2006年3月
■sexta-feira,31,marco,2006
 今年度最終日。新年度は土日で始まるので、仕事始めは3日。とはいえ、徐々に緊張感が高まってきた。けしてこの感覚が好きなわけではけしてないけれど、新しいことが始まるときの気分は独特だ。今しか味わえないものだとしたら、そこにどっぷりと浸かってみようか。
 でもその前に、トロントでの3年間をまとめる、というか封じ込めて次に進めるような何らかの儀式が必要ではないかとずっと考えてきた。それをどんな形でできるだろうかと。現時点では、はっきりまとまった形で反省や総括ができるわけではない。もっと情緒的に、記念碑的な形にできないだろうか。以前から頭の片隅にあった、きょう締め切りの文学賞。メールでの応募も可というので、それに参加してみた。もちろん一日でゼロからつくることは無理だが、日記をもとに原稿用紙50枚程度にするならわけない。加筆修正をすれば、未発表の作品に限るとした条項にも抵触しないだろう。で、やり始めたら止まらなくなってしまった。入賞など考えてもいないけれど、関わった方々にはちょっと読んでほしいという気もある。そこらへんの気持ちは一言では言えない。
 ちょうどそれが片付いた頃に、トロントの荷物の最終便が届いた。段ボール箱を片っ端から開けて棚やら押入れやらに収めていく。だが、モノの量が部屋の許容量を完全に上回っているから、とうてい収まるわけがない。本もそうだが、仕事関係の古い文書で取っておいたものも思い切って処分するしかない。それから、無視できないのは衣料品である。あれほど寄付してきたはずなのに、ふたを開けたら出てくる出てくるもう二度と着るとは思えない服の山。特に短パンの類は異常だ。なぜこんなに買い込んでいたのかよくわからない。
 午前中に仕事の準備をして、午後から散歩と思っていたのだが、結局一日中一歩も外に出ないで終わった。

■quinta-feira,30,marco,2006
 目覚めると外は真っ白。10センチは積もっている。まだまだ春は遠い。
 きょうも一歩も外に出ず。先日もらったプリントを打ち込んで、表を作ったりした。必要なこととはいえ、だらだらやり過ぎた。だらだらしていると、一日は意外と長く感じてしまう。これがひとたび流れが始まると、一日はあっという間に終わってしまうのだろう。その積み重ねの一週間も、一か月も、一年もあっという間だ。
 嫌なことや煩わしいことがあったりすると、早く過ぎてしまえばいいと考える。明日が来れば、週末が来れば、夏休みが来れば…、などと言ってとにかくその時間息を止めてさえいればというように。でも、きょう思ったのは、その時ができるだけ長く感じられるほうがいいということだ。嫌な時間をやり過ごしてばかりいたら、人生はすぐに終わってしまう。一時一時を濃密にしていく努力がほしいのではないか。
 残り時間を意識するようになってきた。これまで生きてきた時間ほどにはもう生きられないとしたら、同じ一分を今までより長く感じられるほうがいい。早く過ぎてしまえと思わずに、この時間をどうすれば楽しめるかと考えたい。そうやって生きる楽しい一分、一時間の積み重ねが、楽しい一日、楽しい一年、楽しい一生に繋がっていく。
 そろそろ終わりという頃になって、面白くなかった、辛かったと文句ばかり並べ立てるようなことはしたくない。それはもちろんこれからだって面白くないことも、辛いこともたくさんあるだろう。だけど、それらがあるからこそ面白いものの真の面白さがわかるのだろうし、素晴らしいとか素敵だとかいう気持ちも深く味わうことができるのだと思う。
 一生の半分かけてそんなことを思うようになったのだから、あとは誰が何と言おうとそういうことで行ってみよう。これは誰でもない自分自身にとっての真実。と、そう思ったらこの一分から始めてみよう。

■quarta-feira,29,marco,2006
 今週いっぱいは自由出勤となる。必要なものを午後から買いに出かけた。花巻まで電車で行って、イトーヨーカドーで文房具を購入。店内を見回してみると、カナダの店に比べて商品の棚が低いことに気がついた。はるか向こうまで見通すことができる。
 中国料理のバーミヤンという店があった。全国展開する大手のファミリーレストランだった。メニューも店舗の内装も店員の応対も日本流にうまくアレンジされていると思った。そこで坦々麺を食べた。味は悪くない。でも何か違う。いわゆる本場の味とは違うからだろうか。会計は、レジに請求書を持って行くだけでいいし、チップも要らないので楽だ。不満はない。気軽に食べに来ることができるかな。
 イギリス海岸が近いので、ちょっと寄ってみる。いつ来てもそうだが、水が多いので堆積層は見ることができない。ものすごい勢いで雪が降り出して、岸から見える眺めはすっかり冬だった。
 靴屋で上履きを見た。いくつか試しに履いてみたが、どれもきつかった。履けたのは大きいサイズのコーナーにあるものだけだった。いつの間に足がでかくなったかは知らないが、これだから靴を買うのは嫌いだ。
 デンコードーを見たら驚いた。先日ビックカメラで見たときより、細かいところに目がいった。どの商品もちょっと見はそれほど変わりないが、よく見ると3年前とは隔世の感がある。テレビは薄型が主流になり、洗濯機も冷蔵庫もより多様に、より機能的になっている。ヘルメットみたいなのが並んでいて何かと思ったら炊飯器だった。掃除機の本体も小型になって、これもヘルメットみたいだった。シンプルな電話機が欲しかっのだが、どれも留守番その他さまざまな機能がついていた。それぞれ素晴らしい商品ではあるけれど、自分が使うことを考えると購入までに至るものは一つもない。なぜどれも同じように無味乾燥なデザインなんだろうと不思議に思った。デザインを売りにしているものもたしかにある。だけどどれもおとなしい。もっと思い切って枠を踏み外していいんじゃないかな。
 店の前からバスに乗って帰る。車があれば2時間で済む行程に、4時間近くもかかってしまった。

■terca-feira,28,marco,2006
 昼から打ち合わせで職場に行く。電車の時間が合わず早々と着いてしまったので、国道まで出て遠回りした。天気は相変わらずあまりよくはなく、寒々としていた。田植えにはまだ間があるだろうが、田園地帯を流れる水が豊かだったことにかろうじて春を感じた。田舎の風景を見ていて、とてもいい心地になった。これまでとは違う見方でふるさとを発見していけたらいいと思う。
 打ち合わせ自体はそれほど時間がかからなかった。さしあたり必要な情報は得ることができたが、細かいところは4月にならないとわからない。全体的にとても雰囲気がよく、スタッフのこれまでの努力を感じた。それを引き継いでいくことの責任の重さを感じ、身が引き締まるような思いがした。
 帰りの電車が目の前で走り去ってしまった。あと40分黙って待つのも嫌なので、次の駅まで歩くことにする。ところが、途中で雨が降り出し、雷も鳴り出した。ちょっと暑かったかなと思ったコートも着ていて助かった。

■segunda-feira,27,marco,2006
 午後から歯医者に行く。きょうは麻酔をして神経を取るということだった。1時間以上診察台に座っていた。歯を削られるとひじょうに痛かった。痛かったら痛いと言ってくださいねというので痛いですと言うと先生はおっかしいなあと言って何度も歯茎に注射した。結局きょう取るはずだった神経は次回取ることになった。口の周りが麻痺している。口が開いているのか閉じているのかさえわからずに、口をゆすぐために含んだ水を知らぬ間にこぼしてしまった。
 その後、車屋に行って一切の契約を済ませてきた。納車は4月の中旬以降になるそうだ。それまでは鉄道を使うことになるが、止むを得ないだろう。移動時間やら、自由な時間やらを使って、手当たり次第に活字に目を通した。
 この一週間が長かったか短かったか。正直よくわからない。ただ、この間に時差ぼけはなくなって、生活上は何の違和感もなくなった。やるべきことも少しずつ進めている。
 あとは、仕事のほうの立ち上げが大きな問題なわけだけど、あす打ち合わせに行ってみれば、もう少し具体的にみえてくるだろう。不安な気持ちはあるけれど、それよりもわくわくする感じのほうが強い。

■domingo,26,marco,2006
 一週間が経過したことになる。どこにも出ず、家にいる日曜日。サンデーモーニングを見たら、出演者が3年前とまったく変わりなかった。大沢親分や張本さんが相変わらず元気に出ていた。WBCの優勝というのがずいぶん大きく取り上げられていた。たまたま休日というのもあったのだろうが、たいへんな視聴率だったことを知った。
 ところで、どのチャンネルでも同じような番組が放送されている。NHKと民放も区別がつかない。黙ってみていると時間がどんどん過ぎてしまう。コマーシャルが刺激的に映る。ここまで過激にしなければならないのだろうか。それに、番組の最初にコードが表示されるわけでもない。もし子どもといっしょにいたら、安心して見ていられないようなところもたくさんある。
 カナダのテレビが懐かしい。子どもや子どもを持つ親の立場に立ってみれば、カナダのテレビはかなり安心度が高いと思う。それに比べて、日本のテレビは何でもかんでも垂れ流し状態である。この一面だけ見ても、日本は子どもたちが守られていない社会だということを強く感じる。

■sabado,25,marco,2006
 さわやかな快晴だったがまだまだ寒かった。岩手の3月はまだこんな寒さなのだ。
 一日中、部屋の片づけをしていた。ここを離れる前にそうとうの荷物を処分したはずだが、それでもゴミになるものが多く出た。これからさらに18箱分の荷物が届くことを考えると気が重い。本だって何だってこれからは持ち物をどんどん処分していこう。読んだら手放すという目標にして、どんどん読もう。
 午後には小屋の自転車を出して磨いた。空気を入れたらじゅうぶん走ることができた。近くを40分くらいかけて回る。北上川の雄大な流れ。白鳥の群れ。岩手山と早池峰山のまだ白い峰。こういうところを本拠地として生きるのだと新たな感慨。
 時差ぼけが取れてきたのか、就寝時刻が少しずつ遅くなってきて、きょうは10時前まで起きていられた。

■sexta-feira,24,marco,2006
 盛岡に行っていくつかの用事を済ませる。この間は気がつかなかったが、駅の中はすっかり変わっていて、駅の機能の部分はなんだか小さくなったようだ。帰りにちょっと回ってみよう。
 まずは歯医者。虫歯もできたようで、何回も通わなければならない模様。3月中にできればいいのだが、そうもいかないだろう。
 カワトクデパートに寄ってみる。なんだかおばさんばかりが目立つ。DVDを眺めていたら、どうにも寂しい気持ちが沸き起こってきた。タイトルがカタカナ。英語のタイトルだとしてもカタカナなのだ。すべてが置き換えられていることの違和感。かといって、邦題が付けられているともう区別できない。そして、これはCDもそうだけど、ディスクの値段が異常に高い。今までのようなペースではとても買えないなと思った。
 欲しい車にめぼしをつけて、ディーラーに行って詳しい話を聞いた。きめ細かい説明に心は傾いた。何軒も回って競合させるという時間もないので、今度行ったときにはちゃんと契約できるようにしておこう。
 肴町の本屋で仕事関係の本を探す。とりあえず必要なものをと思ったらすぐに1万円を越えてしまった。身銭を切るという言葉は出版物でしか読んだことがない。ちょっと疑ってかかることが必要かも。
 パン屋でパンを買って、自動販売機でココアを買って、岩手公園の東屋で食べた。風が冷たかった。渡航の前も街にはあまり来ていなかったけれど、山も川もそのとおりだった。建物や店が建て替わったり入れ替わったりしているのがわかったが、それほど意識には上らなかった。それよりも、人々の顔や背格好がみな同じようで、東北人なのか岩手人なのか、共通する特徴的なものがあるのだなあということを強く感じた。
 辻辻に、緑の募金を呼びかける中学生たちが立っていた。3人くらいが声をそろえて言ったり、1人が絶叫に近い形で叫んだりしていた。制服を見ると母校の後輩たちだった。あんまり叫ぶので思わず100円入れたけれど、お願いしますにみあった感謝の声がないので少しがっかりした。ありがとうございますのほうを大きい声で言うといいと思った。
 道であれっという声がしたので振り返ると小学校からの同級生だった。同業者で在外施設も経験している彼女は、どこに行ってたの、いつ帰ってきたのと聞いてきた。昼休み?と聞くと、緑の募金の子どもたちの引率だという。彼女は現在自分自身の母校に赴任しているのだった。誰かに会うかなと思っていたけれど。ほんとうに狭い街だ。
 はんこ屋で公印を注文して、銀行で記帳して、駅に戻る。足つぼマッサージの店の前に置かれたボードに、手書きの文字が書かれていた。「ぜひ一度体駅してみてください」。うっかりミスとは思うが、笑ってしまう。よっぽど写真に撮ろうかと思ったがやめた。
 駅の1階はすべて店舗になっていて、土産屋が軒を連ねていた。宅配のコーナーが真ん中にあって、全国への配送も簡単にできるようになっていた。きれいなディスプレイ。素敵な商品の数々。商売の国だ。ずんだ餅の小さなパックを買って土産にした。
 立ち食いそばを食ったら一気に汗が噴き出してきて、電車の中でも引かずに困った。
 そんなこんなで貴重な平日の一日が終わってしまった。

■quinta-feira,23,marco,2006
 朝から雪降りで、寒い。銀行のオンライン・バンキングにアクセスしようとしたら拒絶された。パスワードが違っているとか、認証できないとか出る。仕方がないので、カスタマー・サービスに電話をする。こういう事態が発生したら嫌だなあと思っていたことが現実になっている。帰ってきてまで英語で電話しなければならないなんて。もっとも、そんなことすら楽しもうという気持ちではいるのだけれど。
 結局、ここではわからないので口座を開設した支店に直接聞いてくれということで、電話番号を教えてもらった。向こうの時間で9時から5時の間に、ということは夜の11時から朝7時の間に、しかもフリー・ダイヤルでないからとんでもない。それで、事務局のほうで対応してもらえるよう、お願いのメールを書いた。そのほかいくつかのメールを書いたら、午前はそれで終わってしまった。
 午後にはこちらの職場に出かけた。朝の雪は雨に変わり、それもほとんど霧雨になって、傘を差すほどではなかった。久しぶりの通りも、あまり変わっていなかった。
 職場では
何人かの知っている方々にお会いして、少し話を交わすことができた。その中の多くの人は、僕と入れ違いで転勤するらしかった。あれこれ話を聞いていたら、以前のことが蘇ってきた。いろいろなことを忘れていた。思い出すたび、背筋が伸びるような思いになった。4月の途中まで書かれていた黒板の予定表をノートに書き写した。皆はそれぞれ動き回っており、忙しそうだった。小一時間ばかり座っていたがどうにも落ち着かず、今後の予定を確認しておいとました。分掌等はまだわからない。来週来た時にははっきりするだろう。どうなっても、一生懸命やるだけ。
 車が無いのはつらい。職場から国道まで出て、郵便局でカードを試すが案の定受け付けない。日産の店があったら立ち寄ろうと思っていたが、見つからなかった。営業所からバスで帰ろうと思って、受付に時間を聞いたら、「そっちにはバス走ってませんけれど」と言われた。いつからそうなのか、走ってないとは思わなかった。駅まで歩き、切符を買う。電車は2分前に出たばかり。駅前で30分時間をつぶす。自動販売機で缶コーヒーなど買って、外のベンチに腰掛けながら変わらぬ景色をボーっと見つめる。まるでこの3年がなかったことのように、すっかり抜け落ちてしまってみえる。ここにとっては欠落でしかなかったわけで、必死で穴埋めをしなければならない。だけど、自分は自分としてずっと生きてきて、欠けてもいないし、落ちてもいない。穴を埋めるというのではなく、できることをやるだけだ。
 帰宅してから近くの親戚に挨拶に行き、四軒に電話をした。どこも、近いうちに伺うことになるだろう。夕方の眠気。これが時差ぼけというものなのか。たまらずきょうも8時には就寝した。

■qiarta-feira,22,marco,2006nozaki
 外は天気がよく、日差しも暖かい。残雪がところどころにあるが、寒さもそれほどではない。ただ、家の中は思ったとおり寒く、気をつけなければすぐに風邪を引きそうだと思った。
 帰郷を果たしたが、今後の計画ははっきりしていない。てきぱきと片付けておかないと、4月以降困ってしまうことになる。
午前中、帰国の報告のメールを簡単に送ってから、徒歩で出かける。早池峰山が白く輝いている。周囲に山があるのを見て、そうだったと気づく。山に囲まれていたのだ。それと、田んぼ。
 役場に行って住民登録をと思ったが、パスポートがないのできょうはできないという。来週パスポートが届いたら再度足を運ぶことになる。
 小川に沿って歩くと、ふきのとうやスイセンの芽が出ていた。そのまま図書館まで行き、カードを作った。バイパス沿いのスーパーの本屋で車の雑誌を買おうと思ったのだが、本屋は跡形もなくなっており、代わりに衣料品店が広くなっていた。
 墓地に行き、父と祖父の墓参をした。ちょうど彼岸だったので、他にも何人か来ている人がいた。
 郵便局のATMでカナダの口座から現金を下ろそうとしたが残高不足と出て下ろせない。金額を下げていって、1万円にしたら下ろすことができた。だが、これでは何十回と同じ動作をしなければならない。
 午後、学校に電話して、今後の予定を確認する。あすには出かけることにする。一気に身が引き締まる思い。
 その後は近くの親戚を回り、挨拶をしてきた。皆にとっても、3年はたいした時間ではなかったのだと思った。
 再び郵便局に行き、お金を下ろそうとしたが、今度は取り扱い不能と出た。局員に相談すると、いろいろ調べてくれたが、結論は、向こうの銀行の問題なのでそちらに問い合わせてほしいとのことだった。口座をもっていることは問題ないのだから、なんとかなるだろう。今度カナダに行ったときに下ろしたっていいんだから、というくらいのつもりでいよう。
 時差ぼけが出てきたか、距離を歩いたからか、夕方から急にひどい眠気が襲ってきてだめだった。食事をして、8時にはもう布団に入っていた。

■terca-feira,21,marco,2006
 ホテルの食堂に入ったら、「いらっしゃいませ」とさわやかな笑顔で従業員たちが迎えてくれた。和食中心のバイキング形式。久しぶりの味もさることながら、このホスピタリティに胸を打たれ、ごはんを食べながら涙が出そうだった。
 東京駅のコインロッカーにカバンを預けてから、近くのビルへ帰国の手続きに行った。書類を出して、パスポートを返し、預けていた印鑑を受け取る。パスポートは失効手続きをしたあと1週間以内にまた返してくれるそうである。呆気ないくらい短い手続き。北海道から沖縄まですべての派遣者が、ここに「出頭」するために成田入国を義務付けられている。大阪の人でさえ、関空を利用することができないのだ。この無駄は何なんだろう。
 コーヒー屋で少し休んでから、またきのうと同じビックカメラに寄って、上から下までゆっくり眺める。いくつか衝動買いしそうなものがあったが、やめる。ワールド・ベースボール・クラシックスの決勝が行われている。テレビ売り場の前には人だかりができており、店員たちは「立ち止まらないでください」と言っていた。よっぽど「全部のテレビを野球にしたら?」と冗談を言おうとしたけれどやめた。野球を観たい人もいれば、観たくない人もいて、それぞれなのだ。
 日本人がどうのこうのという書き方は危険を含んでいる。それは重々承知のつもりが、きのうから日本人をひとつにくくりっぱなしの態度だ。まずは大雑把に捉えて、あとから細かく噛み砕いていく。いずれにせよ、日本人とは何かを考えることは大切だ。
 八重洲ブックセンターで仕事関係でとりあえず必要なものをいくつかと、気になったものいくつかを買い、店内を物色する。レジに置いてあったハードカバーを衝動買いしたが、文庫版が出ていることにあとで気づいた。
 1時に八重洲中央口で弟たちと会い、銀座の豚カツ屋で生ビールを飲み、食事をした。兄弟が揃ったのは3年ぶりだが、それぞれ元気でなによりだった。3年とはいえ互いに3つも年を取った気がしない。こんな感じで年を重ねていくのだろうか。
 HMVでCDを買い、無印良品やソフマップを見て、新しくできたなんとかという建物を通って、駅の地下の店で休んだ。隣り合ったテーブルとテーブルの間隔が狭く、後ろの人のイスと自分のイスとの間にはまったく隙間がないくらいだった。
 5時28分発のはやて87号で盛岡まで。その間にさっき買った「沖で待つ」という本を読む。あまりおもしろくなかった。深いところまで味わえなかったのか。あるいは深いところまで描かれてないのではとも思った。いずれにせよ、買って読むほどの価値があったかどうか疑問。
 盛岡で上りの普通電車に乗り換える。懐かしいという感情はない。発車前の静かな車内に、キンコンキンコンという電子音が響き、客が一人また一人と乗り込んでくる。乗った客はスイッチを押してドアを閉める。またキンコンキンコンという音が鳴り響く。おじさんの膝にカバンが当たってしまい、すみませんと謝ると、おじさんは迷惑そうな顔で僕を見るだけだった。わるいのはこちらだったけど、おじさんの口から“That's OK.”や“No problem.”に当たる言葉が一言もないのが引っかかった。今思うと、だいじょうぶですとか、問題ないとか必ず返してあげる文化もいいものだった。乗り込んできた高校生が僕を見るなり頭を下げた。教え子だと思ったが、申し訳ないことに、誰だったかはわからなかった。みな同じ訛りをした乗客たちの話し声、車窓の外はどこも真っ暗、無人駅のホームに降りては切符を集める車掌、笛を吹いて電車に戻り、ドアを閉める。車内広告はところどころにしか貼られておらず、よく見るとJR関係や宝くじの広告だけ、中吊りも片面だけしかなく、裏は真っ白だった。
 家に戻ると、母と祖母が迎えた。二人ともなんだか普通にそこにいた。祖母の手をとってあげると喜んでいた。思っていたほどの変化は感じなかったが、しばらくしたら祖母が母に「誰だった?」と聞いていた。
 風呂に入って、飯を食って、少しテレビを見て就寝した。

■segunda-feira,20,marco,2006
 時差の関係で、到着したのはすでに月曜日の夕方だった。トロントに来た日の一日は長かったけれど、反対に戻ってきた日は一日が飛んでしまった。
 成田空港は人がすごくて、別送品手続き、両替、宅配便とカウンターを回るのも目が回るようだった。大画面のテレビでは大相撲が放送されており、ちょうど琴欧州が負けたところだった。成田エクスプレスの切符を買ってから、あたりを見回すと、自動販売機がいたるところにあった。思わず緑茶を買って飲んだ。
 そこから東京のホテルまでは、電車の乗り換えを入れて1時間半くらいかかった。電車から見る風景も、電車の中の人々の様子も、それほど変わっているとは思わなかった。エスカレータで左側に立つというのは、トロントとは逆だった。電車を降りるときに大荷物を引きずってすみませんと一声言ったら、きれいに道ができた。宿に荷物を置いてちょっとゆっくりしてから、飯を食いに出かける。銀座のビックカメラに行って、パソコンの電源プラグのコネクタを買う。カナダで買った3点式のプラグが使えないことはわかっていたが、持っていた旅行用の万能コネクタを使えば問題ないと思っていた。しかし、それが日本のコンセントだけには使えないということにきょう気がついたのだ。店員さんを見つけては売り場を尋ねる。日本語で話しかけることが嬉しくて、いろいろな階で4人くらいの人に聞いた。すると、店員さんたちが親身になって教えてくれたり、相談に乗ってくれたりした。これぞ日本のサービスだ。痒いところに手が届くというか、至れり尽くせりというか。僕の会った店員の中には、鍛えられている人とそうでもない人とがいた。しかし、客を大事にしようという心は共通だと感じた。これはすごいことだ。そして、どの階にも並んだハイテク機器の種類の豊富なこと。日本の電気屋ってすごい。きょうはゆっくり見ている時間はないけれど、今度ゆっくり回ってみよう。
 銀座からホテルのある茅場町までは歩いて行けると聞いたので、歩いてみる。あたり前だけど、看板がほとんど日本語で書かれている。ひとつひとつ声に出して読みたくなる。映画館のポスターも題名は日本語だ。「ナルニア国物語」だって。昼食時に話題になったことがあったが、英語圏では「ナルニア」などという発音はしないのだそうだ。「ナーニャ」というのが近いらしい。それで、日本ではナルニアと呼んでいることを聞いた子が大笑いしたというのである。ナルニアというならむしろスペイン語に近いのかもしれない、よくわからないけれど。とにかく、外国語をすべてカタカナに置き換えるというのはおもしろい。しかも、もとの発音ではなく綴りに忠実に直すところは不思議だ。もしかすると、英語の苦手な日本人をつくっているのはここらあたりの習慣ではないかとちらと思った。そういえば、「メモワール・オブ・ゲイシャ」は日本では「サユリ」という題名だったし、「ジ・インクレディブルズ」は「ミスター・インクレディブル」に変わっていた。そのくせ「奥様は魔女」だったりする。なんだかおもしろい。
 仕事を終えた勤め人の団体や、居酒屋で飲んだ後の勤め人の団体を幾度も見かけた。ネクタイやスーツでびしっときめた男女のビジネスパーソンが、9時10時に団体で歩いているのはたしかにおもしろい。良い悪いを別にして、日本では職場の人間関係がひじょうに重んじられているのだということがよくわかった。
 歩行者用信号の緑色が眩しいくらいはっきりと目に映る。信号無視の歩行者がいるのは同じ。もう夜なので目立たないのかもしれないが、どこの場所もきれいで、東京って清潔な街だなという感じが強くした。あす明るくなってからどう映るのか、楽しみだ。
 ラーメン屋の看板を見て、ラーメンが食べたくなる。チャーシュー麺を頼んで、食べてみたらひじょうにうまい。さすが、これぞ日本のラーメン。味わいながらスープまで全部いただいた。いつまでも舌に余韻が残るほどだった。
 3年ぶりの日本の初日はこんなところ。どれもみな好意的にとらえることができてとても嬉しい。

■domingo,19,marco,2006
 トロント赴任の最終日。雲が多いけれど、穏やかだ。昨夜のうちに荷造りは済んでいたので、10時の迎えまでゆっくりと過ごせる。公衆電話からクレジットカードでかけようとするが、どのカードも使うことができなかった。朝食は、これもそうなるだろうと思っていたが、ウェンディーズの朝食のセットにした。余っていたジャムの小瓶をこっそりと持っていって使った。人通りが少ない日曜日の早朝のノースヨークを少し散歩して、また風景をいくつかカメラにおさめた。
 部屋に戻ってから、後任の人にメールを入れる。できれば日本で会えないだろうか。その最後の頼みの綱として、連絡先を送った。僕はこれによって一人の人を量りにかけようとしているのかもしれない。
 チェックアウトしてロビーで待っていると、校長の家族が全員で来てくれた。空港までは15分のドライブ。穏やかなこんな日には、ちょっと遠くにドライブするには最高だ。僕が来た日は4月だったけれど、寒々としてまだ雪が白く残っていた。それに比べると、きょうはその頃よりまだ半月も早いのに雪の欠片などひとつもなくて、もうすっかり春に変わっている。
 カウンターではちょっと戸惑ったけれど、無事切符を手に入れた。通路側にしてくれるように頼んだら、しかもいちばん前の列でゆとりのある席にしてくれた。なんてありがたい。昨年暮れに旅行で飛行機に乗ったとき、狭さと疲れのために気を失い気がつくと吐しゃ物まみれになっていたということがあった。もちろんそのときには乗客に大顰蹙をかったので、またそうなったらどうしようとそれを心配していた。だけど、それほどの心配も不要になった。
 1時半の出発なので2時間前の11時半には門に入ろうと思っていたが、いろいろと言葉を交わしているうちにあっという間に時間が過ぎてしまった。自分のことなのに、まだどこかひとごとのような気持ちになっている。ああ、これでほんとうに離れてしまうのか。皆で記念写真を撮ってから、皆と一人一人握手を交わした。門のところにいたセキュリティのおじさんが、サヨナラ、アリガト、セイグッバイと日本語で話しかけてきて、なんだか場が和んだ。
 一日一便の成田行き直行便。学校関係者の人たちと何人もすれ違い、挨拶を交わす。さすがに出張の人がけっこういるのだ。そして、中には僕と同じく帰国する子の一家もいて、その子はちょっと寂しそうな顔をしていた。同僚の一人の先生とその子どもたちも、一時帰国のため同じ飛行機に乗るので、搭乗するまで少しおしゃべりをしたりした。
 あとは13時間の空の旅。北極を回って西へ行くので、日はまったく沈まない。余裕があるとはいえ、これほどの苦痛はない。映画を3本観て、音楽を聞いて、本を読んで、機内食は2回と、その他にカップヌードルが出た。うとうとはしたけれど、こんな状態で眠るなんてことは無理である。とにかく長い長い時間を消化する。
 成田空港に着いてから、この間の会でもたいへんお世話になった役員の方と挨拶を交わした。この間は伝える機会がなかった連絡先を聞いてくれたので、なんだか嬉しかった。いつでも岩手に来たときは案内します。この方をはじめとして、どなたがいらしてもそういう気持ちに変わりない。
 そして、いっしょに来た先生と子どもたちにもサヨナラをした。上の子は少し熱を出してつらそうだったが、お母さんを一生懸命助けていた。なんか日本にまで知っている人がついて来てくれたようで、かえって名残惜しい気持ちが出てきた。どうもありがとうございました。ぜひまた会いましょう。お元気で。

■sabado,18,marco,2006
 離任の日。卒業式。子どもたちの最高の姿。そして、歌。ここまでのものを僕らはつくってきた。そのことについては、道に何の誤りもなかった。みんなの力を合わせて、ひとつになってやってきた。その一員であったことは、人生の誇りだ。人から声をかけてもらうにつれて、去ることの実感が増してきた。目がちょっとしゅぼしゅぼするけれど、心の中は清清しさでいっぱいだ。最後のバスを送り出して、集会で挨拶をして。話はどうもまとまらなかったが、それで構わなかったとも思う。大判の似顔絵とびっしりと埋められた寄せ書きをもらったときには、胸が熱くなった。帰り際、みんなとひとりひとり別れを交わす。そういえば言おうと思っていたことで忘れていたこと。日本にいても、ここをずっと気にかけていますからということを、伝えたかったな。この種の学校にはもっと内外に協力関係を張り巡らすことが必要だ。事情をよくわかっている人間が、そのことに本気にならなければだめだ。これからは、自分が自分の仕事をまっとうすることの中に、そういう交流が含まれる。郷里の子どもたちを育てながら、同時に世界中の子どもたちを支えていく。どんな形で受信し、情報を発信していけるか。そこに僕がこの学校で3年間学んだ真価が問われる。
 壁にピンで留めていた救急法の覚書と、茨木のり子の詩を外す。もう何も思い残すことはない。みんなどうもありがとう。きっとまた遊びに来ます。ケアテイカーのルディさんとフランクさんが僕を祝福してくれた。ルディはたしか2週間くらい前に別れを惜しんだのだが。嬉しい言葉をたくさん聞いた。ほんの少しの時間接するだけで、あの人たちはいろんなところまでみえている。いつもはこちらが遅くなって迷惑をかけるのに、きょうばかりはかれらのほうがいつまでもおしゃべりが止まらなかった。

 ホテルまで送ってもらう。車の中ではいつもと変わらない感じで、これからの仕事の話をした。自分がいようがいまいが、次に繰り広げられていくことは同じだ。後に来られる人が、この流れをどれだけ早く読んでくださるか。それだけだ。これほどの上司、そして仕事仲間を得られたことは幸せだった。トロントでの生活が終わろうとも、この方たちとの結びつきが切れることはないだろう。
 ひとっ風呂浴びて地下鉄に乗る。エグリントンの駅周辺を散歩。本屋でゆっくりと廉価コーナーを見る。土産はすべて実家に送ったが、少し毛色の違うものを買って帰ろうという気が起きる。リビング関係の小さな写真集を2冊買って、袋も別々にしてもらった。割引になるカードが今月で期限切れになるので、更新するかと聞かれたが断った。交差点でホットドッグをと思ったが、9時を過ぎるともう出ていなかった。最後の晩にはファーストフードになると想像していたが、そのとおりバーガーキングだった。
 ホテルでは野球の日韓戦を観ながら荷物をまとめた。アナウンサーは王監督だけ「王さん」とさん付けで読んでいた。合間には800号ホームランの時の映像などが映し出され、サムライスピリットとか言って王さんのことをすごくすごく絶賛していた。選手がホームランに飛び上がっても、王さんだけは動かない。神風という言葉には、えっと思ったが、言われてみればサムライのイメージは野茂やイチローが初めてではなかったのだな。決勝はひじょうに楽しみだ。

■sexta-feira,17,marco,2006
 朝から気持ちのよい快晴だった。地下鉄から降りてセントクレアを真っ直ぐに歩いた。何枚か写真を撮った。トロントのどの風景がいちばん好きかと聞かれても、はっきりとは答えられなかった。それで、どこかなと探していたのだけれど、しいて一つに絞るとすれば、この道の風景ということになるかもしれない。スパダイナとの交差点のところにある芝生のグラウンド越しに見るCNタワー。
 一日じゅう感情が高ぶって、思うように頭が働かなくなっているのがわかった。あさって帰国と言われても、えっ、そうなの?という感じがする。あすの準備で来た人たちは、もうきょうは僕が来ていないと思っていたらしい。歴代の人たちは、最終週には家の片付けやらで半分くらいしか来なかったそうで、それに比べると僕は家のことで休んだ日は一日もなかった。だいたい家のことなどそれほどたいしたことではない。それより仕事が間に合わないという危機感の方が強かった。だから、アパートを出るのも車を売るのもすべて休日に行ったのだ。だから、それが偉いというのは誤解で、仕事の見通しが甘かったということだけなのだ。
 最終に提出する書類を書きながら、合間にときどき机周りの整理をする。僕が来たときの机は空っぽだったが、今はファイルや文房具の類が詰まっている。ラップトップのパソコンもそのままにして行く。それがいいのか悪いのかわからないけれど、とにかく後任が来て困ることがないようにという配慮は貫いたつもりだ。
 昼を過ぎてやっと書類が終わる。その後、引き継ぎのメモの仕上げに入る。ところが、あれこれ考えると書き方がとても乱暴になってきて嫌になる。去る者が大仰になってしまうのはあまりいいことではない。もっと謙虚な表現をと思いながらも、ついつい厳しい書き方になってしまうのだ。後は自分がフォローするからと上司が言ってくれたので、もう後は何も作らないことにした。あすの最終チェックをして、こまごまとしたことを終わらせていく。夕方にはケアテイカーのエリスさんが、きょうで会うのが最後だからと僕を訪ねてくれた。お別れにはハグしましょうと約束していたから、そのとおりにした。毎日のように人と別れる。つらいとかさびしいとかいう感情が胸を突く。しかし、ほんとうはつらいでもさびしいでもないような気もする。別れとはもっとポジティヴなものではないだろうか。けして閉じることではなく、新しいところに開けるということではないか。だいいち僕らは、いつでも次に進むことでまた素晴らしい体験ができるということを知っている。皆それをわかって、僕の門出を祝福してくれるのだし、場所は変わらないにせよ、また一人一人が違った年を迎えるのだ。
 帰りにはセントクレア駅まで送ってもらい、地下鉄でセントアンドリューまで行く。MECでバッグを結わえ付けるバンドを買って、スパダイナを北上する。チャイナタウンで幾つかパンを買い、セントパトリックのフードコートでプルコギとスープの夕食。きょうはセントパトリックデイなので、街には緑色のものを身につけた人がたくさんいた。フードコートの店の人たちの中にも、緑の人がいた。この日の夕方からアイリッシュ・バーには行列ができる。今夜通り過ぎたバーはどこも満員御礼という感じだった。
 きょうは誕生日でもある。時節柄毎年この日はばたばたと慌しい過ごし方をしている。その中で今年の3月17日は上出来な一日だった。御陰様で、ここで3つ年を取りました。

■quinta-feira,16,marco,2006
 きょう1日でだいぶ進んだ。書かなければならない挨拶をすべて書き終え、配布すべきものもすべて調えた。2つ残っていた提出すべき書類のうち1つは、頭を使わず指先だけで仕上げた。あと1つは明日の朝だ。
 先週の金曜日、ミスターKが逆立ちしたときに、もう最後だと挨拶したら、ビールに誘ってくれた。このときには、もし都合がつかなければ行けないかもと言っていたから、誘ってくれたのは社交辞令で、その日になったら断ってくるのではないかなと正直なところ思っていた。ところが、教えていた番号に電話がかかってきて、6時にマイルストーンズというバーで待ち合わせということになった。
 風の強い日。6時ぴったりに行くとまだ彼は来ていなかった。外では寒いので、モールの中から窓越しに道路を見ながら立って待っていると、しばらくして彼が来たのが見えた。握手を交わし、店に入る。マイルストーンズは月曜日まで住んでいたビルの1階と2階にあるバーだ。これまで1度も入ったことがなく、入ることのないままにカナダを去ってしまうことになるだろうと思っていた。ところがここにきて、カナディアンの友人と酒を酌み交わすことになるとは、なんとも不思議なものだ。
 僕はとにかく言葉が不安だから、ポケットに電子辞書をしのばせていたのだが、一度も使わなかった。子どもが生まれてすぐなので、ミルクをあげたりするのがたいへんだという。きょうは予防接種を打ってきたそうで、3つも注射を打たれた赤ちゃんはびっくりして泣いたと言っていた。彼はギリシャ系のカナダ人で、両親は近くに住んでいるが、お祖父さんの代はギリシャにいるので、何年かに一度ギリシャに帰るらしい。いろいろな話を聞いたが、きっとゆっくり発音してくれたのだろう、とてもわかりやすい英語でありがたかった。家族のことや、ノースヨーク地区のこと。音楽が好きでコンピュータで作曲するのが趣味。そしてなんと、その曲を売っては小遣いを稼いでいるという。テレビコマーシャルやゲームなどの曲の依頼がときどき来るのだそうだ。クレイジーな移民の話、お金の話、結婚の話、宗教の話、教師の話…。さまざまな話題を出してくれるので、話が途切れるということがなかった。そして話は仕事のことになり、彼がいま受け持っているクラスについて、端から見ていたのではわからなかったことをさまざま聞いた。障害をもった子どもたち、保護者の抱える問題、チームを組んでいるアシスタントの先生との関係…。今年が特にたいへんな状況だということを聞かされた。向かいの教室にいるから、様子は何となくはわかったけれど、なるほどそういうことだったか。うちの方にも、日本にも同じようなことがたくさんある。一人で抱えなくていいよ、皆で問題を共有して、一枚岩になることが大事だよ、と伝えたかったけれど、はたして伝わったかどうか。
 2時間くらい話していたら、そろそろ帰らなきゃという。そして、いまから家を見に来るかというので、徒歩で彼の家まで行った。そこには生まれて2ヵ月半の赤ちゃんと奥さん、そして彼の母親がいた。奥さんはコロンビア人なので、ときどきスペイン語が出る。赤ちゃんをあやすときも英語とスペイン語が混じっていた。お母さんのほうはギリシャ人で、ミスターKとは英語とギリシャ語で話していた。奥さんは高校の先生で、いまは1年間の育児休暇をとっている。彼女は学校でフランス語も教えているのだという。お父さんはギリシャ語の先生として、カナダのヘリテージ・プログラムの教師を務めているのだという。
 パソコンで、赤ちゃんの写真を見せてもらい、チキンの夕食をご馳走になった。お母さんは、アジアで行ってみたいのは日本だけと言っていた。そういうふうに言う感覚はわかる気もする。ギリシャ人のホスピタリティの話になったら、日本人もホスピタリティのある人たちだという話になった。それを聞いて、誘ってくれた彼に対してどうせ社交辞令だろうなどと思っていた自分が恥ずかしくなった。ギリシャ人も日本人もそうだけど、いちばんホスピタリティがあふれているのはイタリア人だと彼は言っていた。
 ここに願いを日本語で書いてと言って紙切れを渡された。ウィッシュ・タートルという亀の形をした置物の、甲羅の部分を外すと、そこにはたくさんの紙切れが入っていた。中華のフォーチュン・クッキーの紙もたくさん入っていた。僕の紙をその中に入れて、ふたをした。
 僕は将来のいろいろな希望を、「そうなるといいね」という具合に話した。すると、なるといいではなく、君は「そうなる」んだ、ポジティヴ・シンキングをするんだと言い直してくれた。君の言うとおりだ。きっと、いま抱いている願い事はすべてかなうに違いない。
 赤ちゃんを抱かせてもらって、記念写真を撮ってもらった。風邪をうつしたらたいへんだから絶対に咳はするまいと思って我慢した。10時くらいまでおじゃまして、帰りはミスターK自ら運転の車で宿まで送ってもらった。しばらくすると彼からのメールが入っていた。さっきの写真かと思ったら、別のときに撮った赤ちゃんだけの写真で、僕は写っていなかった。楽しい夜だったと書かれていた。僕にとっても同じだ。どうもありがとう。

■quarta-feira,15,marco,2006
 もう水曜日が終わってしまう。あっという間に夜になってしまった。外は寒いから、長い距離も歩けない。相変わらず咳が止まらない。咳止めシロップもあと3匙くらいでなくなってしまう。愚かなことに、3箱買ったネオシトランはすべてこの間の段ボール箱に詰めて送ってしまった。一冬に二度も風邪を引くわけがないと信じて疑わなかったのはどうかしていた。かといって今は荷物を極力減らそうとしているところだから、また箱を増やそうという気は起こらない。とにかく咳をすることなどどうということはない。それよりもやるべきことを終わらせるのが先決だ。
 部屋に戻ってから、テレビもつけずにパソコンに向かい、1時過ぎまで文書を打った。

■terca-feira,14,marco,2006
 朝はいつもよりゆっくり起きた。きのうとは打って変わって、冬に逆戻りの天候だった。まだ7時前だというのに、朝の連絡通路にはコーヒーの紙コップ片手に談笑する人々の姿があった。今まで住んでいたところとは目と鼻の先で、こんなにも活気ある朝の日常が繰り広げられていたとは。最後まで気は抜けないし、まだまだ知るべきことがたくさんある。自分の街でないなんて言わずに、物事をちゃんと見よう。
 火曜日ともなると、もう今週も終わりだなという気分になる。それほどまでにここでの週日は勢いよく過ぎてしまう。今週は後が無い。残りは明日というわけにはいかない。いつもは金曜にやる便りも今回が最終だ。きょうのうちに一気に仕上げる。途中で話しかけられたときは、涙が零れてきてだめだった。感情を追い込むことで、メッセージが出来上がる。どうにもやり場のなくなった気持ちをまるでドン菓子のように爆発させる。だから、生成されるのに時間はかからない。そんな作業を3年やってきた。こういう感覚はここで初めて得た。そして、きっとこれからも続いていく。何かを生み出すのは、実に清清しい仕事である。
 これでいいということはない。いつまでたっても、どんなに吟味しても、最高のものはつくれない。そのために次のステージが待っているのだろうか。いま念頭にあるのはやはり顔の見える相手であって、顔の見えない人に対してはそれほどの思いも沸かない。文面とは、関係を補いこそするが、関係を生むほどの力はない。あるいは、それほど力のある言葉を生み出すだけの力は、今の自分にはないということか。
 帰りにはセントクレア駅からブロアまで歩く。冷たい風が強くて凍えるようだった。地下で商品券を買ってから、フードコートで食事をした。カードをあれこれみていたら、セントパトリックスデイを彷彿とさせるデザインのものがあったのでそれにする。お世話になりましたという井上順の歌がふと頭を過ぎる。ただし、どう思い出そうとしてもその部分しか出てこなかった。
 地下鉄を降り、スーパーで明日の弁当になるサンドイッチを買ってから、外に出てみる。ホテルの隣の広場、メル・ラストマン・スクエアがずいぶん賑やかだ。一人の女性がマイクで何か叫んでいるのが聞こえてくる。人込みにつられて行くと、ステージでは皆が中東の音楽に合わせて踊っており、それを取り囲む何百人の人込みが見えた。こんなに寒い夜、しかも平日に何の祭りだろうと思ってよくみると、横断幕にはイラニアン・ファイヤー・フェスティバルと書かれている。イラン系の人々の祭りだ。ということは、聞こえてくる言葉はペルシア語か。もらったビラを見ると、ペルシアの正月と書かれている。そうか、きょうは正月だったのか。テントでは、何かのスープを振舞っているようで、蛇のように長い列ができていた。
 トロントの面白さはここにある。世界から来た160以上のコミュニティがそれぞれの文化の独自性を守りながら生活している。民族が違えば正月も違う。それをちょっと垣間見るのがなんとも楽しいことだった。きょうのような日にも、イランのお祭りに遭遇できるとはありがたい。ステージ上のパフォーマンスももちろんだが、それよりも僕はそこに集っている人々の様子をみるのが大好きだった。周りの人々の顔を見れば、目鼻立ちのくっきりした美しい顔立ちの人がたくさんいる。中には黒い布で頭を覆った女性もいる。この雑踏を心に刻み付けておきたいと思った。
 部屋に帰ると窓の外がドンドンとうるさい。のぞいてみると、ちょうど目の前に打ち上げ花火が上がっているところだった。ここで見る最後の打ち上げ花火になるのではないか。偶然に最高の眺めを拝むことができた。
 部屋から無線でインターネットにつなげられることがわかり、フロントに行ってパスコードをもらってきた。これでここを離れるその日まで、ネット環境は維持できる。大手のホテルではもう、殊更宣伝がなくとも、できてあたり前となっているのだろう。時代の変化のスピードはおそろしい。

■segunda-feira,13,marco,2006
 1110号室を引払う日は朝から雨降りで、まだ薄暗い頃から時折雷が光っていた。5時前から目が覚めたのだが、何となく落ち着かない。もう少し眠っていたい気もするが、飛び起きて着替える。ベッドのマットレスを引きずって、リサイクル・ルームへと運ぶ。細々としたモノを選別し、リサイクルするモノ、捨てるモノ、持って行くモノに分ける。床の水拭きやガラス拭きをやり始めたら止まらなくなった。ハウス・クリーニングが入っても、やるところがないんじゃないかな。最後に仕上げの掃除機をかける。これですっかり、もと来たときの状態に戻った。
 ロジャーズのカスタマー・センターに電話をして、モデムやらデジタル・ボックスやらを返却する予約をしていたので、割り当てられた店に返しに行った。ケーブルもすべて出したら、それは要らないわと断られた。これもリサイクル・ルームに置いてきた。リサイクル・ルームには毎日たくさんの品物が置かれる。中にはまだまだ使えそうなモノもある。今回の引っ越しでも僕はこの部屋をずいぶんと利用した。とにかく持ち込めば気持ちよく片付く。リサイクルという名の下に、まだまだ使えそうなモノが自分の手から離れていく。もったいないと思いつつも、とても持ち帰るほどではないし、使い古しでも必要な人があればその人に使われればモノにとっても本望だろう。だが、それと同時に、こういうのをほんとうにリサイクルと呼ぶのだろうかという疑問も浮かぶ。
 ロジャーズに出かけたついでにメトロ・スクエアまで足を伸ばす。おそらくはここで最後の食事を摂る。茄子はやめて、広東炒麺にする。いわゆる餡かけ固焼きそば。そして、豆乳。熱いのと、固いのと、多いのとで、なかなか減らない。この間来た店とは別の店だったので、おばさんと目を合わせないようにした。僕がこの街を去っても、このおばさんたちは何も思わないのだろう。だから、何年かぶりに訪ねてきたとしても、そのときはそのときで愛想のよい笑いを浮かべて見せるのかもしれない。
 雨の中を帰ってきたのは2時過ぎ。今までの前任者たちは、ちょっと離れたところにあるホテルで、帰国までの数日を過ごしていた。しかし、あのホテルはたしかに格は悪くないのだけど、なにしろ周りに何もないので寂しい。僕がトロントに初めて来たときにもあそこを利用したが、雪がちらつく寒空だったこともあって、この先が少し不安になったものだった。そこで、帰国するときには賑やかなところにしようと思っていた。借りていたアパートとヤング通りを挟んですぐ向かい側。地下通路を通れば雨に濡れずに行けるところ。こんなところを利用しない手はない。アパートとホテルを4往復して、すべての荷物を運び出す。その中には、学校に持って行くモノ、食べるモノ、飲むモノ、そしていまに捨てるモノも含まれている。これから数日で荷物はさらに半分くらいになるはずだ。気温の割りに湿度が高くて、重い物を持っていると汗だくになって気持ち悪かった。
 息をつく暇もなく、今度はアパートの鍵を返しに不動産の事務所に行く。鍵をどうすればいいか、何度か電話をかけたのだがよくわからない。そこで、こちらから行って返してやろうと思ったのだ。担当の人は不在だったが、受付の人に渡してすました顔して出てきた。
 さらに、その足で車のディーラーまで行く。この車ともきょうでお別れである。約束はしていたのに、名刺を忘れて担当の人の名前がわからないので、ちょっと困った。しかし、何とかなるもんである。この期に及んで、まだそんな感じでなんとなくその場を切り抜けている。以前は「気にしない〜」という一休さんのフレーズが頭に鳴っていたものだが、今ではそのかけらも浮かばない。言葉についていえば、どんなに自分が失敗しても、気にしないことがあたり前になった。これをはたして進歩と呼べるか。
 バスでエグリントンまで行き、余っていた券で何か映画を見ようかと思ったが、時間が合わないのでやめにした。地下のフードコートで、A&Wのハンバーガー、それとルートビア。最初は湿布くさくて飲めなかったのが、今では好物になっている。日本でも買えるところがあるだろうかなどと、心配していることがおかしい。
 ホテルには机があるので、ちょっと仕事をする気になった。始めたら調子に乗ってしまって、ついつい遅くまで起きてしまった。
 
■domingo,12,marco,2006
 この日曜日はゆっくり過ごすつもりが、昼過ぎまで掃除に追われた。これくらいきれいなら文句ないだろう。モノのことばかり書いていたけれど、モノがなければ生活できなかったことはたしかで、一つ一つありがたい存在であった。これらのモノの多くはまた人の手に渡り、別の人生のページを彩ることになる。感謝の気持ちで磨き、送り出した。
 3時過ぎから散歩に出た。どんよりとした曇り空の下はもう春の暖かさである。バスを使ってヤング通りを南下する。商店街の歩道は家族連れで賑わっていた。いまカナダの学校ではマーチ・ブレイクという春休みの最中で、早いところは先週が、遅いところは来週がまるまる休みとなる。だから、土曜、日曜と合わせると、どの学校も9連休である。そういえば、先週の金曜日、僕らの部屋の前の先生(ミスターKと呼ばれている)は、明日から休みだ、ヒャッホーといって廊下で逆立ちをした。
 デイビスビルでバスを降り、地下鉄を乗り継いでコックスウェルまで行く。そこから歩いてリトル・インディアへ。ここも人が多かった。スピーカーから聞こえてくる音楽も手伝って、しばしの間中東の雰囲気にひたった。ジェラード沿いにイースト・チャイナ・タウンを越え、ヤング通りまで戻るともう6時を過ぎていた。最近は車を使ってばかりだったので、ひじょうに疲れた。
 もう離れる身となっては、街の雑踏がいくら華やかであっても、自分がその中の一部である気がしない。けしてこの街に飽きたとか、じゅうぶんに味わい尽くしたとかいうことではあるまい。ただ、どこかで、切り替えようという作用が働いているのではないか。3年だろうが4年だろうが、だいたい帰る直前にはこういう心境になるものなのかもしれない。自分がここにいようがいまいが、街は同じような表情でそこに立っていて、誰が去ろうが訪れようが、人々はいつもと同じような表情で歩道を歩く。帰ってからでも、あの街は相変わらずやってるだろうと思えば、きっと僕は安心するだろう。
 冷蔵庫にはもうほとんど何も残っていない。カレッジのドミニオンでサンドイッチとサラダを買って夕食にした。音楽もなにも聞かずに、本を読んだ。明日の朝は早いので、9時には就寝する。

■sabado,11,marco,2006
 きょうも朝から、いろいろな人と挨拶を交わした。みんなにもうすぐですねと声をかけられると、そうなのかという気分がどんどん増してくる。あと一週間。その前にちゃんとやることをやらなければ。

■sexta-feira,10,marco,2006
 まだ処分できていなかった道具をいくつか、職場の同僚たちに買い取ってもらった。はじめにブログで出した値段の半額だったので、かなりの破格だと思う。これで、ラジオも炊飯器もテーブルもなくなった。
 買ってくれると連絡をくれた人のうち、途中で連絡が取れなくなった人が何人かいる。近くなってからまたメールをくれるということだったのにメールが来ない。こちらから問い合わせてみても返事がない。匿名だからしかたないと言われればそれまでだが、都合がつかなくなったとか、やっぱり買うのはよしますとか、一言あってしかるべきではないか。偶然だとは思うけれど、連絡のなかったのは皆日本人だ。顔の見えない相手に対して配慮が足りない。日本人ほど思いやりの厚い国民はいないと思っていたけれど、そうでもないかもしれない…などと、またそんなくくり方で人間を判断しそうになる。日本人の中にも、思いやりのある人とない人がいる。その人たちにメールを出せない事情があったのかもしれないし、こちら側の都合で受信できなかったのかもしれない。まあ、ネットを介しての売買はひじょうに便利ではあるけれど、そういうリスクを伴うことがわかっただけでも勉強になった。ブログで品物を紹介するというのは簡単だし、なかなか面白い体験だったのでよしとしよう。
 結局のところ、プリンターが残ってしまったので、とりあえず職場に置かせてもらうことにした。
 
■quinta-feira,9,marco,2006
 午後から長い会議。ここに出るのも、この微妙な空気を感じるのもこれで最後。なんとなく話の流れでお別れのご挨拶をした。
 夜には、ある会社の方二人と上司と4人でいい酒を飲んだ。僕はこの人たちの話を聞いていて、まるで何かの講演会に参加しているようだった。教育の仕事も、民間企業の仕事も、突き詰めると同じところに到達するのではないか。上司からいつも聞いているようなこととピタリピタリと合致するのは感動だった。俺たちのやってきていることは間違いないんだと太鼓判を押されたような気がして、二人で喜んだ。この人たちに惚れたし、この人たちの会社の社風がすごくいいと思った。日本の一流企業の一流たるゆえんは、こういうところにあるのではないか。企業の風土について、貫かれている哲学について、勉強が必要だ。日本の会社が世界をリードしているんだ。なんて誇らしいんだ。日本の多くの会社が、この会社みたいにもっと強く、もっと素敵になっていけばいいと思った。
 聞いたことをいまここでまとめることはできないけれど、この先いたるところで頭の中に浮かんでくるのではないか。いや、むしろ浮かんでほしいと思う。

■quarta-feira,8,marco,2006
 風邪が治ったりぶり返したりの繰り返し。ときどき咳が止まらなくなって困る。歯もときどき痛くなる。じっとしているとき、静かなときには痛みを感じやすい。つまり、普段動いているときは痛みが紛れているということだろう。
 夜にはエドさんという人のところにテレビとテレビ台と電子レンジとトースターを持って行った。この人にはとても世話になった。今回の家財道具の実に半分はこの方に買い取ってもらった。奥さんが、この車も買おうかと冗談を言っていた。エドさんとは3度会った。なんとなく勝手にいい友達ができたような気分だった。

■terca-feira,7,marco,2006
 ザ・ロード・オブ・ザ・リング。トロント発の大長編スペクタクルということで、宣伝や前評判がすごかった。僕は映画も観たことがないし、本も読んだことがないので、話の筋がわからなかった。しかも、歌も踊りも少なくて、英語の台詞も聞き取りづらくて、聞くだけでうきうきしてくる僕の好きなパタンとはまったく正反対のステージだった。さらに、全編がなんとなくおどろおどろしくて、暗くて、出てくるのはほとんど男性で、表情の豊かさもわからなかった。普段のミュージカルよりも1時間くらい長くて、第3幕まであった。7時に始まり、終わったのが10時半を過ぎていた。たしかに、舞台装置には金がかかっており、あっと驚く仕掛けもあって、すばらしいことには違いないのだが。これでしばらくはミュージカルなんて観たくても観られない。しめくくりにふさわしいインパクトがあったと言えなくもない。

■segunda-feira,6,marco,2006
 昨夜ばらした机を、早朝リサイクリングルームに持っていった。朝飯を食べた後で、テレビを取り外した。部屋に掃除機をかけて、隅の埃を取り始めたら、なかなか終わらず昼になった。ベッドを広くなった隣の居間に移した。
 重くなった段ボール箱をテープで止めて、車に運ぶ。最初ピューロレイターという運送会社のシッピングセンターに持って行ったら、郵便局のほうが安いからそっちにもっていったほうがいいと教えてくれた。なんて親切なんだ。ドラッグストアの中にある郵便局に、荷物を抱えて運んだら汗だくになった。やっとの思いで量りに載せたが、数字が出ない。郵便局のおばさんは、中身を減らさなきゃだめだと言う。上限の30キロを超えているのだった。その場でコートとシャツを取ったら29.5キロになった。なるほどピューロレイターよりも200ドル以上安かった。とにかくこれで送りたい物はすべて送った。
 捨てる物、職場に置いて行く物をまとめたら、残る物が少なくなった。ほとんどが着る物だ。暗くなってから、使わなくなった毛布や衣類を、モールの駐車場にある寄付用の箱に持っていって入れてきた。その後でイケアに寄って、CDのホルダーを買った。プラスチックのケースから取り出して、本体だけ運んだほうがかさばらずに済むから。
 どこかで何か食っていこうかと思ったが、冷蔵庫や戸棚の中身を思い浮かべたら、もうそれらを消化する以外にないのだと気づいた。もう時間がないじゃないか。同じことを気づくにも、気づき具合というのがあって、あと少しでさよならとはわかっていたけれど、きょうほど実感はなかった。あと一週間で食べつくせるかどうか。あ、それに、車も使えなくなれば、郊外になど行けなくなってしまうのか。来週は夜にもいろいろと予定が入っているんだった。仕事のことも急に気になりだした。にわかに頭の中が、この街を離れるということでいっぱいになった。ちょっと俺まだ帰りたくないんですけど…。
 仕方ないか。たとえば死ぬ間際にもこんなふうに感じるかもしれないと思った。
 コーヒーメイカーは売れ残ったが、コーヒー豆が切れたので、セカンドカップでコーヒーを買った。家で淹れるよりもさすがにうまい。あと何杯飲めるかな。サルサソースの瓶詰めの残りを、残りのご飯といっしょに炒めて食べた。悪くない味だったが、ちょっと飽きた。
 ベッドに腰掛けながらでは、パソコンは使いにくい。きょう出すつもりのメールも出せなかった。テレビのない夜。ラジオをつけっぱなし。ロック専門の局。ここに来てから好きになった歌がたくさんある。ネットさえあれば、日本からでもリアルタイムで聞くことができる。権利とか利権とか、そこいらの事情が日本とは異なるのでありがたい。

■domingo,5,marco,2006
 朝からずっと頭が痛かった。昨夜の料理の塩気が濃かったのだろうか。それにしては喉の渇きはない。日本で治療してきた奥歯が昨年の暮れ頃に欠けて、それから少しずつ詰めていたものが取れ、気がつくとわりと大きな穴になっていた。帰国してから治せばいいと思っていたのだが、先週あたりから少し痛みが出てきた。数日前チョコレートを食べたら、痛くて夜に眠れぬほどになった。さあたいへんだと思っていたら、翌日はなんともなくなった。その後も、痛む日と痛まぬ日が交互にくる。あと2週間。今のところはなんとかなるだろうと思っているが、帰ったら真っ先に歯医者に行かねばならない。
 昨夜たくさん食べたので、朝から何も食べずに過ごした。午後になって、散歩に出た。きょうも素晴らしい快晴で、気温こそまだ寒いけれど、しばらくぶりに見るクイーンズ・キーはなんとなく華やかで、オンタリオ湖もとても穏やかで、もう春がそこまできていることを感じさせてくれた。
 送別品というものを買っていただけるというので、はて何も欲しいものがないから要りませんと言ったら、それでは後の人がもらえなくなるから困るのだという。それで、せっかくならとイヌイットがつくった小さなフクロウの置物をひとつ購入した。ついでに、土産用にとキーホルダーやらコースターやらも買った。
 その後はスパダイナを北上し、キングのMountain Equipment Coopに行って小さな鞄を買った。中華街のフォー屋で熱いフォーを食べた。ケンジントン・マーケットに行ったらずいぶん賑やかだった。来るたびに雰囲気が違っていておもしろい。考えてみれば、日曜日にはしばらく出かけていなかったから、休日の人通りの多さが、わからなかったのかもしれない。
 きょうはすべて、もう最後かもしれないと思いながら通ってきた。でも、最後かもしれないし、最後ではないかもしれない。これはいつでもどこでもそうなのであって、何も特別なことではない。なじみの土地を離れるときになってそのことに気づかされた。きょうが人生の最後の日になるかもしれないのである。それは、いつでも同じことだ。子どもだろうと、年を取っていようと、変わりない。ただ、いつもは忘れているだけなのだ。

■sabado,4,marco,2006
 変化のときに平常心でいるのは難しい。ここで自分の弱さが出てしまう。それから、自分以外の人間の弱さも露わになる。依存の根っこを断ち切らなくてはならない。そんなイメージを強く抱いてしまうようではいけない。
 送別会があった。マンダリンというバフェ・レストランは以前にも何度か使われた。バフェとはいわゆる食べ放題で、ここの料理はかなり充実している。もう来ることもないだろうと思いつつ、制限時間の2時間を最後までちょっとずつゆっくりと食べ続けた。腹八分目というけれど、何でもあともう少しのところで終わるがちょうどよい。ここでの生活もそう思えるようになってきた。
 ここまで関係をつくるのに3年の月日がかかった。皆があたたかくしてくれた。一生懸命なスタッフだった。きっと世界一だろうと思う。ここで、この時期、こうしてともにやってくることができた自分を幸せだと言わずになんと言えるだろう。ここでの経験をどこでどんなふうに生かせるかわからないと言った。今でもぜんぜんわからない。皆にとっても、いつかこの日々があたたかい気持ちとともに思い出せるものになっていればいい。
 最後だからと話す言葉には、それほどの重みはないように思う。普段のなにげない言葉にこそ真実があり、その積み重ねこそが人生となる。節目は大切に違いないが、ここぞといって何かたいそうなことを持ち出すつもりもない。お別れの記念写真というものにも、僕らのほんとうの姿などは映し出されることはない。そんなふうに考えてしまうのは、ひねくれているだろうか。
 最後の最後まで続く日常の中で、諦めてはいけない。そして、平常心を保たなくてはならない。
 フォーチュン・クッキーとおしぼりが出てきたら、そろそろ帰れというサイン。クッキーの中には未来を占う言葉が書かれた紙切れが入っている。 “You will have a large family” この人たちを皆家族のように思えたら素晴らしいと思う。実はすべての人はもうすでに家族であって、ひとりひとりがそれを認められるかどうかの問題。それだけかもしれない。

■quinta-feira,3,marco,2006
 もう金曜日。このスピード。そのわりに、やらねばならないことの数はあまり減らない。一日一日が貴重だ。そのことがひしひしと感じられる。嬉しいメールがいくつか。少しほっとさせられる。返信はこの週末にしよう。
 帰りにメトロ・スクエアで魚香茄子飯を食べた。久しぶりの店のおばちゃんは素晴らしくさわやかな笑顔で迎えてくれた。漢字の並んだメニューを眺めていたら、ここから離れることが惜しくなってきた。そして、飯はうまかった。茄子は最高だ。さらに、いつもはだまっているおじさんが、笑顔でお盆を片付けてくれた。
 ここはすっかり香港であった。飯屋でいちばん気に入っていたのはここだった。トロントを離れるということは、いってみればアジアから離れるということだ。日本に帰ったら、どれだけアジアを感じることができるだろう。予想すると、日本らしさは感じるだろうが、アジアだとは感じないのではないだろうか。

■quarta-feira,2,marco,2006
 このごろ感じているいらいらはなんだろう。もう少しさわやかな気持ちで過ごせたらと思っているのに。昼過ぎまで会議。午後の時間でどんどん進める気でいたが、思いがけないところで足を取られて進めなかった。だからきょうはせっかくひとりで進められる部分だったのに進めなかったいらいら。
 それとは違って、ひとりで進められないところだから思うようにいかないいらいらもある。そんなことをいっていたら、いつでもいらいらしていなくてはならない。ようするに、気持ちにゆとりがなくなっているのか。感じる必要のないへんな焦り。もう少しゆっくりやろう。

■terca-feira,1,
marco,2006
 3月か。もう光の加減が3月だ。南オンタリオも、岩手も、同じような光が降る土地だった。きっと違う光の土地のほうがずっと多くて、自分のはみ出し方はそれほど大きくはなかったのだ。枠をはみ出す。枠を広げる。枠って何なのか。もともと枠などなくて、自分が大きくなるか、密度が高くなるか、それだけかもしれない。
 自分を広げるという視点でずっとやってきたつもり。深めるのはその後だと。でも深みがなければ広がってもしかたないわけで。もう自分を深めていく努力が、必要な時期に差しかかっているといえるだろう。いいのかよくないのか、これで終わりということがない。
 車を売る算段をつけてきた。自分ではよくわからなかったけれど、かなり高い値がついた、と言われた。持って行ったときに、小切手をすぐ出してくれるということだった。13日の引っ越しが終わったら、持っていくつもりだ。
 送別会のようなものがいくつかあって、きょうそのひとつが終わった。いつもそうだけれど、送られるほうは居心地がわるい。根本的に、僕は人と会話する能力に欠けている感じ。自己主張しようとばかりするくせに、人の話を聞かないところがある。理解を強要するくせに、端から諦めているところがある。
 パーティが嫌いというのが、3月が嫌いな理由のひとつでもある。

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