2008年1月               

■Donnerstag,10,Januar,2008

 灰色はがねの空から落ちてくるこの真白な雪。平年並みの寒さが続く。灰色はがねという言葉を僕は思い出せなかった。当たり前のように頭に入っているなどと根拠のない感覚があった。人間は忘れる。しかし、忘れない努力、言葉に触れる努力、美しいものを見る努力、それらなしには新しいものは生み出せない。

 昼からの仕事だった。午前中をもう少し有効に使えばよかった。記録を取ることはもちろんだが、歩を次に進めることが必要だ。普段時間がないないと洩らしている分、こういう時間を大切にしなければ。

■Mittwoch,9,Januar,2008

 朝方には変な夢で目が覚めた。実は過去に誰かを殺したことがあるということになっており、殺害の場面を思い出しては取り返しのつかないことをしたと悔いていた。そして、その場からなんとかして逃げようと考えているのだった。これについて分析は加えない。ただ単に、今朝そういう夢を見たことを記録しておく。

 過去は変えられない。しかもすべては過去を引きずって今に繋がっている。昨夜食事をしているときに、喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからない事実をいくつも耳にした。結論は「わからない」。昨年になって僕自身のアクションによってもたらされた時間は、それでもずっと心のどこかに残り続ける。また、わからないままにこの関係は今年もさらに続く、そんな予感がする。

 人と人との関係はそのきっかけがなければそれを続けることも消し去ることすらもできない。いくつもの書簡の往復のようにかけがえのないやりとりが繰り返され、それによってお互いの信頼が深められてきたとしたら、それは幸せなことではないだろうか。きっかけを自ら作り出したことを、あらためてよかったと思った。

 満たされることが幸せなのではない。ほんとうの絆を結ぼうと思ったら、どんなに壁が高くても立ち向かっていかなくてはならないのだ。その状態こそが幸福の正体なのだと、そんなふうなことを思う。

 生きるという孤独の中で、僕を次のステージに駆り立ててくれる存在をありがたく思う。そしていつまでも諦めずたたかっていこうと僕は決意を新たにする。

■Dienstag,8,Januar,2008

 朝から会議が延々と4時間続いた。長かったが悪い話し合いではなかった。これくらいじっくりと意見交換することもたまにはほしい。ほんとうなら日常的に、こまめにでもお互いに思っていることを交流し合えたら、こんな長い会議も不要なのだけれど。

 

■Montag,7,Januar,2008

 きのうまで左耳がおかしかったのに今朝はまったく異常がなかった。早朝に年賀状の追加分を書いて投函した。近くの神社に寄って古いお札やお飾りを納めその足で出勤した。寒中見舞いの話題をラジオで聞いていいアイディアだと思った。仕事始めは一日研修だった。午前中は講演を聴くというものだった。著名な講師は意外と弾けていて終始聴衆を笑わせた。ひじょうにわかりやすくしかも奥深いものだった。なるほど難しいものを単純に示してくれるものが広く受け入れられるのだ。さっそく著書を購入した。人によって好き嫌いはありそうだけれど素直な気持ちで接すればとても素晴らしい。昼休みには約束していた人と会えずおにぎりを買ってひとりで車で食べた。今年は守れる約束だけをしよう。そして一度した約束は必ず守ろう。そう思った。午後にはいくつか発表を聞いた。それぞれに吟味された内容だった。多くの人が休む年末年始にこれだけの準備をしたとは尊敬に値すると思った。終わってから車の中でいくつか必要な電話をした。いつの間にか辺りは真っ暗になった。コンビニで官製はがきを買おうと思ったら置いていなかった。だが家に買い置きがあった。それで寒中見舞いを作って投函した。夜に見たクローズアップ現代ではこれからの世界経済について考えさせられた。ますます世界は暗い方向に進んでいきそうだ。読書をしていると電話が鳴った。一つの小さな約束をした。今年が始まって一週間。2008年を素晴らしい年にできるかどうか。いいこともそうでないこともあるだろうけれどなかなか楽しみ。今夜は旅先で一度も使わなかったiPodで音楽を聴きながら寝よう。

■Sonntag,6,Januar,2008

 平成の代になってから20年も経ったなんて。あまり考えることはなかったけれど、今まで生きてきた時間の半分が昭和で半分が平成だ。平らに成るなどという願いとはうらはらに、でこぼこな時代になった。この仕事に就いたいちばんの動機は、競争社会とは関わりがないところで仕事ができるということだった。しかし、実際には競争社会についていける者とそうでない者を選別する重要な役割を担っているというわけだった。この競争から脱落した者は生きていくことができない。今ではもうそんな世の中になっている。今まで自分は何をやってきたのかと、虚しい心持ちである。この社会の波は個人や少人数の力でどうにかできるものではないのに、もしかしたらどうにかできるかもしれないと考えていたのが甘かった。明日からまた仕事が始まる。息を止めてドブ川に首を突っ込むようなイメージが浮かぶ。嘆いてばかりはいられないが、かといって誰も嘆かなくなってはおしまいだ。なんとかしなきゃ。

■Sonnabend,5,Januar,2008

 疲れが足にきている。起床したのは9時少し前だった。これはやむを得ない。そのために昨夜帰ってきたのだ。2日くらい休んで仕事に復帰したかった。そこできょうは一日ゆっくりしていた。部屋を片付けていたのはよかった。

 このサイトも9年目に入った。十年一昔というけれど、同じような感じで9年もやってきた。そしてこの間に僕は多くのやりたいことを実現させることができた。またそれと同じくらい、悩みも深く感じるようになったみたいだ。それだけ懐が大きくなったのかどうかはわからない。

 生と死について考える。何のために生まれてきたのだろう。素直な気持ちで自分と向き合ってみる。向き合う相手が違うと思う。僕は僕のために生まれてきたのではない。願いや夢なんて、そんな小さなものではない。

■Freitag,4,Januar,2008

 北新地の駅から姫路に向けて移動。旅の締めくくりは白鷺城を見ること。書写山へというのは時間がなかったので断念した。美しさの中に歴史を感じた。こういう建造物が街の中心に位置しており、いまでも街のシンボルとなっていることに感心した。播州の暖かな気候の中で育ったのだろうか。なんとなくおおらかな雰囲気を道ゆく人々から感じた。帰りに通った商店街には呉服屋がいくつもあった。こちらには日常的に着物を着る文化が残っているのだろうか。それはとても豊かなことだなと思った。僕らの住む地方では特別な時を除いては着物を着る人などほとんど見かけない。

 関西と東北を簡単に比較するわけにはいかないが、今回の旅を通じて、こちらには東北にない豊かさがあると感じた。そしてまた、豊かさではない切実な問題のあるだろうことも感じた。東北人にはよくわからない文化の襞が実はたくさんあるのだ。もしかすると、僕らは教育にしても文化にしても衣食住にしても、日本という国のめざす水準にまったく達していないのかもしれない。

 ところで、「岩手から来ました」と言うのに「青森のほうは寒いでしょう?」と聞かれることが今回もあった。西の方に行くと、岩手も青森もいっしょだという感覚をもっている人にかなりの確率で出会うのだ。もしかりに同じ立場におかれたとしても、例えば岐阜と三重を取り違えることなどないだろうと思うけれど。これはどういうことだろう。

 神戸の南京町を歩きながら昼食を済ませた。その後はメリケンパークなど散歩して帰途に就いた。

 

■Donnerstag,3,Januar,2008

 四天王寺から通天閣周辺。鶴橋のコリアンタウン。人権博物館周辺。さまざまなことを考えながら歩く。人間について考えながら歩く。

 大阪港。目当ての展覧会は行列ができていたので諦めた。並んでまで入るほどのものではないと自分に言い聞かせる。

 そして、日本橋の国立文楽劇場へ。この旅の第二の目的、日本の誇る舞台芸術、人形浄瑠璃・文楽の鑑賞。近松門左衛門作「国性爺合戦」 特段の予備知識もないので、まずは展示室を見学し、プログラムを購入して目を通し予習。そして、公演はイヤホンガイドで解説を聞きながら。日本語であるにも関わらず、まるでオペラのように字幕が出てくることに驚く。だが解説があると物語の背景がわかりやすくてよかった。新春興行ということで、和服を着ていた人が多く、恒例の手拭撒きというのもあって、それもおもしろかった。4時に始まり、7時40分までと長かったが、飽きることなく楽しめた。日本には素晴らしいパフォーミング・アーツがあったものである。大きな発見であった。

 

■Mittwoch,2,Januar,2008

 斑鳩では青空に恵まれた。法隆寺、圧倒的な国宝群に度肝を抜かれた。中宮寺、半跏思惟像のアルカイックスマイル。大学卒業の頃に一度来ているはずだけれど、その頃の記憶はない。「豚に真珠」という言葉そのままの子どもだったのだ。今でもどれほどの価値が理解できているかはわからないけれど、歴史というものの重みをひじょうに強く感じられるようになったことだけはたしかだ。

 法起寺までを歩き、そこからはバスや電車を乗り継いで吉野山に来た。修験道の聖地、金峯山寺の蔵王堂や吉水神社を回った。ここに義経が身を隠し、太閤秀吉が贅を尽くして花見の宴を催したという。たしかに奥深い山で、荘厳な雰囲気を感じさせるところだった。とはいえ近鉄の電車が麓まで通っており、現代ではちょっとピクニック気分で遊びに来ることができる。特急で大阪の中心まで1時間と少し。今晩から二泊で大阪滞在である。

 地下鉄東梅田駅からほど近い宿。そこから大阪天満宮へ。長いアーケード街を抜け商店街を抜け、大阪駅をぐるりと一周するように歩く。猥雑な雰囲気にやられる。食い物屋はたくさんあるが、とても一人で入る気にはならなかった。やっと見つけたラーメン屋でチャーシューメンの夕飯。イチローの番組を見て就寝。

■Dienstag,1,Januar,2008

 奈良に来ている。昨夜は第九の途中で眠ってしまった。5時頃から起き出して、客室のカードに書いてあった「お勧め」のコース通りに散歩した。落ち着いていてよい。もっとも元旦のこの時間なら当然か。時々初詣からの帰りかと思われる人々が通ばかりだった。しかし寺社に近づくに連れて、また日の出の時間が近づくに連れて少しずつにぎやかになってきた。池のほとりのちょうど東大寺の甍と山を臨む辺りに写真家たちが陣取り、白い息を吐きながら初日の出を待っていた。素通りして寺に着いた頃に太陽がちょうど山から顔を出した。そのとき手を合わせたが、他には誰も拝む人もなかったことが不思議だった。

 その足で春日大社へ向かい、この旅最大の目的である厄払いに臨んだ。待合室で前の人たちが済むのを待って、神殿に入ると一通りの儀式が行われた。琴や笛、巫女の鈴の音、そして宮司の声。共にお祓いを受けるのは15名程度だった。住所氏名が読み上げられるのだが、僕の住所が読みにくかったのか宮司がしばし沈黙の後ごにょごにょと言ってごまかしたのが可笑しかった。

 この日は奈良町という江戸期の町並みを散策したのち、西ノ京、そして明日香村と歩いた。今回もひたすら歩く旅となった。昼飯さえ食わずにとにかく歩いた。そして、飛鳥時代、千三百年以上も昔の日本に思いを馳せた。

 元日から本厄の祈祷もしてもらい気分はすっきりした。これで何が起きても神仏の所為にはできない。自分で探し、自分で選び、自分で動く。今までと変わらないけれど、今年もそのように過ごそうと思う。そしてそこに付け加えるとすれば、この先二十年の具体的な展望をしっかりもとう。


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