2009年10月               

■未日常/Saturday,31,October,2009

 起床が7時を過ぎるなんてめったにない。それは互いに疲れを引きずっていたからかもしれないけれど、それほど安心して眠れたのであれば喜ぶべきことではないだろうか。少なくとも僕はそうだった。

 コーヒーにトースト、ヨーグルトに洋なし。そんな食事と、仕事にまつわるさまざまな雑談。おもしろさと刺激に包まれた朝。教わることが多い。僕の空虚な脳の部屋が、ひとりの人の人生で埋められてゆく。僕にとってのその存在のように、僕という存在がありとあらゆる空間に形を変えて染み込んでゆけばいい。

 昼には近所の蕎麦屋に入った。12時前というのにとても混んでいた。もりと天ぷらで満腹になった。その後部屋で少し休んでから、車で大学まで送る。僕らの1年間は、多くの人の1週間と同じだ。日常とはまだ呼べないこの特別な週末に、僕は日常という名前を早く付けたいと願う。

 それから僕も仕事だった。片付けまでして18時を過ぎたが、それから実家に戻った。母を乗せて温泉に行き、冷麺と焼肉を食べた。実家の大画面のテレビを見ながらの世間話の中で、辛い時期があって初めて幸せが実感できるのだという、至極当然のことを確認し合う。そして、これまでのさまざまなことが、皆たまたま最善であったように感じ取れるということを、これまた確認し合う。そのような態度をもつに至ったことは、母にとっても僕にとっても素敵なことだと思うし、それは幸福な人と呼ばれる人の生き方に、近いのではないかと思った。

■熱い感覚/Friday,30,October,2009

 一時間の年休を取るために、朝からぶっとばす。やることを順序よくこなし、一日を過ごす。モチベーションという言葉を使えば、きょうはずいぶんモチベーションの高い日だった。当然である。仕事をするために生きているわけではなく、生活をするために仕事をしているのだから。仕事のために生活が犠牲になってはいけない。だが、生活のために仕事を犠牲にすることは厭わない。この優先順位は揺らぐことはない。

 帰宅してから部屋の掃除。すぐにきれいになる。時間ではなく、気の持ちようの問題だったようだ。イタリアンレストランで食事をする。この一か月というもの、ほんとうにあっという間だったが、見方を変えると、ひじょうに長かった。どれくらい長かったかというと、それは人間の生活としては許せないほどの間隙であり、欠落であった。それを埋め合わせるような時間。熱い感覚。僕は忘れたくない。

■人間の生活/Thursday,29,October,2009

 懸案事項はあっけなく解決した、かのように見えた。しかし、思った以上に手こずり、尾を引いてしまった。それはそれでどうということもなく、やるべきことを淡々と進めるばかりである。

 なんだか疲れた。夜も遅かった。思えば、身体を休める時間がじゅうぶんにない。どうにかならないものか。そして、週末すら自由な時間が取れない。しかも、予定がずれて、なかなかぴったり一致しない。同じような人たちはたくさんいるだろう。俺の若い頃だってと言う先輩もいる。しかし、人間の生活とはこんなに我慢を強要されるものなのだろうか。上司に様子を聞かれて、事実のみを話したら驚かれた。また、申し訳なさそうな目で見られた。

 誰の所為でもないが、この状況をなんとしても乗り越えなければならない。

 

■皮膚の感覚/Wednesday,28,October,2009

 前日と同様に一人部屋にこもって仕事をする。寒いので、勝手にストーブをつけた。今年は寒くなるのが早いように思う。いつの間にか紅葉も盛りを過ぎたみたいだ。毎年のことなのに、比較してみようとすると手掛かりがない。気象に関するデータを並べてみればいいのかもしれないが、それでは計れない皮膚の感覚のようなものがたしかにある。かりにそれが勘違いだとしても、それが実感であれば、間違いだとはあながち言えないのではないだろうか。

■文章と習慣/Tuesday,27,October,2009

 週末にはなかなか手が付けられないままに週が明けてしまった。だが、途方もなくみえた仕事もやってみると意外と早く進むものだ。それにしても集中力を必要とするから、2時間も続けると目が疲れて何度もしばたたいた。

 さまざまな例がある。頭の中で考えがまとまっている人の文章は脳にすっと届く感じ。まとまっていない人のは、他人が読んで理解できるわけがない。そして、地域によってもその差が如実に表れているような気がした。もしこれが事実だとすると衝撃的である。長い間に形成された習慣というものは恐ろしい。精神生活の質。すなわち人生の質を決定づけることであるから。単純に考えれば、それが文化程度の差ということになるだろうか。

■トンネルの開通/Monday,26,October,2009

 たしか雨の一日だった。午後には客人を迎えての特別な行事があって、司会を担当することになった。司会といってもどうということのない仕事である。しかし、思いがけぬことにマイクの電池が切れるという自体が立て続けに発生し、少しイライラした。司会は司会で失敗することはあるのでお互い様といえばその通りなのだが。

 そういうことがないようにチェックをするところまでが準備だとは思うが、この現場でそこまでやる人は少ないのかもしれない。いつでも心許ない感じがつきまとう。相手に対する礼儀を考えること。それがじゅうぶんでないのだろうか。

 帰りには、この日に開通したトンネルを、興味本位で通過してみた。苦節25年。用地買収が進まず、しかも工事が予想以上に難航した。便利にはなるが、現在では、当初の見込みよりも恩恵を受ける人はおそらく少ない。もっと長い目で町作りができていたら、そもそもこんなトンネルなどなくてもよかったのだろう。

■記憶にない/Sunday,25,October,2009

 前日と同様に職場へ。この日も週末のレギュラープログラム。特別でないこととはいえ、何をしたのか思い出せない。それだけ自分を投げうって仕事に没頭したといえるか。あれ、ほんとうに何をしたっけ。

 そこで、メールを見直してみると記憶が蘇ってきた。というよりも、記録を確認できたといったほうがよさそうだ。メールの文面は事実にかなり忠実な記述になっていた。当人が忘れても残されている情報は貴重だ。

 そうだ。この日は早朝出勤して誰もいない所で仕事をした。レギュラープログラムの後にも3時間くらい集中したのだった。その後床屋に行ってリラックスし、産直に寄って林檎等を買ってきたのだった。

 午後八時からは教育テレビで過去のインタビュー集をみた。ひとりひとりの話はほんの少しで、ダイジェスト版のようだったが、このNHKのアーカイブの量と質には驚く。学ぶことは変わること。その通り。だから我々は絶えず変わり続けるのである。

■お仕事たくさん/Saturday,24,October,2009

 朝7時過ぎに職場に出てから移動。13時頃までは週末のレギュラープログラムをこなし、それからまた職場に戻る。そこで仕事に取りかかるが、続ける気分にもならずに帰宅。久しぶりに珈琲屋に行くと、産直野菜があった。新鮮なキャベツを50円で買った。商店街を少し歩いて、パンやら弁当やらを購入。15時過ぎに遅い昼食。楽天の試合を聞きながら眠くなる。気がつくと18時。この一週間。何があったのかしばらく思い出せず。

 寂しい気持ちが顔を出す。本来的な生活から遠ざかっている境遇を思ってため息が出る。これではいけないと思いながら、心の置き所がわからなくなる。今立っている場所で生きていながら、今立っている場所からの眺めは意識できない。ふわふわした所に不安定に立っている感覚を覚えることがこのごろ多い。

 先輩にこれからのことを相談する。思っている以上に難しい問題だと感じる。したいことをしたいようにするのは難しい。それをできる前提として、自分たちがどうしたいのかを明確に定める必要がある。当然の話だが、それがもっとも難しい。どうしたいのかが定まれば、いつだって取るべき行動は一つに絞られる。実現の可能性の如何なんて、その後でなければ論じられるはずもない。

 痒いのは生きている証拠。そして、ふわふわ感は地に足がついていない証拠。そこがほんとうの僕の仕事であり、いつまでもそこに辿り着けないでいることは、僕の不徳の致す所である。

 夜には長電話をした。気持ちが癒されるような感じがした。気づくと2時間を優に越えていた。明日からも元気にがんばろうと思う。ほんとうにありがたいことである。

■痒みの理由/Friday,23,October,2009

 一週間があっという間に過ぎ去る。しかし、見方によってはこれほどだらだらと過ぎた一週間もない。とにかく、自分というものを活かす時間がない。新聞はたまり放題、部屋は散らかり放題。胃痛は治まってきたが、痒みとミミズ腫れの症状はいっこうに改善されない。かくとたいへんなことになるから日中は我慢しているが、帰宅後にあちこちかきだすと止まらなくなって、身体中が真っ赤に腫れ上がる。ちょっとこれは病院に行った方がいいかな。でも、この蕁麻疹の理由はわかっている。

 しようと思っていることを全くできぬままに週が終わってしまう。仕事で持ち帰ってきた物が山になっている。この週末には、単純計算で原稿用紙250枚もの文章に目を通すことになる。それを3週間に渡ってやらなければばらない。拷問のようなものである。そして、それが単なる拷問より厳しいのは、それをやる時間自体がないということである。しかも、この全く余計な仕事に対して、特に何の報酬も用意されてはいないのである。

■疫病と不調/Thursday,22,October,2009

 過密日程にも関わらず、皆文句一つ言わずに働き続けることができるのである。頭が下がるというか、頭が上がらないというか。ほとんど病気の域である。先日の報告によると、残業の平均時間の長さはこの地区では上位で、30位以内には3分の1くらいの人が入っているという。実に勤勉な勤務実態である。しかし、かくいう自分でさえ月80時間の線は優に越えているのであった。

 例の新型の影響で予定が大幅に狂った。年末の休みさえ減りそうな感じで、疫病の流行で少しは楽になるかと思いきやいいことなど何一つない。

 今朝起きてからも胃痛は続き、夕方までときどききりきりと痛んだ。身体中にちくちくと痒みが走り、かくとそこがミミズ腫れのようになった。蕁麻疹か。ずいぶん前にも同じような症状が出たことがある。足といい腕といいもうたまらない状態。

■食事と胃痛/Wednesday,21,October,2009

 午後には出張だった。時間までは余裕があったからどこかで昼食をとるつもりだったが、あれこれやっていたら食べる暇などなくなった。空腹のままで予定をこなすと、夕方は少し余裕が生まれた。待望の連休まで一か月。早速駅に寄って切符を購入した。立ち食い蕎麦の誘惑に負け、パン屋でもいくつか買って帰った。

 普段食べない物を普段食べない時間に食べたからか、夕方から胃が痛くなった。結局夕飯を食わずに仕事をして、23時頃になった。夜のあいだも胃が痛くてよく眠れなかった。

■会議の日/Tuesday,20,October,2009

 会議があって、運の悪いことに司会に当たった。淡々とこなしているつもりが、2時間半もかかってしまった。他の人のようにいちいち受けを狙うようなことは言わないし、また別の人のように司会自らが発言するようなことも控えた。常に必要最小限の言葉だけを使うように心がけ、発言を待つ時間も取らなかった。それにも関わらずこんなに時間がかかるのは、各々の提案自体が長過ぎるのだということに気がついた。つまり、会議の要領が悪いのだ。さらに、そのようなだらだらとした会議を短くしようなどとは考えているふうもなく、発言者たちはいつまでも話し続けるのである。たしかに喋るのが好きな人種に偏っている業界ではある。

 

■お互い様とお人好し/Monday,19,October,2009

 出張やら病気やら何やらで人が少ない。少ない人で回そうとすると、どうしても皆にしわ寄せが来る。しわ寄せが来ると文句を言う人が出てくる。それは当然であり、いない人に文句を言ってもしょうがない。結局困るのはいつもその場にいる人の方である。お互い様と言えば聞こえはいいが、それは実は不平等の言い訳でしかなかったりする。そもそものところで、人が足りな過ぎる。そのくせに給料はまだ減らされるという。

 誰もが、困る困るというサインは出し続けている。それでも何も改善されないのは、すべてがシステムの枠にがんじがらめにされているからである。お人好し集団は、自分たちの首を絞めているそのシステムを、それが自分たちを守ってくれていると勘違いしているみたいだ。ほんとうの敵はどこにいるのか、見定めなければ。

■ETC/Sunday,18,October,2009

 付けてみようかと朝に思い立ち、営業時刻になってから店に電話で問い合わせた。在庫はあるし、取り付けも1時間で済むらしい。11時にと予約して車用品店に行った。無料化も時間の問題かという今になって、取り付けようとする人は少ないようだ。しかし、思ったのはただの無料にはしないのではないかということだ。このシステムが無用の長物と化すとは思えないし、仮になるとしてもそれはまだ来年度以降の話。最近ではこの件に関してニュースが乏しいが、民主党はあっと驚くやり方を示してくるのではないかと、そんな予感もする。

 いずれにせよ有効性は今後もしばらくは失われない。何度か遠乗りすれば元は取れるわけで、導入してみても悪くないのではと考えた。大きな方針転換。そうたいしたことではないか。

 車両を預けている間、少し散歩をした。本屋を覗いたり、金融機関をはしごしたりしていると、1時間の待ち時間はすぐに過ぎた。

 帰りには産直に寄って買い物。隣にあった食堂で久しぶりに中華そばを食べた。 

■一週間のまとめと電話/Saturday,17,October,2009

 悪いパタンである。近頃では帰宅すると何もできないうちに眠りに落ちてしまい、しかも朝も思うように起きられない。それで、日記をまとめることもできずに一週間が過ぎてしまう。

 この土日は予定が急になくなったのであったが、朝には日記を書いていて時間が経過してしまった。たしか洗濯をして、雨だったか干せずに、掃除もいい加減にやって、だらだらと過ごした。ラジオをつけても集中できなかった。

 夜には電話で話をした。とりとめのないおしゃべりだったが、話を聞いたりしているうちに少しは元気になった。話すことにより、思考が整理できることがある。気づいたことを再認識できることもある。穏やかな気持ちになって土曜日を終えられる。ありがたきことなり。

■責任の所在/Friday,16,October,2009

 朝から予定通りに仕事が進み、しかもいつも感じている負担をまったく感じることがないので過ごしやすい。たまにこういう日があってもいいなどというと、職務放棄ともとられるから要注意である。

 歯医者の予約を17時に入れていた。時間休を取ることが前提である。ところがいろいろもたついて、途中で18時に変更の電話をする。だが、夕方になってさらに厄介なことが出てくる。いくつか電話で連絡を取るにつれて、おかしな事実が明らかになってくる。ちょっと待てよ。ひじょうに面倒な事態に巻き込まれている感覚。

 誰の所為だと責めるつもりはないが、当事者本人がどうも問題点に気づいていないようにみえる。責任の所在をはっきりさせていない。報告すべき人が報告すべきところにしていなかったことが、問題を大きくさせている。つまり、基本を外しているということだ。案の定。仕方がないのでこちらはこちらで報告しておいた。

 責任の所在を明確にすることは、仕事をしやすくするために必要なことだ。最終判断は責任者に仰ぐべきである。それをわかっていないと苦しい。苦しい気持ちは想像できるが、僕が苦しさを取り除くことはできない。

 予約をさらに20分遅らせて、何とか歯医者もきょうで済ませた。こじれた原因はこちらではない。それがわかっていれば何ら苦しくありません。でも、こういう場合、こちらが恨まれちゃうんだろうなあ。来週は面倒なことになりそう。まあいいや。慣れてるから。

■いつもの飲み会/Thursday,15,October,2009

 早起きしてきょうの準備をした。昨夜やろうと思っていたことは、眠気のためにできず、朝の仕事になった。新型インフルエンザの猛威は衰えることを知らず、きょうはまた新たな展開があった。この一か月半というもの、こんなことばかりで本業は商売上がったりの状態である。なんだかどうでもいい気分になる。しかし、夕方からの動きは、電話をいくつかかけたり会議で難しいことを検討したりと、慌ただしかった。

 やっとのことで退勤し、従兄弟たちのいる焼き鳥屋に行く。一か月に一度の飲み会に参加するようになって一年半くらいになる。みんな最近酒が弱くなったという。僕もその通り。ビールを飲む機会は月に一・二度というところ。だが、飲みたい人とだけ飲むというのが徹底すれば、強さに関わらずそれは素晴らしいことに違いない。二軒目はいつも同じ店。それにしても僕のようなリズムは異常なのだろうか。たしかに普通ではないなのかもしれない。新しい生活は始まっているようでいてまだ始まっていないのだろうと密かに思う。終盤は瞼が重くなってきた。いつもと同じ。20時過ぎに始まった飲み会は、23時を回る頃にお開きとなった。

■仕事の日/Wednesday,14,October,2009

 ほんとうは今日まで三連休だったはずが、きょうは一日仕事の日となった。普通に出勤。誰もいない職場で机上の片付けから始める。誰もいない状態は10分も続かず、次々と人が現れた。休みにも関わらず、三分の一は何か仕事をしに職場に来ている状態。困ったものだ。しかし僕の机は片付いて気分がすっきりした。

 片付けを終えたら昼まで仕事。その後は出張となり、食事をする暇もなく着替えて出かけた。少しばかり早く帰宅したら、眠くなって寝てしまった。起きると外は真っ暗で、もう出かける気にもならない。

■平日の休み/Tuesday,13,October,2009

 朝早くに墓参して来た。天気はよくなかった。朝食を食べ、そのままテレビを見てしまった。和食、中華、イタリアンの三人の料理人がそれぞれの創作料理を作るという番組だった。見ていると、自分も作ってみたくなった。料理番組はおもしろいものだと思った。テレビでやった通りに作れば、きっとおいしくできるだろう。おいしくできたら、それが一つのレパートリーとなって、少しずつできる料理が増えていったら、それは楽しいだろう。

 金融機関をはしごして、記帳やらネットバンキングの申し込みやらをした。特にネットバンキングは二年越しの懸案だったのだが、ようやく行うことができた。一週間くらいで自宅に書類が届けば、すぐにできるようになるそうだ。その後は、産直の店をいくつか回って、野菜や果物を買い込んだ。やや買い過ぎの感。

 夜にはその野菜を煮込んで、余っていた牛乳を使ってシチューを作った。考えてみればいつも同じような料理ばかりだ。もう少し研究したいところである。

■体育の日/Monday,12,October,2009

 昨夜は早々に就寝した。そのため早起きしてなおかつ熟睡できた。天気がよかったので、早朝から布団を干して、洗濯をした。朝の空気は冷たかった。そろそろ暖房器具が必要かというくらい。一区切りがついた安心感からか、一日中だらんとして過ごしてしまった。たまった日記を書いたり、メールを書いたりした。夕方になってから、夏物を持って実家に戻った。祖母にも会うことができた。体育の日ではあったが、運動らしい運動はせず、疲れを取った一日。

■仕事日の日曜日/Sunday,11,October,2009

 平気で休みが休みでなくなることをおかしいと感じるようになってから、土日の仕事はまじめにやる気がしなくなった。それはもちろん振替の休みがあるなら、仕事だからまじめにやるわけだけれど、疑問を持つことを忘れてはならないのである。昨日の土曜日も仕事だったから、月曜から働き詰めで身体も疲れており、ほんとうは休みたいところを我慢して仕事に行く。そしてさらに仕事が終わってからも夜の会合があるというが、無理してまで出るつもりはないんで。もうとにかく早く眠りたい。

 おかしいと感じるようになる前には当たり前だと思っていたことを考えると、余計なことを考える分ストレスが多いかもしれない。胃もおかしくなって当然だ。しかしですね。疑問を持ち続けることは大切であり、それがなくなったら社会はよくならない。コスポリタンを標榜するなら(だれが?)、ストレスなどに負けてはいけないのである。

 ところで、広島と長崎がオリンピック招致に動き出すという。2020年に核廃絶が実現したら、人類の勝利を祝ってかの地で祭典が行われる。夢のような筋書きだが、それが単なる夢ではないと思わせてくれるような状況が今はたしかにある。少し前なら考えられなかったこと。一国の首脳が変わるだけでここまで変わるものなのか。

■情けない週末/Saturday,10,October,2009

 感情移入もほどほどにしないと胃に穴があく。ときどき息抜きに水でも飲まないと、怒りや苛立ちでおかしくなりそうだ。埃だらけの廊下や手垢だらけの窓ガラスに何も感じないような人々を前にして、例えば表現の奥行きの深浅とか、喜びと悲しみの価値の同一性とか、そんなことを話したって意味がない。リテラシーということを本気で次代に求めるならば、親という親が主体的に教育するようでなければならない。わけのわからない動物相手にやっているような気分だ。考える能力を持っていながら考えないのは動物より劣る。毎年思うことだけれど、一年のうちでこの日ほど嫌な日はない。何もできていない自分の情けなさと、最低限度の文化的な生活さえ追求しようとしない人々に対する情けなさである。

 なんだか身体が思うように動かない。思えばきょうは土曜日だ。長い一週間。

 NHKのドラマをつけていた。失明した中学教師が教壇に戻るという話。あまりにトントン拍子の展開だなと思いながらも何となく見ていたのだが、ある場面からもう見ていられなくなった。最低最悪のドラマだと思った。見ていた時間がもったいなく感じられた。ほんとうに気持ち悪かった。あんな描かれ方、いくら何でも酷過ぎる。

 

■嵐のあと/Friday,9,October,2009

 台風が過ぎ去った。視界を妨げていた駐車場の柵が風ですっかり落ちてしまった。しかし、そのお蔭で視界が良くなり、車を出しやすくなった。思わぬところから、要らないものが要らなかったのだと知ることができた。

 もしかしたらすべての柵という柵は必要ないのかもしれない。ほんとうは必要ないのに、必要だと思い込んで、またはあるのが当たり前だと信じて、建ててしまうのだ。そして、一度建てた柵を壊すには大きな力が必要だ。

 台風があるために秋の実りがある。また、台風によって収穫間近の果実が落とされてしまうこともある。その繰り返し。人間の営みはほんとうに小さくて、地球の歴史のごく一部に過ぎない。

 細かいことに拘り過ぎて、どうでもいいことに気を取られ過ぎて、手足が思うように動かせないような感じ。

 いくつも電話をする。思えばいつからこんなに頻繁に電話をかけなければならなくなったのだろう。

               

■嵐の前/Thursday,8,October,2009

 夕刻台風が通過するというので、午後の予定が大幅に変更された。計画が延びた分時間が空いて、自分の仕事が進められるかと思ったら、臨時の会議が入った。大切な話し合いではある。しかし、その話し合いには上せられることのない僕にとっての重要事項は、周囲からみたらどうでもいいことなのだろうか。僕自身の力が足りないために招いているだけなのだろうか。あちこちからくだらない冗談と笑い声が聞こえてくる。

 どこの職場でもだいたい、四分の三くらいの人は暇にしていられるもののようだ。そして残る四分の一の人たちはけっこう忙しくて夜も遅い。働きたい人もいれば(ほんとに?)、働きたくないのに残らざるを得ない人もいる。これは生き方の違いなのだろう。さて自分はどうだろうか。

■これからの計画/Wednesday,7,October,2009

 来月の休みの計画は着々と進行しており、この夜には電話をもらって打ち合わせをしたり、メールを出していろいろなところと連絡をとったりした。休日のことを考えると楽しい気分になる。水曜日の夜はまだ元気だ。

 仕事に人生を捧げるような素晴らしい人がいる。思えば有名人の多くはそのような職業人であり、仕事にまつわることが報道される。仕事に表れる人間性の故にその私生活まで注目されて、話題の人になる。この順序が逆になることはほとんどないといっていい。ちょっと考えれば想像できるけれど、その人たちだって苦労しながら必死でやっているに違いないわけで、夢のような幸せの上に胡座をかいている人はいない。

 香山リカの新書の帯に「勝間和代を目指さない」などとあってちょっと笑った。注目されると目標にされる、か。世の中にはすごい人がいる。有名でなくとも意外と身近なところにもいるものである。その人たちは、自分の礎をしっかりと固めることから自分の可能性を広げてきたのであり、みなその上に成果を一つ一つ積み上げてきているはずだ。

 自己啓発と言いながら、足下を見定めずどこか遠くばかり見つめているのなら、いくら努力しても報われないだろう。流行のスピリチュアルにも眉唾モノがたくさんありそう。これまでの道のりを否定できる人など自分を含めて一人もいない。すべての経験の上に今があり、その上に経験を積み上げることだけがこれからできることのすべてであることは間違いない。 

 

■でんでんむし/Tuesday,6,October,2009

 バス停が近くにあるので時間が合えば乗ってみようと思っていた。でんでんむしとは街を循環するバスのことで、料金は一律100円である。だが、仕事帰り、タイミングよくバスが来ることはまずない。何より運行している時間内に仕事が終わること自体が少ない。きょうは早めに退勤したので、もしやと思ってバス停の時刻表を覗いてみた。すると、バスを待っていたおばさんが、「43分です、すぐ来ます」と教えてくれた。それからこのおばさんと少し話した。暗くなるのが早くなったこと。すぐに雪が降る季節になること。寒くなるのは嫌だということ。この季節になるとどこでもする会話である。とはいいながら、知らない人とこんなふうに立ち話する機会はそれほど多くない。

 仕事も何だかおもしろくなくて、何の発展も感じられない虚しさが気持ちを占める帰り道。こういう何気ない会話ひとつで少しは気分が紛れる。なるほどでんでんむしとはいい名前だ。考えてみれば徒歩通勤とはいえ、このごろは義務感ばかりで脇目もふらずすたすた歩き、散歩気分もそっちのけだったかもしれない。バスを降りる時にひとこと挨拶をと思いながら、混んできた車内を通るうちに忘れてしまった。普段は通らない商店街に立ち寄って、林檎と柿を一個ずつと、総菜やらパンやらを少し買って帰った。  

■時計職人/Monday,5,October,2009

 久しぶりに着けようと思った腕時計が止まっていた。そこで、仕事帰りに時計屋に立ち寄って電池交換を頼んだ。職場の近くの時計屋は、正確に言うとクリーニング取次店と時計屋と眼鏡屋が一つになった店だった。間口が二軒ほどのところにクリーニングのカウンターと、時計と眼鏡のショーケースがあった。以前は時計と眼鏡の専門店だったのだろうが、今ではクリーニング関係の占める割合が半分以上になっている。そんな店だった。プラスティックの容器に入った白色の手作りせっけんが、まるで豆腐のように並べられているのが目を引いた。

 店の主人は奥で作業をした。しばらく待っていると、「お客さん、これは電池じゃないね。ちょっとこっちに来て」と言われた。机の上にはあまり見ることのない機械や時計の部品や精密ドライバーなどがごちゃごちゃと置かれてあり、その真ん中に裏蓋の開いた僕の時計があった。主人が言うには、電池は生きているし、機械もちゃんと動いている。だが、油が足りないのか歯車に何かが引っかかっているのか、針だけが動いていないのだ。証拠を見せると言って、時計を小さな診察台のような場所に載せると、計器の針が規則正しく振れた。

 これはネットで買った時計。まだ3年も経っていない。しかし、その前にどれだけの期間動いていたかは不明。特に通信販売では売れ残りをあちこちから安く取り寄せて売るものが多いので要注意だという。こういう例はよくある。詳しく調べて修理すると一万円は越える。時計の値段が一万数千円だから、直すよりは買った方がいいということになる。

 「お客さん、よく考えてからまた持ってきて」

はげ上がった額に時計屋用の黒いレンズをちょこんとつけて、主人がしてくれた説明は明快で、それはクリーニング屋の店員ではなくまさに時計職人の言葉であった。

 勉強になりましたと言って店を出た。針が止まっていたから電池かと判断したのは早計だった。通信販売というのは、たしかに客の顔が見えないし、在庫を処分するにも都合がいい仕組みだ。気軽にクリックするだけで買えるが、その分故障や不具合のリスクも高いのだ。それにしても、あれだけの手間をかけても一銭の儲けにもならないというのは商売として割に合わない。町の時計屋としてやっていくのは、正直困難だろう。主人は生き生きと語ってくれたけれど、あのような職人がこの先どんどん減っていくとしたら残念だ。

 何かが違っている。その何かとは何か、みえないようでいてほんとうは既にみえている。あとはこちらがどう動くかにかかっているのではないか。

 

■長い旅/Sunday,4,October,2009

 早い朝。光に照らされて眩しかった。身体が熱くなった。気持ちが温かくなった。素晴らしい朝。未来があると思った。若さがある。ほんとうの美しさを少しわかった。心の中の氷が溶けていくような感じがした。誤ったことに目を塞がれて、見るべきものを見ていなかったのかもしれない。心を結ぶことこそが素敵な体験であり、そのためにこれからがあるのだろう。きっと何もかもがだんだんよくなっていって、いまに奇跡として感じられるようになるだろう。そんなふうに予感させてくれる時間だった。

 コーヒーを飲みながら、日曜の朝のテレビを眺めた。日曜美術館は英一蝶の特集だった。名前しか聞いたことのなかった一人の画家の人生と、元禄期の社会の充実を思った。忠臣蔵とも重なる時期、峠の頂点とも称される時代。江戸は現在とよく比較されるけれど、元禄のような成熟までにはまだ何十年かかるかわからない。

 11月には僕らにとっていくつかの文化的行事があって、何となくではあるが好都合にことが運びそうな予感がする。苦あれば楽ありで、いつまでも困難が続くわけでもあるまい。研修を深めつつも、楽観的に生きていけたらいい。ささやかに楽しいことを追いかけながら、長旅を続けていこう。

 昼には初めてのラーメン屋に入った。有名店ではあったがこれまで来てみることがなかった。それは時間的ゆとりがなかったからだ。いろいろな選択肢の中から、心がよりゆっくりできるものごとを選んできた。与えられた時間や場所には制約があるが、そのなかで最良のものにしようと努めてきた過程だ。さまざまな人とものとに囲まれて織り成されてきた縁はもう既に消えないだろう。

■うまいもの/Saturday,3,October,2009

 昨日の夕方は1時間の休みを取って歯医者に行った。たまにこういうことをすると気分が違う。歯医者の帰りにデパートで買い物をしていたら電話が鳴った。職場からだった。だいたいいつもこういうことになる。仕方ないとは思うけれど、携帯電話へのこういうかけ方を僕は疎ましく訝しく思っている。まあいいや。

 ほんとうは仕事で埋まるはずの土日が予定変更で時間ができた。あとから土曜に仕事が少し入ったが、それは人にお願いしてこの週末はすべて忘れることにした。人に任せることなどあまりないけれど、こういう機会を利用しない手はない。いずれありがたかった。

 八月以来のくねる山道を飛ばした。昼にはいつもの店でうまい蕎麦を食べ、情報交換をしつつ、仕事の時間も確保した。この時間のあったお蔭で、次週の見通しをつけることができた。夕方からいつもの温泉に出かけ、夜にはいつもの店で乾杯し、うまい刺身と寿司を食べた。

 新幹線なら東京までの時間距離。だけどこれまでよりずっと身近に感じられるようになってきた。今までどうだったっけというくらい。自然にそうなってきたわけではないと思う。互いの努力。でもきっと僕の努力はほんのちょっとしかなくて、大部分は君の努力だろう。感謝しています。

■よりよいもの/Friday,2,October,2009

 誰が見るかわからないというのがインターネットの持ち味のひとつ。だから、作り手としては、誰が見ても見てよかったと思えるものをつくるのが理想だ。もちろん、自分自身にとっても同様。峠から見下ろす山並みのように、これまで辿ったでこぼこ道が見渡せるとしたら素敵だと思う。

 文は人なりという。よりよいものをつくろうとする営みをここに凝縮することで、実生活にも反映させたい。裏を返せば、よりよいものをめざす生き方がここに滲み出るようでなければならない。そして、願わくば、ここに綴られた一個人の生活が、見た人の生活をよりよいものに変えるきっかけになればよい。

 写真や音楽、あるいは旅というものも含めて、単なる趣味の域を出て、もっと社会的な意味のあるものに変えていくことはできないだろうか。重々承知ではあるけれど、そのためにはもっと学びが必要なのだ。

■新しい月/Thursday,1,October,2009

 9月は大型連休やインフルエンザ禍があったためか、過ぎてみるとあっという間だった。しかし一日は長く、どの日をとっても厳しかった。サイトに関して言えば、twitterのつぶやきではないけれど、一月間短い言葉で綴ってみた。俳句や短歌のように、制限があることで広がる世界がある。それに、限られた字数で思いをおさめようとするときに、脳の何処かが活発に働くからなかなか刺激的。しかし、それにこだわることもない。

 一昨日昨日と、美しい夕焼けが続いたことを書かずにいたのを思い出した。職場の建物のベランダから少しの時間眺めていた。夕焼けみたいに、美しいものだけに囲まれて暮らせたらいい。でも夕焼けを美しいと感じるのは、雨や嵐の日があるからであり、朝や夜があるからだ。

 新しい月も長いようで短い。そうこうしているうちに、今年も終わりである。人知れずいろいろやってみる。これも人体実験みたいなものか。結果が出るにはまだまだ時間がかかりそうだ。 


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