2011年6月

■午後には/Thursday,30,June,2011

 午後にはここに来て初めての学びの機会があった。これまでの経験からそれほど力を入れることはないと思い込んでいたのだが、そうではなかった。様々な方々からご指導をいただき、有り難かった。

 どれだけ準備をしても終われば終わりなのである。それが真の学びにつながるためには、次に歩を進めることが大切なのである。日本語そのものを大切にしている者、温かく優しい日本語を投げかける者、それらの基本姿勢はあくまで基本姿勢であって、その者の力でも何でもないのである。

■蒸し暑くなって/Wednesday,29,June,2011

 蒸し暑くなって、余計にやる気がなくなった。以前のことを振り返ってみると、6月や梅雨の時期にはこんな気分になることが多かった。気候がもたらす気持ちの変化はかなり大きいものなのだ。

 きょうも山と言えば山だったが、小山のようなものだった。後始末はできるだけ後を引かないように今週中には終わらせてしまいたい。明日の山は思っていた以上に急峻で、以前の似たような山のようになめてかかっていたがそうもいかないらしい。焦りの気持ちがわいたが、あまり焦らずにやりたい。

 今年も明日で半分が終わり。ただ、もう普通の一年ということにはならない。これからの一年一年、一か月一か月、一週間一週間、一日一日というものすべて、去年までとは違うのだ。そういう意味で、すべての人の人生の意味が変わった。生きる意味が、これまでとはすっかり変わったのだ。それが2011年という年である。

■無気力な感じが/Tuesday,28,June,2011

 無気力な感じがつきまとう。これだけ早く職場を去ることができるというのに、帰宅してからの過ごし方がよくない。夜も早めに就寝して早起きするにも関わらず、朝起きてからしばらくは何も手につかない。健康診断の結果が届いた。数値は予想ほどは改善していなかった。夕方の職場ではその検診がらみの雑談が飛んだ。多くの人たちがそれぞれ何か抱えており、自分もその中のひとりに過ぎない。しかし、健康診断の結果に関わりなく、突然死をする人もいるのであり、僕は長年自分が突然死ぬことばかり想像しているのである。そろそろそういうことが起きる可能性がかなり高まっていてもおかしくない。それでも安心だ。あまり執着したくない。いのち根性の汚い奴とだけは言われたくないと思ってきた。人の一生は、大げさなものではない。

■きょうも雨で始まり/Monday,27,June,2011

 きょうも雨で始まり雨で終わる。朝からもう帰ることばかり考えていた。不謹慎かもしれないが、そうだった。最近、そういうことが増えた。締め切りを守って提出したのはいいが、それで終了したと勘違いしているのは問題だ。これからすべてが具体化する。頭の中には、何の案もない。からっぽ。

 

■朝から雨の/Sunday,26,June,2011

 朝から雨の涼しい日。一歩も外に出ず、家の中で過ごした。午前中には文書を作り、昼には食事を作って食べて気分転換をし、午後にはまた別の文書を作った。出来上がると夕方だった。そしてまた、食事を作り、テレビを見ながら食べた。仕事が進んだといえばその通りだが、日曜日をこのように過ごすのはあまりおもしろくない。

 夜には少しドラマを見たが、あまりおもしろくは感じなかった。それはこれまでそれほど関心がなかったし、話の進行状況からすると関心がなかった者が見て理解できるほどの浅いところではもうなくなっていたのだった。それで、22時には就寝。

■早朝に出発して/Saturday,25,June,2011

 早朝に出発して、南の港町を目指した。大雨の後なので、川の水が増えて恐ろしいくらいだった。まるでメコン川のように、濁り、広がり、移動していた。河川敷の田畑に冠水しており、そのすぐ側の国道と高さがほとんど変わらなかった。

 1時間半も走ると目的地に着いた。大きな津波に遭った町。そこに住む妻の知人たちを見舞った。その後、爪痕の生々しく残る市街地を通り抜けて、港を見下ろせる山に登った。大きな建物はいくつか残っていたが、それ以外は何もなくなっていた。瓦礫を片付けているたくさんの重機が、蟻のように小さくみえた。愉快な光景など一つもない。みていても何も生まれない。ただ悲しみがわくだけだった。

 神社で参拝してから山を下り、帰路についた。途中の町で、ある記念館を訪ねた。明治期に建てられた木造校舎がそのまま保存されているものだ。この町には何度か来た。こぢんまりとした一角だが、気に入っている場所だ。校舎は地震のためにあちこち損傷し、特に窓ガラスはかなり壊れたらしく、ビニールが貼られていた。教室では、昔の教科書や地図や世界の種族が描かれた図などをみた。

 中庭があって、屋根のついたベランダがあって、自然の風が吹き抜ける、昔風の校舎がなくなったのはなぜか。校舎という大切な建築物ですら、戦後異様に変質した。百年以上保つ美しい木造建築から、三十年も経つと無惨に汚れてしまう鉄筋コンクリートの建築に。それは、子どもたちから居心地の良さを奪う変化だったことはいうまでもない。その延長線上に現在の日本がつくられ、それが壊れた。教育、エネルギー政策、商業主義、一極集中。この期に及んで、壊れた意味を読み解けない政治家たちがさらに破壊を進めようとする。

 建築のことを考えるとまた悲しい気持ちになる。いつからかこの国は、よきものを拒み、悪しきものを選ぶようにしてきた。かれらはそんな政府であり、我らはそんな国民であった。

 時間がなかったが、少し道を逸れて山に入った。県南の高原牧場は美しかった。ハーブの庭があって、遠くにある花畑が鮮やかだった。ちょうど赤と白の花水木が見頃だった。そこの店で昼食にした。食はいのちという言葉が店に掲げられていた。牧場の経営全体に、自然を大切にしている誇りを感じた。このような牧場のある町が近いことに一筋の希望のようなものを感じた。ハーブのお茶を何種類か飲んで束の間のゆっくりとした時間を過ごした。また来たいと思った。

 早めに帰宅してからは少し横になって休んだ。暑くなかったのでありがたかった。それから役所に行って、高速道路用の被災証明書をもらってきた。被災といっても停電くらいなもので、そんなことでこんな書類をもらって、無料で高速に乗ろうというのは申し訳ない気持ちだ。制度を都合良く利用しようとしていることに複雑な感情が残る。こんなことをしていていいのだろうか。

 

■気がつけば/Friday,24,June,2011

 気がつけば6月も終盤。月曜、火曜と休んだにも関わらず、この3日間の疲れは酷かった。土曜、日曜の疲れを引きずったということなのか。あとひと月もすると仕事上は一段落がつく。しかし、自分の生活リズムがまだできあがっておらず、この状態は来年の3月まで続くのではないか。

 週が終わっても懸案は片付かない。とりあえず必要な事柄を整理し、確認し、伝達する。それでよしとして帰る。その時の気分はほっとして、解放感で溢れている。だが、ほんとうにしなければならないことには手を付けていない。まったくできあがっていないままだから、そんな解放感など嘘である。

■きのうに比べれば/Thursday,23,June,2011

 きのうに比べれば涼しくて過ごしやすかった。波に乗れないといいながらも、今週は短いのでなんとか向こう岸まで辿り着けそうだ。人の気分とはいかにいい加減な要素でできているものか。

 そういえば7時前に地震があった。久しぶりに緊急地震速報が鳴って緊張した。かなり強いと感じたが、こちらでは震度3だった。

 きのうはらちがあかないと諦めかけていた問題は、先方のたゆまぬ努力のおかげでクリアした。遠方の土地とはいえ電話で何度か話すと相手の誠意は伝わってくるものである。きのうこちらが少しでも不信感を抱いてしまったことを申し訳なく思った。関係諸機関に連絡し、この件に関してひとまずは安心して週末を迎えられることになった。

 もう一方の懸案はなかなか一筋縄ではいかない。会議での状況報告も問題が焦点化できずに的を射ていない感じがつきまとう。対象が未熟であることと、間接的な関与しかできないのが問題をいっそう大きくしている。だが、他から見れば担当がこいつだというのが最大の不安要素かも知れぬ。

 帰宅して、素麺を食べた後にスーパーマーケットに買い物に行った。ちょっとした食料品ばかりだったが、それで少し気分が軽くなった。身体は疲労困憊で、風呂に入ればもう眠るしかなかった。

■またいつものように/Wednesday,22,June,2011

 またいつものように平日が始まった。なんとなく波に乗れない気分が漂う。波が高いだけなのか、それともこちらの技量が足りないのか。それすらも読めないということが致命的なのかもしれぬ。

 先週から引きずっている問題が未だに解決しないので少し焦って、夕方から何度も電話をかけるが状況はよい方向には進まない。先方に対する不信までちらついて、我ながら度量のなさに呆れる。

 先週一応の収束をみたと思っていた問題が思わぬところに飛び火しており、さまざまなところにご迷惑をおかけしていることを知らされる。徒労とはこのことかという感じ。力が抜ける。

 とまあ、それがいつもの平日である。本分に関しては不満はない。何が本分かも今となってはよくわからないが、上記の二点を含めて、お仕事である。

 締め切りのあることがらがどんどん先送りされ、帰宅するともうどろどろでやる気などない。当然である。それでも未だにがんばれがんばれという一派もあろうが、そうではない。締め切りのあることがらのほうが不要なのである、ほんとは。

■きょうも暑く/Tuesday,21,June,2011

 きょうも暑くなった。午前中は4月からのレシートの整理などをした。始めたら意外と早く終えることができた。これまでどうしてできなかったのか不思議に思った。午後には突然雷がなって大雨が降り出した。光と音が同時だった。おそらく至近に落ちたのだろう。停電にはならなかったが、ワイヤレスの機器が動かなくなってネットに接続できなくなったので以前使っていたものと交換した。

 金融機関を回ったり、ちょっとしたものを買ったりしてきた。夕方には仕事関係の電話をいくつか。平日の連休も終了。やらねばならないこともあったような気がするが、ことごとく取り組まなかった。休みの日には休むということが原則。原則通りにいかないときもあるが、できるのであればしっかり休む。明日からまた働こう。

■きれいに晴れた早朝/Monday,20,June,2011

 きれいに晴れた早朝。外を30分くらい散歩した。河川敷まで歩いて数分。田園地帯も広がっている。ぐるっと回って来ると、4月以来知らなかった町の表情を少し知ることもできた。それから食事をして、病院に向かった。実家に寄ってから、通院し、その他の用事を足して戻ってくると14時を過ぎた。それから少し休んで買い物に出た。同じ市内とはいえこの町は広過ぎる。あの平成の大合併はよくなかったのだと今となっては誰でも思う。ただ単に自治体の財政を処理しやすくするためであって、住民サービスの向上などはまったくといってない。合併する前からわかっていたことだが、目の前にニンジンをぶら下げられて、どこも進まざるを得なかったのだろう。それにしては住民は意外と強かだけれども、それは政府をもう信用していないということだろう。信用できないが、この国で生きるしかない。そう思っている人が多いのだろう。信用できないのならば、出て行ってもいい。故郷を捨ててもよい。土地に縛られて生きる必要なんてない。僕はそういう思いがますます強くなっている。

 

■昨日と今日と/Sunday,19,June,2011

 昨日今日とほぼまる二日外にいた。昨日は曇っており涼しかったが、今日は晴れて暑くなった。ときどき水は飲んだけれど、終わると乾涸びた感じになって、炭酸飲料などが美味しく感じられた。 夜にも何かあるとのことだったが、僕は傷が酷く痛むので断った。病み上がりなのだから無理してはいけないのである。ゆっくり休まねばならぬのである。

 情熱を注ぎ込む先はどこなのかと考える。集中力は失われ、日々の仕事はばらばらと雑多なことに追われ、形の残る成果が得られることはないといっていい。3年経てば報われるとかいう話ではない。もはやそんなことなど狙えなくなった。賢くなるためのことだけ考えてできればいい。狙うのはそれだけだ。人間になるため。賢くなるため。まったくサンデー先生のおっしゃる通りである。

■地震から100日が/Saturday,18,June,2011

 地震から100日が経った。この100日を長いか短いか評価することはできない。メディアは相変わらず。政治はますます遠のいてしまった。意識の高さはどうなったのか。水底の澱のように、深みに沈んで容易には掬えなくなってしまったような気もする。何が正義なのか。時間の流れの中で、忘れ去られたものがある。未だに自分の空間も時間も自由にできない人々が多くいるというのに、そのことはみないようにして政争が続く。地図に黒く塗られるコミュニティが、これからどれくらい増えるのかわからない。がんばること、負けないこと、耐えること、信じること。僕は聞き飽きた。信じるに足るものを信じたい。耐えた後の光明を確かに見たい。負けないことは当然だ。誰もいま以上にがんばる必要はない。精神論では、いのちを救えない。いのちより大切なもののために動く者たちから、地域を奪い返さなければならない。そのための具体的な手立てと行動力がほしい。

 この100日というもの、震災の影響と自分の生活上の大きな変化が重なっていた。一度決まった転勤が二転三転し、一度決めた住居を解約し、住居が決まらないうちに4月に入り、職場が変わり、引っ越しをして、長距離通勤が始まり、共同生活が始まり、時間外の仕事に戸惑い、そのうちに病状が悪化し、入院し手術し、退院してからも痛みや処置に煩わされる状況で今に至る。だれかの為に動く余裕などなかった。気にかけていないわけではないし、関心だって失っていない。何か違う動き方ができるのかもしれないけれど、それほどの気力は未だに湧いてこない。

■午前中は雨が降ったり止んだりの/Friday,17,June,2011

 午前中は雨が降ったり止んだりの天気だった。午後からは、出張先で外での作業を行った。少し家に近い場所だったので、まだ日が高いうちに帰途に就くことができた。移動の途中、珍しく友だちから電話が来て、スーパーマーケットの駐車場で話した。受話器の向こうには恩師もいて、これからいっしょに飲むのだそうだ。誘ってくれたのはありがたかったけれど、すぐには来られないほどのところに転勤したことを伝えたら驚いていた。15分ほど情報交換をした。

 帰宅して、入浴して、涼みながらページを更新した。退院してから一週間になる。またずいぶんと空けてしまった。振り返る時間がないと、過去が未来に生きてこない。不思議なことに、過去を振り返る時間はすべて現在で、現在の先にあるはずの未来は永遠に掴むことができない。言葉にしないと、言葉では残らない。それは、写真にしないと写真には残らないのと同じだ。記憶は、記録ではない。

 近所の中華料理屋での夕食は四回目。最初のときは五目焼きそばを食べた。後の三回はそれぞれ別の定食を食べた。いずれのときにも春巻きをつけた。どれも悪くなかった。そうしているうちに、季節は夏になった。あともう少しで7月。今年も半分まできた。この3か月あまりのうちに、我々は計り知れないものを亡くした。それまで当たり前のようにあったものたちは、ことごとく失われた。

 

■他県へ電話を/Thursday,16,June,2011

 他県へ電話をかけ続ける。渉外の係と思えばどうということはないが、いろいろと考えることはある。人々の気質は先日読んだアフガニスタンの様子にも重なる。正しいとか間違っているとかいう前に、相手のことを理解することの大切さ。そしてその難しさ。けして見下しているつもりはないけれど、未だいまだ学べていないだけにわからないことが多過ぎる。そして疲労とか、痛みとか。 

■きのうと/Wednesday,15,June,2011

 きのうと同じような一日を過ごす。身体がいうことをきかないうちは、深いことなど何も考えたり、書いたり、話したりできない。少し遅くまで働いてこようかと思ったが、きょうも早々に退散した。

■本格的に/Tuesday,14,June,2011

 本格的に仕事に復帰した日。とはいえ、それほど魂を込めることもなく、惰性で済ました、という感じ。まだまだ本調子ではなく、夕方までいると疲れて気力が続かない。だから、早々に退散した。

 

■昼で働いて/Monday,13,June,2011

 昼まで働いて、午後には病院に行き、実家に寄り、アパートに帰ってきて、仕事関係の長い電話をかけた。はじめから午前で終わりと決めていたので段取りはうまくいった。途中の道のりは、いつもとは別の道と思ったので少し遠回りになった。それでも天気がよくてドライブ日和だったので楽しく運転できた。病院では診察と処置をしてもらった。入院費の支払いをして、薬を貰って帰ってきた。実家には1時間ばかり滞在し、それからは真っ直ぐ家に戻った。明るいうちに懸案の電話をすると、予想に反してそれほど面倒なことにはならず安心した。

■久しぶりに/Sunday,12,June,2011

 久しぶりに職場に行くと、大先輩が声をかけてくれた。中に入ると机上には夥しい書類の山があったが、ひとつひとつ片付けるとそれほど重要なものは多くなかった。ただ一つだけ、面倒な思いが蘇るようなメモがあった。さっそく明日には事情を聞いて、対処しなければならない。

 昼過ぎで帰宅するつもりが15時過ぎまでいてしまった。それから帰宅したが、やはり疲れて何も手につかぬうちに眠った。

■昼過ぎまで/Saturday,11,June,2011

 昼過ぎまで横になっていた。調子はあまり良くなかった。本を読み進めたが、あまり集中できなかった。夕方から北上した。街に入ると道は込んでいた。それからまた南下した。翌日は早いし、疲れて目が痛くなってきたので早めに就寝した。   

■昨夜寝ようとしたところに(退院の日)/Friday,10,June,2011 

 昨夜寝ようとしたところに仕事上の電話が入った。入院前に自分がしっかりしていれば、ここでかけてくる必要のない電話だったので、相手には申し訳なかった。いずれにせよこの電話のおかげで、また来週から始まるという気持ちが少し沸き起こってきた。気持ちだけでも「慣らし」が必要である。

 病状からいえば、きょうで退院というのはやや不安が残る。まだけっこうな痛みがあって、座るのもなかなか大変だ。日常生活に戻ってからも服薬は必要だし、一か月程度は自分であれこれと処置をしなくてはならないという。それが正直煩わしい。とはいえ、自分の体のことは自分がしっかりやらなければならないのだから、文句を言える筋合いではない。

 自己管理の下手な自分からすると、病院にすべて管理されるというのはとても楽な環境だった。家に戻ってからそれらを家人に管理してもらおうなどとはつゆにも思っていないが、考えてみればこの4月から僕は世話になりっぱなしであった。当人にとっては管理してきた自覚はさしてなかろうが、結果的にみれば、自分の至らない部分を補ってくれていたことは否定できない。これからも世話をかけることになるかもしれないが、基本的なことは自分でなんとかしたい、いや、ほんと、まじで。

 病気が発症してから手術に至るまで実に7年もかけた。一進一退を繰り返す中で、医者には手術が必要だと言われていたにも関わらず、それをずっと先送りしてきた。先送りしても問題は悪化するばかりで改善はされない。そんなことは頭ではわかっていたはずなのにずるずるときてしまったのだ。

 これが例えば癌だったらとっくに死んでいただろう。病に取り憑かれた頃の父親を思えば、僕とだいたい同じようなことを感じ、同じようなことをしてきたのかもしれぬ。痛ければ痛みに耐える。すると少し楽になる。それを繰り返すうちに手遅れになった。彼の場合はたまたま悪性疾患で、僕の場合はそうでなかっただけだ。とにかくこと病気に関しては、行動するのは早いに越したことはない。

入院中は、ネット環境といえば携帯電話だけだったので、横になりながら携帯電話のネットに繋ぐ時間が多くなった。携帯電話の住所録を少し整理して、わかりやすく変えた。

午前中に診察と処置を終えると、すべての予定は終了となった。退院の局面はあっさりしたもので、誰も何も言わないから受付で聞くともう何もないので帰ってもいいと言われた。国道まで歩いて、コンビニの前でタクシーを呼んで、実家まで直帰した。

傷が痛んで、外に出るにも天気が悪かったので、それからは一日中横になって本を読んでいた。内橋克人氏がラジオで強く薦めていた本である。ようやく読了した。

    朝・ロールパン      ・コーンスープ     ・ハム玉炒め

      ・ツナサラダ      ・ジャム        ・牛乳

     ○人は愛するに足り、真心は信ずるに足る〜アフガンとの約束/中村哲・澤地久枝

■朝7時過ぎ(入院4日目)/Thursday,9,June,2011

 朝7時過ぎ。パソコンを開き日曜日からのことを思い出しながら書き始める。治療に専念するとはいえ、ほとんどは自由時間である。仕事のことを考える必要もなく、何をしてもよい時間。この間、持ち込んだ本を何冊か読んだ。パソコンにまっすぐ向き合うことができたのは、きょうが最初だ。病室の丸テーブルにパソコンを置き、ベッドに坐って打っている。この体勢を術後初めてできるようになったのが、きょうだった。

 昨日まで一緒だった何人かの患者さんがいない。一足先に退院したのだろう。そしてきょうは午前中、何人かが検査のために来院していた。先週までの自分のように、入院前のさまざまな説明を受けているのが聞こえた。こうやって患者も入れ替わっていく。毎日毎日同じような営みだけれど、そこを病んだ人々が次々と去来する。病院というところの面白さ。僕の職場とはリズムが違う。

 処置が様々必要であることには相違ないが、それでも一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方が状態は良くなっている。少しずつではあるけれど、治ってきている。人間の自然治癒力の不思議さ。

 それにしても、これだけゆっくりと本を読める時間なんて、日常のどこにあったというのだろう。そしてまた来週日常に戻ってから、そんな時間をつくることはできるだろうか。この短い入院生活で、自分の時間を自分の思い通りに過ごすことが大切だということを学んだ。もしも自分の時間があるとしたら、仕事や他の雑多なことは考えずに自分がしたいことをするのが一番いい。時間がないのはその通りとしても、今まであまりに精神が仕事とか雑事に囚われ過ぎではなかったか、ということを反省した。

 何を読んだかを記録するのは頭の中を覗かれるような気がして躊躇われるのだが、入院中に読んだ本のタイトルは記念に書き留めておこう。

     朝・ごはん  ・味噌汁  ・目玉焼き ・サラダ  ・えび団子のケチャップ炒め

      ・納豆   ・牛乳

     昼・ごはん  ・味噌汁  ・さばの味噌煮

      ・付け合わせ      ・大根のそぼろあんかけ ・長芋のシャキシャキサラダ

      ・フルーツ(りんご)

     夕・ごはん  ・味噌汁  ・豚肉のスタミナ炒め  ・きゅうりのツナ和え

      ・さつまいもの甘煮   ・漬物

    ○もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら/岩崎夏海

    ○街場の大学論/内田樹

■4時頃目が覚めてから(入院3日目)/Wednesday,8,June,2011

 4時頃目が覚めてから、また横になったら二度寝してしまった。朝食後はまた本を読んだ。午後には手術後初めての入浴をした。患部からはまだ滲出液が出るし、痛みもあるので不安があったが、先生は「きょうから入りなさい」と言う。実際に入ってみると、痛みもそれほどではなく、しっかり洗うことが、傷口を清潔にするためにも、皮膚を強くするためにも大切なのだと思った。昼下がりの風呂上がりはひじょうにさっぱりとして、少しうとうとすると気持ちがよかった。

 先生から手術の経過説明があった。大写しの患部の術前と術後の写真を見せられた。傷口が比較的大きいので治りが遅いこと、退院してからも毎日の処置が大切であることを聞いた。退院したからといっても治ったわけではなく、これから半年ほどは定期的に通院する必要があるということだった。

 さすがに目が疲れたのか、本を読むのが辛くなった。パソコンに入れておいた講演の音声を聞いたりしたが、あまり集中はできなかった。夜にはダイエット特集の「ためしてガッテン」を聞いていた。その後はすぐに就寝した。

     朝・ごはん  ・味噌汁  ・肉団子の野菜煮  ・もやしのナムル    ・ふりかけ

      ・牛乳

     昼・ごはん  ・味噌汁  ・鰆の竜田揚げ   ・付け合わせ      

      ・大根と油揚げのサラダ ・青菜とベーコンのソテー

      ・デザート(抹茶のロールケーキ)

     夕・ごはん  ・味噌汁  ・親子煮      ・おひたし 

      ・いんげんと竹輪の炒め煮          ・漬物

     ○アカディアンの過去と現在~知られざるフランス語系カナダ人/市川慎一

     ○男の隠れ家7月号「大人の哲学入門」

■朝6時に(入院2日目)/Tuesday,7,June,2011

 朝6時に体温と血圧を測った後は、もう自由に起きて動いて構わないという。病室内を動きまわり、術着からTシャツとジャージに着替える。昨日は一日絶食だったが、今日からは普通に食事ができることになっている。

 食事は8時と12時と18時に食堂でとることができた。病室に持って行って食べてもよいということだったが、それほどの困難もないので他の患者さんと一緒に食堂で食べた。

 2日ぶりの朝ご飯はうまかった。絶食後ということももちろんあるだろうが、それを差し引いてもおいしいと思った。味付けもいいし、量も十分である。その後は金曜日の朝まで毎食ここでいただいたのだが、どの食事もおいしくいただくことができたのはありがたかった。当然かもしれないが、繊維質が多く消化のよいメニューになっているということだった。掲示されていたものを書き写してきたので後で参考にしよう。

 基本的には9時前後に診察と傷の処置。そして、午後にも診察と処置がある。それ以外は部屋で安静にすることになっている。痛みがあるし、その他に厄介なことも続いているのだが、傷が癒えるまではある程度我慢するしかない。痛くて何も手に着かない時もあったが、それ以外の時間には持ってきた本を読み進めた。何も仕事のことを考えずに読書ができる貴重な時間だった。

 夜にはサッカーの試合があるというので、カードを買ってテレビを見た。

     朝・ごはん  ・味噌汁  ・鮭のみそマヨ焼き  ・温野菜  ・ひじきのサラダ

      ・漬物   ・牛乳

     昼・ごはん  ・味噌汁  ・肉じゃが      ・茄子の味噌炒め 

      ・グリーンサラダ    ・フルーツ(キウイ)

     夕・ごはん  ・わかめスープ          ・チキンのトマト煮  

      ・ポテトサラダ     ・青菜のおひたし   ・漬物

     ○「言語技術」が日本のサッカーを変える/田嶋幸三

     ○街場の教育論/内田樹

■9時から9時半の間に(入院1日目)/Monday,6,June,2011

 9時から9時半の間に病院に入ることになっていた。8時過ぎに家を出て駅に向かった。荷物が大きなカバンいっぱいになってしまい、ひじょうに重くなった。最寄りの駅から電車に乗って、駅からはタクシーで行くつもりだった。しかし、いざ電車に乗ってみると、このカバンが混んで狭くなっている床をさらに狭く塞いでしまうことに気づいた。この時間帯の電車にはいわゆるビジネスマンは少数だが、私服を着た学生風情の若者がたくさん乗っていた。さらに、目的の一つ手前の駅のホームに電車が滑り込むと、そこには何十人という客の待つのが見えた。このまま乗っていたら顰蹙を買うのは目に見えている。それではたまらんと電車を下り、そこからタクシーを呼んで病院まで行くことにした。

 病院に着くと、すべては段取りどおりに流れていった。入院用の玄関から入り、ナースステーションで受付をすると、看護師さんに病室に案内された。ベッドに仰向けに寝て体温と血圧を測った。そして、左の腕に点滴の針を刺した。その途中で有線放送のリストを見せられた。手術中にかけるチャンネルを選んでくれというのだった。ゆっくり選べるような状況ではなかったから、とりあえず無難であろう「最新J-pop」というのにした。術着というガウンのようなものに着替え、これに着替えて手術の時間まで部屋で待った。

 持参してきた本を読みながら1時間半近く待っていた。廊下のスピーカーから音楽が聞こえてくる。それがJ-popに変わるとしばらくして、自分の番になった。点滴を下げる支柱のようなものを引きながら、歩いて手術室に向かった。右手に血圧計をはめられ、胸には心電図を取るための電極を取り付けられた。はじめに麻酔注射を受けてからの身のこなし方を教わり、練習した。ベッドに横に腰かけ、枕をおなかに抱えて背中を丸める。背中に麻酔を注射されると足が痺れて動けなくなるので、素早くベッドにうつ伏せにならねばならない。この動作を2回ほど繰り返した。そして、看護師さんと世間話をしながら先生が来るのを待った。

 先生が入ってくると「でははじめますよ」と言って仕事にかかった。何の猶予もなかった。先生は僕の術着の裾をまくって背中を出し、針を刺す位置を確かめると、「がんばってね」と言って針を刺した。すると左足に痺れが走った。痛みはあったがたいしたことはないなあと思っていたら急に気分が悪くなってきた。「気持ち悪くなってきました」と言うか言わないうちにくらくらとめまいがして倒れそうになった。先生が少し慌てた口調になって「横にしろ」と言って、看護師さんが受け止めて横にしてくれたがその後は記憶がない。何秒かわからないが気を失ってしまったらしい。気づいた時には横になっていて、自分が何をやっているのか、何のためにどこにいるのか、必死で心の中をまさぐった。思い出すのには時間が必要だった。名前を呼ばれて顔や肩を何度もたたかれて、ようやく正気に戻った。この間、耳にはJ-popがずっと聞こえていたような気がする。

 「血圧が急に下がったんだ」と先生は言った。昇圧剤の注射針を左の二の腕に刺された。「前にもこういうことがあったか」「麻酔を受けてこうなったことはないか」と先生に聞かれ、学生時代の健康診断で倒れたこと、授業中に気を失ったことがあること、それから歯医者で麻酔が効かずに痛い思いをしたことを伝えた。先生は歯医者のことについては「それはまた別の問題だな」と言った。とにかくこれからもこういうことはあるかもしれないから気をつけるようにと先生に言われた。しばらく吐き気が続いたので、僕が落ち着くまで手術の開始が遅れた。

 吐き気が治まってからは手術を予定通りに受けた。麻酔が効いているので痛みは全くなく、事前に聞かされていたように、有線放送を聞いているうちに終了した。その後は、仰向けに寝かされたまま手術室から病室までを移動した。目に見えるのは映画と一緒のシーン、廊下の天井が流れていく光景と、寝台を押す看護師さんが見えるあの視点だった。

 病室に移されてからは仰向けのまま横になっていた。有線の音楽は廊下のスピーカーからかすかに流れてきていたが、それがJ-popから急に演歌に切り替わった。次の人の手術が始まったのだろう。それを聞いてなんだか可笑しくなった。点滴の液が透明なものから黄色のものへと変えられると吐き気を催すようになった。それで看護師さんを呼んで滴の落ちるペースを落としてもらうと吐き気が治まった。就寝時間までには点滴も終わり、右手の針も管もなくなって楽になった。

 眠りたかったがほとんど眠れないうちに夜になった。水分を取ってもよいというので、買っておいたお茶をコップに注いでもらい、身体を起こして飲んだ。明日までは立てないというので、尿は尿瓶に取った。尿瓶というものを使うのは初めてだったので、一度目はしばらく出なくて困ったが、二度目からは大丈夫だった。

麻酔がまだ効いていたこともあるだろうが、痛みがなかったので比較的楽だった。落ち着いてきてからメールを送った。僕はまさか麻酔の注射の途中で気を失うことになるとは思ってもみなかった。これは先生や看護師さんにとってもそうだったらしく、あの場面で気を失う例はあまりないようだ。中学から大学にかけて、授業中に気を失ったりした変な体験については以前にも書いたことがある。何度か医師にも相談したことがあるが、よくわからないままだ。ある意味特異な体質だろうから、今後も忘れないでおこう。

 夜が更けても寝付けなかった。ようやく朝方になって2,3時間うとうとできた。各室からはナースコールが夜通し頻繁に鳴っていた。当直の看護師さんが一人で対応していた。医師や看護師の仕事については何の知識もないが、このように何日か様子を見ていると改めてすごい仕事だなと思う。この方々のおかげで多くの人々が苦しみから解放される。本当にありがたい存在である。

■朝のうちに/Sunday,5,June,2011

 朝のうちに床屋に行った。アパートから徒歩三分の店で頭を五分刈りにしてもらった。坊主頭になったのは二度目。最初にしたのは仕事で高知に行った年だったから、もう五年も前のことだ。当時は気合いを示す意味合いもあったが、今回は入院中のことを考えて便宜上短くしたに過ぎない。これから暑くなることだし、我ながら一番いい選択だったと思う。

 持ち物を整理して車に積み、昼過ぎにはアパートを出て実家に向かった。国道を北上して、途中から少しだけ高速道路を使った。この頃毎週のように往復する道。いつも何かを期待して通るのだけれど、何を買ったり食べたりするわけでなし、きれいな街並みがあるわけでもなし、立ち寄るほどのものはない。どんな小さな田舎町でも車を止めて少し歩きたくなるような風情が、残念ながらここにはない。

 実家に着いてからも、必要なものを買いに車を出したりした。夜には弟から電話がかかってきたので、近況やら明日からのことやらを少し話した。

■午前中はこれといって/Saturday,4,June,2011

 午前中はこれといってまとまったこともできぬうちに昼になった。昼過ぎから出て、妻の実家へと向かう。高速道路を使ってあっという間に着ける距離になったのだが、なかなか行くことができないでいた。義理の両親とはいえ、大事な親である。久しぶりに親の元気な顔を見たので、僕は嬉しかった。たくさんの食料をいただいたが、短い滞在時間だったので申し訳なかった。

 明るいうちに帰って、近所のうどん屋で夕食を食べた。移動の途中で何度か仕事関係の電話が入った。明日以降になるだろうと思っていた事柄を確認できたので、夜のうちに関係機関にメールを送った。

 日曜日の朝には床屋に行く。それから品物の準備をして、昼過ぎには出かけるつもりである。明日以降は一週間、ネットの使えない環境に身を置くことになる。仮に使えたとしても、身体の方が追い付かないかもしれない。いくつかソフトは持っていくつもりだが無理はしない。治療と療養第一に過ごすことにしよう。

■しばらく休みをいただくので/Friday,3,June,2011

 しばらく休みをいただくので、きょうのうちに必要なことを終わらせたかった。思考力が鈍っているのか、身体を動かすのが困難なのか、その両方ではないかと思うが、全体的に動きが緩慢で、予想以上に、いや予想していた通りに時間がかかった。どうにか一通りの準備を終えた時にはほかに上役が一人しか残っていなかった。あまりに情けない休み方だが、これも大義名分が立つといえるだろうか。

 きょうはずいぶん気温が上がった。半袖でも問題ないくらいだった。極端な気候の変化は最近の傾向だ。春とか秋とかのちょうどいい時期がなくなってしまった。外に出ると藤の花が咲いている。そろそろ見頃を終えようとしている。芳香が漂ってきた。夜になると、西の空に線のような新月が微かに見えた。何か一つの節目であると思えば思えなくもない。

 病人は、病気だから病人らしくなるというだけではない。病人という枠にはめられると元気な者も病人に見えてくるという面もあるのではないか。周期的に痛みが襲ってくるとはいえ、楽な時にはとりあえずは元気なはずで、終始苦悩に喘いでいるわけでもないのだが、告知した人が増えるに連れて病人の自覚も増す。いずれ準備を終えて後の一週間は、まるで俎上の魚のように身体を切り刻まれることになり、その傷口が癒えるまで寝たきりの生活をせざるを得ない。

 面倒なことのいくつかを、来週も電話やネットでやらなければならないのは少し引っかかっているけれど、同じようなことを経験した先達も何人かいて、その方々も心配しないで行ってこいと送り出してくれたので、こちらも心置きなく治療に専念できそうだ。有り難いことである。

■昨日に引き続き/Thursday,2,June,2011

 昨日に引き続き寒かった。真面目にヒーターが必要なほどだった。まだ梅雨前なので梅雨寒とはいえないが、とにかく暗くて寒い一日だった。体調もさすがに厳しくて、痛みのほかにも厄介なことがでてきて困った。それもあと数日で解放されるはず。しかしなぜかほんとにそうかと訝しく感じてしまう。

 がっかりという感情には下がない。心底がっかりしたと思っても、次の日にはさらに深い失望に襲われる。そうやってここ数か月、ここ数年、いやここ数十年といってもいい、あの日のもっとずっとずっと前から、国を動かす人々に対する気持ちはマイナスに傾くばかりで上向くことなどなかった。何かあったらどうするのかという不安は、思えば良からぬことが進められていることへの危惧だった。こうなることはわかっていた。それにもかかわらずだれにもなにもできなかった。

■6月に入ったというのに/Wednesday,1,June,2011

 6月に入ったというのに、気温は15度にも上がらない寒々とした一日だった。この寒さはたいへんな記録らしい。衣替えの習慣はどうかと思っているが、きょうほど習慣と実際の環境が異なるといよいよもってばからしく感じられる。

 ここ最近は毎日そうだが、あまり調子もよくはなく、痛くて自分でも顔をしかめているのがわかるくらいだった。午後から出張だったが、そこでの会議は何だかわからなくて、面白くなかった。ここで文句を書こうものなら10は下らないが、そんなことを書けるはずもない。といって書かないでいると何もかも忘れてしまう。案の定お鉢が回ってくる。構わないけれど、ほかの人たちはいったい何なんだ。