2007年7月 

■martedi,31,luglio,2007

 仕事はきょうは3時まで。夕方から盛岡へ。一度も入ったことのなかった老舗でうなぎを食べようという約束。久しぶりに向き合う顔。そしておしゃべりの時間。白くて大きな満月。すてきな7月のしめくくり。感謝。

■lunedi,30,luglio,2007

 荒海に投げ出された小舟のような気分でいたが、海が荒れていようが穏やかだろうが、舟が丈夫なら何を恐れることがあろうか。困難に打ち勝つだけの力さえあれば、どこにだって航海は可能だ。その力を身につければいい。それだけの話。

 きょうは夕方から、これも一つの仕事であった。ほとんど動かぬ3時間。いままでは考えもしなかった新しい見方が生まれた。仕事であり、遊びであり、修行であり。他人の修行を見ること自体が、それもまた一つの修行となる。修行にはさまざまなかたちがある。

■domenica,29,luglio,2007

 朝4時起床はいつものこと。5時半に家を出てから夜7時前に家に着くまで、長い長いお仕事の一日には暑さ寒さもにおいも味も感じないのであった。苦しいとも辛いとも感じない。ただ時間の中でやるべきことをやるべきとおりに淡々と行うのみ。これも修行の一つ? 

 自分のため誰かのためというのは都合のいい言い訳で、ほんとうは害悪でしかないのかもしれない。朝と昼と同じパックのおにぎりにサンドウィッチ。こんなものばかり食べていると身体がおかしくなるのは当然。食を粗末にするのは、命を粗末にすることと同じ。お金をかけるかけないとか、栄養のバランスがどうこうとかいう問題でなく、僕の人生にとってほんとうによいものだけを、選んで取り入れたい。

 もっと快適な環境の下、馥郁たる芳香の中で、神様がくれた神秘の味覚を、心ゆくまで体感できるような修行。そんなものがあってもよくはないか。そしてもしその時間を、素敵な人と互いの思いを伝え合いながら共有できたなら。そのほうがよほど個人というものは、飛躍的に成長できはしまいか。

■sabato,28,luglio,2007

 朝には一通のメールを書く。コーヒーを飲みながら、ゆったりした気持ちで。それが僕の週末のすべて。

 コンビニで弁当を買って職場へ。それを食べながら一時間ほどパソコンに向かう。そしてまた盛岡へ。何もまとまったことのできない数時間を過ごした。途中激しい雨が降ったが、夕方には止んだ。帰ってくるとすでに18時を過ぎている。夕食をとって19時30分、再び外へ。今度は一時間ほど商店街を回って歩く。隣町の夏祭りはにぎわいを見せていたが、湿度と眠気でそれもどうでもいいような気になった。このスケジュールの中で、自分の思いがぶれないようにする、これも修行の一つだろうか。

■venerdi,27,luglio,2007

 職場に自転車で出かけた、素晴らしい朝の光を浴びながら。いつもの時間の倍くらいで着く。それが長いか短いかわからないけれど、ほんとうはこれくらいがちょうどよい。

 午前はいろいろとうまく片付くことも多かったけれど、昼過ぎにかけて非常識な電話がいくつかかかってきて、そのために一日費やした。やりたくない仕事だけれど、気がつけばそんなことばかり。できるだけのことはしている。余計な感情は抱かない。自分に落ち度がないことを確信して、処理を粛々と行うのであった。ピークは来週。休日となるはずだった月曜にもこのため予定が入ってしまった。

 地元の商店街で企画したお化け屋敷が大当たり。近所の空き店舗を改造してつくった会場の前には小中学生たちを中心に100人以上が列をなして、にぎやかに順番を待っていた。近くにはいくつか食べ物を売る店が出て大盛況。これほどの人が出るのは、八幡様のお祭りのほかにはめったにない。祖母が窓から子どもたちの様子を黙って見ては喜んでいる。子どもたちがいるというだけで、何かの力がわくらしい。どんなに小さな町でも、求めるものさえあれば人は集まる。そして、人さえ集まれば、年寄りだって元気に暮らせる。

■giovedi,26,luglio,2007

 昨夜の就寝は午前一時。疲れているくせに朝は普通に目覚めることができた。早起きである。たいしておいしくもない焼きたてパンを食べて職場に。午前中いっぱい労働をして、久しぶりの半ドン。午後は知らぬ間に深い眠りに落ちていた。きょうくらいよい。でもほんとうはほんもののパンが食べたかった。買いに出るつもりがかなわなかった。

 夕方小屋から自転車を引っ張りだして空気を入れる。そこらへんを一周してきた。戻ってくると、もう一台のほうにも空気を入れて、また出かける。いい汗をかいた。

■mercoledi,25,luglio,2007

 大きな節目の日。早めに仕事を片付けて盛岡駅近くのホテルまで。寿司屋で慰労会。どうしても輪の中には入れない。それでも何かと楽しもうとした夜。二次会は二次会で、三次会は三次会で、それなりに。

■martedi,24,luglio,2007

 蒸し暑い一日。きょうは午後に思いきり汗をかいた。前回は楽しくて笑顔がこぼれるほどだったのに、きょうは湿気と疲れで顔が引きつった感じになった。思うように手足が動かなかったけれど、それでも身体を動かせたのはよかった。

 その後、流れてしまうかと思っていた会議は無事に開くことができた。きのうの準備も功を奏した。それぞれ多忙のところ時間を割いてくれたみんなの協力に感謝。ここから先は僕がある程度進めなければならない段階。

 

■lunedi,23,luglio,2007

 一日中水曜日のような気がしていた月曜日。何かと気ぜわしい日ではあったが、とりあえずのゴールはみえてきたという感じだ。昨年のこの時期にはどよーんとした日が続いていた記憶がある。天気がよくなかったことに加えて、仕事上も何かとおもしろくないことが重なっていたためだろうか。それに比べると今年は夏らしい日が多いし、仕事に関してもとても楽な気持ちでいられる。

 送られてきた一枚の写真には、蕗の葉っぱを傘にして雨をしのぐ子どもたちの姿が写っていた。「となりのトトロ」さながらといったところか。トトロを最後まで見たことはないが。

 きょうも遅かったけれど、こんな便りがたびたびあると一瞬でいやなことがすべて吹き飛んでしまう。

■domenica,22,luglio,2007

 昨夜ある程度進めたので安心してゆっくり過ごした。仕事なのかなんなのか八月の見通しを立てる。あとどのくらい生きられるかわからないけれど、可能な限り旅に出ようと思う。人に遠慮してやりたいこともできないとしたら、そんなもったいない話があるか。僕は旅のおかげでここまできた。誰もその道を邪魔することなどできない。

■sabato,21,luglio,2007

 4時頃目覚めて何かしては5時過ぎに再び眠るというパタンが何日か続く。今朝はゆっくり眠りすぎて起床が9時前だった。もったいない。だけどこういう朝はもっとあっていい。ゆっくりとコーヒーが飲める朝。そして、お気に入りの音楽を聴きながら、ベッドにごろんと横になっては、旅のパンフレットなどを眺める、そんな朝。

 それも束の間、きょうも昼前から仕事に出かけることになる。コンビニの弁当をかき込みながら1時間のデスクワーク。その後、車に乗せられて盛岡へ。話をはんはんと聞きながら、自分なりの見通しをつけることができた。職場に戻るとすでに18時。きょうはここからが勝負だった。誰もいない部屋で、はかどるはかどる。明日やろうと思っていたことのうち、半分はできたかな。スーパーで弁当を買って22時に帰宅。

 休日出勤の心のあり方とは多様なものである。せっかくの休みにばかくさいと言いながらやるか、自分を勘定に入れずに淡々とこなすか。どうせやらねばならぬ仕事なら、気持ち穏やかに取り組めるようであれ。それが相手の感じる肌触りとなって表れるのだから。

 だがね。それでよしとしていたのでは世の中は変わらない。きょうの個人的な成果は違う。今のこのシステムを打ち壊したい。犠牲者を出したくない。この社会と心中しない。そういう思いをさらに強くしたこと。何も変わらない者は何も変えられない。何かを変えるためには自分をさらに変える必要がある。

 休日は休むためにある。ほんとうは休日に仕事をしてはいけないのだ。好きだからいいとか人のためだからいいとか、そういう問題ではない。その勘違いが自分たちの首を絞めるのだ。

 命があって、時間があって、そこに個々の人生がある。どんな生き方をしたいのか、何も考えずに年ばかり取る人がたくさんいたから、日本はこんな国になったのだ。

 少なくともこれからの人たちに同じ轍を踏ませてはならない。ひとりひとりのあり方の総体が、社会のあり方をつくる。その責任の一端は学校にある。教師たちの罪はひじょうに重い。教師たちは自分たちのやってきたことを厳しく検証し、改善しなければならない。

 でもそれだけでは不十分だ。子どもを育てるのは誰なのか。教育改革が必要なのはどこなのか。それぞれの役割を顧みようとせずに学校にすべてを押し付けてきた大衆の罪。無関心な人たち、責任逃れをしようとする人たち、自分の利益ばかり追求しようとする人たち。そういう人たちを改めさせなければならない。ではそれをいったい誰がするのか。

 

■venerdi,20,luglio,2007

 きのうと同じようにたくさんの人たちと話をする。日々さまざまな考え方にふれるが、そのどれもが特別ではない。皆をつなぐ生き方がきっとあるだろう。

 腹を立てることが多いから、それをどうにかして表明しようとする。相手に伝わる方法を工夫する。しかし、たいていの場合、どんなふうにあがいても、伝えたい人に限って伝わらないのである。思いの強さが足りないのか、はたまた、表現する力が足りないのかと、自分を反省してみる。でも、自分自身に原因があるとするには問題ははなはだ複雑で、そんなふうに自分を責める側にはなんら問題がないことも多い。

 これでもかこれでもかと無理難題をふっかけてくるおとなたち。でも、おとなにみえておとなじゃない人たちも世の中にはたくさんいる。おとなげないということ? まるでマジックミラーのように、こちらからはみえるけれど向こうからはみえないのだ。「恥を知れ」なんて言葉、使いたくなかったけれど。いま頭に渦巻いているのはそんな言葉。

 すれっからしをもう、つくりたくない。僕はすれっからしにはならない。

■giovedi,19,luglio,2007

 朝起きて感謝のメールを送ってから、肝心のことを書き忘れたことに気づく。それで朝のうちは少し暗鬱な気持ちが心の片隅にあったのだが、午後にたくさんの人たちと会話をしたら、少し落ち着いたような気がした。

 今夜は早めの帰宅でゆっくりと過ごすことができた。補足をと思って電話したらまた長くなった。こんなふうに話せることはありがたいことだ。電話線てすごい。いや、携帯電話だから線はつながっていない。つながっているのは。

 

■mercoledi,18,luglio,2007

 きょうはきょうでいくつかの書類を作成し、郵便局の閉まる時間ぎりぎりに滑り込み。受付時間を過ぎてまでも強行手段で手続き完遂。少し肩の荷が下りる。こんな日本的なサービスがありがたいときがある。日本の郵便局はえらい。

 家に帰ると一通の封書が届いていた。開けるとうれしい一枚の絵葉書と新聞記事の切り抜き。手書きの文字のあたたかみと似顔絵のかわいらしさ。なんともポスタルな日。

■martedi,17,luglio,2007

 やはり昨日一日で終えるのは無理だった。しかし締め切りの今日中に仕上げることはできたのだった。なんというぎりぎりの綱渡りのような人生。

■lunedi,16,luglio,2007

 地震に揺れた一日。新潟の人たちの苦労はいかばかりか。地震にしろ、台風にしろ、自然の猛威の前に我々には為す術がない。ほんとうに小さな存在だと思う。

 朝に期日前投票をしてきた。これをやると気持ちがひじょうに楽。どこに入れるかは迷うところだったが、なんとか決めた。目標のために最善を尽くすしかない。我々にはこの行動しかないのだ。

 11時前に出勤して15時には切り上げた。まだまだ終わらないのだけれど、あとは明日。

■domenica,15,luglio,2007

 きのうの続きの一日。きょうも仕事については特に書けることはないのだが、結果的に8月の予定がまた変わることになった。感情論はこの場合意味をなさない。淡々と粛々と業務をこなすのみである。N響のコンサートなんて行けるわけがなかった。でも、これで親孝行ができたと考えれば悪くはない。

 あすはあすで一日かけてつくらなければならない書類がある。ほとんど手つかずの仕事。ほんとに一日でできると思うか。いや思わない。じゃどうするのか。

■sabato,14,luglio,2007

 この三連休のうちはじめの二日は出張ということになっている。このような時間の拘束が当然でもあるかのようにまかり通るこの社会。きょうのことについては特に書く必要は感じない。職場に戻ってきてからさらに二時間ほど仕事をした。

■venerdi,13,luglio,2007

 明日からの出張に先駆けて準備のため会場に入る。その直前に上司に呼ばれて言われたことはごくごく当たり前のことだった。向こうでだったら僕の方から遠慮せず言うべき内容だったが、こちらに来てからは少々ずるくなっていて、わかってはいるけれど黙認していたところがあった。管理職の立場なら当然指摘すべきことだ。気をつけよう。

■giovedi,12,luglio,2007

 コミュニケーションしたいという気持ち先行で送った一枚の写真。その意味を聞かれ返事を書いているうちに自分にとっての価値が初めて自覚されるようになった。僕がいろいろな国で出会いたいと思っていたこと。忘れていたのだ初心を。それに気づかせてくれたことに感謝。

 

mercoledi,11,luglio,2007

 締め切りは締め切りで大切である。個人で進めるものばかりではないから、自分が済んでいるからといって出せるとは限らない。たしかにこの異常な日程で、時間的な裏付けが何もないところで締め切りを守れというのはどう考えても理不尽ではある。とはいえ一言もないと、待っている側としては不愉快だ。え、もう帰るの? あなたから出るのを待っていたんだけど。僕も僕で人にそう思わせているところがあるかもしれない。恐ろしい。

■martedi,10,luglio,2007

 どうしてこうも働け働けという空気になってしまうのだろう。それがこんな社会をつくってしまったのではないか。できることしかできないのだから、できることだけをやればいいのだから。体制に流される前に、一息入れろって。

■lunedi,9,luglio,2007

 でかい組織の中にいると周りに紛れ込むことができて楽なのだ。その代わりみな主体性を失ってしまう。楽したいとは思うけれど、楽ばかりしていてもつまらない。多忙を言い訳にして楽をするというのも、矛盾のようだがよくあることだ。安住したくはない。

■domenica,8,luglio,2007

 3時には起床。5時半には職場へ。まだアルコールの残った頭で2時間少々仕事する。やらなければならないことをすべて持って帰宅するも、眠くて何も手に着かず。日曜喫茶室で、あん・まくどなるどという人のことを知る。フィールドワークの人生、憧れる。

■sabato,7,luglio,2007

 午前中は眠かった。仕事と呼べるかどうかわからないけれど、時間の拘束という意味では紛れもなく仕事。でもきょうはその中で、一時間ほど身体を鍛える機会があった。進めなければならないことが他に山ほどあったのだが、休日には休まなければならないと思い、やめにした。時間は限られている。その時間でできることだけをすればいい、仕事というものはもともとそうだったはず。休む時間を削ってまでやることはない。それがたとえ教育に携わる仕事だとしてもだ。教師たちがそこをはき違えたら、社会は行き詰まってしまう。教師の責任はひじょうに重い。

 そういうことをあまり考えずに、夜には盛岡へ。おなじみのパーティでうまいものをいただく。大人の素敵な集まりに自分のようなものが参加できることに感謝。縁というのは、ほんとうに異なもの。

■venerdi,6,luglio,2007

 3時頃目覚めて、朝方になってうとうとしたら変な夢を見た。とにかく時間に追い立てられる夢。のんびり生きたいというのは不可能だろうか。のんびりするためには、時間を上手に使わなくてはならないというのはなんとなく矛盾。金曜日の夜。これでもかこれでもかと畳みかけるように襲ってくることがら。疲れない身体というのは理想的だが、現実はほど遠い。

■giovedi,5,luglio,2007

 「さるとびエッちゃん」が気になっていたので、DVDを買って見たらおもしろかった。エッちゃんには小学生の頃に不思議な魅力を感じていたのだが、そのエッセンスというのは今でも心に染み付いていて、どういうわけかそれが蘇ってきては甘酸っぱい感覚に陥るのであった。 

■mercoledi,4,luglio,2007

 今年二度目の早池峰では、たくさんのハヤチネウスユキソウが微笑みを浮かべていた。そういえば、学生時代に神楽を見に行ったことがあった。それから岩泉では鹿踊に出会った。北上山地の山ひだに培われたものを、その頃はまだ生真面目で退屈に感じたものだ。修験道など、今でもどういうものかよくわからない。けれど、自然の豊かさの中にこそ、健気に守り伝えてきた人間の営みがあるという、そのことは感じることができる。

■martedi,3,luglio,2007

 笑顔を絶やさないことがすべての基本だとしたら。僕を含めて、基本のなっていない人が多過ぎる。これほど豊かな表情をもつ唯一の種族が、どうしておもしろくない顔ばかり浮かべるのだろうか。こんな顔をするために表情が備わっているわけではないはずなのに。ほんとうの豊かさと貧しさ。幸福ということ。こんなところにも大きなテーマが転がっている。

 

■lunedi,2,luglio,2007
 多く水をたたえて流れ落ちる滝のイメージが頭から離れない。それは時間という急流を下る頼りなげなゴムボート。必死で櫂を操ろうとするけれど、思いどおりになんかならない。いいとか悪いとか、価値があるとかないとか、言っている余裕などない。ただ流れに乗るだけだ。

■domenica,1,luglio,2007 
 早池峰に花が咲き誇る頃ここを訪れることのできるありがたさ。霊山という呼び方のとおり、不思議な力によって僕はこの山に吸い寄せられてゆく。何か縁とでも呼べるような結びつきで気持ちが支えられるとしたら、それは最高に素敵なこと。きょうという日はもう来ないけれど、きょう交わした言葉たちは既に永遠の命を与えられたのだ。


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