2010年6月               

■この時期の多忙感は異常だ/Wednesday,30,June,2010

 毎年のことだと思うけれど、6月から7月にかけての多忙感は異常だ。蒸し暑さという条件が昨今では輪をかけているのだが、それを除いてもただこき使われている感が強い。やることがあり過ぎである。この状況はいつまで経っても改善されないだろう。そのうちに、ほかの職場と同様のことが発生するに違いない。まじめにやろうというまじめで素晴らしい人ほど、その道を転げ落ちる可能性がある。とても皮肉なこと。

■居心地が良くなってきた頃に/Tuesday,29,June,2010

 一区切りがついてさあこれからがんばるかという時に会議が設定されているのであった。このごろはどうもその会議が長引く傾向にある。それに知らぬ間に別の会議まで設定されている始末である。19時過ぎにやっと解放されて、これからやるかという気にはならぬ。サッカーを見ながらできるかもと一応持ち帰るのだが、実際に眠いのを我慢して起きていて23時からのサッカーを見始めるともうだめで、目は冴えてくるし、興奮するし、延長に入るし、あげくの果てにはPKだし、眠りに就いたのは午前2時。仕事など進むわけがない。

 それでもどうにかなるという感じがつきまとう。そしてたぶんどうにかなってしまうのである。このようにおかしな慣れ方はよくないと思う。それではどうするか。居心地が良くなってきた頃に場所を変えるのが良い。

■こんな蒸し暑い日の夕方に/Monday,28,June,2010

 たいしたことはしていない。昼を過ぎてからはゆったりと仕事ができる時間帯になった。少しすると出張の時刻になった。1時間程度の会議。僕は僕でなければならない仕事など一つもしていないのではないだろうか。だがそれはごく普通のことであり、蟻一匹が今日という日を生き延びるのと、なんら変わりはない。

 違うのは、こんな蒸し暑い日の夕方にシャワーを浴びた後、しばらく涼んでいる時間が何より素敵だと思えることである。ただの動物じゃなくてよかったと。後はすぐに眠ってしまう。

■何をしていたのか思い出せない/Sunday,27,June,2010

 何をしていたのかあまり思い出せない。それほどたいしたことをせずに昼になる。たしか、スパゲティを茹でて食べた。ラジオを聴きながら、眠くなる。電話の声が実に爽やかで生き生きとしている。

 その後、たしか眠ってしまったのだった、暗くなるまで。

■日常の中に学びが/Saturday,26,June,2010

 午前中にはワープロの仕事を少し。下地がだいたいできていたので、見直す程度で終わった。その後は荒れ放題に荒れていた部屋を一気に片付けた。溜っていたゴミをすべて出した。クローゼットの中を整理して機能的な配置にした。加湿器や温風ヒーターも片付けた。ここ数週間片付ける気力さえなかったのは、風邪を引きずっていたからだろう。だいぶよくなったので、片付ける余力もできてきた。キーボードをすべて分解して掃除したら、ひじょうに楽に入力できるようになった。美しさの勝利。

 夕方には送迎の車の中で学びについて話を聞く。なるほど聞いているときは理解した気になるのだが、そもそも日常の中に学びがないのだから、理解が十分であるとは思えない。  

 

■人生で一番若いのは今/Friday,25,June,2010

 話すつもりで準備はしたが、結局延びた。サッカーの結果も絡めた話の流れはきょうしか使えない。しかし、できなかったとしても構わない。大切なのは頭の中で考えるという部分だったのだから。実際に身体で表現できるときとできないときがある。できるときには思い切りパフォーマンスに努めれば良いし、もしできなくても次に繋げれば良いだけだ。もしここに記しておけば、また次に生きる機会もあるだろう。

 きょうのテーマは、「人生で一番若いのは今」というもの。若さには無限の可能性と、未熟さという二面性がある。普段はどちらもあまり自覚しないけれど、今より若いときはないと思えば、もっとこの二つを積極的に生かして生きることができるのではないか、という提案。可能性を自分自身で切り開く意気込みを持つことと、未熟者としての謙虚さを忘れないということ。素材としてはいつでも使える。あとは対象のコンディションと、社会的時代的なポジションを加味すれば良い。そして、やはり人前で話すとなればどうしても身体表現ということに帰るのである。

 きょうの夜も最後だった。ご苦労なこったが致し方ござらん。気まぐれでテレビをつけたら「劇場への招待」。一時間くらい引き込まれた。良質な番組はなぜにこんな深夜にしか放送されないのだろうか。ああ、いろいろライブで観る機会が必要だ。東京とかニューヨークとかトロントとか、都会に住むことの最高の愉楽はここだ。

■重要なのはフィジカルな部分/Thursday,24,June,2010

 サッカーはスポーツにして単なるスポーツにあらず。よく戦争に例えられるけれども、だとしたらこんなにさわやかな戦争もない。すべての紛争は、サッカーで解決すれば良い。すべての軍隊を廃止し、各国は23人の精鋭を選び抜けば良い。ミサイルも核も要らない。ただルールあるのみである。この時代に生きる一人として、今年の戦いを共有できることのおもしろさ。特に、4年前には考えられなかったような楽しみ方が現代にあることの驚き。ツイッターというメディアが今後どう推移していくかはわからない。しかし、人々のつぶやきがゲームを実況していくという形式は、かつてなかったものだ。既存の報道とは何だったのかと思わずにはいられない。

 この日の夜は職場で最後になった。これはやむを得ない。しかし何一つ満足な形で仕上がっているものはない。自分のことなどこれからである。金曜朝には何かスピーチせよという。準備の時間はない。時間のない中で、でき得る最高のものを作り上げる努力。大半は脳の中で行われるわけだが、重要なのはフィジカルな部分のほうである。

 

■耐性のない輩よりも/Wednesday,23,June,2010

 梅雨寒なんて死語と化した。太陽が厚い雲で遮られたとしても、その熱は地上に届く。如何ともしがたい湿度の中で、片付けなければならないことをひとつひとつこなしているうちに時計は回る。今年はまだネクタイをしっかり締めている。今から緩い状態に慣れていたら、これからさらに暑くなった時にどうするのか。暑いと思っても我慢できるうちは我慢する。そのほうが耐性のない輩よりも生き残る可能性が高いとは思わないか。

 今日の午後は軽い出張だし、少しゆっくりできるかななどと甘い夢を見ていた。しかし、夜には夜で毎年恒例の会合があることを朝になって思い出した。直帰などとんでもなく、予想外の土砂降りの中を、車で職場に戻らなければならなかった。会合までの時間もわずかで、予定の半分も終わらずじまいだった。

 偶然というのも不思議なもので、会合の席に親戚の叔母さんがいる。その叔母さんを車で送ったら、パンを袋いっぱいくれたのでありがたかった。ここのパンは周辺のホテルに卸しているくらいの高級品である。好き嫌いは分かれるかもしれないが、トーストにするとうまい。食パンをさっそく包丁で切って冷凍庫に入れた。部屋の中は2、3週間前から何も変わっていない。気がつくとすでに22時を回っている。

■不注意/Tuesday,22,June,2010

 トイレのドアを引くと、そのドアが勢いよく頭にぶつかった。左耳の上当たりを打撲して、歯を食いしばると痛みが走る。ズボンを履こうと思ったら、ボタンが緩くなっていて、裁縫道具を取り出しては、それを縫い付けた。針と糸の扱いなんて慣れていないが、ボタンを付ける程度ならわけない。しかし、よく見えないからといって、針の先を注視しているうちに瞳に突き刺してしまうというような事故もこの先起こりかねない。サンルーフから窓を出していた子どもたちが、鉄道のガードの桁に頭をぶつけて死ぬなどという事故も、まさかと思うけれども十分あり得る話だ。不注意なんてそこかしこに無数に転がっている、普段は気付かないだけで。

 平日休みの朝に立てた計画はすべて実行されずじまいだった。それらのどれ一つとっても実行せずともどうでもよいというくらいのもので、進んで達成しようなどという意欲が全く湧かなかった。あちこちに散らばる新聞に目を通したものの、目を引いた記事を書き留めることもせずに、ゴミにした。

■夏至の日の夕方くらい/Monday,21,June,2010

 夏至の日の夕方くらい外で走り回ったって誰も文句を言わないだろう。幸い今日は雨も降らずに、窓の外には心地よい風も吹いていた。やらなければならない仕事は多々あるが、きょうやらねばならぬものはもうない。

 意味なく車を飛ばすことの意味を僕は十分理解している。くだらないものやつまらないものの価値こそほんとうは大きなものなのだ。このちっぽけな命に突き刺さる痛み。なまくらだから感じないなんてことはなくて、かたちのみえない棘が全身に傷をつけ、みえない血を流しているのだった。

 きょうを境にまた日が短くなっていく。地軸の傾きに因って近づいた太陽は時を遅れ熱を我々に届ける。ほんとうに暑くなるのはこれからの時期。音も熱もない宇宙空間を、光がただいっしんに進んでくる。それが僕には血の流れのように熱く感じられるのだった。

 「グラン・トリノ」のクリント・イーストウッドは果敢だった。まるでサマータイムみたいに、真夜中の映画を見終えてもまだ太陽が高いところに出ているような錯覚を覚えた。白い犬よ。言葉を持たない者はなんて饒舌なんだ。まるで真っ赤な血の流れのよう。ジェイミー・カラムの声を聞きながら、僕は吸い込まれるように青い、夏のオンタリオ湖を思い出した。なぜこの地を与えられたのかって、どうしても不思議だった最初の夏。

■生きたということだけで/Sunday,20,June,2010

 昨日は暑い中裸足で7時間くらい立ち尽くしていた。土曜日の労働が苛酷だと感じられるようになったのは確かにここ最近の話だから、こんな週すらも若者にとってはどうということもなく過ごすことができるのだろう。体力体力と声高に言うのは自分の力のなさ、フィジカルな面でのコンプレクスの裏返しと取られても仕方ない。これだから大切なものを忘れてしまったりして肝心な時に迷惑をかけるのだ。数日前に綱渡りと書いたが、それが現実。綱から落ちたけれどあわやというところでセイフティネットに掬われる。それはチームの見事な連携。携帯メディアとモータリゼイションの勝利。

 街場にいることの利点。手の届く範囲に何でもある生活の延長線上に、仕事というものもまたあるのだ。仕事はそれでよい。仕事なのだから。楽に効率よくできることが最も良い。愚痴を言うなどという遠回りはしない。できない者には何も任せない。自分ができないのなら誰も自分には任せないはず。自分ができないことはしないし、させてもらおうとも思わない。すべては手段に過ぎない。目的は別のところにある、僕の場合は。

 情報が集まる辻々に立って、歩く人々のにぎやかさに身を委ねているだけで何となく楽しい気分になる。半分以上すでに過ぎた人生の残り時間を世界の憂いで埋めたくはない。途切れ途切れの理性と血のように沸き上がる感性の狭間で、音楽と詩に囲まれて生きる。のろのろとカタツムリのように果てしない地平を這い回り、きれいな軌跡を残して溶解する。渦を巻いた貝殻が踏みつぶされるとしても、生きたということだけで、それだけでよい。

■仕事/Saturday,19,June,2010

 週の疲れが溜っている週末になって今までの成果を出せよなんて酷な話だ。すべて片手間にやっているから一流になんかなれないというのがこの国の仕組み。ある意味、ここに馴染まず外に出た方が何十倍も充実した人生を構築できると、僕はここに来てまったく後ろ向きでなく本気で思い始めている。枠をはみ出して生きようとすることの必然。何も誰に認められたり納得されたりする必要があろうか。自分のしたいことを自分の思うままにできたらそれでいいではないか。

■フォローの態勢/Friday,18,June,2010

 金曜日ともなると疲れが溜っており、午後にはもう眠くて仕方のない状態になるのが常である。きょうの午後には、午前なのか午後なのかわからない変な感覚があった。幸い午後なので、終わりが近いとややほっとした。夕方も大して何事もなかったのだが、別の部署で問題が発生し、騒然とした状態になった。またまたそのあおりを受けて、二人でやる仕事を一人でやるはめになった。終わるともう19時を過ぎていた。いつものことだ。これはフォローの態勢がととのっているということと同義か。

■仕事/Thursday,17,June,2010

 ここ2週間あまりの懸案事項が遅くになって解決した。それはそれでひとつの達成感があったが、実はここからが始まりである。何も形のあるものは創っていない。これから創る、その下準備が始まったに過ぎない。

 それとはまた別の話。仕事があるところで止まっており、そのあおりを受けてある報告書を一晩でしあげなければならなくなった。こうなると怒る気にもなれないわけだが、その報告書がまた詳細に渡るもので、しかも前年度の資料をひっくり返しながらだったので、終わると21時半だった。明るいうちに帰る計画が、いつのまにか最後になった。明日こそは早く帰ろうと思う。

 

■ゆとり/Wednesday,16,June,2010

 暑いのか寒いのかわからない日が続く。昨夜は早くに休んだ。夜中に友人と恩師が酔って電話をかけてきた。ほとんど夢の中で応対していた。せっかくの機会を逃してしまったことに、タイミングの悪さを悔やんだ。

 朝のうちはいいけれど、午後にかけて次第に咳がつらくなってくる。薬を飲んでも効いていないような気がする。もっと劇的に症状が治まることを期待していたのだが、そんな都合のいいことはないのだろう。

 調子が悪いときは誰にもあるが、調子の悪さの度合いは人と比べることはできない。職場には調子の悪い人が多い。肉体的に動けないときもあれば、精神的に動きたくない場合もあるだろう。そういうときには無理せずに休めばいいんだ。でもそのために他がカバーに入れるだけの人的ゆとりがもっと欲しい。

■ただの風邪/Tuesday,15,June,2010

 朝から休みなしで動き回り、空いた一時間で構想をまとめて、午後の最後に一時間の話をした。こういう綱渡りのような生活をしているから、ときどき足を踏み外して落ちてしまうのだ。いくらネットがあっても、命綱でつながれていても、いつか大けがをしてしまうのではないかと心配だ。

 夕方職場を抜け出して病院に行った。先日とは別の病院だったが、ここも聴診器のみで、風邪ということ以外特別な診断も何もなかった。薬も見せたが何も言われなかった。新しい薬を処方された。

 早く帰って休めばいいのだが、そういうわけにはいかない状況もある。休めばいいのだが、休まなくてもある程度はこなせる自信もあったりして、やるべきことだけ片付けていこうと思ったら意外と遅くなった。

 高校の恩師から誘いの電話があった。友人も一緒だという。しかし、酒を飲むほどの元気はなく、残念ではあったが断った。

■風邪の悪化/Monday,14,June,2010

 月曜日にはロウパワーでスロースタートである。何が楽しくてやっているのか。わからないままに一週間が過ぎ去る。今考えると、この日の夜には準備しなければならないことが重なって、家に帰ってうとうとしてからまた起き出して、サッカーのラジオを聴きながら夜中まで仕事をしていたのだった。それで、やっと治りかけた風邪がまたぶりかえしてしまったのかもしれない。咳が酷くて眠れず、そのまま多忙な火曜日に突入したので、どんどん悪化してしまった。

 

■空白/Sunday,13,June,2010

 朝からほとんど何もせずぼーっと過ごしていた。部屋に閉じこもったままで、どこにも出かける気になれなかった。ときどき襲われる咳の発作に嫌気がさして、せっかくの一人でない週末を満足な態勢で過ごせなかったことを残念に思った。ぽっかり穴が空いた気分。

 部屋を片付けるつもりではあったが、気がつくとすっかり日が暮れて、何もやる気がなくなった。注文していた本を取りに本屋に行き、その足で昨日と同じうどん屋で、昨日と同じ席に座り、うどんを食べた。

 スーパーに入って買い物をすると、ずいぶん前の知り合いに会った。薬屋で咳止め薬などを買った。

■運命のぶっかけうどん/Saturday,12,June,2010

 朝食後自転車で仕事へ行く。暑い中を30分走ったり歩いたりするはめになる。おかげで運動になったけれど、それで風邪が治るかどうかはわからない。むしろこじらせてしまったりしたら嫌だ。

 昼には街が混んできて、車で出たはいいけれど、あちこちで渋滞にはまって、予定外のところまで行ってしまった。そこで予定外に入ったうどん屋で冷やしぶっかけうどんを食べたのだが、それが予定外においしいもので、予定外にいい昼食となった。こういう偶然というか行き当たりばったりのところが人生の面白さであると僕は思う。

 最初から何かを求めてそこにたどり着くということはあまりないだろう。とりあえず動いてみる。動いているうちに気になることがみえてくる。そこで寄り道したりするうちに楽しくなったり、飽きてまた別の道を行ったりする。そうこうしているうちに、なんとなく、自分の行くべき道の方に足が向いていたのだと気付く。あとから振り返らないと、求めてきたことなどわからない。おいしいうどんを食ったところで、おお俺はこのうどんを求めていたのだということに気付くのだ。

■健康診断/Friday,11,June,2010

 健康診断があった。水以外のものを一切取らずに、7時過ぎに出勤する。職場の部屋や、敷地の一角に停まった検診バスを巡る。仕事に穴を空けられないからその前にと考える人が増えているのだろう。もうすでに待つ人の長い列ができていた。それだけ余裕のない状況が広がっているのだ。

 終了までに1時間近くかかり、おかげで昨夜買っておいたおにぎりは食べることができなかった。健康診断に対しては懐疑的になっている。昨年度胃検診で要精密検査と診断され、胃カメラを飲まされたにもかかわらず、その後の結果の通知は何もない。この日も医師の診察があったが、聴診器を当てられるだけで何の問診もない。咳が出て風邪の症状がみえたら、何か聞いてもよさそうなものだ。以前はそうではなかった。何か変わったことがないかどうか、必ず聞かれたものだ。結局のところ、制度というのは人々ではなくて体制を守るためのものなのだというふうに感じられる。自分自身の感覚以外、信用してはならぬ。

 立ち仕事をしている時に突如咳が止まらなくなり、涙も止まらなくなり、周囲も騒然とした状態になった。それで抜け出して流しにいって水を飲んだ。こういうことは今までなかったのだが、今回の風邪ではすでに2度目だ。こうなるともう仕事なんかしたくないという気持ちになる。

 午後から出張で、そこでも面倒くさいことが行われて、会議の最中にも咳が止まらなくなって、話にならなかった。終わってからは合流して温泉に行き、冷麺を食べて帰った。

■裏表のない人/Thursday,10,June,2010

 昨日何があったかが思い出せない。そういうことはこれまでもあったが、それが毎日のことになってきた。仕事に支障を来すので、努めて記録を付けるようにしなければならない。記憶力とはこのように弱まっていくものなのか。

 片付けなければならない仕事がいっこうに片付かない。自分がする仕事なら期限は守るのだが、他者に依頼した仕事は期限どおりに仕上がるとは限らない。その取り立て役のようになっている。そこにストレスがかかるのだろう。あまり気に病んでもしょうがない。今週のものにはならないだろう。

 なるほど、人のいいかげんな気持ちとか、誠意とか、心配りとか、焦りとか、こちらからはよーくみえる。

 裏表のない人になるのは難しいことだ。

■通院/Wednesday,9,June,2010

 ひとつ有意義な研修の後、近くの内科医に受診した。心配していたようなマイコプラズマ肺炎や百日咳ではなく、風邪が長引いているのだという診断が下り、薬を処方された。周囲にも同じような症状が蔓延しているため、なかなか治りにくいのだそうだ。

 外は暑い。夕方になるともうばてている。体力を持つ者がアドバンテージを握る状況がある。体力のない僕は本を読むことすらできずに、ボーッとしたまま動かない。

 ひとつ、大きな、夢のある情報がもたらされた。退職したら少しは楽しい思いができるかもしれない。

 

■疲れと咳/Tuesday,8,June,2010

 昨日の会議の後はまた職場に戻り、別の会合に参加した。内容については問題ないが、暑さと、帰宅が遅くなったことで、疲れがあとあとまで尾を引くような感じになった。

 今日は病院に行くつもりでいたが、気がつくと時間が過ぎていた。咳をどうにかしないとまずい。

■生長した木/Monday,7,June,2010

 暑い日。しかし、咳がまだ出る。咳以外の症状はないが、相当に長引いている。日陰は涼しくて、半袖にはまだ踏み切れない感じがする。午後から出張で、狭い部屋の中で2時間の会議。

 駐車場には等間隔に桜の木が植えられていた。ところが、その木が生長して幹が太くなったために、駐車スペースが狭くなっていた。そのため、車を停めるのにてこずり、バンパーを少し木の幹に擦ってしまった。明らかに木の生長を考慮していなかった設計にイライラした。幹が若いうちはよかったのだろうけれど、歳をとってからはただ邪魔なだけ。誰にも考えつかなかったのだろうか。だがほんとうはそこまで遠くをみるだけの想像力と哲学がなければ、この先つらくなるばかりだ。 

■だらだら/Sunday,6,June,2010

 朝から夜まで部屋で過ごす。外はとてもいい天気だったらしい。しなければならない仕事があったが、昨日から先延ばしの状態のままだった。午後にはラジオを聴いてから3時間くらい眠った。ネットに向かっているうちに、夜になる。晩ご飯も食べずに22時を回る。何をやっているのか。それから30分で仕事を仕上げる。最初にやっておればもっと有意義な日曜になったはずなのに。だが、見方によってはこのだらだらした何十時間があったからこそ、30分で仕上げることができたとも言える。言える? ほんとにか。

 とにかく、体力のある者がアドバンテージを取る時代という気がして仕方ない。そのようなことは、僕の先生たちは何一つ教えてくれなかった。大人の方たちもこうなるとは想像だにしなかったのだろう。

■友だち百人/Saturday,5,June,2010

 友だち百人できるかなという言葉は子どもをけっこう呪縛している。百人なんてできるわけがないし、百人もいる友だちなんて一人一人どれほどその人にとって大切なのか疑問だ。いまの友だちを大切にしようと、どうして叫んでこなかったのだろう。いや、叫んでいるのだろうか。声が雑音にかき消されているだけなのだろうか。僕には百人も要らない。かけがえのない存在など今までいなかったから、一生に一人いれば十分だと思っているところがある。

 ミクシィのサービスにサインアップしたけれど、友だちがいないと中身を利用できないのだそうだ。実は数年前だれかに誘われて加入した。いくつものコミュニティがあって、時々使っていたのだけれど、マイミクシィというのがいなくなったら規約違反で追い出された。誰かの紹介がなければ入れないという制約がかつてはあったがいまはなくなったと聞いて、それならばちょっとと思い、もう一度アカウントを取ったのだ。しかし、加入はできても利用できないことには変わりなかった。

 いくら同級生だろうが、同窓生だろうが、だからといって気楽にメールを送れるような感覚が僕にはない。だから自分から誰かを誘うなどというのは敷居が高い。つながるというのは当世の最重要キーワードではあるだろうけれど、怖くて踏み出せない何かがある。

■動転する政治とメディア/Friday,4,June,2010

 政治が動転する。しかし、新聞はつまらない。「きょうの言葉」用に何かいい言葉はないかと探すのだがうまく見つからない。僕が読みたい言葉はどちらかというと新聞には少ないのかもしれない。既成の権威は要らない。マスコミが機能不全に陥っているようにみえるのは、きっと機能不全に陥っているからだ。たとえば内田樹氏の言葉が染み込むのは、言葉の機能を生かしたみかたに飢えているからだろう。

 忙しいから新聞を読む暇はない。という言い方をするのだがそれは言い訳だ。ウエブを読む時間は数年前に比べたらきっと数倍に増えている。ラジオだって聞いているし。だが、テレビは見なくなった。捨てたと言っていい。新聞には目を通すようになった。すべてには目を通すが、読むのはお気に入りの部分だけ。ウエブではニュースを読む。関連する項目について誰かの解説を読む。いま起きている出来事の本質を求めようとする。そうすると、何十年も前の出来事にたどり着く。どこかで耳にしただけだった歴史上の事件を、初めて意味を持って学ぶことになる。

 メディアと接する時間の過不足をのみ論じるというのではまったく不十分である。これだけ新しいメディアが生まれている時代になって、僕らふつうの一般庶民がそれらをただ「消費する」だけでは何も良くは変わらない。いくら首相が変わったって、国が良くなるわけがない。僕ら一人一人が、政治にどう関与するのか。ケネディじゃないけれど、僕らは誰かに求める立場じゃなくて、常に行動を求められている立場にいるのだ。

■言葉の結晶/Thursday,3,June,2010

 昨日は疲れたので、今日も一日低調だった。力を低く抑えては、あまり負担がかからないようにした。それでも自分なりには昨日のことを振り返っては言葉にした。言葉にするということは、価値を結晶させるということだ。少なくとも昨日のような物事の価値を僕は受け止めようとしている。僕が受け止めた価値を、ほかの人たちが受け入れてくれるかどうかはまた別の問題だけれど。

 言葉にする、はいいけれど、他人の言葉を読み解くのもまた困難だ。一度固めた結晶を、また水に溶かして飲み干さなければならないのだから。僕などは胃腸が弱いので、たくさん飲むと腹を下す。いい言葉悪い言葉玉石混淆で、それらをいちいち選別していたら食べる暇さえない。とりあえず目の前にあったものを手に取り、口にする。ほんとうはいい言葉悪い言葉など決まっているものではなく、僕らは何を食べても血や肉にできるのではないだろうか。言葉から本質をみつけようとする態度さえあれば。    

■継続/Wednesday,2,June,2010

 いつもと同じように起床して、いつもよりも1時間早く出勤する。昨日に引き続き暑くて、一日晴れていた。爽やかな青い山脈と残雪が眩しかった。少し風が強くて、書類が吹き飛んだりしていらつくこともあった。

 今日一日のことについて、どのように総括すればよいのかわからない。同じことを続けることは、いつまでもやめないということだ。しかし実はそんなに単純なことでなく、継続とは本質を守るということだ。本質を見失わなければ、形は変化してもよいのか。続けるということになるのか。あるいは時代が変化すれば、守る意味も失ってしまうのか。

 世にあるさまざまな物事が、続けられたり、途中で打ち切られたり、形を変えたりする。今なにか物事の作り手であるならば、絶えず今のままでよいのか吟味が必要だ。今まで通りというのは楽だけれど、何よりも安易な選択だ。そして、今まであったものがなくなるとしたら、寂しさを感じるのは当然だけれど、大切なのはその先に何を見つけるかのほうだ。

■ポテンシャル/Tuesday,1,June,2010 

 暑くなったとはいえ湿度は低い。半袖になるとどこか薄ら寒いので、ずっと厚着で通す。これで蒸し暑いと状況はかなり変わるのだろうけれど。自分の持つエネルギーが低下しているのか、それとも変質しているのか。

 少し早めの昼食を取って出張する。3月まで世話になった人々と顔を合わせる。その建物に入るのは初めてだったが、窓からの景色は懐かしかった。その場所にはその場所独特のエネルギーというのがある。

 ポテンシャルの変化と不変ということを考える。時間が経っても変わらぬものと、時間とともに変わるもの。きっとかれらからするとこの先も僕は変わらないようにみえるだろう。だが、僕から見るとかれらはすでに以前のかれらではなく、僕の知らない人格となって生きるのである。あの時の僕やかれらはどこにも存在しない。