2010年1月               

■月末/Sunday,31,January,2010

 新しい旅と新しい住まいについての打ち合わせ。美しい国に思いを馳せる。具体的に動き出した感。

 お金は大切だ。しかしあの世にまで持っていくことはできないから、その時にはすべて自由にしてください。お金のために働いている。それはもちろんそうだけど、お金のために生きるなんてことは、考えたこともない。

 2時間車を走らせて仕事場に来て、夕方からしばらく仕事をする。ぼーっとして集中できなかったが、とりあえずできることを進めた。限りある時間。限りあるいのち。そんなことが頭をもたげる。残り時間は少ない。その日がいつかはわからないけれど。自分のことは自分で始末をつけなければね。

●きょうの言葉/子どもは本来、好奇心いっぱい。親はそれをつぶさないようにしてあげることが重要だ。好奇心を伸ばす原動力はあこがれ。こんなにすごい人がいる、すごい理論があると感動し、その人に近づこうとする。ドン・キホーテは騎士道物語にあこがれて、自分も騎士になったつもりで旅に出た。こっけいなんだ。でも、歩み始めた時は誰でもこっけいに決まっている。あちこちにぶつかり、だんだん一人前になっていく。(益川敏英 京都産業大学教授 2010年1月31日付朝日新聞より)

■情熱/Saturday,30,January,2010 

 今週はあっという間だった。流れに乗っているというか、流されているというか。あれよあれよといううちに時間は過ぎていった。仕事への情熱が薄くなったのだろうか。一喜一憂するような気持ちは抱かなくなった。むしろこちらが一喜一憂してはならない。大局観を持って、しずかにひとの人生や未来をみつめたい。できることは決まっている。それを淡々とこなすことしかできることはない。言葉にすべてを注ぎ込む。それができることのすべて。そのことだけ考えればいいと思っている。いいことかどうかはわからないけれど。それができればいつ死んでもいいんだ。

 朝には床屋に行ってリラックスした。その足で産直に行ったり、文房具屋に行ったりした。戻ってきて昼食を食べるとラジオを聴いた。土曜の午後のラジオはおもしろい。すぐに出かける時間になった。

 上原ひろみの演奏は、いや正確に言えば、彼女が演奏している姿は僕に元気をくれる。僕にとってのピアノは何。君にとってのピアノは何。

●きょうの言葉/世界の中で、自分の意見をはっきり言うことは大事だけど、アメリカナイズされる必要はないと思う。言うべきところでは言うけれど、奥ゆかしさを忘れないこと。私にとっては、ピアノの前こそが自己主張の場。だから自分のわがままや欲求のすべては、ピアノの周りでだけ出せればよいのです。(上原ひろみ ジャズピアニスト 2010年1月30日付朝日新聞be「フロントランナー」より)

■金曜/Friday,29,January,2010

 15時あたりから出張に出かることになっていた。週末ということもあり、もう少しで終わりだからと自らを鼓舞しながら仕事をした。特に誤りもないし、漏れもない。無難に仕上げて、後のことは別のスタッフに任せた。車で移動して、学習会や会議に臨んだ。学習会の間は眠かった。眠かったが大事な話を聞くことができた。しかし眠気には参った。思えば今朝は起きたのが3時だったのでなおさらだった。眠気を取り払う方法はないものか。会議では来年度の話をした。いろいろアイディアは飛び交ったが、そのために自分たちの首を絞めてしまうことは避けなければならないと思った。前向きに取り組む気持ちはもちろんあるが今度からは自重しよう。

 帰りには紳士服の店で新しいスーツを買った。アドバイザーという肩書きの女性店員の接客がひじょうに上手だった。あれこれ褒めるがこれもセールストークと思えば気楽で気分もよかった。もともと必要だったものを買うのだから、その道のプロの案内に乗っかって満足な買い物ができたらそれでいい。そもそもの店の選択が間違いなければの話だが。

●きょうの言葉/「ほとんどの人が山を下りました。子供たちは町に立派な部屋を用意して待っています。しかし長年慣れ親しんだこの土地、この暮らしを手放したくはないのです」と要約できる番組ばかり。なかには「山」ではなく「島を離れました」の場合もあるが…。イントロに美しい風景、絵になる老人の暮らし、そこにタイトルと音楽がかぶさり、ナレーションも「〜の暮らしを見つめます」。一転して「○○さん、84歳」などと始まる。しかし、なぜ他の人は山を下りてしまったのか、島を離れざるを得なかったのか、一極集中と補助金漬けの政府の地方切り捨て政策にメスが入れられることはない。(森まゆみ 作家・編集者 あらたにす2010年1月26日新聞案内人「NHKの“番審”で考えたこと」より)

▼詞花集12 学ぶ(谷川俊太郎)

■詩作/Thursday,28,January,2010

 呆れることが多くて困る。嘆いていても仕方がないから詩を書いた。身勝手という題にした。短い時間にしてはよくまとまった。かといってじゅうぶん錬られたとはいえまい。まとまるということは守備範囲が狭いということでもあるから。

 これはほんのささやかな変化だ。それでもやってみたかったことを少しだけ実現できた。雑巾がけをしながら考えた。桃栗三年柿八年。その柿だって最初は数えるほどしか実を結ばない。僕の場合は何十年もかかってたった一個の実が生ったに過ぎない。それも末成り。だけど、これからいくつも実を付ける機会はある。焦らず取り組むことにする。

 やってみなければわからないことがあると今更思った。詩は生活の中に生まれるということだ。苦しい時には苦しみが言葉となり、楽しい時には楽しさが言葉になる。なんと当たり前のこと。しかしそれすら実感が伴わぬまま闇雲に伝えようとしていたのだ。

 今までお前がやってきたことだろうと言われそうだが、それは違う。ほんとうの言葉とそれをほんとうの言葉として結実させるためのささえとなるものとがある。その区別がつかなければ多くの無駄ができる。だが、もし意識的に制馭できるのならば……徒花というものはこの世にない。

●きょうの言葉/人々の所得が低いのは、もちろん大きな問題だし、ぼくらにできる援助はしなければならないと思うけれど、貧困はお金の問題に限らない。ハイチを「最貧国」と呼ぶぼくらの国は、ほんとうに貧しくないといえるんだろうか。進んでいるのは温暖化だけじゃない、物心両面の貧困かも確実に進んでいる。ヘルプ!(天野祐吉 コラムニスト 2010年1月28日付朝日新聞「CM天気図」より)

▼詞花集11 空よ(糸井重里)

■週日/Wednesday,27,January,2010

 週の真ん中の一日を朝昼晩と過ごす。朝から昼はあっという間。慌ただしい昼休みに折り返し。午後も知らぬ間に退勤時間を過ぎて、まだまだやることはあるけれど目処が立ったからといいことにして、帰宅。これでもう一週間も半分が過ぎた。天気も、テレビも、関係なく流れていくウイークデー。

 ODA予算、せめて10%をNGO援助に。今はほんの0.9%に過ぎないのだそうだ。カンボジアの夏。若い人たちと語り合ったことを思い出した。

●きょうの言葉/人間の安全保障とは何か。紛争で命と生活のすべてを失った難民ひとり一人に向き合って自立を支え、事前の紛争予防と平和構築への道を辛抱強く共に歩いて行くことだと思う。ハコモノを作り援助への依存心を助長するような政策ではなく、「人を生かす援助」を実現したい。(暉峻淑子 NGO国際市民ネットワーク代表 2010年1月27日付朝日新聞「私の視点」より)

▼詞花集10 樹の心(高田敏子)

■黒雲/Tuesday,26,January,2010 

 今更驚くこともないけれどこれほどまで情けなく嘆かわしい状況だと改めて思い知った。狂気といってもいいかもしれない。制御とか軌道修正とかできる水準にはない。異常な一部というよりも、全体が十分な段階に達していない。諦めるではないけれど、時間は限られている。ここまでしかできなかった。力の無さを否定はしない。だが、それだけではない。この寒さは周囲の空気が体温を下げているためだ。広く黒雲に覆われ晴れ間は望めない。そして、嵐がやってくるのはこれからなのだ。そうすれば否応なく雨に濡れることになる。

●きょうの言葉/いまわたしがおそれるのは、自分がテリトリーをこうと決めてしまい、守りに入ることだ。言葉を変えれば、保守的になって冒険を避けるようになることだ。そうなったら、緩慢に、しかし確実に作家として衰弱してゆくだろう。そうはなりたくない。次の転機も、わたしは拒まない。(佐々木譲 作家 2010年1月26日付朝日新聞文化欄より)

▼詞花集9 成人の日に(谷川俊太郎)

■夢現/Monday,25,January,2010

 上司が僕の実家で何者かに狙撃された。それで僕が電話で救急車を呼んだ。なぜかでたらめの住所を告げていた。倒れていた上司が突然むっくりと起き上がり、何かぺらぺら喋りだした。彼が指でつまんでいるのはライフルの弾だ。防弾チョッキを着ていたために怪我をせず済んだらしい。僕はここは職場でなければおかしいのになぜ僕の実家なのだと不思議に思っている。すると場面は急に変わり、僕は海と池に挟まれた細長い道を歩いている。ふらふらしており、細い道を真っ直ぐに歩けない。そのため足を踏み外しては池に足を突っ込んでしまい、靴を泥だらけにしてしまうのだった。変な夢だった。きっと、気温が高いために掛布団が暑く感じられ、剥いだ布団が足に絡まったりしたためだろう。

 出勤途中は気温が高くて歩きやすかったが、職場に着くとどこも寒くて風邪を引きそうになった。まだ月曜だし、さっさと帰りたかった。しかし、そうはいかなかった。帰り道では雨が雪に変わり、強風が吹いた。 

 病院の近くの蕎麦屋が幸いまだ開いていた。ふらっと入りそこで牡蠣玉丼を食べた。隣の席には家族の見舞いに遠くから来たと思しき三人連れが蕎麦を食べていた。かれらの話す国訛りにはまったく飾り気がなく、それぞれに素朴な人柄がうかがえた。聞いていて心地よさを感じた。

 この店には、入院していた父の世話の合間に母と来た。いや、正確には母が病棟に付きっきりで、僕は時々見舞いに来るだけだった。父の病巣は身体中の栄養という栄養を横取りし、会う度にしぼむように細っていった。僕と母は蕎麦をすすりながら、命のことや病のこと、そして未来のことについて語り合い、少しずつ覚悟を決めていったのだった。今思うと、話した内容も然る事ながら、飯を食いながらそれらを話したという事実そのものが、消えゆく命に抗うことだった。食べることで自分の身体を作り、どんな不条理にも、どんな悲しみにも負けない、丈夫な身体をもって、僕らはその日に備えようとしていたのである。

 月曜から外食してしまった。自炊のリズムはすぐに崩れる。明朝は早起きしてちゃんと味噌汁を作ろう。

●きょうの言葉/デフレには、力学的というよりも心理的な要素が強い。金融にせよ財政にせよ、国民のムードを好転させ将来不安を吹き飛ばす効果を伴わない限り、効果は薄いのである。しかもムードは、政策担当者が一方的に押しつけうるものでもない。国民は、個人生活でカネを手放してまで欲しいものを見いだせないでいる。欲しいのは保育所の増設や年金不安の解消、介護の充実といった公的な財、サービスだから、財源として法人税や所得税の上限は旧に復して引き上げるべきであろう。「事業仕分け」とは本来、国民の不安を打ち消し希望を湧かせるような公共財を見分ける作業だったはずだ。(松原隆一郎 社会経済学者 2010年1月24日付朝日新聞「論壇時評」より)

▼詞花集8 未という字(秋葉てる代)

■雑話/数日分の新聞に目を通す。しかしあまり集中できず。関口宏のテレビを見るがこれも話が頭にあまり入ってこない。洗濯をして、掃除をしていると、昼近くになった。日曜喫茶室、もとい松尾堂はミュージカルの話だった。しかし、これも心に迫るものがなかった。

 ところで、田口壮選手がオリックスに戻ってくるという。非常に大きなニュース。大リーグでの経験をぜひ若手に伝えてほしい。米国から帰ってきて日本がどう映るかにも興味がある。彼の日記が楽しみだ。ぜひともオリックスと楽天の試合を仙台で見たいものだ。西武戦では菊池雄星選手との対戦が見られるかもしれない。西武には工藤公康投手が若い菊池選手らにどんなことを伝えるのか。オリックスも西武も世代間交流の期待できる一年になりそうだ。今年のプロ野球はいつにも増して開幕が待ち遠しく感じられる。

 テーブルの上にいくつも置いてあるリモコンをどうにかしたい。布を縫ってリモコンホルダーを作ろうかと思ったが僕には裁縫の素養はない。素養はなくても時間をかければできそうだとは思ったが、次のアイディアが浮かんだのでやめた。マジックテープで電気スタンドの支柱にくっつけるのだ。で、さっそく近くの店でマジックテープを買ってきて付けてみた。すると、テーブルもすっきりとなって、なかなかよい。テープも強力で、リモコンが落ちることもなく、なくなってしまう心配もない。

 ツイッターとかフリッカーとかフェイスブックとか、いろいろ聞くけれども実はよく解っていない。ツイッターはやってみなければおもしろさがわからないものらしい。だから、早晩ちょっとやってみようと思っている。つぶやきなら毎日ぶつぶつ言っているが僕のは一方通行。だが、ツイッターは双方向というのがいいらしい。それを僕がもしするとしたらぜひとも実名で登録したい。このサイトでも実名を明かさないのはどうかと思うこともあるが、予想される実害を未然に防ぐためにはどうしても出せないのである。

●きょうの言葉/メディアを通じた為政者のフレンドリーな振る舞いの裏には、なにか仕掛けがあるものです。半面、仕掛けたつもりで利用されるのもメディアの怖さ。ツイッターも単純に素晴らしいといえるかどうか。メディアとは、そもそも政治的なものなのです。(逢坂巌 立教大助教・現代日本政治、政治コミュニケーション 2010年1月24日付朝日新聞「オピニオン 耕論」より) 

■密度/Saturday,23,January,2010

 朝から気分がよかった。昼には仕事だった。やるべきことを進めた。今週末の課題が終わって、さらに気分がよくなった。帰り道でコーヒーやパンを調達し、ガソリンスタンドで給油し、タンクに灯油を満たして帰った。昼食後、ラジオを聴いていると少しうとうとしたので、冷水で顔を洗った。

 連絡を受けて車を出す。夕方の小一時間、バスの時間まで、コンビニの駐車場に車を止めて、缶コーヒーを飲みながら話をする。当たり前の状態、あるべき状態に僕らが身を置く時間は短い。反論を恐れず言うなら、その時間のためにこの2週間を生きてきたともいえる。しかし、名残惜しくも至福の時はあっという間に過ぎた。

 人生は長生きであることと充実することとは必ずしも一致しない。時計の刻むリズムは一定だが、時間の密度は刻々と変わる。充実した人生は充実した一時一時が積み重ねられてできた彫刻のようなものである。小さくても精巧で美しく輝く作品ができればいい。そのような濃い時間はどうすればできるかをいつでも考えて暮らせるといい。

 今週はテレビを1時間も見なかったが、夜には龍馬伝の第3回をオンデマンドで視聴した。ドラマの内容についてはまだよくわからないが、映像は、これまでとカメラが違うせいなのか、ひじょうに細やかであり深みのある印象を受ける。新しい時代の表現が切り拓かれているといってもいいのではないか。

●きょうの言葉/イギリスの詩人スティヴィー・スミスである。彼女には、『手を振ってるんじゃない 溺れてるんだ』という、代表作とも言われる奇妙なタイトルの作品がある。わたしは岸辺で海を見ている。と、遠く波間で手を振る人がいる。そこでわたしは、波間のひとに手を振り返す。そしてやがて波間のひとのことは忘れて、砂浜の貝を拾いだすかもしれないし、ポットから注いだ紅茶を飲むかもしれない。そうして……。しばらくの後、わたしは知らされるのだ。波間で手を振っているかのように見えたひとは実は、溺れて助けを求めていたのだ、と。助けることができなくなって、から。同じようなことが日々、わたしたちの社会で、身近で起きてはいないか。足が竦む。(落合恵子 作家 2010年1月23日付朝日新聞「積極的その日暮らし」より)

■総括/Friday,22,January,2010

 年度の終わりが近づいてきた。1年間の総括をする時期である。用紙にあれこれと思い出して書き出そうとする。しかし、喉元過ぎれば熱さ忘れるの喩えどおり、その時にはいろいろ苦労して、もっとこうしたらいいのにと具体的なアイディアが浮かんだはずなのだが、過ぎてしまうともうそれを思い出せなくなっている。変わらなければまた来年同じことを繰り返さなければいけないというのに。時間に追われる中ではあるができるだけ次の年に繋げられるようにしたい。

 きのうの文面のように、本来ならば収穫の時期であるにもかかわらず、目に見える成果がたいして見出せないこのごろ、頭を抱えてしまうことが多い。この類の負の気持ちは就職以来増え続ける一方である。

 帰宅は20時を過ぎていたが、きょうもDVDを観た。未開封のものばかりが収まった棚。週に1本としても全部見終わるのに1年かかる。そこから無造作に取り出した1枚は「シッピング・ニュース」という映画だった。

 ニューファンドランドの自然の中で暮らす人々の話だった。懐かしい景色だった。そして、田舎ならではの出来事は洋の東西を問わず存在する。味わい深く、愛しい気持ちが呼び覚まされる映画だった。

●きょうの言葉/植物に日々接する中で広がっていく可能性と対峙し、新たな価値観を生み出していきたい。私は人間が作ったものと自然の造形があえてぶつかり合わないと、新たな美は生まれないと思っている。今まで誰も見たことのない側面を切り取り、植物の息づかいを聴くように神経を研ぎすまして作品を見てもらう。常識という小さい枠にとらわれず、人々の価値観を壊して植物との新たな接点を投げかける。それもまた、自分の使命だと思っている。(東信  フラワーアーティスト 2010年1月21日付朝日新聞「彩・美・風」より)

▼詞花集7 アイ・アム・トム・ブラウン(藤井則行)

■愕然/Thursday,21,January,2010

 突きつけられる事実は厳然としている。そして互いに共有できないものである。喜びは個人の喜びであり、悲しみは個人の悲しみである。そこで他人の悲しみを自分の悲しみとして共に悲しむことも、他人の喜びを自分の喜びとして共に喜ぶことも、難しい。しかしそれを絶えず求めてきた。できると信じて訴えてきたが、他人の痛みがわかるようになるまでの成長はなかった。人はいつごろそのような気持ちが萌芽するのだろう。

 期待を示せば、いまその心が青々とした草原のように風に揺らぐほど茂っていてほしいのである。願いを語れば、もう人としてどこでも生きていかれるという信頼をもって送り出したいのである。

 ところがかれらの平原はまるで砂漠だ。荒涼として、瑞々しさがまるでない。心ない言葉が飛び交い、あまりに不用意に、他人の傷口に塩を塗り込むようなことをするのだ。

 僕は愕然とする。何のための時間だったのか。これまで何をやってきたのか。何も伝わってはおらず、何も良く変わってはいない。何が悪かったのか。ほんとうに責められるべきは誰なのか。できることはやってきたという確信が、騒然としたかれらの前に揺らぐ。

 人としての細やかな気遣いのない者が、他を押しのけて自分の利益ばかりを得るのは許せない。職業やいま置かれた立場を抜きにして考えれば、ひとりのおとなとしてそのような人間は許さない。自分は罰を下す立場にはないが、天罰をすら心から願う。そうでなければこの世は日々まじめに暮らす者がまったく報われない世界だ。

●きょうの言葉/かつてフランスが「文化的多様性」を訴えた時、誰からも相手にされなかった。しかし、国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で05年に文化多様性条約が採択され、この概念もすっかり一般的になった。英語による単一言語支配はすでに常識のレベルを超えている。19世紀の領土的植民地主義がやがて行き詰まったように、言語的植民地主義は早晩崩壊するだろう。そのとき反動として、時代錯誤のアイデンティティー優先主義が台頭する危険さえ感じられる。そうならないための中庸の道を探りたい。英語文化だけでない多様性が今ほど求められる時はない。(マリークリスティーヌ・サラゴス TV5MONDE社長 2010年1月21日付朝日新聞文化欄より)

▼詞花集6 前へ(大木実)

■悲観/Wednesday,20,January,2010

 きょうは車で出勤した。案の定夕方には使うことになった。屋根の雪はだいぶ落ちたようだ。軒下に置かれた赤いコーンが無惨にも粉々になっており、落ちる氷の凄まじい勢いを物語っていた。

 状況はかなり悲観的である。これまでのツケが回ってきたと言えばその通りであろう。しかしけして手を抜いてきたわけではない。何なんだろうと思う。

 右肩上がりだったのは何だ。給料でさえもうしばらくプラトーの状態ではないか。僕は右肩下がりの現実しか知らない。

 嘆くだけばかをみる。やるべきことを淡々と遂行しよう。

●きょうの言葉/私も、人という生き物に絶望感を持っているんです。人はこれまで、ただの一度も殺し合いがない社会を作れなかったでしょう? でもきっと、そこにも救いはあるはずなんです。ある人が残した小さなかけらが、後の人の大きな発見につながるかもしれない。人が人類であることの意味は、そういうことにあるように思うんです。(上橋菜穂子 作家・文化人類学者 2010年1月20日付読売新聞文化欄より)

▼詞花集5 雨の中の欲望(豊原清明) 

■融雪/Tuesday,19,January,2010

 暖かい日だった。屋根に積もった雪が凍っていつ落ちるかとハラハラしていたのだが、今日の昼に半分くらい落ちたらしい。もしも誰かの頭に落ちでもしたらたいへんなことになる。それほどの塊だ。北国では1年の半分近くが冬。早くは11月のはじめに積雪があり遅くは5月の連休に真っ白になることもある。

 この雪をどうにかできないものか。電熱線を使うのはみるけれどそれらは莫大な設備投資が要るだろうし環境にも悪そうだ。降っても積もらずにすぐ雪が落ちる形状の屋根やすぐ解ける材質の屋根があったら。屋根だけでなくアスファルトも雪が降ると熱が出て雪を解かすような材質というものがあったら。そういうのがあれば年間何億円もかかる除雪費用を違うことに回せるかもしれない。

 自然に降る雪だもの、ムリに解かすことなどないのではという声もあるだろう。しかし、除雪はなくてはならない仕事だ。雪をかかなければ外に出られないし、車も出すことができない。地方の疲弊した町や村では毎朝の雪かきにかける労力はたいへんなものだ。そして、それをしなければならないのは多くがお年寄りたちなのである。車で通りを少し走るだけでその様子はよくわかる。降雪が珍しい土地の人には思いも及ばないだろうけれど。

 ザゼンゾウという植物には発熱細胞というのがあって、開花の時に熱を出して雪を解かすのだそうだ。植物にできることだもの、日本の科学技術をもってすればできないことはないだろう。使い捨てカイロなんて登場した頃は衝撃的だった。火も使わずに温まるのだから。それが今では当たり前になった。そういえばロッテが売り出したというのもびっくりだった。例えばヒートテックで有名なユニクロあたり、ロッテと共同で開発したらもっともっと儲かるのでは。

●きょうの言葉/地震大国の「経験と教訓」を語るならば、もっと早くにテレビカメラの前に立ち、日本政府としての犠牲者への哀悼の意を示し、一刻も早い救援策を自ら指示すべきではなかったか。生き埋め被災者の「生存の限界」は72時間と言われる。コンクリートにとらわれて、助けを求める幼い子供の映像に、「友愛」の心が動かないとしたら、一体それはいつ動くのか。(岩間陽子 政策研究大学院大学教授・国際政治学 2010年1月19日付読売新聞「論点」より)

▼詞花集4 喪のある景色(山之口貘)

■外套/Monday,18,January,2010

 今朝も氷点下10度近くまで下がった。以前モールのインド系の店で買った安物の外套。見た目は悪いが意外と暖かい。20分も歩くと身体も温まる。だが、顔は冷たい。体感温度だとどれくらいなのだろう。

 きのうのこと。小林繁氏が亡くなった。57歳だった。早過ぎる。以前氏がテレビで言っていたことを朧げながら思い出した。何年かに一遍人生の節目がある。巨人、阪神、スポーツキャスターとやってきて、次は何をしようか考えていると。その後は、球団のコーチになって、いずれは監督になって、という道があったかもしれない。それも途中で断たれてしまった。訃報に接するとどうしても自分のことに思いが向く。自分にも節目はいくつもあって、これからどうなっていくか楽しみだ。だからいつ死んでも志半ば。できればいつまでも死にたくない。だけどそうもいかない。それはそうなのだけど、残される人のことを考えるとつらい。そのへんのところは少し考えが変わってきたかもしれない。

●きょうの言葉/大切なのは勉強です。私の青春時代は学徒動員に奪われたので、勉強がしたいんです。私は学徒動員の話になるとダメなんです。思いが年とともに強くなって、あの時、死んだ彼女が生きていたら、今、いくつでどうしているだろうと。私には、若くして死んでいった人間たちへの責任があります。だから半世紀も作家を続けてこれたのです。自分の血で書いているという思いがあります。社会派作家と呼ばれますが、弱い立場の人を見過ごせない、不条理を許せないという、女の子なのに”小坊(こぼん)ちゃん”と呼ばれていた頃のやんちゃな性格がもとになっているのです。(山崎豊子 作家 2010年1月17日付朝日新聞文化欄より)

▼詞花集3 少年よ(田代しゅうじ)

■日曜/Sunday,17,January,2010

 あの地震から15年。あの日、テレビをつけたら驚いた。まるで爆撃を受けたような惨状だったから。しばらくは動かなかった犠牲者の数字が午後になってどんどん増え出した。泣きながら様子を伝えるアナウンサーたちがいた。家族が、友人が、建物の下敷きになって亡くなるなんて。あれからいくつも大きな地震があった。地球は活動期に入ったのか。試されているのか。しかし、何のために。

 あったことを書き出してみる。時間をなぞって言葉にする。何気ない日常生活だけれど、それで意味がみえてくるような気がする。こんな暮らしにもきっと意味がある。意識や行為のうちに自然に宿るように思う。最初から神様が居るのではない。求めて座を設えればこそ、自ずと現れるものなのだろう。

 天井の照明器具の調子が悪く、点けてしばらくすると非常な速度で点滅するようになった。その下で踊れば、まるでホネホネロックだ。目がチカチカして困る。もう器具の寿命らしい。そこで電気屋に行って新しい装置を購入した。小型でしかも遠隔操作が可能な優れものである。ネットで調べた価格よりもずいぶん安くなっている。ここにもデフレの影響か。

 取り付けが終わった頃に電話が鳴る。ところが途中で切れてしまう。モデムの調子が良くないらしい。しかも、体調も良くないらしい。それで短い時間の話となった。できることなら代わりたい。具合の悪いところは僕がぜんぶ吸い取ってしまいましょう。

 夜には母と叔母とに誘われて外で食事をした。戻ってからラジオを聴いた。茂木健一郎の講演会。偶有性を楽しもうという話。おもしろかった。ひじょうに聡明な人だと思った。やっぱり勉強は大切なんだねー。

●きょうの言葉/今の若い人たちは自分の心を伝える言葉がありません。人の話を聞く耳がないから、社会がぎくしゃくしているのです。人間同士、話し合って通じないことはないのです。(瀬戸内寂聴 作家・僧侶 「寂聴さんのほほえみだより第八十六号「本日のひと言」より) 

■言葉/Saturday,16,January,2010

 朝5時に起床してコーヒーを淹れる。パソコンに向かって言葉を紡ぐ。何もしなくてよい休日は、夜明け前こそが休みのすべてだ。明るくなるとじき日が暮れる。ラジオを聴きながら味噌汁を作り、炊飯器と洗濯機をセットして風呂に入る。風呂から上がって洗濯物を吊るしてから朝食。

 午前中かけて朝刊に目を通す。おもしろい記事は多くない。ニュースではなく言論を読みたい。新聞は一紙だけというのでなく複数読み比べなければいけない。いまその意味がよくわかる。

 休みになるときまって東京の不動産から電話がくる。東京のマンションを買わないかと。必死なのは分かるけれど、3分もベルを鳴らし続ける業者にはもう二度と関わりたくない。だから着信音量をゼロにした。

 それから件のアンソロジーのために、詩集のページを繰っては付箋を貼った。部屋に積み上げている雑誌類は、捨てようと思ってそこに積み上げている。捨てる前にと意地汚くそれらを読み散らかすうちに日が傾く。

 阪神淡路大震災からもう15年だそうだ。そして3日前に起きたハイチの地震の続報が入る。すでに5万人の遺体が収容され犠牲者は20万人に上る見込みだという。いたたまれなくなってラジオを切った。

 こんな日は15時を過ぎると眠気が襲う。少しだけ横になるつもりが目覚めるとすっかり夜だった。これもいつものこと。郵便局に行かなければ。新しい詩集も要る。そう思いながらも身体が動かない。

 高校の同級生から携帯に電話。家に掛けても出なかったからと。音を切っていたことを謝った。誰か知り合いで車を買う人はいないか。この前の電話でも同じことを聞かれた。悪いけれど。きょうは妻子が出かけているから飲まないかと誘われた。しかしどうしても気が進まなかった。悪いけれど。また今度。

 妻からのメール。電話したけれど大きな用事はありませんと。メールに返信。音を切っていたことを謝った。散歩がてらの用事から戻って電話をするが出ない。もう寝てしまったみたいだ。少ししてメールが来た。

 言葉って大切なのだと今更ながら痛感する。愛情というのは言葉の別名。普通に言葉を交わしながら生活することの難しさ。明日また電話しよう。

 外に出ると町中高校生だらけだった。泊まりがけで受験に来ているのだろう。テレビは見なくても、彼らの話す言葉を聞いていると、テレビでどんな言葉が話されているかということが判る。影響されていることなど夢にも思わずに、彼らは型にはまった言葉を振りまきながら通りを歩くのだ。

 大学は勉強するところ。いつか君たちが君たち自身の言葉で思いを伝え合える日が来ることを願っている。

 22時過ぎ。ルートビアを飲みながら、CBCの”FRESH AIR” をストリーミングで聞いている。東部時間だと土曜の朝。毎週出勤途中の車の中で聞いていたものだ。どうにも懐かしい気持ちに心が締め付つけられる。

 僕はほんとうに運がいい。これまでの出会いは考えられる最良の出会いばかりだった。そして、これからもそうだろう。ただ、運がいいからといって楽に生きられるということもないけど。

 これが僕のきょう一日のすべて。そろそろ寝よう。おやすみなさい。

●きょうの言葉/民主主義と資本主義は正反対なんだよ。資本主義は少数が利益を得るように設定されている。対して民主主義はすべての人の利益を考える。経済活動がどう行われるべきかという問題に対し、民主主義者として僕らにどのくらい発言権がある? 社会の中で最も重要な経済についての発言権もないのに、民主主義とは呼べないだろう? (マイケル・ムーア 映画監督 2010年1月16日付朝日新聞「フロントランナー」より)

■歩兵/Friday,15,January,2010

 マイナス10度を下回る朝、ある男子高の昇降口の前で、マスク姿の受験生たちは足止めを食らう。一人まだ来ていない生徒がいるらしい。余裕をもって家を出ようと、前の日のホームルームで先生は言った。それでもこんな寒い朝だと、どうしたって遅れてしまう者も出る。それに備えて集合時刻はちょっと前に設定してあり、10分15分遅れたって、試験にはちゃんと間に合うように考えてある。すでに受付が始まっているというのに、その子たちは動かない。遅れてくる生徒を待って全員揃ったら中に入る。それがその中学の、あるいはその先生の方針なのか。やがて凍った道を滑りそうに駆けてくる生徒。渋滞に巻き込まれて遅くなりました、すみません。これで彼らもようやく試験会場に入れるか。だが僕は目を丸くした。「集合」と教師が言うと、彼らはきれいな円陣を作り、そこから何やら打ち合わせが始まった。その子たちの姿は真剣で、よそ見をする者など誰もいなくて、先生の話を一言も洩らすまいと必死にみえた。試験直前のほんのわずかの時間だったかもしれない。しかし僕にはそれが異常に長く思えた。素直な素直な子どもたちは、黙って先生の言うことを聞いていた。あの先生は何をそんなに言うことがあったのだろう。不謹慎かもしれないけれど、彼らの姿とむかし八甲田で倒れた歩兵たちとが重なってみえた。

 きょうは小正月か。むかしは女正月とも呼んだらしい。ちょっと前までは祝日で休みだった日だ。夜には数年前に買ったままだった「ヴェラ・ドレイク」という映画のDVDを観た。優しさや気遣いが罪となる矛盾。

●きょうの言葉/恋ならずとも人間関係は楽じゃない。<友が降り電車に一人残されてため息深く演技終了>高1小崎遥佳。<親友と遊び疲れた帰り道夢の話は少し嘘つく>高3中川知明。そう、演技も方便も優しさゆえ。相手を気遣い、大人への階段をまた上がる。(2010年1月15日付朝日新聞「天声人語」より)

▼詞花集2 ことば(川崎洋)

■問題/Thursday,14,January,2010

 徒歩通勤だったからということとは関係なく、きょうは疲れた。暮れ以来のループに戻って日常がまた始まったという感じ。しかし、新しい年になったというのに相変わらずの現象の繰り返しには閉口する。

 朝日新聞を見ていて、今更ながらではあるが、女性の言論が極端に少ないということに気がついた。ほとんどが男の言葉である。男だろうが女だろうが書かれていることに差はないという説もあろうが、僕はそうではないだろうと思っている。朝日新聞だけがこうだというわけではないだろうから(朝日しかみていないのも大きな偏りだが)、新聞というのはこうも偏った世界だったのかと感じた。

●きょうの言葉/「君子は豹変す」 現在では、「要領のよい人は、今までの態度をすぐ変えて、主義も思想も捨ててしまう」という、いずれかといえば悪口に近い使い方をされている。しかし本来は、「優れた人間は、過ちは直ちに改め、速やかによい方向に向かう」という評価の言葉である。(三省堂「中国故事成語辞典」より)

▼詞花集1 ゆずり葉(河井酔茗)

■一片/Wednesday,13,January,2010

 朝からものすごい雪。日中も雪。雪が多いだけでなく、風も吹いて寒い。朝には職場の皆で雪かきをした。だが僕は今朝出勤が遅かったのであまり汗をかかずに済んだ。こんなことがあるとなぜか爽やかな笑顔になる人もいるが、僕はこういう朝が好きではない。だから笑顔にはならない。仕事の前から大仕事をしなければならないのは嫌だから。

 きょうはいくつか会議があった。これから3月までの見通しも少しはつけることができた。この3ヶ月はあっという間に過ぎ去ってしまいそうだ。しかし、一日一日は長く、困難なことも少なくはなさそうだ。そんなことを思うと少し気が重い。他の人たちの中にも、気が滅入り、不安定に陥ってしまう人が少なからずいるに違いない。そこで、そういう時に価値のある言葉の花束を届けることができたならどんなにかいいだろう。

 それで、一日一編の詩を見繕っては提供できればいいと思った。正月にちらと考えたことである。どうしようもなくなったとき、救いの手を差し伸べてくれるのは一片の言葉。それを、見定めることができるとしたら、素敵なことだ。

●きょうの言葉/最近、日本人は内向きになり、海外にも行かなくなった。50〜70年代は日本人は海外で懸命に学んだ。今は国内での生活に満足しているし「海外に行かなくてもだいたい分かる」という気持ちもあるのだろう。しかし日本の将来を考えると、もう少し元気を出し、困難でも海外で挑戦するような精神が必要だ。日本では生活は楽しく便利で、人間は正直だ。ただ、今のままなら20〜30年後には(生活が)悪くなっていくと思う。心配なのは、日本に危機感があまりないことだ。(エズラ・ボーゲル ハーバード大学名誉教授 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」著者 2010年1月13日付朝日新聞「ジャパン・アズ・No.3 日中GDP逆転へ」より)

■年休/Tuesday,12,January,2010

 三連休明けの朝は、きょうも休みかと布団の中で勘違いしていた。しかしもう休みではなかった。ただ何となく仕事をする気もなくて、15時ころまでやって目処がつくと帰りたくなった。誰にも気兼ねなく年休を取れるのはきょうくらいである。そこで、遠慮なく休みを取って帰った。

 きのうのルートビアの続きで、こんどはドクターペッパーが懐かしくなった。そこできょうは駅まで行ってみることにした。部屋でゆっくり過ごせばいいものを、こういう日には出かけたくなってしまうのである。ゆっくり見ているとなかなか楽しかった。ドクターペッパーを2本とオランダのクラッカーを購入。なんで自分は連日こんなにジャンキーなものを買っているのだ。そういう時期なのかな。いや偶々だ。その後、大通の産直で米と豆腐とホッケのみりん干しを買って帰った。健康的な食生活を心がけなければ。

 道の途中で変な人たちと会う。どうしてあんな風に変な格好になってしまうのかと思うと、海牛とかの小動物の生態と似ているところがあるような気がしてくる。目立つように目立つように、そして、言葉をかけてもらえるようにと、周囲の愛情を引き込むために形態を変化させていくのである。

●きょうの言葉/こちらのことを信じてくれている役者にはしゃべりやすい。役者の不満が聞こえてくるのは結局、役者が演出家を信用していない時。信頼関係が崩れた瞬間に言葉が成立しない。あと、聞けない役者がいる。「はいはい」と話を打ち切って最後まで聞かないとか、話を変えてしまうとか。テレビ育ちの役者に多くて、彼らは自分に自信がない。特に若くしてうまいと言われてきた役者は、メンツが先立ち、人前で言われた言葉を黙って聞けないところがある。(野田英樹 演出家 2010年1月10日付朝日新聞「岡田監督対談第3回」より)

■偏り/Monday,11,January,2010

 味噌汁を作り、米を炊き、昨日買った塩辛をおかずにして朝食をとった。イカが新鮮だからだろうか、とてもうまい。年末年始に少し崩れた自炊生活もこれを機に立て直せそうだ。

 午前中はここ数日たまった新聞に目を通す。心に留まった言葉を抜き出すことを課しているが、意外と難しい。幅広く集めているつもりが、少し離れたところから眺めてみると否応無しに偏りがみえてくる。虎の威を借る狐ではないけれど、どうしても好きな人、共感できる人だけで回りを固めるような感じになり、その分自分の考え方の脆弱さが浮き彫りになってしまう。あな、恐ろしや。しかし、それでもこの試みはなかなかおもしろい。このサイトを立ち上げてから、読まないと続けられない仕組みができたことは画期的だ。いまはまだいいが、忙しくなってきた時にどうするか。我のことながら、見物である。

 なぜかルートビアが飲みたくなった。湿布のようなにおいのする清涼飲料である。A&Wのサイトなんか見ていたら懐かしくなってきた。この町で買えそうなところが二つ浮かんだ。一つは駅の地下で、もう一つは少し前にできたGAIKOKU MARTという店だ。それで、まだ行ったことのないGAIKOKU MARTに行ってみたらあったので2本購入した。欲しいものがそれほどあるわけではないが、特にアジア系の食料や生活用品がところ狭しと置いてあり、楽しい店だった。帰ってきてルートビアを飲んだ。4年ぶりくらいだったが、初めて口にしたときのようなどうしても飲めない感じはまったくなかった。

 夜には、昨日見逃した龍馬伝をオンデマンドで視聴した。ウィンドウズを入れたマックをディスプレイに繋いだら、大画面で観ることができた。今年になって、部屋で映像を見たのは初めてだった。ドラマの内容も然ることながら、このような仕組みでテレビを観られるのがわかったことが大きな成果である。これならもうテレビは不要だちうのが、きょうの結論じゃき。 

●きょうの言葉/私たちの国では、システムや価値観のシフトが時代の趨勢としてやみがたいという「雰囲気」になると、ひとびとは幕末に眼を向ける。地殻変動的な激動に対応した「成功例」として、私たちが帰趨的に参照できるものを明治維新のほかに持たないからである。日本人がある程度明確な「国家プラン」をもって集団的に思考し、行動した経験は維新前夜だけである。(内田樹 神戸女学院大学文学部教授 「内田樹の研究室」ブログ 2010年1月7日「坂本龍馬フィーヴァー」より)

■追求/Sunday,10,January,2010

 昨夜はテレビも見なかったから意外と早かった。そして今朝も早起きした。それほど難しい課題とは思わなかったのだけれど、取り組んでみるとひじょうに一筋縄ではいかないものだということがわかる。きょうはそれでも大きな進展があったように思うというのは独善的過ぎるか。ともかく次に繋がるのではないかと密かに期待する。互いに同じ指向を持っていればきっと辿り着くだろう。それは世にも美しい境地であり、多くの先人が体得したはずの本質的な感覚であるはずだ。だから、追求しないわけにはゆかないのである。

 朝の時間で内田樹の「日本辺境論」を読了する。今年に入ってから少しずつ読み進めてきたが、ひじょうにおもしろかった。なんとなくもやもやと感じていたことに次々と言葉が付与されていく感覚。知らなかったことばかりなんだけど。つまりもっと学びなさいということだ。啓示としてとらえた方がよさそうだ。とにかく学生時代から勉強は足りない。勉強と違うところだけでこれまで危ない橋を渡ってきているのが僕の実情である。

 ところで朝食はこれもいつものパンであり、それはきっとこの国で取り得る選択肢の中で最高の選択であった。旅の話をした。四月からの話もした。捕らぬ狸の皮算用と言えなくもないが、捕らぬ前から考えておく必要もある。

 その後はとりとめのない話が多かったのだが、無理矢理の結論を付けるとすれば、「そこに行け」「そこから学べ」ということになるだろう。強引な気もするけれどいま僕の求めているのはその志向ではないだろうか。

 昼前にわかれ、北に進路を取る。県境の町辺りでものすごい雪になり、ヘッドライトが必要なくらいになる。この気象の急変。こういうところだから境界になる。それをまざまざと見せつけられた。目当ての店で海藻ラーメンを食し、海産物売り場をぐるっと一回りして、イカの塩辛と数の子の漬け物を買い、高速道路に乗っかりまっすぐに帰宅した。

 少しうとうとして大河ドラマも忘れてパソコンに向かう。YouTubeで上原ひろみのライブを視聴しているうちに、演奏の素晴らしさにのめり込んでしまった。恐ろしいくらいの逸材。そして心から楽しそうな笑顔がいい。

●きょうの言葉/「革命家」という概念は、マルクス主義者や異性愛者、無神論者だけに狭められるべきではありません。その枠の外側にも人間として大きな価値を持っている人たちがいます。すべての個人が自らの考え方を表現する―それが社会主義的ユートピアです。自由の制限はその場しのぎの解決法であり、規律を守るための誤った方法です。いかなる社会も思想の自由がなければ進歩しません。(セネル・パス キューバ人作家・思想家 2010年1月10日付岩手日報「こんにち話」より)

■逸話/Saturday,9,January,2010

 昨夜は酔っていて何を話したか覚えていない。今朝は7時前に起床。目覚めた時の頭痛はしばらくすると消えていた。三連休の初日だから気分が軽い。コーヒーとパンとヨーグルトと林檎の朝食の後、しばらくして妻の住む町に出発。

 途中の山の木々に雪がかかっていて美しかった。いつか朝日が当たっているところを写真に撮りたい。いつもの蕎麦屋に寄ってから、部屋で「龍馬伝」第一回の再放送を見て、小一時間ほど読書をし、いつもの温泉に行く。風呂から上がり待っていると、湯上がりのおばさんたちが口々に女湯の出来事を語るのが聞こえてきた。それで何が起きたのかだいたいの事実関係が判った。妻がそれにどう関わっていたのかまでも。それで後で大笑いしたのだけれど、話を聞いて現場を想像するしかなかった僕は、赤くなったり青くなったり気が気でなかったのだ。いずれ健康であればこその笑い話として、このことは後々語り継がれるであろう。

 夜にはこれもまたいつもの寿司屋で最高の寿司を堪能した。歴史というと大げさだけれど、日々のことが1ページまた1ページと積み重ねられていく。特別なことは何もないけれど、誰にも同じようなエピソードがあるのだろうけれど、僕にはかけがえのない事実。さまざまな考え方があるだろうが、僕は僕のやり方で記録する。

 不可逆的な流れの中にいる。やがて今日の風呂のことや寿司屋の主人の笑顔までも懐かしく思い出す日が来るだろう。まだ来ぬその日になったつもりで、何年前かわからぬこの日を思い出す自分を想像して涙が出そうになった。

●きょうの言葉/毎朝、目覚めた時に、「これは単なる日々の繰り返しではない。いまだ知らない、’another day'(別の日)がまた与えられたのだ」と信じて、前進してください。そして、新たな1日を歩む時は背を伸ばし、頭の上に香油の壷を乗せて歩くアフリカの女性たちの姿勢をイメージしながら、踵から大地に足をつけ、リズミカルに進んでほしいと思います。(日野原重明 聖路加国際病院理事長 2010年1月9日付朝日新聞「98歳・私の証 あるがまゝ行く」より)

■週末/Friday,8,January,2010

 書類作り中心の仕事も今週で一段落となる。昼には今年初めて外に蕎麦を食べに出た。昨日までは立て込んでいて時間を見つけることができなかった。夕方早めに帰宅できたのも初めてだった。研修に来ていた妻を迎えに行き、部屋ではコーヒーも湧かさずに僕だけ新年会へ。わずか6名のそれほど気を遣わない会。新人の若者から実年齢より10も若く見られていたことを聞く。やや複雑。酔っぱらって帰宅すると、毛布に包まり眠る妻がいた。このような状況は初めてだった。

●きょうの言葉/『底抜け』って、考えたら無重力状態のことだから、楽しいんでしょうね。でも宇宙での底抜けは、ブラックホール。内側への無限の底抜けです。人間の内面とよく似ています。現実の世界とは違う内面での価値観です。それだけで生きていくことはできないから、それを隠し部屋のように持っておく。まあ俗にいうと趣味ということになるのかもしれませんが、生きる助けになると思いますね。(赤瀬川原平 画家・作家 2010年1月8日付朝日新聞「2010年底からの旅」より)

■完遂/Thursday,7,January,2010

 ここ5、6年来積み残されてきた仕事をきょう終わらせることができた。僕の前任者もその前の人もできなかったことを実行した。簡単そうでいて、皆が先送りしてきたこと。文字通り積み残してきた夥しいそれらは、実にトラック一台分にも膨れ上がっていた。もちろん一人の力でできることではなかった。担当者とはいえそちらに力をかけるほどの余裕はこれっぽちもなかったから。10月から加わったスタッフの存在がありがたかった。その方に少しずつ進めてもらった。そしていよいよ実行のとき。この第1週が勝負だと思っていたのだが、体調が悪かったのと予想以上にしんどい仕事だったのとで、後回しにする気持ちがちょっと顔を出した。でも、仕事は一人でやっているのではなかった。口を開いて思いを話すと、その言葉をまた膨らませて広めてくれる人がいた。足を運んでくれて、手を貸してくれる人たちがいた。これぞ組織の力と感激した。きょうのこの一点のみを取っても、担当者だった意味は大きかったと、もしかしたらいえなくもないかもしれない。

●きょうの言葉/僕はいつも「明珠在掌(明珠、掌に在り)」を考えている。宝物は実は自分の掌の中にあるという意味だ。新しい動きはあちこちの地方で起き始めている。それは強烈な危機感が原動力になっている。高齢化が進み、グローバル化の進展で工場もなくなった。もう一度足元を見つめるときが来たのだ。自分たちの「明珠」を官民が協力して探し始めた地域にこそ希望がある。先進的な取り組みは中央ではなく危機感を持った地方から起きるに違いない。(アレックス・カー 東洋文化研究者 2010年1月4日付朝日新聞より)

■復調/Wednesday,6,January,2010

 昨日の時点では、明日は一日休もうと思っていた。休もう、というよりこんなに具合悪いと休まざるを得ないかなと。だが人間の回復力には驚きだ。昨日は熱にうかされていたが、きょうはしっかり熟睡できた。目覚めると気分はすっきり、悪寒も治まり、冷たい空気さえ少し心地よく感じられるほどだった。

 用心して昨日と同じくらいの厚着を施して家を出る。昨日の不調が嘘のように、すべてが普通の感覚に戻っていた。普通であることはありがたいことだ。そして、気持ちのよいことだったのだ。何事も健康あってのもの種だね。そう気づかせてくれただけでも、風邪を引いた意味があるというものだ。

 仕事も普通にこなすことができた。帰ってきてから新聞に目を通す力まで残っている。もっとも体力は多少落ちており力を入れようとしても思うように力が入らない。それに食欲もまだじゅうぶん出ているわけでない。もうしばらく安静にしつつ、体力の回復を図らねばならない。あと一日もすればきっと百パーセントに戻るだろう。

 当初の目論見では、年初めの一週間は毎日ジムに通って運動する予定でいた。それが最初から躓いた。三日坊主どころかただの絵に描いた餅に終わってしまった。しかし、別の意味で健康のありがたみを感じることができたわけで、都合よく考えれば、人生はその時間すべてが意味のある瞬間瞬間の積み重ねでできているともいえる。

●きょうの言葉/絶望と希望を分けて考えるのは違うってこと。いいことと悪いことは一つの中で抱き合っているんだ。地球の全部が明るいという日はないでしょ。全部が暗い日もないわけだ。どこかの国が暗ければ、どこかの国が明るい。相対であって絶対はないんですよ。太陽によってはぐくまれている命は全部そうなの。だから人は、明るい方と暗い方の両方を見ながらどう動いていくのかを考えないとならない。(むのたけじ ジャーナリスト 2010年1月6日付朝日新聞「再思三考 むのたけじ95歳の伝言」より)

■怠い/Tuesday,5,January,2010

 最大限に厚着をして家を出るが、車に積もった雪を払ううちに怠さが増してくる。午前中は我慢して仕事を続け、やるべきことをやり出すものを出し、休みを取って帰る。14時ころから寝たり起きたりを2、3時間置きに繰り返す。咳はなく、腹が時々痛くなり、とにかく怠い。熱を測ると38度だった。布団を足して、しっかり汗をかいて治そう。

●きょうの言葉/この国の歴史のなかで、何を残し、何を捨ててもよいから、これだけはあなたたちが引き継いで欲しくはないと私が思い続けて来たもの、それが「KY」に凝縮している思考なのです。(筑紫哲也 ジャーナリスト「若き友人たちへ――筑紫哲也ラストメッセージ」より)

■不調/Monday,4,January,2010

 仕事始め。職場に行くとどこも寒くて寒くて、風邪を引いてしまったようである。動機息切れ、そして腹下り。それで20時に就寝。零時までは熟睡するもそれからは眠れず、頭の中では同じ場面ばかりぐるぐると繰り返していた。実に残念。明日は早めに帰って休みたい。きょうは書く力はありません。

●きょうの言葉/考える力があるかどうか、が、その人の人生を大きく左右するようになる。これからは、書く力をつちかって考える力を身につけることがますます重要になるのだ。(齋藤 孝 明治大学文学部教授「原稿用紙10枚を書く力」より)

■事情/Sunday,3,January,2010

 今年初めての日曜日。これで正月休みは終わり。短かった。しかし、ここ数日の自分の過ごし方を振り返ってみると、悪くはなかったと思う。まず、やるべき仕事を12月中に片付けたこと。そして、テレビをまったく見なかったこと。さらに、書物を意識して読むようにしたこと。おかげで気持ちもすっきりし、良い状態で明日からの仕事に取りかかることができそうだ。

 しかし、いざ始まってしまうとまたあれこれおもしろくないことが出てきて疲れてしまうことは必至である。課題は、どんな時にも自分のペースを崩さないことだ。おもしろくなくても疲れても、毎日同じように同じようなことを続けていけるようにしよう。

 きょうは祖父の二十三回忌の法要があって、菩提寺に母と出かけた。法要とはいっても参列は二人だけで、寒い本堂に和尚様と母と僕がいただけだった。膝の悪い母が椅子を持ってきて座り、一人だけでは嫌だというので僕も椅子を使った。足が痺れなくて楽だったが、法事の時にお寺で正座をせず椅子に座るなんて、20年前なら考えられなかったことだ。ここ20年あまり、つまり平成になったあたりからこれまでで、世の中の事情が変わり、それにつれて考え方も大きく変化しているのだ。近頃何彼につけそう感じることが多い。

 母から実家周辺の最近の事情を聞くと、数年前に近くのスーパーが消えてから様々な変化が起こっているという。スーパーだけでなく近所の商店が次々と店を閉め、町の活気が失われ、はじめは困った困ったという嘆きばかりだったのだが、最近では通る人がまた増えてきたらしい。空き店舗を活用して近郊の農家や趣味で畑を作っている人が野菜やら惣菜やらを持ってきて売るようになったとか、誰でも出品できるリサイクルショップができたり、不要の本を持ち寄って誰でも自由に借りられる仕組みができたりしたとか。それで近くのお年寄りたちが集まって、お茶を飲んでお喋りしてと、人の輪が広がってきたというのだ。しかも、小さい子どもたちの絵を飾るギャラリーなども設けて、お年寄りばかりでなく若い母親たちも集まれるようになっているとのこと。聞けば地元の商工会だかシルバー人材センターだかに元気なおばさんがいて、その人がうまくコーディネートしているらしい。

 これって元旦の新聞に書かれてあったことそのままじゃないか。過疎の町が一気に日本の最先端に躍り出たのだとしたら、これは愉快な出来事だ。というわけで一昨日の新聞からの引用。

●きょうの言葉/変化のきざしを感じたのは2000年ごろ。岩手の北上山地の中にある加工場に寄ったのがきっかけだった。以来、各地でたくさんの人に会って実感するのは、高齢化や人口減少が進み条件の悪い土地ほど、優れたリーダーや先導役が出てきているということだ。中でも島根の人たちは全国で1番じゃないか。高知や岩手もすごい。過疎地がぐるっと回って先進地になってしまったようだ。(関 満博 一橋大教授・地域産業論 2010年1月1日付朝日新聞より)

■余裕/Saturday,2,January,2010

 南の方が雪が多いらしい。きょうは7時に起床してから本を読んだりネットを見たりを繰り返している。三日くらいしてようやく休みの日らしく余裕をもって過ごせるようになってきた。疲れもストレスもないところで、心置きなくしたいことを進めることができる。ただもうそんな休みも終わりだ。

 昼過ぎからメールのやり取りをする。駅で待ち合わせをして、次の列車までの1時間ほど、コーヒーを飲みながらとりとめのない話をする。人と会話したのは四日ぶりくらいだった。帯に短したすきに長し。中途半端な時間だったが、それでも話すと楽しい。

 駅や市街地は車で溢れている。初売りというので街に出たくなる人も多いだろう。そういう時に敢えて人込みに入るのは好きではない。天の邪鬼とでもいうのか、できれば人の少ないところにいたいと思うのは仕事の反動か。

 再び部屋に戻ってきてこれを書いている。もうしばらくしたら、今度は旅から帰ってくる人たちを迎えに行かなければならない。そしてその足で実家に行く。連絡が来る前に少しでも本を読み進めることにしよう。

●きょうの言葉/現代の日本人はフェアトレードのキーワードでもある「スローライフ」とかに合わないのかもしれません。政府にしても、企業にしても、私たち一般消費者にしても、日本でフェアトレードが広がらないいちばんの原因は途上国というか他者への無関心ですね。私達はそれだけ余裕が無いのかもしれません。(北澤 肯 フェアトレードリソースセンター管理人 大和証券グループ本社サイトより)

■迎春/Friday,1,January,2010

 2010年が来た。「2010年」の試写会の切符をもらって観に行ったら、途中で画面がおかしくなって中断してしまったっけ。あれは1984年のことだったか。ほんとうに2010年という年が来るなんて驚きだ。しかし、町並みはその当時とそれほど変わっておらず、夢に描いた未来都市の姿はどこにもない。ただ、社会はすっかり変わった。冷戦構造などとうの昔に消え、ずっとドラマティックな歴史が展開されてきた。この調子であと26年なんてあっという間だ。いつ死んでもいいように心構えを作ろう。

 昨夜はテレビも付けず、いつもどおりの時刻に就寝した。そして、今朝もいつもどおりに起床した。起きると雪が積もっていた。ラジオでは各地の高速道路の通行止めを伝えていた。7時過ぎ、去年の新聞を全部束ねて出し、近所の神社まで散歩して初詣をしてきた。雑煮ならぬ普通の味噌汁を作り、昨夜の残りの蕎麦と昨日買っておいたくるみ餅で朝食にした。そして、午前には朝刊に隅から隅まで目を通した。

 いろいろな記事があったが、きっと再び読むことはない。そう思ったので、新聞は一度読んだらもう捨ててしまうことにする。自分にとって必要なものであれば忘れない。逆に、不要なものなら忘れても構わない。この情報化社会、後でじっくりなどと言う間に新しいものが積み重なっていって、部屋中とんでもないことになってしまう。だとしたら、最初の一回で全部きめてしまえ。新聞だけの話ではない。目にするもの、耳にするもの、出会う人。要するに、一期一会ということである。新聞を読んでいるうちにそんなことを思った。

 思いつきの新企画。新聞に限らず一日一語、いいなと思った言葉を掲載しよう。さていつまで続くか。

●きょうの言葉/本を読む沈黙の時間をもつことが大切。孤独で静かな時空間で、内なる言葉をつくりだす。過去と今をみつめ、将来を考える。自分との深い対話が生まれる。(秋田喜代美 東京大教授・発達心理学 2010年1月1日付朝日新聞より)


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