2019年3  March 2019

3月31日 日曜日

 人も国も同じ。国の言葉の途方もない軽さには激しい憤りを禁じえない。この国の体たらくが、個人の言語生活にも少なからず影響を与えているとも言えるかもしれない。この仕事に就いてちょうど30年の節目。そして、これは偶然であるけれども、「平成」という元号の始まりとともにこれまで歩み、あとひと月でこの時代を見送るということになる。30年でこの社会は全くといって良いほど変質した。日本という国の品格はどうしようもないほど凋落した。この変遷を見てきたからこそ思うところがある。渦中にいたからこそみえるものがあるし、その渦から少し遠のいた時期があったからこそみえるものもある。言い切れることもある。それらをどう今後に反映させることができるか。多様であるということは素敵なことではあるが、野放しにしてはいられないということもまたいえる。すべては言葉の遣い方ともいえる。職業人としてこれまで考えてきたことをどのように表現するかが問われている。

3月30日 土曜日

 昨夜は風呂に入った後ビールを飲んで早々に就寝した。鄙びた温泉宿の畳の部屋は清潔で寝心地も悪くはなかった。朝には周辺を散歩してから、丁寧に盛り付けられた朝食をいただいた。山形県金山町の「街並みづくり100年運動」による金山住宅の建築群と、秋田県横手市増田町の伝統的な内蔵のある建築群を見学した。金山杉で作る工芸品の工房を尋ねると、おじさんが懇切丁寧に説明をしてくださった。多様な作品をほとんど一人で作っているということに驚いた。金山町の取り組みは、運動が提唱されてから30数年になるということだったが、運動が着実に浸透し、白壁と切り妻屋根の重厚な建物が、商店だけでなく民家にも増えてきていることが伺えた。また、増田町では、町内に50軒も残っているという商家の建築のうち3軒を実際に見せていただいたが、案内してくださった方々の心のこもったお話も手伝って、その内蔵の立派さに感動を覚えた。増田町には暖かい時期にまた来てみたい。寒くて震え上がるような一日だったけれども、二つの町を訪ねることができ、充実した休日を過ごすことができた。

3月29日 金曜日

 今年度最終の日。穏やかに終えるつもりでいたが、昼前予期せぬ事案の発生で職場に動揺が走った。そして、急いで車を走らせなければならなくなった。結果的には何事もなく済んで、問題は解決をみた。だが、解決したのはこの日の一事案のみであり、言葉との格闘はこれからも続いていく。我々の言葉との付き合い方について、改めて考えさせらる一件だったと思う。

 これまでその人がどんな言葉を遣ってきたかが、次に出る一言の重みを左右する。関係が希薄な者とこれまでをみてきた者とでその人の言葉の受け止め方が異なるのは当然だ。だからこそ情や場に流されず、筋道の通った言葉を心懸けたい。

 日中はどうなるかと思ったが、年度最終の勤務を無事終えて、定時に職場を離れることができた。ほんとうは転勤する上司の方々を見送ることができれば良かったのだが、こちらの方が先に帰ることになってしまった。それは、その後の予定の方を優先させたからである。

 帰宅してから準備して、18時頃に車で出かけた。一年間の労いというわけでもなかったが、年度の終わりくらい少しゆっくりしたかった。高速のサービスエリアで夕食を取ってから、20時前に川渡温泉の宿に着いた。

3月28日 木曜日

 いくら若くて元気な者に対してでも、口当たりの良いものばかり提供するわけにはいかない。耳障りの良い言葉ばかり投げかけるわけにもいかない。君がこれまで築いてきた塔が根元からガラガラと音を立てて崩されるようなことがほしいのだ。

3月27日 水曜日

 ここ数日、頭が4つくらいに分かれて、それぞれ勝手に何かを考えているような感じになっている。コンピュータを使うようになって、頭の中がコンピュータに近づいているのを感じる。人間を模したのがコンピュータだったはずが、人間がコンピュータ化してきているということか。

3月26日 火曜日

 職場の配置換えを行った。だが、自分の席は変わらない。ゴミを捨てて幾分すっきりした。周囲は大きく様変わりした。あちこちで生成される関係性。善意とか、誠意とかが、心の優しい信実のままに伝わって、穏やかな生活が営めるのであれば良いが。

3月25日 月曜日

 今度はまた別の送別会があった。どういうわけか全面的に準備に携わらなければならない状況に置かれ、先週からせっせと資料を作ったり、ネームプレートの準備をしたりしていた。滞りなく終わったので、気持ちがとても楽になった。

3月24日 日曜日

 新年度の準備ということで、先日の情報を打ち出して、一つのファイルに仕上げた。そうしたら、15時になった。昼も食べずに仕事をする日曜日。それから車で平泉の奥まで行った。先日気になっていたところに再び行って、少し写真を撮った。梅の花が少しだけほころんでいるのを見た。結局弁当を買ってきて、家で食べた。

3月23日 土曜日

 墓参のため実家に行った。行き道で雪景色が広がった。ほとんど一日居て、15時頃に帰途に着いた。途中でタイヤが異音を出し始めた。走っているうちに異音は嘘のように消えたのだが、念のためディーラーに寄って見てもらった。石が挟まっていたのだろうということだった。

3月22日 金曜日

 新年度のための連絡会があった。様々な情報を聞いた。困難な状況も想像できたが、それは毎年同じことだ。だからこそ楽しみが増えるという側面もある。職場の送別会があった。儀式は大切だ。別れの中にも出会いがある。無数の出発点の連続が生活だ。

3月21日 木曜日

 春分の日で休み。朝には朝刊を買いに行った。異動の記事を一通り見たが、あまり関心を持つこともなかった。夕方暗くなってから平泉の奥まで車を走らせた。どこを通っても行き止まりにぶつかった。晴れて明るかったら綺麗だろうと思われた。

 イチロー選手が引退した。彼の姿が20年来自分を支える一つの力であったことは間違いない。

3月20日 水曜日

 貧しさが判断を鈍らせる。そのことを顕在化させてしまったことが敗因か。自分が思うには、2年なり3年なりという時間をかけて関係を構築し、鈍い判断からかれらを守るだけの力量を身につけなければならないということではないか。その自覚を持たなくては、また同様の件が何度も何度も発生するだろう。規模の大小とは無関係だ。

3月19日 火曜日

 先週のことに関連して寝耳に水の出来事があった。反省材料として貴重な経験をした。だが、これまでも同様のことを繰り返してきたように思う。その度、反省を繰り返して今に至る。十字架を何本も背負っている。また一本増やしてしまった。

3月18日 月曜日

 年度末の様々な作業が始まった。だが、何をしたのかはあまり覚えていない。

3月17日 日曜日

 誕生日は覚えていたが、セントパトリックデイということは忘れていた。昼には南三陸町志津川まで海鮮丼を食べに行った。かろうじて帰り道、道の駅で買ったソフトクリームがずんだの緑色だった。

3月16日 土曜日

 今日は予定通りに予定が入っていたが、自分は休むことにした。休むことにできることがこれまでの成果といえば成果である。アパートの契約更新のため、保証人のことについて弟に連絡をした。返信のメールに実家の母についてやや心配なことが書いてあったので、母に電話をかけてみた。それほど心配な状況ではないと思いほっとした。歳は取っているから何があってもおかしくはない。自分でもその自覚があるので、終活を意識して様々片付けたいのだろう。覚悟だけはしておかなければならないが、だからといってこちらが過度にあれこれ手を回す必要もなかろう。

 昼にはかつやでカツ丼を食べ、また宮城県北をぐるっと回って帰ってきた。かんさい土曜ほっとタイムは本日をもって放送終了となった。佐藤誠アナウンサーの最後の挨拶は胸を打つものだった。土曜午後最後のぼやせんを最後まで聞いた。ぼやせんはラジオ深夜便に引っ越すというが、佐藤アナウンサーはもう出ない。人が新しくなればそれなりにまた新しい魅力が生まれるのだろうが、やはり寂しさは拭えない。番組に限らず、いろいろな企画はそれを作る人の個性によって作られるものであり、関わる人が変わればまた別物になるのだろう。

3月15日 金曜日

 春らしい日。普通に出勤して、朝から何かと慌ただしく、人が来たり、人に会いに行ったり、書類を書いたり、机周りを片付けたりしているうちに昼になった。午後からは二組ほどの来客があり、補助的に対応した。何も面白いことはないが、それは特別なことではない。来年度の構想を改めて聞いた。それも新しいものは一つもなかった。一つだけ懸念していることを伝えた。今からはっきりさせてもらわなければならないことだ。夕方はほぼ定時に職場を出た。久しぶりに産直に寄って林檎や野菜を買えた。

3月14日 木曜日

 目覚めると雪が積もっていた。10センチを超える大雪だったので、いつもとは違う道を通って職場に行った。午前中は運動着で過ごし、少しは体を動かすこともできた。午後には一関まで出かけて用を足し、また職場まで戻った。走行距離は120キロになった。午後の運転は眠くて仕方なかった。ガードレールにぶつかってしまってもおかしくないほどだった。この1年間僕らが躍起になって目指してきたことの結論は、そう難しいものではなかった。想定内だったし、困難な状況も最小限に止めることができた。少なくとも、このことで責任を追及されることはないだろう。

 午後3時前の校庭には、合唱隊が出て元気よくハーモニーを奏でていた。反吐が出そうだった。そうして、3時ちょうどになると、吹奏楽が勢いよく「情熱大陸」のテーマを鳴らし始めた。小気味良いパーカッション。いい気になって演奏している顔を想像して、ぶん殴りたくなった。勝者の論理だけがまかり通る世の中だ。塞翁が馬なんて話も大人にさえ伝わらない。自分の子供が死んでからようやくわかるんだ。

3月13日 水曜日

 午前中は時間があったが気持ちはそわそわと落ち着かなかった。これも毎度のことではあるが、3年間我々がリレーしてきた一つの帰着がこの日だから、念には念を入れなければならない。午後には滞りなく一大イベントが終了し、夕方に行われたいわゆる第2部の方も少し戸惑いながらも無事終了し、夜の部というのもまた何とか乗り切ることができた。何度か人前で話す場面があったが、それらは悉く失敗した。どうしてこうもというほど、情けなかった。

3月12日 火曜日

 最大限できることはやってきた。話すべきことも話してきたし、書くべきことも書いてきた。伝わった手応えも十分だ。あとは待つのみ。迎えるのみ。自分の立場でできることはわずかではあったが、そのわずかなことを最後までできたことはよかった。

3月11日 月曜日

 東日本大震災から8年の節目の日だった。我が職場でも避難訓練があり、地震が発生した時刻に合わせて黙祷した。あれから町は変化を遂げたが、復興とは名ばかりだ。政府がおかしなせいで、別のものにばかり金をかけすぎているので、未だに多くの人たちが苦しんでいる。それでもオリンピックは行われるらしいし、この政権は続くらしい。国民のことなど全く考えもしないあんな為政者にはもう辞めてほしい。

3月10日 日曜日

 朝には仕事をして、昼から水沢の蕎麦屋に行った。帰りには産直で少し野菜を買って、アイスクリームを食べて帰ってきた。

3月 9日 土曜日

 一日中仕事だった。朝の5時半に出て、夕方の5時頃までかかった。どういう時間の使い方をしているのだろうか。仕事という割には十分な見返りがあるわけでは無いが、見方によっては無駄な時間を、自分はけっこう有効に使っているように思う。思索の時間としてはぴったりだ。問題は、多くの人が自分の時間の使い方を知らないということだ。どう生きるかとはよく問われるが、それは言うなれば、自分の時間をどう使うかということだ。パチンコするもよし、酒を飲むのもよし、我が子の部活の応援にせっせと足を運ぶのもよし、一日3時間4時間テレビを見て過ごすのもよし。だが、人生それでいいの?という話。

 時間は作るものだというけれども、それには二つの方法がある。一つは、忙しくても自分が本当にしたいことをする時間を努力で捻出する方法。例えば、寝る時間を削ったり、有給休暇を取ったりして。もう一つは、単位時間そのものの価値を高めるという方法。同じ時間の中でできることを増やす。一つ目の方法ばかりでは限界があるし、有給休暇が思うように取れない状況もある。だから、二つ目のような発想の転換が欲しい。時間が足りないと嘆くのではなく、わずかな時間ででもできることを増やすということだ。そんなことを考えていると、頭の中の構造が重層化して、様々なことを同時進行できるようになる。それが多忙化の解消につながるわけではけして無いけれども、人生の時間をかなり有効に使えるのではないかと考えている。現にきょうも時間と体力は費やしたが、その中で考えることが多く、勉強の一日にすることができた。

3月 8日 金曜日

 最終局面には意外な展開がつきもので、この日も厄介なことが様々と降りかかってきた。それも厄介といえば厄介だが、できるだけのことをできるだけできているという感じはある。

3月 7日 木曜日

 夜の会議があって、それまでの時間でできることを進めた。特に会計の処理では少し混乱することもあったが、担当が冷静に判断してくれて全く困ることなくここまでこれたのはありがたかった。会議では、説明内容がわかりづらく参加者から質問があったが、回答は十分なものではなかった。言葉の定義が曖昧で、いろいろなところから抜け道が作れそうな提案だった。それは企画者が意図したことなのか、骨抜きというのはこのことかと感じた。

3月 6日 水曜日

 大きな節目のイベントが滞りなく終わり、まずは胸をなでおろした。当日の朝までどうなることやら心配な面々もあったが、かれらなりに努力をして臨んだことは評価できる。

 上司に呼ばれて様々な話を聞いたので、夕方の時間はそれに費やされた。4月以降のことについて多くの提案があった。それらについてのほとんどは納得のいくものであり、自分が考えていたことと重なる部分も多かったので、自分の見方もまんざらおかしくはなかったのかもしれないと感じることができた。だが、その前途多難なことを思うとその重圧は大変なものであり、できるなら避けて通りたいことばかりなので、しばらくは頭の中が混乱していた。

3月 5日 火曜日

 午前中は大過なく進んだが、午後になってから緊急に対応しなければならない事案が発生し、連絡や確認に追われた。突如として医療機関に出向かなければならなくなった。幸い、その日のうちに混乱は落ち着いて、関係者の不安も取り除くことができたのでよかったが、こんな風に最後まで何が起きるかわからないと最後まで心しておかなければなるまい。

3月 4日 月曜日

 土日があっという間に過ぎて、月曜日もあっという間に夕方になった。明らかにされるべきことは、はっきりとしたものではなかった。かくして自分には隠しておくべき何の話もなく、少し気が抜けたような気分になった。下手な句を作ってメールした。

3月 3日 日曜日

 暖かい日だったろうか、朝にコンビニに新聞を買いに出かけてから、午前中は部屋で仕事をしていた。昼にはそばをゆでで食べた。午後遅くに少し買い物に出た。

3月 2日 土曜日

 いつもより5分くらい早く家を出る。土曜日なので車が空いており、その分少し早く着く。職場の机周りをせっせと片付けてから、この日メインの仕事に移る。12時過ぎまで職場にいて、帰り道は蕎麦屋にしばらくぶりに寄って天そばを食べた。洗濯し、風呂に入って、少し昼寝をした。土曜午後のラジオ番組「かんさい土曜ほっとタイム」が今月16日で終わることになった。先週それをラジオで聞いて僕も少なからぬ衝撃を受けたのだったが、きょうのラジオで読まれる投書を聞いて、同様に受け止めている人が多いことを知った。佐藤誠アナウンサーをはじめとした出演者も長いので、番組改編はやむをえない部分もあるが、解せないのは、看板コーナーであった「ぼやき川柳」がラジオ深夜便に移るということだ。真夜中にぼやき川柳なんてありえないと思うのだが、そういう理不尽な決定をあの放送局はよくやる。出演者を代えてでも守るという発想はもっていないようである。

3月 1日 金曜日

 朝から様々な誤りが立て続けに発覚し、収拾に苦慮した。注意深く対応していれば起きないようなことが起きる。反省をしながら、思い当たる原因を見つめた。人間一人がやらなければならないことが膨れ上がったから、余裕を失い失敗も出してしまうというのがその一つ。二つ目は、自分が年をとったということ。時代も変わるし、自分自身も変わるから、定点観測は難しい。難しいと言っているうちに人間は死ぬので、わからないまま時間が過ぎる。

 早く帰ってワイシャツをクリーニングに出すことができた。産直の営業時間には間に合わなかったが、短かった冬季の時間よりは伸びるから、これからはもう少しゆっくり買い物ができる日が増えるかもしれない。びっくりドンキーでハンバーグを食べ、帰宅すると程なくして眠った。