2019年7  July 2019

7月31日 水曜日

 いつも通りに出勤。調べ物をしながら新しい文書を作って印刷した。午前中はほとんど別の場所での仕事に費やした。本当は午前中はもう少しまっとうに相談関係の仕事をしようと思っていたのだが、変更に次ぐ変更のためにこちらが対応できない状況になってしまっており、どうしても外れなければならなかったのである。昼には千厩方面に出かけて二つの用事を済ませて、昼食を食べて戻ってきた。それで十四時過ぎ。十八時の面談があったのでそれまではできることを進めた。面談も十分ほどで終わり、晴れて今月の職務はすべて終えることができた。夜には仕事の話などをしたが、この先どう転んでも今よりも楽になったり楽しくなったりすることは有り得ない。それならなぜ現状から逃げることを選択するのか。好みの問題でもなく人生の主題という問題でもない。

7月30日 火曜日

 開始時刻が遅かったのと、会場が近かったのとで、いつもより二時間も遅く家を出ることができた。その分、身の回りの片付け方を進めた。研修出張の一日。朝から夕方まで冷房が効いた部屋で立て続けに四つの講義を聞いた。内容は難しいものではなかったが、それが骨身に染み付いていることが大切だと感じた。知識ではなく当たり前のこととして行動に移せるかどうかが問われている。

 開始直前に職場からの電話が入り、それへの対応を迫られた。昼休みにも何本か電話でのやり取りをしなければならなかった。出張の時にもこんなことはつきものではある。集中させて欲しいというのは贅沢か。いや体制があまりに脆弱なのだろう。

 休憩時間には、駐車場の近くの川原に腰掛けておにぎりを食べた。外の気温は三十五度になろうとしていたが、川風が吹くためなのか冷房で体が冷えていたためか、暖かくて心地がよかった。後半は車の窓を全開にしてシートを倒して昼寝していたが、携帯電話の音で起こされた。

7月29日 月曜日

 普通に出勤の一日。いつも通りに出て、いつもよりもずっと早い時刻である定時に帰途についた。日番だったとはいえ、特別なことは朝と帰りの見回りくらいなものだった。人が少なかったから、何も煩わしいことがなく、机の上の仕事に集中することができた。冷房が整備されたおかげで、机の上での仕事は快適な環境で進めることができた。そうしたら冷房が入る前の環境などたちまち忘れてしまった。外に出ると異常に暑かった。体育館の中はほぼ四十度になっていた。ゆでガエルはこのまま暑さで滅びてしまうのだろう。

7月28日 日曜日

 母親のすぐ下の叔父の通夜が執り行われた。実家を経由して母親を乗せ、盛岡駅で母親の弟妹と待ち合わせをして一緒に昼食を食べた。久しぶりに会った青森に住む叔父は元気そうだった。その後、青山町の斎場に向かった。通夜は十六時からだったが、それまで二時間近く、親戚と話したり、黙って時間を過ごしたりした。祭壇で横たわる叔父と対面した。これまでも何人かを同様にして見送ってきた。そのたび、人の死というものが身近に感じられるようになってきた。冷酷な悲しみというよりは、厳然としてはいるが温かな存在としての死、すべての生き物を受け入れてくれる大きな器を感じている。従兄弟の子供達が小学生から高校生まで一つの画面を見ながらゲームで遊んでいたが、だいたい四十年前の自分たちの姿もこんなふうだったろう。そして、四十年も経つと、この人たちも今の自分たちのようになる。自分はといえば、その頃にはとっくにこの世にはいまい。 

7月27日 土曜日

 夕方から会議の予定が入っていたために、朝から気持ちが落ち着かなかった。新聞を買ってきて読んだがたいして面白いとは思われなかった。たまたま記事がつまらなかったからなのか、そもそもの新聞記事というものの価値が下がったからなのか、よくわからない。ただ、ときどきは読ませる記事にも出会うし、買ってよかったと思う日もあることはある。

 どうしようもないほどの湿度、そして筋肉痛のために全身に力が入らず、部屋にいても居心地が悪く、掃除をする気力すら出なかった。昼には少し買い物に出た。車まで行く少しの間熱い空気を吸うだけで、熱中症のように気分が悪くなった。

 会議は予想以上に長くかかった。内容はこれから先の様々なイベントの確認だった。自分などは与えられたことを言われた通りにやれば良い立場である。しかし、多くの方々は、それぞれ仕事をもちながらボランティア活動のようにして携わっていて、回り回ってそれが自分の生きる活力になっているという方も少なくないのだろう。敬意を抱かずにはいられない。

7月26日 金曜日

 きのうで節目のはずが、きょうも通常通りの出勤である。いつものことだが、休んでくださいという管理職の声が虚しく感じられる。午前中は体を動かして汗まみれになったが着替えを持ってきていなかった。我ながら愚かだと思った。午後には研修会が計画されていたこともあり、帰宅して着替えてまた職場に戻って受講した。講義は大変よくまとまっており、講師の先生の言葉は、多くの場所で同様のことを話しているからかよく吟味されており、言い換えもなく、雑音もなく、聞きやすかった。また、内容は日頃感じていることをそっくりそのまま言語化してくれるようで爽快感があった。これまでと同じ感覚で続ければ良い。そこには自信を持ちたい。しかし、きょうの内容に対して未だに古い頭のままで反応をしているのをみたら、悲しい思いがした。参加者が少なかったし、ほんとうに理解してほしい人に伝わっていたかどうかも疑問だった。

 十六時過ぎ、いつもより早い退勤。買い物をしたり、郵便局に行ったりしながら帰宅。道の駅では尾花沢産の西瓜が並んでいたので嬉しくなって一つ購入した。店の方と話をしていたら、山形ではなく地元の人だということがわかった。

 母親からの電話で、病気療養中だった叔父の訃報をきく。

7月25日 木曜日

 朝一番に管理職に呼ばれたので何事かと思ったら、一連の問題の続きだった。困ったものだ。この人たちのもっとも頭を悩ましていることの一つなのだろう。そして、「大変だろうけど頼む」という言葉をきょうも聞かされた。学生時代に優等生だった人の中には、優等生でない人の気持ちをどうしても推し量ることができない人もいる。相手の気持ちを慮ることなしに正論を裸のままぶつけることによって、相手が萎縮したり反発を感じたりすることを夢にも思わないのであろう。そして、多くの場合、大切にしなければならない相手を莫迦にする。天に唾するようなものである。

 きょうは多くの人々に対して話す機会があったので、言葉は回り回って自分に還るのだという話をした。直接顔を見て、相手がどう受け止めるのかを思いやって伝えることの大切さ。いわゆる陰口や裏表のある言動がいかに相手や自分を貶めているか。集団や組織を機能不全に陥らせているかということ。かれらについて言えば、四月から確実に成長している。いつでも同じようなことばかりなので、じわじわと浸透していることを期待する。けれど、ほんとうに伝えたい相手に伝わったかは疑問なのだ。

 夜には慰労会が行われた。ビールを早めに切り上げて日本酒やら焼酎やらを飲んだら、帰ってから具合が悪くなった。

7月24日 水曜日

 節目として一つ一つ片付けていくけれども、一時の解放感に心を躍らせるほど楽天的ではない。あっという間にこの一か月が過ぎていくのが目に見えているし、その間に起きるであろう問題をいくらでも想定できる。先手を打ってきたつもりでも、ここまでくるとやり残したことが積み上がっているように感じられる。時間においても能力においてもできることは限られており、それは組織でということを考えるとなおさらである。だが、仕事とはそうものなのかもしれない。一人一人ができることをやる、それしかない。今日は早めの退勤で、道の駅に寄って野菜を買うことができた。玉蜀黍を茹でて食べたらうまかった。季節を感じた。

7月23日 火曜日

 先週起きたわりと厄介な問題は、スタッフの機転の効いた処置によって昨日のうちにほとんどが解決されていた。この日と翌日とのわずかな時間を使って自分の対応しなければならないことがあったが、それらは形式的なことであり、こちらの負担はほとんどなかった。これには深く感謝したい。

 夜間と週末の別の仕事については、結局二十時過ぎまで対応しなければならなくなった。だが、八月のことまではだいたいのところが打ち合わせできたのでよかった。きめ細かなやり取りをこれまで続けてきていることが、目に見える成果となって現れているのだと自負しているけれども、誰もそんなことは考えていないだろう。時代は変わる。自分だっていつまでもここにはいない。どうぞ誰かうまくやってよねと思う。

7月22日 月曜日

 昨日の選挙の結果はラジオやネットで逐一知ることができた。新聞を買うつもりでいたが、結局は買わずじまいだった。投票率は五割を割り込み、政治への関心を喚起することはできなかった。だがそれも当然だ。公共放送でさえ、選挙報道が異常に少なかったではないか。間接的にではあっても政府が統制しているとしか思えない。誰より大企業にとってはこの路線が一番望ましいのだ。国民の命なんぞどうでもいいというのが、今のこの国の方向性だ。最近になって、新聞というメディアも全く信用のおけないものだということがわかった。時には接するにせよ、九割程度は割り引いて考えるのが賢明だ。そして、報じられていないことにこそ真実があると思っていなくては、現実を捉えることは難しい、特にこの日本では。ただの茹でガエルのまま死んでいくのではあまりにつまらない。一市民として何かできることがあるのではないか。社会を根底から作り変えるような何かに自分でも携わることができるのではないか。そう考えることなしでは、とてもでないが生きていくことが苦しくてならない。言い換えればそれは希望の火を自己存在そのものに見出すということになるだろうか。

7月21日 日曜日

 二十四時間後には旅から帰ってきた。蒸し暑さは昨日と同様だった。午後はだらだらと過ごした。五時半には宿を出て六時頃の一番電車で宮古まで。宮古では約二時間あったので、魚菜市場まで歩き、海鮮丼の朝食を食べた。記憶の中にあった市場の面影とは全く異なっていた。生協が入っており、明るく小綺麗になっていたけれども、庶民による庶民のための市場という雰囲気ではなくなっていた。中央に畳が敷かれた一角があったが、日曜日のためか何かを売りに来ている人はほとんどいなくて寂しかった。市場の海産物は魅力的だったが、持ち帰ることは考えられなかったのでほとんど素通りした。宮古の町を少し散歩した。九時半頃の列車で宮古から久慈まで。久慈では駅近くを散歩して、接続のバスで二戸に行き、駅ビルの食堂で昼食を食べて、新幹線で一関に戻った。

 復興という言葉は躍るけれども、本当はそれほど進んでいない。マッチ箱のような住宅がポツポツと建ち、デンとした公共の建物が建ち、未来都市にあるような高速道路の高架が作られ、どの浜にも海が見えないくらい高い防潮堤が整備された。だが、人々がほんとうに求めているものは違うのではないかと思った。金の掛け方が根本的に間違っているのだが、それを間違っているとは思わせないように国全体に変な雲がかかっている。多くはその存在にすら気づかずに過ごしているのではないか。

 ワールドカップが行われるのは素晴らしいことだとは思うが、いったい誰にとって素晴らしいのか、住む人々にとっては誤魔化されているようにしか思えない、という人もいるのではないだろうか。オリンピックだそうである。これも同じだ。復興のためなんて詭弁であり、責任を放棄しようとしている政府の誤魔化しにしか感じられない。名もない人々を、そして世界中の人々を、欺いているようにしかみえなかった。

7月20日 土曜日

 午前中は仕事で職場に行った。朝から蒸し風呂のような空気だった。その中で三時間、かなり思い切り声を出しながら体を動かした。昨日起きた件に関して情報交換等をする時間があり、それはそれで煩わしい気持ちもあったが、一度に済ませることができた分救われたような気もした。すっきりした気分で正午にはもう職場を後にした。帰宅して入浴、洗濯、昼食。そして一人旅に出た。月曜日には先日の振替を取ることにしているので気持ちにも時間にも余裕があった。だから、この土日は自由に過ごすことにした。これまで一度も乗ったことのない三陸鉄道に乗って、津波の被災地を南から北へ辿ることにした。

 十四時過ぎの大船渡線で一ノ関から気仙沼まで。気仙沼からはBRTというバス交通システムで大船渡の盛駅まで。そして、盛からは三鉄で釜石まで行った。次から次へと移り変わる車窓の景色はまるで舞台のようで、見つめるこちらに生きた姿で何かを投げかけてくる。こちらはそれに応えようとして頭の中で言葉を紡ぐ。そうやって土地との対話により、旅が進んでいった。

 釜石に着いたのは十九時過ぎ。街の中央の宿まで歩く。大きな建物や商業施設があって、他の町とは雰囲気が違っていた。大きな資本が入っており、目抜通りは着実に整備が進められ、表向きのアピールが感じられた。その陰で、プレハブの小さな飲み屋街ができていた。ショッピングモール周辺ではアジアから来た若者たちを多く見かけた。一関でも見かけるような、中国語やベトナム語を話す女性たちが多かった。マスクをする人が多く、皆自転車に乗っていた。

7月19日 金曜日

 昨日の仕事を振り返るために文書を作成した。これは翌週の月曜に配布してもらうためのものである。自分としては一定の成果を挙げることができたと思っていたのだが、その矢先に大きな問題が発生した。それも想定内ということになるだろうが、来客の対応とその後の打ち合わせのために、終わると十九時を過ぎていた。具体的には月曜に動くことになる。自分は振替の休みをとることにしていたので、休日返上かと一時は覚悟したが、そこは大丈夫と言ってもらえた。火曜日に全てが解決していればありがたいが、そんなことはないだろう。

7月18日 木曜日

 朝からとにかく休みなしの一日だった。パソコンを使う場面で突然パスワードを受け付けなくなったので焦った。こういうのを不条理というのだ。同僚の支援によってことなきを得たが、もう少し冷静に考えてみれば、機転を利かしてすぐさま再起動をすればすぐに解決したのだと何時間も経った後に思った。夕方には雨が降り出していた。離れた場所で仕事をしていたら、内鍵を閉められてしまって雨に濡れながら部屋に戻った。誰かが確認せずに施錠してしまったのだ。そして、自分が濡れながら帰ってきたことにも誰一人気づく者はない。恐るべきほどの無関心。こんなことはたまにあるけれども、こんなことがあると決まって、また決意を新たにするのである。

7月17日 水曜日

 今月の節目をしっかりとしたものとするために必要だと思って、翌日発行する文書を作った。八月から十月までの大まかな予定表も掲載した。いうなれば七月半ばながらすでに三か月先までの見通しを示せたことになる。実際にはその日暮らしに陥ってしまい、その日の夜のことさえ見通しがきかないこともあるのだが、それではあまりに心もとない。先のビジョンが明らかになることがどれだけ人々の安心感を生むかということを、上に立つ者は考えなければならない。

7月16日 火曜日

 休み明けとはいえ通常業務は特に問題なく終わらせることができた。疲れは残っていないといえば嘘だが、気分は晴れ晴れとして楽しい週の始まりだった。しかし、夕方には会議があった。どうということのないテーマであって、ほんとうなら各人がそれぞれ普通に仕事をしていれば何の問題もないことのはずだ。それがうまくいかないというのはおかしい。おかしくない人はいないというのはいつもの持論だが、あまりにバランスを欠く話ばかりが飛び交って気味が悪くなった。

7月15日 月曜日

 海の日だが山を行く。寒河江まで車を走らせて肉蕎麦。我ながら呆れる。休日の過ごし方として愚かだろうか。この地にいるからこそ設定できる目的地ではある。帰り道の何箇所かで野菜も仕入れてきた。いつまでここにいることになるか。日本海側は綺麗に晴れてすっかり夏模様だった。最上の上流には胴付きの長靴を履いて鮎釣りをする多くの人々がいた。

7月14日 日曜日

 ゆっくり休みの午前中。車にガソリンを入れに行き、その足で期日前投票をしてきた。夕方から職場に出て、二時間くらい印刷や文書の整理、そして翌週の準備などをした。どちらも億劫なことなのだが、「済ませる」という言葉を使うほどにはぞんざいに扱うわけにはいかない。そして、夜には慰労会に参加。皆がほっと息をつけるほどの大きな節目とできたことは良かったのではないか。節目を意識することと、上手に切り替えること。目標を意識して生活すればぶれることはない。

7月13日 土曜日

 三時半に起床。四時半に家を出て職場へ。小一時間ほど机上の整理などをしてバスで出発。花巻までは二時間弱。長い一日の中心は十五時頃から始まった。結果的には目標は叶わなかったものの、悪い闘いではなかった。職場に戻ったのが十九時前。それから自宅に戻ったのが二十時。明日の夜には慰労会があるが、それまではゆっくり休みたい。

7月12日 金曜日

 報道からは選挙の情報が隠蔽されているとしか思えない。この国を覆った闇は深い。午後には清浄な空気の流れる部屋で一時間を過ごすことができた。一週間はあっという間だった。毎日が勉強とはよく言ったもので、毎日何か頭を使う局面が訪れる今日この頃である。毎日毎日ギャグのようなエピソードがこれでもかと繰り返される。その馬鹿さ加減に当人だけが気づかない状況は不思議で仕方ない。属人的な問題が進むと最後にはその当人の首が締まるのだろう。

7月11日 木曜日

 朝に二時間ほど籠って文書を作成した。学ぶべきはこちら側だということを学ばぬ隣人に感じ取らせるためのものだ。昼には打ち合わせを持ったが、思うようには進まずにほとんど流れた状態になった。午後は午後で学習の機会があったが、進行役の失礼な振る舞いに気分が悪くなったのは自分だけだったろうか。自信が過ぎるとああも横柄な態度になってしまうのだろうか。夜には二時間の学習会に参加した。時々眠気が襲ってきて困った。

7月10日 水曜日

 一時間も空きがない一日だった。一応は先人の実践に倣って進めたものを見ていただいて指導を受けた。利用させてもらった資料の優れた点のみが指導者の関心をさらったが、その由来がどこなのかについては全く聞かれることはなかった。そして、技術的なことについては何一つ話されることがなかった。こういうのを拍子抜けという。

7月 9日 火曜日

 未来を作る仕事という割には、古い人間たちに翻弄されてばかりの毎日だ。自信を持ってそれしかないというような顔で大きな声でがなりたてるその声は、聞けば我儘としか取れないことばかりだ。説得と納得、傾聴というキーワードについて、全く学びがないらしい。

7月 8日 月曜日

 通常業務の合間に会議が二つ。実質的な仕事は隙間時間にやるしかない。つまり隙間時間こそが仕事の本質なのかもしれない。原案が甘いと会議自体の意味が薄れる。それに気づかないまま年をとることの哀れさ。少しは早く帰れるかと思ったところにまた声がかかり、そこから一時間の話し合い。情なのか熱意なのかは知らないけれど、狭小な心のままでは何も伝わらない。声の大きな者が大声を出せば、声の小さな者の声がますます弱くなる。そのことに気づかないのがふしぎだ。いくら正論を振りかざしていても、強者の論理というのか、弱者の声を封じ込め、排除するようにしか見えない。今年度に入り、この職場で仕事をする中で日に日に強くなる、どうしようもない思い。かなしいけれども、のびきったおとなはもう変えられない。変えられるのは、やがて手に届かないところに行く前の未来ある者たちと、自分自身のみである。

7月 7日 日曜日

 朝から晩までご奉仕の一日。四時五十分には職場に行き、三十分くらいは仕事をした。六時から一時間は外で作業をし、そのあとはおきまりの週末の仕事で気仙沼まで車を走らせた。終了したのは十六時三十分。道の駅で野菜を買って帰ると十八時。この日はたまらず二十一時頃に就寝した。

7月 6日 土曜日

 朝起きて、久しぶりの自由な時間にパソコンに向かい、頭が回り出したら頭痛がしてきた。考えると頭の痛くなることばかり。午後には組合の会合に出ることになっていた。片道四十五分くらいかかるところを徒歩で往復した。会場は初めて行くところだった。真面目な人々の真面目な会合で、開始前に前に映し出されていた映像は、ある人物の人となりがわかる番組だった。それに、前に出てきた人たちの話も誠意のあるいい話だった。しかし、同じ業界の中からの目線で、同じ業界の中だけをどうにかしようという風にしか見えなくて、それだけでいいのかという疑問が残った。従来通りおきまりの流れでやっていたのでは、結果は目に見えている。生活者として、この国の主権者として、人権をもった一人の人間として、考えなくてはならないことが目の前に置かれているのではないか。そして、そのことを自らの言葉で訴える声だけが自分の耳に届くのだろう。声を聞くだけではいけない。自分もそのような本物の声を発しなければならない。

7月 5日 金曜日

 今週は毎日何か特別なことが数件ずつ舞い込んできて、それらを片付けることに終始した。こちらの段取りには無駄がなく、限られた時間や体力を有効に振り分けてやったつもりだから、特に疲れは感じない。ただ、この日締め切りの本来業務がおざなりとなって、二十二時になっても完成しなかったことが残念だ。日曜の朝に進めるつもりだが、驚いたのは他の誰もがきっちりと締め切りを守って仕事をしていたという事実である。それは当たり前のことではある。しかし、その当たり前の感覚を自分自身が持てずに通常業務を後回し後回しせねばならなかった状況を再確認させられたのである。つまり、自分の仕事内容がいかに変則的であるかということである。そして、それはもっぱら誰かの仕事と誰かの仕事の隙間を埋める仕事だということにも気づいた。

 誰かの誰かに対する声を聞き、またその相手の声を聞き、その隔たりをなんとか埋める。そんなやり取りの多いことときたら、これまでにはない水準に達している。上の声を下に伝え、下の声は上に。右の声を左に、左の声を右に伝える。どれも直接やり取りをすれば済むことだろうに、何かが邪魔してそれができない。それらの間に立って、怒りや不満の籠ったほやほやの感情や個々の価値観を、透明なフィルターとして受け止めては翻訳し、整理して、耳障りの良い言葉にして返してやる。あるいは、相手に流してやる。そんなことばかりしている。

 ぜんぶばかやろうと言って蹴散らしたくなる。大人なんだからちゃんとやろうよと言いたくもなる。だがもうここまでくると、そういうギャップの間に挟まれることが自分の天性なのだろう、と思わずにはいられない。

7月 4日 木曜日

 朝一番からのスペシアルプログラム。準備に費やした労力たるや並々ならぬものがあったのだが、手ごたえとしては微妙なものとなった。主担当がどこなのか曖昧で本来あるべき計画書の一枚すら出ないという、担当部署の基本的な段取り意識の欠如によって、依頼される側(結局自分だが)との連携がちぐはぐしてしまったことが反省点だ。客観的にどうかは言えないが、自分にとっては苦労多くして益少なしという虚しさが残るプログラムであった。

 午後にはまた別のオリジナルプログラムを行った。作ったのは二年前。それを少し手直しをするのみだったから、準備の負担感は全くない。素材を最大限に生かせるかが勝負というものだった。さすがに初めてではなかったからこちらの説明はよどみなくできた。自分では及第点をあげたいのだが、最大の理由は話に耳を傾けてくれた受け手たちから感じた大きな「まごころ」である。

 午後には急な来客があり、対応を迫られた。その対応が終わってすぐ、また会議があった。この時間になるともう辟易した感じで、咳もひどくなってきて帰りたくなってきた。途中少し別の場所に出入りしなければならなかったが、会議に戻るとなんだかよくわからない議論が行われていて、波に乗れなかった。終わると先刻の対応の続きが待っており、出かけて戻ると十九時過ぎ、そこからの業務は、中途半端なまま帰宅せざるをえなかった。

7月 3日 水曜日

 この日も相談対応から始まる。ほとんど素人同然なのでかなり緊張する。四十分ほどで自分の担当を終えてバトンタッチする。その後は通常業務が夕方まで続く。大げさでなく五分の休憩も許されることなく十八時までその流れが続いた。とはいえ、それがこの現場の日常だということに改めて気づかされる。頭の中が五分割されて、それぞれ勝手に考えを進めているような感じ。相談以外に対しては今や心構えを作る時間は階段を上がる数十秒のみである。

7月 2日 火曜日

 きょうも通常業務の合間に会議が入り込んだ。必要性は十分理解できるが、今その目的が果たされているだろうかということはわからない。いずれにせよ今の現場には侃侃諤諤の議論などできる余地も度量もない。その後には来客との相談対応があった。信頼をどうつないでいくか。文月初旬をどう中旬へ、下旬へつなげていくか。来月、二年後、三十年後、五十年後、お祖父さんやお祖母さんが去った後の姿を思い浮かべる。世の中のことは大切だが、一人の人間の生き方のほうが大切だ。目の前の人間がどういう人生を送るのかのほうが大切だ。

7月 1日 月曜日

 朝一番からの会議のために少し早く出て資料の印刷。必要な資料を調えるのは当然として、会議が回るための一工夫を添えられるかどんな形を取れば良いか可能性を探ることが結構なコツである。にわか作りではあっても、プラス1のものがあることで会議の質が変わることを実感。しかし、毎年のこと、文月に入った途端に業務シフトがいきなり変動するのはなぜだろう。夕方にも長い会議があった。水が高いところから低いところに流れていくように、流れが大きく変わっているような印象。それがいいことなのか悪いことなのか、なんだかわからない渾然一体とした感じ。