずに話を聞き、相槌ひとつ打たない。しかも、不安で来た患者に対して、その不安を受容する言葉も、打ち消す言葉もない。これでは、治る病気も治らないというものだ。この人が主治医になるのだったら、この先はあまり期待しないがよかろう。もっとも今回は病気できたわけではないので気は楽だ。検査をして何事もなければそれでよし、何か見つかれば見つかったでいいわけだ。
 結局、朝食を食べてきたという理由できょうは検査ができず、明日再び来院することになった。午後には歯医者。それまで時間ができたので、区界峠まで車を飛ばし、しんやという店で昼を食って戻る。新緑の国道は気持ちがよかったが、ところどころでスピードガンを持って待ち構えている警官たちを見ると、まったく気持ちは萎えてしまった。こんなところでは、ろくにドライブも楽しめやしない。

■domingo,21,maio,2006
 一日中晴天で、しかも適度に風があり、外で過ごすにはちょうどよい日だった。朝から予定通りの流れで時は過ぎ、気がつくと夕方になっていた。楽しむというほどには余裕はなかったが、それでも皆が充実感を覚えるくらい、よくやっていた。反省会のコメントでもあえて触れることはしなかったけれど、これ以上の成果を誰が予想できただろうか。それは、単に担当が一人で当たったのではなく、グループとして支援する体制があったからであり、このことからわれわれが学ぶことはひじょうに大きかったと思う。ただし、手放しで喜んでいられるような状況ではなく、これからどうするかこそが課題なのだ。

■sabado,20,maio,2006
 土曜日も夕方となると、頭は働かない。ひとつひとつ、これでよかったのか、だめだったのではないかと、脳の中の小人たちがいちいちうるさく話しかけてくる。もういいかげん黙っていてほしい。いろいろあってよし、というようにすべてに対してもっと寛容でありたい。

■sexta-feira,19,maio,2006
 トロントの景色が不意に脳裏に蘇る。さまざまな通りがまざまざと目の前に浮かんでくる。歩いて見た風景、車から見た風景、どれも愛しく感じられる。ここはそこからあまりに遠い。今思うと夢のようだが、たしかにああいうところに僕は暮らしていたんだ。
 
金曜日が終わり、あと二日。今週は長いのである。いろいろと思うところはある。それらに優先して、もっとも大切なことは、この流れに乗って、盛り上げていくことだろう。とはいえ、それが自分の本当の役割だとは考えられない。何をしていけばいいのか、何をするために生きている のか、自分にできること、自分にしかできないこととはいったい何だろうか。

■quinta-feira,18,maio,2006
 これまで若い人から学ぼうという姿勢が薄かったのではないかと反省した。意図がどうの計画がどうのというのももちろん大切だが、場の空気を感じ取ってその場にもっとも必要な動き方を選択する。そして、バイタリティ溢れる言葉によって引っ張っていく。そんな若さ溢れる展開がもっと必要なのかもしれない。謙 虚になって、自分もできることをやっていこう。

■quarta-feira,17,maio,2006
 世界で一番醜悪な感情は嫉妬である、と考えてきたが、いま自分の感じていることもそれと同じではないかと思った。持ち合わせていないものはどうやって捻り出そうとしても出せるわけがない。だが、枠をずっと広げて共同の姿勢で臨めば出せる幅はぐんと広がる。それぞれが持っているものを出し合えばいいのだから。何でもかんでも自分ひとりでやってしまおうというのではうまくいかない。お互いの持ち味を生かすというのは、そういうことではないか。皆が遠慮なく自分を出せる環境をつくっていく。それが求められているのかもしれない。

■terca-feira,16,maio,2006
 問題だと感じることはさまざまあるけれど、その意識がどこを向いているかが、以前と異なるところではないかと思う。改善のための鍵はいつも自分たちが 握っている。それをどうにかしようとすることが、とほうもなく難しいような気になる。
 しかし、どんなに困難だと思われることでも、あの3年間を経てきたことを考えるとどうということはない。あの日々があったことが、こんなふうに励みとな るとは思わなかった。明日もまた元気にいこう。

■segunda-feira,15,maio,2006
 夜には目が開かなくなるので、10時には床に就いている。そのため朝の目覚めはよい。というよりも、朝方になると仕事のことで頭がいっぱいになり、考え事で目覚めてしまう。頭の中ばかり無駄に考えがめぐるのだが、実際の行動は緩慢だ。

■domingo,14,maio,2006
 地域コミュニティの日ということだったが、朝から出勤。昼の休憩を挟んでまた職場へ。午後は4時過ぎまで机で仕事をした。これをしようという強い気持ちもなかったが、これで週末も終わりかと思うと残念だ。状況が変われば常識も変わる。これが、ここの常識か。慣れることも大事だが、慣れてしまっては変えられないともいえる。憂国の徒というのはいつの時代にも矛盾を抱えて生きねばならぬものなのだ。

■sabado,13,maio,2006
 午前中に歯医者に行くことも考えたが、結局は家でゆったりと過ごした。何をすることもないこういう時間が、実は大切だ。午後からは盛岡へ。二つの用事を済ませる。これが仕事と呼べるのかよくわからないけれど。参加して、ただ黙って見ているだけの時間。
 雨に濡れた岩手公園。その 近くの駐車場に車を止めて、二つ目の目的地へ。何人かの懐かしい顔に出会った。皆まったく変わっていないと感じた。3年なんて、それほどの時間ではない。
 岩手公園が、開園100年にして改名されることになったという。100年同じ名前できたものを、なぜ変えなければならないのかよくわからない。他県からの観光の振興が大きな理由のようだ。それほどまで観光客の人数にこだわるか。見たいと思えるものが多ければ、訪れる人は増えるのだ。他県からだろうと、地元だろうと、それは変わらない。そもそも公園というものは、その土地に住む人々のためにあるのではないのか。住民たちがお互いに憩い、豊かな生活を送れるようにするためのものであり、遠くからの観光客を誘致するためにあるのではない。地元民を第一に考えるのが、公ということではないだろうか。文明開化から百何十年経っても、日本には未だにその思想が根付いていない。それほどがっかりさせるニュースだと思う。

■sexta-feira,12,maio,2006
 一日はあっという間に通り過ぎていく。この積み重ねが、この人たちのかけがえのない季節となる。そう思ったら、そこにいる自分の存在価値を確かにしていく努力が必要なのだと思う。ところが、それがなかなか難しい。5年前よりはっきりと、手に取るようにわかる、ような気がする問題点を、取り払うためのリス クはとてつもなく大きい、と感じる。
 とある寿司屋で慰労の会が開かれた。風邪などの理由でスタッフは揃わなかったけれど、旨い酒と肴を味わいながら、和やかな時間を過ごした。 ちょっと飲みすぎたけれど、気分よく帰ってくることができた。四月から世話になっている直属の上司。彼の一人一人の個性を尊重する姿勢、気配りが、心にしみる。またここでも、すばらしい人に出会えた。
 自分のような者の存在価値が、どんなところにあるのか。他人もいぶかしく思うのだろうが、自分自身がいちばんわかっていないのかもしれない。後ろ立てとなる自信や誇りに欠けているようだ。どうにかしなければならないという気持ち半分、どうしようもないという気持ち半分。コンプレックスに塗れた人生。プラス思考といえば聞こえはいいが、案外都合のいい言葉でもある。卑下することはないが、劣等感でなくコンプレックスと呼ぶなら、それらは次に生かされるためにあるはず。君も、そろそろびよーんと、伸びる時期なんじゃないの。
 
■quinta-feira,11,maio,2006
 開始の少し前に着いたら、すでに20人くらい集まっていた。ロビーのテレビをボケッと見ながら、45分も待った。初日の初めなんてこんなものなのかも。 本をもってくればよかった。検診自体はどうということはなかったが、バリウムのせいで一日腹が重かった。
 泣き笑いの平日。日々腹の立つことも多い。でも、これらはすべて希望に満ちた怒りだ。未来があるということは、ありがたいことだ。よく変われる余地があるというのは、すばらしいことだ。この人たちの未来にかかわることができるということ。うれしい。

■quarta-feira,10,maio,2006
 無理が利かなくなったという言葉は、以前からよく聞かされていた。だが、自分自身にそういう実感があると、言葉にするのも癪だなと思う。あちこち痛むし、声も思うように出なくて情けない。無理というより、できることを精一杯しただけなのに、身体がいうことをきかなくなるなんて、ひじょうにおもしろくありません。
 明日の朝、胃ガン検診があるので、夜の八時以降は物を食べてはいけないことになっている。バリウムを飲んで、発泡剤を飲んで、出たくなるゲップを出すなと言われて、苦しい思いをしながら台の上で回転させられるのだ。これはもう、楽しむなどとは考えずに、頭を空っぽにして臨むのがよさそうだ。

■terca-feira,9,maio,2006
 きょうは早く退けたので、一か月ぶりに歯医者に行った。たまっていた歯石もきれいに落としてもらって、口腔内がすっきりなった。よろしい。午後に聴いた講演は参考になった。けれど、欲を言うなら、もっと私たちに未来の姿を示してほしかった。実態に対処することに終始する日々ではなく、本当の理想とか、未 来人の幸福とかを真剣に考えるだけの、いれものがほしい。今のところ、私たちはそれを持ち合わせていない。もちろん、誰かが与えてくれるなんてことは考えてもいないけれど、老いた人は、若い人に、ヒントを示す義務を負っていると思っている。ヒントでピント。ピンボケの声なら、誰も耳を傾けはしない。さて、 見方を広げる広げる。穴が開くほどに光を焦点化させてみよう。新しく創り出す力をもてるように、変わり続けよう。
 仕事観が大きく揺さぶられている。胸の振り子がプラスとマイナスに行ったり来たりしている。これはとてもいいことだと思う。今までいいと思っていたこと が、そうとも言えぬと思えてきたり、今まで見向きもしなかったことが、いっとう大事に思えてきたり。まだまだ固まっちゃいない。まだまだ固まっちゃいけない。だけど、考えの柱となるのは、未来のこの人たちがどんなふうならいちばんいいかだ。僕のようには、なってほしくはないんだ。そして、誰かのようになっ てほしいなんてことも、ないんだ。君たちにとっての幸せは、今のようなやりかたで実現できるのだろうか。
 30年も前に、僕らの先輩たちが施してくれたことが、今どんなふうに生かされているかなんて、証明のしようがないことだ。でも、かれらはほんとうにこんなような社会を望んでいたのだろうか。どこかに誤りがなかっただろうか。そして、その誤りを、新しいはずの僕らもまた、相も変わらず繰り返しているのではなかろうか。今手を打たなかったら、あと30年、また同じことの繰り返しになってしまうのではないか。
 40歳という年齢に、何か自分なりの意味をもたせようとするからか、このごろよくそんなことを考える。

■segunda-feira,8,maio,2006
 連休明けの月曜日はちょっと気持ちがめげた。自分のものを見る目を疑いだしたら、先へ進めなくなる。だが、そういう先へ進めなくなる状態のときも、実は大切だったりする。だいたい、いつでもどんどん進むことができるなんて感じられたら、そんな嘘っぱちはない。自分の気持ちに嘘をつくな。めげるときは思いっきりめげろ。は。「めげろ」の音韻の滑稽さ。
 壁があるから越えようとする。壁の存在すら意識できない人間に、進歩などない。こんな日も含めて、楽しいといえる気がする。苦しみの中にも、たしかに楽しみはある。

■domingo,7,maio,2006
 調子に乗って筋トレなんてするから、両足首が痛くてかなわない。もう無理のきかない年齢になった。帰りに道着を買いにスポーツ店に寄った。けっこう高いので驚いた。いつ着る機会があるだろう。
 きょうでいわゆるゴールデンウィークも終わり。明日から通常営業に戻る。仕事のことを考えるが、特段憂鬱になることもない。楽しみながら、淡々とこなすだけである。それにしても、日本のサービスの決め細やかさはどの分野でもすごいものがある。お客様のために最大限のサービスを提供しようという姿勢は、お そらく世界一なのだろう。だからこそ、日本の今がある。すばらしい国だと思う。
 しかし、これでいいのかという思いもある。サービスを享受する側としてはありがたいことだが、提供する側にしてみれば、いくら働いてもじゅうぶんということはない。それが、労働時間を引き伸ばす要因のひとつになってはいまいか。休日にも、買い物にすら出かける気力を失ってしまっている人は多くないだろうか。ネットで何でも買えるから、商店街やモールに出かけるよりもそのほうが楽なのだ。だいたい、街に出かけてもたいして魅力的なものがない。これは、魅力的なものがないのではなく、魅力的に感じられないという個人の感覚の問題かもしれないけれど。以前から、同じようなことを考えていただろうか。特に休日の生活は、4年前となんら変わりないように思う。

■sabado,6,maio,2006
 古いコンピュータを新しいものとつないで、すべてのファイルを移し変えた。これで、古いものを修理に出せる。ネットにも繋ぎ、さしあたり必要なソフトもインストールした。再起動は必要だけど、一台でウインドウズもマックも使えるのは悪くない。しばらくはこれでいける。
 サイトの日記がようやく追いついた。毎日書くというのが、正直なところこのひと月できないでいた。それだけ振り返る余裕がなかったということだ。時間的にもそうだが、それより気持ちの問題。自分で読み返しても、薄っぺらでおもしろみがないけれどこれもしかたない。
 ゴールデンウィークにゆっくりできたおかげで、自分のペースを取り戻しつつあるということだろうか。きょうも明日も仕事ではあるが、周りに流されることなく、過ごしたい。

■sexta-feira,5,maio,2005
 何もないこどもの日。桜も散り始め。盛りの時期なんてほんの数日。これを日本人が愛でるのはわかるし、外国人が不思議がる気持ちもわかる気がする。いた るところに桜の木が植えられている。その数は以前よりも多くなっているに違いない。たった数日のために手間ひまかけてこぞって桜を植えるというのがおもしろい。しかも、どこもいっしょに咲き始め、散り始めるのだ。
 休みの日にテレビを見ているとあっという間に昼になる。テレビは、つまらないとなるとどのチャンネルもつまらない。コマーシャルには興味を引かれるが、 捻りがなくておもしろみに欠けるものが多い。有名人頼みで宣伝するのも日本のコマーシャルの特徴だろう。俳優たちからすると、こうやって自分たちの仕事の領域を開拓してきたと言えるのだろう。だけど、この人がこれに出る必然性など何一つ感じられないというのもたくさんある。なぜ彼が彼女がそこでそれを食ってうまいと言わねばならぬのか。ああ、テレビに時間をとられるのはもう止めよう。

■quinta-feira,4,maio,2006
 きのうと同じメンバーで、西鉛温泉の愛隣館という宿へ。昼時のみの休憩だったが、風呂に入って弁当を食って畳でごろ寝してというコースで、のんびりしてきた。チェックアウトとチェックインの間の数時間を、このようにして安く提供しているのかと感心した。先日の台温泉とは比べものにならないほど浴場が広くて、露天風呂もあって、天気もよくて、桜も満開。産直の店に寄ったりしながら帰った。近場でも、こんなふうにゆっくりできるなんて、知らなかった。

■quarta-feira,3,maio,2006
 ゴールデンウィークが始まった。今年は三日も取ることができたので多いほうかも知れぬ。しかし、それにしても、カレンダー通りに休むことの難しさ。どうして何十年たっても変わらないのだろうと不思議だ。変えようという気持ちがなければ、何も変わらない。
 午前中に、トロントへのメールを一通。このひと月のことを凝縮して書こうとするが、なかなかまとまらない。まとまるわけがない。行間から何が伝わるか。 好むと好まざるとにかかわらず、一年の12分の1はすでに終わっている。
 夜には盛岡の居酒屋で親戚たちと飲んだ。飲んだと言っても運転手なのでウーロン茶だが、茶でも酒でもあまり変わらなかった。

■terca-feira,2,maio,2006
 満開の桜の下で写真を撮る。ところが、自分自身は桜を見てそれほどの感慨がない。日本人の心を忘れてしまったか。
 きょうの晩から高校の同級生に誘われていたのだが、終わったのは9時前で、とても出られなかった。これでもいつもより早め。そんなふうに状況が変わって しまった。

■segunda-feira,1,maio,2006
 ここ2日くらいの陽気のために桜が一気に開花して春らしくなった。北国の春そのものという感じになった。今週は明日まででまた休みに入るから気持ちは楽 だ。いろいろとやらなければならないことはあるけれど、ゆっくりと過ごせればいいと思う。


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