2006年  10月
■terca-feira,31,outubro,2006
 10月も終わり。Yの登場した日は少なかった。自分自身のことを他人のようには書けなかった。思うように書けない日記は、読む人にとって退屈な日記。でも、輝かしい日々とはきのうのことではない。きっときょうは太陽の光が強くて、星の輝きはまだ見えないのだ。
 ときどき夢の中で音楽が鳴り続けていることがある。目が覚めてもしばらくはそれが頭の中で回っている。今朝見た夢では僕はラップをやっており、浮かんでくる語呂の良い言葉を快いループにのせて語っているのだった。かれらにいちばんダイレクトにコネクトするのはこれかもしれないなどと思った。

■segunda-feira,30,outubro,2006
 学校側という言葉は、いったいどこをさすのだろう。このごろとても耳につく言葉。思えば僕らは海の向こうでこの言葉を取り払おうと躍起になっていたのだった。教育の問題をまるで対岸の火事のように扱うおとなたち。欠けている部分はまさにここだ。誰でもない自分自身の問題だろうが。

■domingo,29,outubro,2006
 仕事が昼で終わったので、家の近くのそば屋で天ぷらそばを食った。テレビののど自慢を見ながら、そばの来るのを待つ。ゆっくりとした時間の流れにどっぷりと浸かってみた。腹を満たしてから、近所を少しぶらついた。川岸の道。木の葉は赤く色づき始めていたが、日差しはまるで春のように暖かかった。買い物に出かけて、帰ってくるともう真っ暗になっていた。こうやってまた土日が終わった。

■sabado,28,outubro,2006
 葬儀の日。最後の別れのとき、自分でもどうしようもないくらいこみ上げてきた。こうやって儀式は心に区切りをつける。
 叔父と叔母を送る途中で、昼飯を食べた。ゆっくりゆっくり話しながらの食事。なんだか温かい雰囲気に包まれた。
 夜には仕事関係の飲み会があった。人数が少なく、小ぢんまりとした会場だったが、一人一人のパワーが炸裂する、楽しく弾けた酒宴となった。何年ぶりかで、イージュー・ライダーを歌った。そういやこの歌は僕のテーマ曲だった。
 何人かの方々の、熱い思いをうかがった。真っ直ぐな気持ちで語ってくれた人たちに、何とかして応えたいと思った。こういう出会いを大切にできなければうそだ。きっと伯母が引き合わせてくれた縁なのだと、素直に受け止めた。何かが動いた、いい一日だった。


■sexta-feira,27,outubro,2006
 関係性とかバランスとかということを疑ってみる。力を出せない状態なのか、それとももともと力がないのか。どうみても後者ではないか。

■quinta-feira,26,outubro,2006
 肌寒い頃に車ででかけた土地の映像が蘇ってくる。温かかったその場所が否応なしに脳裏に浮かんでくる。今の僕には言葉が無い。流れが掴めない。善悪とか敵味方とかまさかそんなふうに考えることはないけれど、ものごとの真意がわからない。共感も協同も、今は他人事にしか思えない。

■quarta-feira,25,outubro,2006
 きわめて“普通に”日々は過ぎていく。考えることまで及ばない毎日のなんと安楽なことか。だけど、無為で空虚なウイークデイにする仕事なんて、価値はたかだか知れている。連日の報道に気がめいるだけでなく、その下で働く自分自身にも嫌気がさしてくる。いつも罪という言葉が覆い隠され、すべてが他人の所為にされる。言い訳だらけの社会が音を立てて崩れ始めている。一気呵成に沈んでいく日本列島。まだ続けたいの。もうやめたほうがいいんじゃないかと本気で思う。

■terca-feira,24,outubro,2006
 伯母が亡くなった。帰宅すると、テーブルの上に母の書いた置手紙があった。予感がしたのか、なぜか買ってきたサンドイッチやカップラーメンを食べて車を走らせる。小雨の降る夜。最後の別れをしてから、親戚たちと少し話をした。父のときと同じ病名だった。
 僕の理解者であり、いつも示唆を与えてくれた存在が、また一人この世を去った。父や祖父たちはあたたかく迎えていることだろう。笑って僕らをみているだろうか。だんだん向こうの世界のほうがにぎやかになっていく。

■segunda-feira,23,outubro,2006
 日常は、常に日常的だ。心の中のことは、表に出ない。淡々と職務を遂行するのみ。まじめすぎるとみえるだろうか、やるきがないとみえるだろうか。笑顔が遠のいているのを感じるけれど、器用な作り笑いなどできない。自分を殺さずには、生きていくことができないなんて。
 仕事が免罪符になるような社会。そこに適応できない僕みたいな人間は、ほんとうに少数派なのだろうか。

■domingo,22,outubro,2006
 土曜にはどうも気が進まなくて、結局この日、入院中の伯母の見舞いに行った。初めて入る病院の曲がりくねった長い廊下。僕が来たことはわかったが、すっかり痩せて、もう口を利くことができないほどになっていた。また来るからねと言う僕の顔を、目を大きく開いて見ていた。言葉ではなくて、彼女の伝えたいことが痛いほどわかった気がするし、僕の気持ちもきっと伝わったに違いない。

■sabado,21,outubro,2006
 目を覚ますと、どんな夢を見たのかも忘れて、寂しさだか悲しさだかわからない感情だけが残っていた。気持ちはひじょうに穏やかならず。だが、あまり追求しないことにする。それは心の中にあることを深くは考えまいとする態度だ。
 いつもより少し遅い土曜日の朝にも、表情は硬い。物を食べても、味がしない。こんなときの食事は、もったいない気がする。すべてが済んでからたらふく食べたい。だけど、すべてが済むっていったいいつのことなのか。
 日本シリーズが始まった。以前はデーゲームだったが、今ではすべてがナイトゲームになった。この時期になると思い出すのは、就職した年に起きた「秘密基地事件」だ。数人が近所の工場跡の建物に忍び込み、その一角を派手に「改造」していた。土曜の午後、どこからか通報が入って、同僚たちと見ていたテレビを途中で切り上げ、僕らは現場に向かったのだった。そこには、丁寧に寝室とかトイレとかいう手書きの表示までされており、不思議な生活感が漂っていた。思い出すたびに微笑ましい気持ちになる。

■sexta-feira,20,outubro,2006
 Yは朝方、夢を見た。最初に出会った上司の夢だった。彼は凄みはなかったが、いざというときには自分が先に立って全体を指揮した。最後には自分が責任を持つという姿勢をいつでもはっきりと示していたから、Yたち部下は安心して仕事を進めることができた。「この人のためにならがんばれる」 そういう言葉を、多くの同僚たちから聞いた。
 上司というものの態度としては、それが普通ではないのか。それほどこの人個人が素晴らしい人物なのか。Yはまだ彼以外に上司を知らなかったから、判別ができなかった。だが、その後多くの上司を見るにつけ、あの人ほど優れた人物は他にいないと思えるようになった。もう70台も後半にさしかかっているはずだ。お元気でいるだろうか。
 それに比べて…。保身ばかり考え、やるべきことを何もしない今の上司のことを思うと、働く意欲も殺がれてしまう。責任ある立場の人間が、なぜにこうも逃げてばかりおり、末端に責任を押し付けようとするのだろう。他人の所為にしてはいけないことは重々承知だが、一切合切彼の所為にしてしまいたいような、そんな気持ちが働くのだろうか。退職届を投げつけて辞めてやろうかと、時々思う。
 夢の中のあの人は、すっかり白くなった髪を長く伸ばしており、その髪を振り乱してはどこか外を走り回っていた。退職したら、自宅に窯を作って焼き物三昧の生活を送りたいと語っていたことを思い出した。幸せな時代だったのかもしれない。誰もが夢を追って暮らせていたような、暖かい想いがよみがえってくる。翻って、薄ら寒い空の下で多くの魂が蹲っているようなイメージが、Yの頭に浮かんだ。

■quinta-feira,19,outubro,2006
 他人を羨んだりあざけたりする人物から、何も学ぶことはない。もし自分がそんな人物なら、誰の前に立つ資格もない。

■quarta-feira,18,outubro,2006
 誰でも矛盾を抱えて生きている。割り切れない想いを受け入れ、共に暮らさなければならない。それは皆お互い様。

■terca-feira,17,outubro,2006
 出張に向かう途中、交差点で事故を目撃した。赤信号を無視した軽自動車が、左折のRV車に突っ込んだのだ。軽自動車には、枯葉だか落葉だか、とにかく高齢者を示すマークが付いていた。赤信号を減速せずに突っ切っての衝突。ぶつかったのは車の鼻先で、怪我はあっても死ぬほどの事故ではなかったろうと思われる。しかし、もし横断歩道を人が渡っていたらと考えると恐ろしい。
 高齢のドライバーが増えるにつれてこのような事故は増えるに違いない。高齢者の免許返納というニュースを最近いくつか読んだが、自主的に返すというだけでは不十分ではないだろうか。例えば60なり65なりになった段階で、運転能力有無の検査を義務付け、基準を下回った人からは免許を剥奪するのだ。そうでもしなければ、事故の巻き添えによる理不尽な死が増えてしまうことになる。
 免許制度といえば、教員免許の更新制が取りざたされている。10年ごとに適性検査を課し、基準に達しない者には研修させたり、教壇に立たなくさせたりするという案があるそうだ。これだけ教員の不祥事が相次いでいる現状では、そういう議論が起こってもいたしかたあるまい。不適格者に教えられる子どもたちの不幸を考えたら、今の制度が現実にそぐわなくなってきているのは否定できないだろう。
 運転免許と教員免許、どちらも他人の一生に責任を負う資格であるのは同じだ。その責任を果たせなくなったら、それ以上免許を保有しているわけにはいかない。望むと望まざるとに関わらず、これからの社会は、免許制度と名の付くものに対して、今よりさらに厳しい基準が設けられるようになってくるのではないだろうか。他人事ではない。自戒の念を込めて。

■segunda-feira,16,outubro,2006
 報道はどこまでいっても断片。断片を拾い上げただけで、全体像がわかった気になってしまうのは理解できる。だが、わかった気になってしまって考えることを止めてしまうのは問題だ。ほんとうの責任の在り処は何処なのか。社会全体が挙ってひとつの敵を作って安心してはいないか。そうして、その敵を攻撃すればするほど、自分らや自分らの子どもたちの首を絞めることになってしまっているのではないか。

■domingo,15,outubro,2006
 6時に出て、5時前に帰って来た。ちょっとのつもりで横になったら、9時過ぎまで熟睡。日曜日はこれでおしまい。

■sabado,14,outubro,2006
 朝霧に覆われた田園地帯を抜ける。朝の冷たい空気。この時間でしばらく止まっていてくれたらと思う。
 でも、そんなことはあり得ない。気がつくともっとも安らかな時間は過ぎて、もう眠るしかなくなっている。

■sexta-feira,13,outubro,2006
 すばらしい流れの50分。うんうん唸って感心させられて、頭に無かったようなことを聞かされて、これぞ目から鱗というものだろうか。などと感動していたら、またまた別の口からは違った見方を聞かされて、ガツンと頭を叩かれた気分になった。良いと思っていたことが実は悪かった、ということもある。悪いと思っていたけれど、それで良かったんだということも。とにかく! 勉強不足だ。
 饒舌であることには、裏と表があるだろうか。謙虚であることには、裏と表があるだろうか。傾聴には、裏と表があるだろうか。誠意には、裏と表があるだろうか。愛情には、裏と表があるだろうか。真実には、裏と表があるだろうか。

■quinta-feira,12,outubro,2006
 きょうの記憶。何も残っていない。一つ一つ遣り過ごして、一つ一つ消化して、ここにあるのは眠気と、無気力な抜け殻だけ。いいのか。

■quarta-feira,11,outubro,2006
 夜にふと空を見上げると、満天の星空が広がっている。秋で空気が澄んでいるせいか、ずいぶんたくさんの星が見える。岩手は、夜空に星がたくさん見えるところだったのだ。離れてみなければ、そんなことすら気づかずに過ごしていたかもしれない。
 トロントでは、空が地上の光を反射するためなのか、これだけの星を見たことはなかった。代わりに上空にはいつでも航空機が飛び回っていたんだっけ。
 このごろになって、頭にはそこにいたときの記憶がいつでも鮮明に蘇ってくるようになった。ついこの間までは、意図的にそれらをシャットアウトしてきたように、それほど出ては来なかったのだけれど。
 どうしたって銀行にも行かなければならないし、来年あたり、やっぱりひょこっと行ってみようか。

■terca-feira,10,outubro,2006
 きのうは結局カレーを食えなかった。そのことが引っかかっていたのか、夜にカレーヌードルなんぞを食べてしまった。そしたら、就寝後に胃がひじょうに痛くなり、眠れなくなった。カリビアンのカレーを食べるとこうなるということはわかっていたが、今までカレーヌードルなんかでこんなふうにはならなかった。どうも身体が変化してきているらしい。胃薬を飲んでしばらくしたら落ち着いたが、好きなものが食べられない不自由さを自分も味わわなければならなくなったか。

■segunda-feira,9,outubro,2006
 また峠を越えようという思いに駆られる。朝から綺麗に晴れたので、きょうこそはいいドライブ日和。Yはただただ車を走らせた。巨大な風車の見える丘を目指した。未来のひとつの方向として面白い。アマチュア写真家のおじさんと少しばかり立ち話をする。被写体としても魅力的な風景ではある。これでどれくらいの電気をつくれるんだろう。家にも小さなのを一基置こうか。
 5年前に通った道や入った店を辿る。この5年で地方はすっかり元気をそがれてしまった。カレーがうまい店があったなあと思い、行ってみると、何にもなくなっていた。結局何も食わないまま町まで帰ってきた。
 ラジオでは北朝鮮の核実験のニュースが延々と流れていた。核拡散というのも、未来のひとつの方向。日本も「ますます危険な核の時代」に入ったのだそうだ。戦争の足音が近づいているようだ。

■domingo,8,outubro,2006
 朝には少し雨が残り、せっかくの日曜日も天気はよさそうにない。何もない朝のサンデー・モーニング。コーヒー片手に、大沢親分と張本さんの喝!を聞く。しかし、そうやって貴重な休日の時間を失ってしまうのが世の常。気がついたときにはすでに、十一時を回っているのであった。ドライブとは運転することなり。Yははっと我に返り、とにかく車を出した。昼にはラーメンを食おう。
 しかし、頭の中にはそれ以上の考えはなかった。がんこ亭という店で目的を果たすと、もう何もすることがない。そのまま車を山に向かって走らせた。九十九折の峠道をくねくねと上っていくと、雲は厚くなり、風が強くなって、まだ昼過ぎだというのに夕方のような暗さになった。暴風の中を車は進む。引き返すことも考えたがもう遅い。上りかけた峠は越えるしかない。
 上り坂あれば下り坂あり。苦あれば楽ありということばもあるが、実際の道路と人生の道とはまた違うと思った。坂を下りたら天気は穏やかになり、太陽さえ雲間から顔をのぞかせるくらいになった。しかし、自分はさっきとなんら変わらず、ハンドルを握っているだけである。乗り物の窓からはいろいろなものが見える。けれど、もしも窓が塞がれていたらどうか。運転中ただ手や足を動かしているだけではないか。
 それで生きてるってことになるのかなあと、Yは思った。

■sabado,7,outubro,2006
 未明から激しい雨風で家が地震のように揺れていた。もう少し強く風が吹けば、屋根が吹き飛んでしまいそうで恐ろしかった。雷にしろ、嵐にしろ、今までとは程度が違ってきている。これまで大丈夫だったから、この先も大丈夫だという保証はない。築十五年の家はまだまだ新しいと思っていたが、そろそろ補強のことも考えないといけないのだろうか。
 午前中は暗い部屋で本を読む。午後からは仕事なのでなんとなく落ち着かない。
四連休なのに、前半の二日間は仕事という状況。Yはこれを無意識に受け入れてきた。周囲を見ると、それを嘆きつつも、仕方ないと言う人。嘆いて、嫌だ嫌だと言い続ける人。それを楽しんで、むしろ平日より元気な人。さまざまだ。Y自身はどれだろうと考えてみる。楽しむ姿勢がないではないが、嘆く気持ちも捨ててはいけないと思う。きっと今は過渡期なんだ。ただ漠然と、こんな状態はいつまでも続くわけがないと感じている。じゃあ、それをどう打開すればいい。黙って時間が過ぎるのを待つだけなのか。なぜか頭に「レジスタンス」ということばが浮かんだ。
 帰りがけにチャンスセンターで宝くじを買おうと思ったら、店のおばさんが青い顔で「危ない!危ない!」と叫んでいた。車でも突っ込んでくるのかと後ろを見たが何も来ない。だがおばさんは叫び続けた。見上げたら、自動のシャッターが静かに下りて閉まるところだった。黙ってそこにいたら、シャッターに挟まれて怪我をしていたかもしれぬ。結局Yは宝くじを買うことができず、一人赤いシャッターの前で立ちつくしていた。時間切れという敗北。
 俺たちは、戦士なのだろうか。

■sexta-feira,6,outubro,2006
 朝早く出勤する休日。たまった仕事を片付けているといつの間にか3時を回っていた。雨が少しずつ勢いを増し、風も強くなってきた。
 Yの休日の楽しみは外食だ。ラーメン店の開拓。これがYが最近自分自身に課しているテーマだ。国道を北上し、最近移転したばかりの坦坦麺のうまい店に入る。担担麺に酢を大量にかけて食べるのが気に入っている。不思議なことに、酢を入れると味にコクが生まれる。おいしいし身体にもいい。それでついついスープを飲み干してしまう。しかし、反面、そんな楽しみしかないのかと突っ込む自分もいる。
 帰りがけ、産直でまた林檎と葡萄を買った。葡萄の甘い誘惑に勝てないのか、祖母がうめうめと言って頻繁につまみ食いするので、仏壇にあげている葡萄の綺麗な房がいつの間にか無残な姿に変わってしまう。滋養の実を食うのだから、悪いことではないだろう。満腹中枢がおかしくなってきたのか、自分が夕飯を食べたことすら忘れてしまって、再び食べようとする祖母である。
 中村草田男の「葡萄食ふ一語一語のごとくにて」という句を思い出して可笑しくなった。

■quinta-feira,5,outubro,2006
 連休狭間のこの二日間は、余力をもって仕事を終えることができた。きょうが終わればとりあえずは連休が来る。そう思うとYは気持ちが大きくなった。後は来週やればよい。厄介なことを先送りする発想に近いけれど、きょうやるべきことはちゃんと終えてはいる。そういう自負はあった。まず今の時点ではこれでいい。そう確認できて一区切り付けるのは、悪い心持ではなかった。
 珍しく職場の飲み会があり、いい酒を飲むことができた。その間にも仕事のためにどうしても参加できない人がいて、皆で労をねぎらうことができなかったのは残念だった。実はこういう機会が大事なんだということを再確認できた日だった。

■quarta-feira,4,outubro,2006
 朝起きたときには少し憂鬱だったが、家を飛び出すと気持ちはすっきりと変わった。Yは、休み明けにちゃんと仕事に出るのが一つの勝負だと思っている節がある。何の勝負かはわからないが、それに負けるともう一生仕事にいけないのではないかと、不安になってしまうところがある。
 職場に出ると、体調を崩したのか、欠勤した同僚が何人もいた。そのため、若干の混乱が生じたが、それもどうにかなり、一日が無難に過ぎていった。こういうときYの頭には、お互い様ということばが浮かんでくる。次は自分が世話になる番だ。身体のために休むことのないYではあるが、いずれは休まざるを得なくなることもあるだろう。ほんとうはもっと気軽に年休が取れればいいのだが、あれこれ考えると取るよりも出て自分でやったほうがいいと思ってしまう。そんなところはYの損な性分なのかもしれない。

terca-feira,3,outubro,2006
 待ちに待った休日だった。Yは朝に読書をした、コーヒーを飲みながら。久しぶりにひとり静かな時間を過ごしていると、あっという間に昼になった。こんな休日の朝が必要だ。できることなら、年に50回は欲しい。だが、それは今の仕事を続けるうちは難しいのではないだろうか。Yはけして甘く考えているわけではないが、この仕事を続けるかどうかという問題になると、自ら思考を停止させてしまう癖がある。
 午後からいくつか買い物を済ませた。秋物の紳士服を買うために入った量販店で、一時間半近くも滞在した。数年に一度の大行事だった。Yは少し面倒な顔をしながらも、いくつもの上着に袖を通し、スラックスを試着した。店員の女性がうまくあれこれ買わせようとすると、Yは容赦なく断りの台詞を吐いた。普段は曖昧な返事しかしないYだったが、はっきり意思を伝えなければ店員の意のままに買わせられてしまう。臆病者の危機感が、やや過剰気味なまでの振る舞いを呼んだ。店員は、カードを作らないかという勧めも何度かしたが、それも再三断った。しかし、相手が折れて「お得なカードなのに、残念ですね…」と言ったたときには、少し心が痛んだ。

■segunda-feira,2,outubro,2006
 もう半月も無休の状態が続いており、Yは疲れていた。午後に行われたとある研修会では、少し目を閉じているだけで眠りの淵に落ちてしまいそうになった。しかも、きょうは夜にも会議の予定があったので、会が終わってからも職場に戻り、資料を作成して、会に出た。短時間ではあったが、かなりの手ごたえを感じる話し合いになった。参加者の一人一人が真剣に努力していることがわかった。
 それに比べて自分は…と、Yは思った。他から何かを学ぼうとする姿は、いつから消えてしまったのだろう。学ぶ姿勢を持ち続けていたいと考えていたのは事実だが、気がつくと学ばない人間になっていた。けして何も考えたくないわけではない。考えてばかりではなくて、具体的にどう動けばいい。その方法論が訊きたかった。人とうまくコミュニケーションが取れない分、Yは自分に向き合ってきたつもりだった。しかし、ここに来て、自分自身を診るとき、無意識に目を逸らしている部位がいくつもあると感じるようになった。

■domingo,1outubro,2006
 10月に入った。Yはまるで生まれ変わってから始めて迎える秋のような気がしていた。部屋には夥しい写真が未整理のまま散らかっている。今週中にもたれるはずの小さな会議に、資料を出すと言っておきながら、アウトラインさえままならない。やろうと思っていたことのどれほども終わってはいないのだ。そのうち時間は経過する。残された時間は減る一方なのに。
 理不尽なことは多い。生活はいつも飾り気のない場所で、少しずつ前に進んだり後ずさったりする。適応や順応といった言葉ほどには慣れてしまうわけでもなく、かといって欝に苛まれることもなく、Yの生真面目だがいい加減な姿勢が、それを支えてきたのかもしれない。


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