2019年2  February 2019

 

2月28日 木曜日

 2月は今日で終わり。一か月先のことはよくわからないながらも、この先の混乱は容易に予測できる。それはこれまで毎年同様にやってきたのだから。夕方から会議があり、今後のかなり詳細な部分まで確認できた。さらに詳細を今週末にでも一人で組み立てることになる。仕事上の大きな見通しを立てなくてはいけない。本当はそんなことよりも自分の生い先の方が大切なのに、それには手付かずのまま終わりそうだ。

2月27日 水曜日

 働く者たちの価値観がこうも多様だと、どの職場もやっていくのは大変だ。例えば世代の違いによって価値観が変化しているのは否定できないが、同世代であってもその人の置かれてきた境遇によって見方が180度違うということもよくある。価値観の相違の問題をいかにして飛び越えるか。いわば上位の概念をいかに提示して相手の口封じができるかの勝負というところがある。

2月26日 火曜日

 大きな声でめちゃくちゃな言葉を響かせる輩にとっては、まさか自分が間違いだったり、元凶だったりするなどとは思いもしないだろう。既視感のあるこの構図はどこかの国の現政権と酷似している。彼の国で勤めた三年間を振り返ってみても、同じような人は意外とたくさんいて僕らのため息の原因となっていたのだった。

2月25日 月曜日

 自分の子供を支配する。受け持ちの生徒を支配する。すべてを牛耳り、最終的に相手ではなく自分の手柄とする。そんな自分本位の姿を毎日目にするようになってから何年経ったろう。数々繰り返される蛮行に心が擦り減って、ため息も吐きたくなる。しかし、このようなたたかいの日々だとすれば、何とたたかっているかは自覚できており、そこに煩わしさを感じているのは明らかである。

2月24日 日曜日

 昼には平泉におろし蕎麦を食べに行き、帰りにスーパーで食材を買って帰った。最近はだいたい同じような休日を過ごしてまた新しい週を迎えている。少し仕事をして、少し息抜きをして、だらだらと過ごして、それで英気を養うことにはならないのかもしれないけれど、職場に出るよりはよっぽど楽だ。

2月23日 土曜日

 朝から張り切って仕事に向かう。笑顔で挨拶をして、身体を動かして、大きな声を出したり、素早く移動したり、できるのは微々たることだけれどもすべてやりきったという思いで午前中を終えた。戻ってからおにぎりを詰め込み、少しばかり机上の整理をした。その後は背広に着替えてまた別の仕事に出かける。会場ではほぼ1時間黙って座っていた。その会が始まって13年目だというが、13年前にどのような経緯があって立ち上げられたのか、よくわからなかった。よくわからないことばかりの世の中だ。夜には寿司屋に行こうと家を出たが、目的の寿司屋は休業だった。歩いて戻り、結局スーパーで弁当などを買って家で食べた。

2月22日 金曜日

 一週間は長かった。見方を変えれば短かかった。どちらも同じことだ。仕事量が二次関数的に増えた。なんでもかんでもこちらに回ってくる。あとは頭の中で勝手に考えろという。もうここで自分がやることはない。やればやるだけみんなが駄目になる。

2月21日 木曜日

 長い会議のあとにまた長い会議。いくつもの要望が出て、それらの要望を叶えるためにまたこちらが要望を出す。一人に伝えまた一人に伝える。変えないことが大前提だから、変えようとすることがみんなにとっては負荷なのだ。良くしていくという視点、今の状況にとって最も良いものを作るという視点がなくて、楽をしようとしか考えていないのだ。

2月20日 水曜日

 だが、少なくとも努力はした。その証をみんなの耳に入るように声に出し、すべてをジャッジしてもらう。自分ごととしてギリギリの判断を仮想空間の中でやってもらう。そのことで、判断とか思考とかが磨かれる。

2月19日 火曜日

 馬鹿は死ななきゃ治らないというけれど、死んで欲しい馬鹿がこの日本にはいるということを嫌という程感じている。松の木に吊るされなければならない人間というのがいるのだ。

2月18日 月曜日

 週始めて少しは疲れも取れていたこともあり、やや爽やかな気分を取り戻し、週をスタートした。

2月17日 日曜日

 自分のやろうとしていることは反逆とか謀反とかの類だろう。そして、最後には逃亡するのだろう。何の未練も、悔恨もない。昼には県境の蕎麦屋で天ざるを食べた。店内のテレビで津波の時の番組を見た。じっくりとあの時のことを目にすることはこれまでなかった。

2月16日 土曜日

 突然死ぬイメージを膨らませる。心臓だろうが脳だろうが、来るときは来る。個人の情など関係なく、生命は終わるし、どんなに素敵な夢を思い描いていたとしても、すべてがゴールまで平和裡に続くものではない。誰にとっても、人生は中途半端に断絶させられるものでしかない。その瞬間を極限までイメージする。おそらく苦痛を感じるのは何分でもなく、気を失うように逝くだけだ。恐れることはないさ。

2月15日 金曜日

 それがいま来てもいいように気持ちを整理しておく。いつも心穏やかで過ごせるように、口角を上げて笑いながら生きる。だがそれは、周囲のみんなにもそれを強要するということに他ならない。なぜなら、そのような態度ができていない人の前では、悲しませることになるからだ。

2月14日 木曜日

 そういう矛盾を抱えたままで日々を暮らす。そうせざるをえないのは生きているものの宿命である。みんなそうさせられてきたし、自分もそうさせられる。せめて待つのではなく、不意に迎えても良いように毎日を終わらせる。もう余生である。まだ生きていたと言って目覚め、エクストラの一日を過ごす。

2月13日 水曜日

 金のためとかいいながら、安定を求めるとかいいながら、いい加減な仕事で食いつないでいるだけだ。この一日を仕事に捧げると言いながら、死ぬまでその人生の価値に気づかないのだ。遊ぶためだけに生まれてきた。その遊ぶことを忘れて、もう死のうとしているのだ。

2月12日 火曜日

 くだらないことにかまけてばかりの人生なら、遊んで暮らした方がいい。仕事に一生懸命取り組んだところで何一つ良いことはない。せめて遊ぶ時間がなくても、頭の中はいつでもどこでも遊んでいるような暮らしをしよう。自分はそんな風な暮らしをしてここまで来た。もっと遊ぶ方向を突き詰めていこう。

2月11日 月曜日

 祝日。このサイトを立ち上げた記念日だからだ。それから20年が経過した。内容やこれに対する向き合い方は変化したが、このことが自分が先の方向性を定めるためにもたらした力は大きかった。そして、方向ということではなく、今あるあり方をも決めている。その点において自分にとっては価値のある出来事であった。

2月10日 日曜日

 テレビを見ているうちに時間が経過した。10時少し前に家を出た。町内のパン屋に寄ると、5年ぶりくらいだったが、店主は以前来店したことを覚えてくれていた。店には開店とほぼ同時に入ってから10分もいなかった。だがその間に6、7名の行列ができており、店が軌道に乗っていることが感じられた。その後は、本屋と文具屋、産直で買い物をした。

 コンビニで昼食を買ってから、北上の白鳥飛来地、大堤公園の駐車場で、池を見ながら食べた。池の前には、渡り鳥に餌付けをしないようにという大きな看板が備え付けられていた。食べていると、車が隣に停り、中から両親と小さな子供二人の四人家族が降りた。5歳くらいの男の子は、食パンの入った四角い袋を持っている。まさかと思ったが案の定、その家族は白鳥に餌をやりに来たのだった。みんなで食パンをちぎっては池の白鳥に向かって投げ、鳥たちは少しずつその親子の方に近づいていくのだった。見ると他にも餌付けをしているおじいさんがいた。笑顔で鳥に餌をやる人々を尻目に、その場を後にした。生態系が乱れるとか、鳥インフルエンザへの感染とか、考えない。そして、それを見て見ぬ振りをする自分。安らかな休日の過ごし方として、鳥に餌をやるというアイディアを実現する親子に対して、果たしてダメですよと声をかけるべきだったろうか。

2月 9日 土曜日

 土日の大会があり、この日は8時に集合ということで、早めに家を出た。アパートからだと6時に出なければならなかったが、実家からなら30分の距離である。朝は冷え込んでおそらく氷点下10度を下回った。家の寒いのには参ったが、秋に入れておいたエアコンが奏功し、凍えるような思いはせずに済んだ。大会の方は満足な結果とはいかなかったが、15時には解散となり、翌日の予定も無くなり、気持ちが解放された。一関に戻る案もあったが、疲れたのでもう一泊することにした。夕方早めにまた母親を温泉に連れて行き、帰って夕飯を食べるとすぐに眠くなった。21時には就寝。パソコンを持参して、仕事を少しでも進めるつもりだったが、結局一度も開かぬままだった。

2月 8日 金曜日

 朝9時からの出張は研究発表をほぼひたすら聴くものなので気楽だ。朝から雪が積もり、車の雪を払っても払ってもまた積もるのには閉口したが、会場までの道のりは15分もかからないので朝もゆっくり出かけることができ、ありがたい。午前と午後で全く違う分科会に参加したが、どちらからも刺激を受けることができた。たまにはこういう時間も必要だ。終了後は遠回りして翌日の別の仕事の会場の場所を確認した。

2月 7日 木曜日

 1時間の年次休暇を取って仕事場を後にした。僅か1時間とはいえ、こうするといつもより実質3、4時間早く帰宅できる。木曜日は20時までの仕事が入る場合が多いので、今日のようなことはありがたい。翌日の花巻での出張のために実家に前泊という大義名分があるからできたことではある。だが、そうでなければできないというわけでもない。1時間程度の休みなら、もう少し頻繁に取得してもいいものだろう。18時頃には実家に着き、母親を台温泉に連れて行き、夕飯を食べて帰るというおきまりの流れ。花巻のヤマトには初めて入り、冷麺と焼肉を食べた。ちょうど「肉まつり」だったためなのか、これまで食べたことのないほどぶ厚くて食べ応えのある肉だった。

2月 6日 水曜日

 管理職の立場のことを思いやれば、こんな職場にはいたくないと思うだろう。自分のこの先のことはよくわからないが、もし仮に管理職に就くことがあれば、毎日心休まることはないだろう。それを、適しているからやってみろと言う声もあるが、他人事だと思って勝手なことを言うと舌を出している自分もいる。大変だからやめておけという声も聞くことがあったが、であれば目をふさぎながら現状に甘んじながら続けるというのも苦しい。いずれあと8年で定年だとすれば、黙っていても時間が来るし、悪あがきしながら潰すことだってできる。

2月 5日 火曜日

 頭の上をギスギスした言葉が飛び交う。直接自分に向けられるわけでないから気にしないが、かなりひどい状況であることは否定できない。これが、属人的な問題なのか、社会的な問題なのかは計り兼ねている。おそらくは複合的な問題だし、人一人の力でどうなることでもないだろう。打てる手はない。できることを身の丈に合った形でコツコツとやるしかない。

2月 4日 月曜日

 アップルウォッチを購入して毎晩腕につけて眠るようになった。睡眠の質が測定できたり、心拍数が測定できたりするので、これは只者ではないという気がしている。まだ使いこなすところまではいかないが、テクノロジーの凄さを感じさせられている。

2月 3日 日曜日

 阿蘭陀がすべてにおいて素晴らしいわけではないけれど、ここと比べるといいことばかりが思い出される。個人の事情に集約される方向と、国というくくりでシステムの問題にぶちあたる方向と、行ったり来たりしながら日々を暮らす。

2月 2日 土曜日

 6時前に家を出て、職場に着いたのは6時半。それから18時頃まで仕事をして、帰宅すると19時を回っていた。今日はすべてを仕事に捧げる日であった。一日中寒いところで立っていたから、体がすっかり冷え切ってしまった。発熱してしまうかと思うほどだったが、帰ってからシャワーを浴びると元気を取り戻した。様々なことが見え隠れする。454

2月 1日 金曜日

 如月に突入した。二月は逃げるというけれど、本当にあっという間に最終週に突入することになった。日記は飛び飛びで、特段記録するようなこともなく日々が過ぎていった。家に帰れば現状への不満や文句が口を突いて出るのであまり良い状態とは言えなかった。何かのせいにしたい気持ちなのか、実際に何かのせいなのか。根本的なことにまで考えが及ぶと、だいたい同じ結論になる。