2011年3月

■曜日の感覚が麻痺して/Thursday,31,March,2011

 曜日の感覚が麻痺してしまった。昨日は金曜日だという感じが強かった。電話の移設の申込はしたが、災害の復旧が優先されるだろうから、いつになったらできるのかわからない。おそらくはインターネットは一か月くらい使えないのではないかと思う。というわけで、ネット環境が整備されるまで、更新はしばらくお休みします。次回の更新時は、日記が何日分もアップされることになると思います。

 これから部屋を片付けます。とりあえず一週間分の持ち物を車に積みます。そして、来週末に持って行く物も箱に詰めておこうと思います。とにかく慌ただしい4月になることでしょう。

きょうは新しい職場に/Wednesday,30,March,2011

 きょうは新しい職場に行く日である。朝にはこれまでの通勤と同じ時刻に家を出た。国道を南下して、実家に寄った。仏壇を拝み、朝食をいただいてから出かけた。高速の入り口のガソリンスタンドでは、並ぶことなく満タンにできた。もう並ばなくても買えるようになったのですかと聞いたら、店員は並ぶ時には並びますと答えた。それはそうか。ガソリンの入荷状況を単刀直入に尋ねればよかった。

 高速道路には自衛隊の車だったり、大きく表示をしたバスだったり、自家用車だったり、災害派遣で来ている車が目立った。パーキングエリアの洗面所では仙台行きのバスの客といっしょになって、長い行列ができた。バスは2台連なっており、どちらも満員の様子だった。

 約束の時間よりやや遅れて不動産屋に到着した。いくつか説明を聞いてから、弟に電話をして連帯保証人を頼んだ。それから初めて物件を見に行った。少々補修が必要なところもあるが、広さもある程度あるし、十分だと判断した。店に戻って契約の文書を作った。店を出てから、電気、水道、ガスの関係機関に連絡をした。それから駅前の蕎麦屋で温かい蕎麦を食べた。

 住居の前から新しい職場までの時間を計るとちょうど40分だった。これからこの道を往復するのは正直遠いなと思った。どこに行っても同じだが、時間の使い方を工夫したいものである。

 新しい職場で挨拶をし、いくつもの説明を受け、引き継ぎを受けた。これまでの職場とは明らかにリズムが異なっていた。当然わからないことばかりだし、はじめのうちは戸惑うことも多いだろうが、見慣れていく風景というのはいつもきれいで刺激的なものである。それを楽しむ心持ちを忘れずにやっていけるといい。教えていただいた担当について何の不平も不満もない。ただ自分のできる範囲でさせていただくのみである。心配な点は多々ある。事情については伝えておいた。でも、僕のこれまでの経験を総合的に発揮できそうな規模と環境には安心した。実際にみてみて、根拠はないけれどやっていけるだろうという気になった。やっていけなければ困るのだけれど。正直な気持ち、わくわくしてきたよ。

 それからまた不動産に行き、今度は契約書の細かい約款について説明を受けた。細かな字をはじめから終わりまで読み聞かせてもらったのは初めてのことである。法律で決まっていることとはいえ、ここまで徹底するというのはすごい。優良企業と言ってよいかもしれぬ。途中で契約に必要なお金を下ろして来て支払いを済ませた。すべてが終わると18時近くになっていた。

 高速道路を北上する。降りる直前のサービスエリアでガソリンを入れた。15分くらい並んだが、再び満タンになったので、明日も安心して移動ができる。

■一日に三度の/Tuesday,29,March,2011

 一日に三度の異なる挨拶をした。別れの局面であった。一度目は節目の大切さについて、二度目はその節目を多く自覚できるほどしなやかな人生となるということ、そして三度目は、ここでの三年で見方の幅が広がったということを話した。14時を回ってから外に出て、必要な書類を届けた。その序でに、菓子店に注文していたものを引き取ってきた。少し大げさな気もした。でもしっかりと物心両面で、挨拶というものを済ませることができた。いつもこういう場面では何となく適当に誤摩化してきたが、今回については結果的にはよかったと思う。

 4月に続く仕事もすべて引き継いだので、まったく思い残すことはない。夕方には皆に送られて職場を去った。皆心優しいできた方々だった。そして皆力のある優れた職業人だった。迷惑をかけることが多かったですが、よくしてくださってありがとうございました。心から感謝しています。ここで学んだことを次の場所で具体的に形にしていきたいと思います。またいつかお会いしましょう。

 引っ越し蕎麦というわけではないが、家の近くの蕎麦屋で蕎麦を食べて来た。ビールも何も飲まなかったが、自分自身では今年度お疲れ様、明日からまた頑張ろうという意味合いの蕎麦であった。

■朝には少し早めに出勤して/Monday,28,March,2011

 朝には少し早めに出勤して、パソコンのデータを移し替えたりした。朝のうちにやっておいてよかった。9時を過ぎた頃から、ものすごい勢いで職場の机の移動が行われた。終わると自分の居場所は多少変わり、そこで仕事を続けることになった。パソコンの中身もいじったが、必要な文書を作成したり、郵便局に書類を出しに行ったりもした。昼休みには、何人かで炒飯の出前を取った。出前なんて、ここに来て初めてだったかもしれない。午後にも何かすることがたくさんあって、気がつくと夕方だった。残っていた私物をリュックと二つの手提げ鞄に詰め込んで職場を後にした。部屋が乱雑になっている理由の一つは、職場の物で溢れてしまっているから。これらを整理するのがなかなか大変だ。

 置き土産にまで考えが及ばなかったが、他の人がやっているのをみて焦り出した。電話の話の中でも助言をもらった。これを機会に地元の優良企業を使おうと思った。少し遅かったにも関わらず、電話をかけると注文ができたのでありがたかった。さすが地元の優良企業だ。

 夜になって、街に出たくなった。カナダで過ごした最後の週のような感覚が少し蘇った。「キッチンたくま」という店で夕食をとった。以前一度入って気に入ったところだった。おもえば「キッチン」と名のつくところには好きな店が多い。雰囲気や味もいいが、何より名前がキッチンである。そもそもの店の願いだとしたらうれしい。あなたのための台所という感じがして素敵じゃないか。

■朝起きてから/Sunday,27,March,2011

 朝起きてから残っている野菜でカレーを作った。午前中から午後にかけて、日記を書いたり、テレビを見たり、ラジオを聴いたりした。部屋の中は日に日に乱雑さが増してきて、これらが本当に片付くのかわからない状態になってきた。人はパンのみにて生くる者にあらず。物質はできる限り少なく、心の中に財産を積み重ねていければと思っていたけれど、気がつくと物がたまり過ぎてしまった。

 ネットでいくつもの物件を探して、プリントアウトしたり電話をかけたりした。それにしても、ネットのない時代はどうやっていたっけと不思議に思うほど、ネット検索は重要な手立てとなった。

 仕事用のパソコンを開いたのは午後ずっと遅くになってからだった。だが、取りかかってみると思った以上に迷うことなく進めることができた。パソコンの中の整理なんて、実際に物を出し入れすることはないから、煩わしさなど部屋の整理の比ではないのだ。で、この日のうちにやろうと思っていたことは終えることができた。あとは明日、職場のパソコンに移せばよいだけだ。

 街を散歩したい気持ちが強かったけれど、結局一歩も外に出なかった。振り返れば今年度最後の週末も終わった。ありあまる物質、ありあまるエネルギーをただ消費し生活する時代は終わった。無駄を省き、ほんとうに必要な物だけを求め、使う生活に移行していくことになるだろう。だがそれは単に切り詰めるとか自粛するとかいうのとは次元が違うと思う。欲しがりません勝つまではという戦中のスローガンにも似た不謹慎への過敏な反応には違和感を覚える。こういう時だからこそ、経済を回すという発想が必要ではないか。義捐金の直接投入をしながら、なおかつ各自が使えるお金をサービスや物に投入して、歯車を回していく。その投入先は、未だに品不足が続いているコンビニや大手ショッピングモール、全国チェーンの飲食店ではなく、地元に根ざした店にしたほうがよい。今回の震災で物流が滞ると、前者は所詮自企業の利益優先のためには地方を切り捨てる構造であることがはっきりした。その性質は地方に住む生活者がどれだけ困窮しようと関係ない。それに対して、地元の企業や小売店というのは、地元民の生活を最も大切に考える。それが第一の存続条件だからである。現に、県産小麦を使ったパン屋や蕎麦屋の営業再開は早かったし、地元野菜だって途切れることなく流通している。沿岸部の企業は打撃を受けたが、それを救うのは内陸部の地元企業の活力である。食品や生活用品、あるいはエネルギー等、業種を越えて地方の企業を守り、地方の生活が中央に頼らずに回るように変えていけるとよい。そういえば、米屋で灯油等の燃料が売られるのは昔ながらの形態ではなかったか。

 今回物流が止まることによってもろに影響を受けた商品は、地元で賄えなかった商品だ。だとすればそれらを地元で調達できるようにすることで、地産地消の消費生活が可能になるはずだ。チャンスというにはあまりに過酷な現実ではあるが、見方を変えて中央に頼らない経済構造を目指す好機と捉えることはできないだろうか。行政がそれを引っ張ってくれるとしたら、東北は世界に誇れる先進地になれるのではないだろうか。だから、いま特に内陸部の我々は自粛ではなく、どんどん経済を回すことを考えた方がいいと僕は思う。

 たとえばいま大問題のガソリン不足だって、久慈の国家石油備蓄基地の近くに小規模な製油所さえあれば解消できる。根岸からなんて運ぶ必要はない。法律が邪魔をするなら特区でも何でも導入して法律を変えることを考えればよい。三陸鉄道の例にあるように第三セクターで有名な岩手である。行政に、知事に、行動力さえあれば、不可能ではないと思うのだが、こんな素人考えはだめだろうか。

  

■朝にはゆっくり/Saturday,26,March,2011

 朝にはゆっくり出かけた。荷物を運ぶ必要があったので車を出した。昼飯も食べずに夕方5時頃までさまざまなところの片付け方をした。徹底的に物を捨てた。だいたい片付いてすっきりした。あとやらなければならないのはパソコンのデータの整理。それが最も重要な事柄だ。

 想定外というのは都合のいい言葉で、いついかなる状況下でも使える逃げ口上である。しかし、想定していなかったこと自体が落ち度だったということも往々にしてあり、特に電力会社のような公共性の高い企業、ましてや原子力という人類の扱いうる最高位の危険物を扱う組織の場合には、この言葉によってその責任を回避することはまったくできるわけがないと思う。メディアをみていると、地震が起きてからというもの巧妙にその言葉を用いて責任逃れの下準備をしてきたのではないかと感じられたのだが、ここまで事態が大きくなるともう逃げようがない。

 とはいえ現場で命がけで危機回避のために闘っている方達には頭が下がるばかりである。被ばくを覚悟で任に当たる人々やその家族の気持ちを想像すれば胸が痛む。かれらには応援こそすれ責める気持ちなど一切ない。幹部に向ける視線と末端の一労働者に向ける視線は別である。問題にしたいのは体制であり、体制の在り方如何によって人々の生命や生活さえも危険に晒されるということの重大さである。

 夜には電話で情報交換をした。我々の生活も地震に翻弄されていると言っていい。だが、燃料とか住居とかいう問題は、被災者の苦労に比べれば何でもない問題であって、それについて文句を言うつもりもない。ただ、非常時であるにも関わらず、適切で速やかな決定や情報提示がなされないことによって、現場が振り回されているという事実が非常に残念だ。

 僕は以前沙汰を待つしかないと書いた。しかし、その沙汰が二転三転するのなら、現場の人間はそれにつられて右往左往するしかない。広辞苑によると、沙汰の「沙」は砂のこと。「汰」は選び分けること。沙汰のもともとの意味は、「水でゆすって砂金や米などの砂をとり除くこと。物の精粗をえりわけること。淘汰。」とある。つまり、沙汰はいつでも最終決定でなければならない。しかも、庶民の誰もが安心して手にできるあるいは口にできる等しい価値でなければならない。それがコロコロ変わるのであれば人々の安心は得られず、お上への信頼もますます損なわれるというものだ。日本が試されている。それはその通り。僕も一人の日本人ならば、この現実をどうとらえればいいのだろうか。庶民である僕らがいまできることは、しなければならないことはいったい何なのだろうか。

 僕はひとつこの言葉を聞いて得心がいった。「僕たちの目の前にある現実は問題ではなく、答えだ」この言葉をもってすれば、事態を大局的に掴める気がする。内田樹氏のツイッターに書かれていた養老孟司氏の言葉である。

■日の出が早く/Friday,25,March,2011

 日の出が早くなった。空は晴れていたが寒い朝だった。近くのガソリンスタンドに並んだ。前に並んでいるのはわずか7、8台で、開店すればすぐ入れられると思っていた。前に並んでいる人に、ガソリンが手に入る見込みがあるのか聞いたがよくわからないということだったので、一抹の不安はあった。30分くらい経つと店員がやってきて、「きょうは軽油だけだよ」と言った。思惑が外れたから別の店に行ってまた並んだ。するとここでも店員がやってきて、今度は会員カードを持っているかを聞いてきた。持っている人には整理券を配るという。持っていないと答えると、整理券はあげられないという。

 仕方がないのでひとまず帰宅した。意を決して並んだがだめだった。何の当てもなく闇雲に行動しても、目的は達成できるものではない。会員カードは以前何枚も持っていたが、すべて捨ててしまった。うまくやる人はどうにかして情報を摂取しているのであろう。ツイッターで検索すると、高速道路のサービスエリアでは少し並ぶけれど入れられるとのことだった。高速道路が一般車にも開放された。たしかにサービスエリアのガソリンは切らさないだろうから、いよいよのときは高速に入ろうと思った。

 帰り道で携帯が鳴った。また展開が変わった。先日の苦労も水の泡となった。あんたも地震に翻弄されるねと言われた。その通りではあるけれど、被災地の状況に比べればどうということはない。ただ、車から離れらない環境に身を置きながら、ガソリンを心配しなければならないのは大きな問題だ。

 しばらくすると叔父と叔母が来た。きのうの香典などの整理に来てくれたのだ。ガソリンの話をすると、叔父が自分のカードで買ってやると言ってくれた。それでいっしょに叔父の行きつけの店に行った。入り口にはロープが張ってあったが、叔父が降りて話をすると通してくれて、ガソリンを満タンに入れてくれた。おかげで今月中くらいはどうにかなりそうだ。血縁地縁の有り難みや会員であることのメリットを見せつけられた。なるべく頼らずにやっていきたいが、そうはいかないものだろうか。

 お金の計算などを昼過ぎまでやった。計算が合わなくて何度もやり直した。自分が額を間違って記入していたことがわかった。間違いというのはあるものだが、それを点検する仕組みの構築というのが実は非常に重要だ。香典の計算と原発の運転とでは規模が違い過ぎるが、根本は共通している。ヒトという生物が、何かを制御しようとするときにぶつかる矛盾。それとの闘いである。

 夕方から弟達を乗せて盛岡に向かう。昨日来てくれた叔母を交えて4人で飲んだ。久しぶりに楽しい時間を過ごすことができた。その後は部屋に戻って洗濯をしたり、パソコンで調べものをしたりした。

■昨日は午後早々に/Thursday,24,March,2011

 昨日は午後早々に職場を後にした。三日間の忌引きとなる。昨夕実家に車で移動した。ガソリンスタンドでは灯油が買えた。ガソリンの状況を尋ねると、何時頃入荷するかはわからないという。だいたい入荷して3時間くらいで完売となるそうだ。行列はまだまだ続きそうだということだった。

 昨日まで賑やかに通夜の酒盛りを楽しんでいた親戚達は今夜は来ないらしい。だが一人だけ来た方があった。居間にしばらく座ってそわそわしていたが、お茶を持ってきた母に酒を出す気がないとわかると早々に帰っていった。わかりやすいというか茶目っ気があるというか、憎めないのだけど。

 きょうは朝から慌ただしかった。8時前に和尚様がいらっしゃり、出棺経をあげてくださった。それから棺桶に白菊などを入れて蓋をして出棺。霊柩車とバスで火葬場まで移動。火葬場では初めに喪主の挨拶をした。打ち合わせでは最後にということだったので少し慌てた。火入れが9時。お骨になるまでの1時間と少し。奥の座敷で待った。団子や煮付けを食べながら、隣に座った叔父と久しぶりに話をした。それぞれに話に花を咲かせていたが、話題の中心は地震であり、津波であった。当日沿岸に出張しており間一髪免れたという話、家が被害にあった知人の話、以前いっしょに働いていた人が行方不明になっている話。この大震災のことが皆の心の中に重くのしかかっており、それはこの先いつまでも晴れることはないだろう。この辛さを引き受けて生きるしかない。ということをきょうも考えた。

 1時間と10分ほどで、準備ができたと知らせが入った。釜から出た祖母は一抱えの白いお骨となっていた。釜の熱を頬に強く感じながら、箸でお骨を一つずつ拾い、白木の箱に納めた。火葬場には別の二人の遺体とその遺族が着いていた。遺体は同じ名字だった。沿岸から来た車だった。遺族の方々の服装を見ると着の身着のままという感じで、津波に遭って亡くなった方だというのは容易に想像できた。

 骨箱を持ってバスに乗り、葬祭場に移動した。葬儀の時間までは2時間半もあった。その長い時間を黙ってあるいはときどき話をして消化した。多くの人たちは家に戻ってあらためて訪れた。13時の葬儀開始と共に地震が来た。一般の会葬者を送ってから、親戚達だけが残って百か日までの法要を行った。和尚様の話を聞きながら、この大きな節目をどう意味付けるかが大切だと思った。

 それから墓所に行き、納骨の儀式を行った。朝には晴れていた空が暗くなり、雪が勢いよく降り出していた。そして冷たい風が吹き付けた。一人ずつ線香を上げて拝んだ。持ってきた団子を一個ずつ食べる予定が、寒いからという理由で省略された。構わないと葬儀屋が言うので、いいのだろう。

 実家のすぐ近くの寿司屋の座敷で会食だった。挨拶をして、献杯をしてから、お世話になった皆に酒やお茶を注いで回った。ぐるっと一周すると料理を食べる時間はなかった。祖母の実家からはるばる来てくださった方からこんな話を聞いた。祖母は春彼岸の中日に逝ったが、その祖母の母親の命日は秋彼岸の中日なのだそうだ。地震があってすぐだし、祖母はいつまでも皆の記憶に残る逝き方をした。

 一日がかりだったこともあり、遠くの人たちは意外と早く帰っていった。実家に場所を移して二次会があったが、これも予想より短い時間で終わった。夜行バスで着いた弟達は相当に眠そうだった。 

■総括の中で/Wednesday,23,March,2011

 総括の中で、最近の傾向からすればすべてが想定内であったという話が出た。個別に見れば悔やまれる例はたしかにあるが、努力が実った例も同じくらいあった。大切なのは自分の中の価値付けである。納得のいく取り組みができればいい。そのためにこれまでの歳月があった。

 後始末という言い方はそぐわないかもしれないが、事後の気持ちの落ち着かせ方が重要である。それは今に始まることではなく、これまで1年とか2年、あるいは3年かけて築いてきた関係性が試される、と僕は思っている。話し合いを繰り返し納得を得ているのであれば、ここで想定外の反応が起こるはずがない。結果がどうであれ、気持ちの切り替えさえできれば、昨夜のうちに心は晴れて、すっきりとした表情をみることができるのだ。

 もしそうでない例があったとすれば、それはこれまでの関わり方が十分ではなかったためである。力量の差といえばそれまで。とにかくきょうは厳然とした評価が下される場面であった。言い訳無用、他人の所為にはできない。すべてが自分のしてきたことの反映である。そういう自覚をもつかもたないかというのが仕事上の大きな分かれ目となる。きょうのことについて僕は、あえて責めるつもりもないし、責めたからといって変わるわけでもない。これも何年という長いつきあいの中で伝え伝わることであり、相手への関わり方の結果なのだ。いずれにせよ一朝一夕で成せることではなく、長時間同じ場にいて、顔を合わせ、言葉を交わし続けることによってのみ変わり得ることなのである。

■朝早く起きて/Tuesday,22,March,2011

 朝早く起きて仕事に出かけた。火葬も葬儀も24日となったので、それまでは特にいる必要がなくなった。近所の親戚達があらゆるところで助けてくれるから、自分がいなくても問題はなかった。

 ガソリンは少なくなってきたが、まだ2、3度実家を往復するくらいは残っていた。仕事場では当然の如く普通に仕事をした。午後には出張をした。町の南側の4カ所を担当して回った。最初の計画では多くの方が車を使うことになっていたのだが、ガソリン不足の折、そうもいかなくなった。それで自分ともう一台で対応することになった。二人組になって出かけ、本部と連絡を取り合った。結果については、いつもそうなのだが思うようにはならない。100%ということはあり得ない。それはわかっていても、ふたを開けてみるといつも残念な気持ちに沈みそうになる。

 幸いだったのは、路頭に迷う例が一つも出なかったということである。ある意味100%は達成した。この一年間やってきたことが報われた。誰も思わないかもしれないけれど、自分自身は勝手に、この一年間の自分の職責を果たせたと考えている。そう思えたことが、何よりである。

 担当としての業務は既に終盤に差し掛かっている。引き継ぐ先も明らかになり、これからは次第にそちらに移行していかなければならない。引き継ぐ内容については一年間共有してきた相手なので問題はないだろう。しかし、引き継ぐ側と引き継がれる側では気持ちの置き所が異なっている。その気持ちを一致させるのがなかなか難しくて、いつでも少し不安が過る。どううまくやったとしても、残された者は不平を言いたくなるに決まっている。去年の自分がそうであったように。だから、時間を取って手取り足取りというより、データや資料の在処だけ確認できるように整理しておけるのがよいだろう。

■午前中は何をしていたか/Monday,21,March,2011

 午前中は何をしていたか覚えていない。たしかパソコンに向かって何か書いていたと思う。11時を過ぎた頃母から電話があり、祖母が亡くなったことを知った。自宅で異変に気づいてからすぐ、医者が来る前に電話したそうだ。職場に寄って翌日のことなどを伝言してから向かった。

 実家に着くと、親戚や近所の人たちがざっと20人くらい来ていて、あれこれ忙しく動き回っていた。祖母の顔を見もしないうちに、葬儀屋との打ち合わせをすることになった。大枠の段取りは僕の着く前につけておいてくれたのだが、最終的な決裁は喪主の僕がしなければならないということだった。何をどうすればいいかなんてわからないから、親戚達の言われるままに動くしかない。しかし、その親戚達の言っていることが人によって様々だし、人の話を聞かずに喋る人が多いので困った。

 たまたま家にいる時に地震が来て、その後10日くらいずっと母の介護を受けていた。余震の時には辺りを見回して驚いていたというから、地震の影響がなかったとはいえないかもしれない。けれど、数えで百歳というのは天寿を全うしたという表現がぴったりだし、大往生であることは間違いない。亡くなる直前までなんの変調もなく、普段と同じようにストローからジュースをごっくんと飲んで、眠りに就くようにしてそのまま冷たくなっていったというから、苦しむことは全くなかったであろう。ほんとうにありがとう、お疲れ様と言ってあげたい。そして、それを最後まで介護した母に対しても感謝と敬意を表したい。

 夕方までは家中が落ち着かなかった。葬儀屋が出入りして、みるみる祭壇が出来上がった。写真ができてきた。昨年の誕生月にデイサービスで撮った写真で、祖母が自分で見てこの人はいい人だよと言っていたお気に入りの写真らしい。鯨幕が引かれ、花輪がいくつか届いて、特別な空間に変わった。

 僕は遠くの親戚に電話をしたり、法事の参列者の一覧を作ってお知らせの紙を書いたりした。夕方からは酒盛りが始まった。近所に集中している親戚達は概ね酒が好きである。彼らにとってはおそらく酒は人生で最も重要なものの一つとなっているのであろう。その姿は落語に出てくる江戸期の庶民を彷彿とさせた。

 十三年前の父のときと同じ面々が集った。あのときは親戚達が喪主なんだから当主なんだからとあまりに圧力をかけるので頭が混乱した。今回もいろいろと話はあったけれど、余裕をもって聞くことができた。これは成長だろうか。いや、慣れなのかもしれぬ。

■何だか調子が悪くて/Sunday,20,March,2011

 なんだか調子が悪くて、熱っぽくて、少し吐き気もする。しばらく小康状態だったけれど、きょうはやけに痛みが強い。暖房をつけて、部屋を暖かくしたが、あまり効果がなかった。

 椅子に座りながら日記を書く。なかなか言葉が出ない。悶絶しながら捻り出す感じ。がっちりマンデーとかサンデーモーニングとかを見る。公共広告機構のCMにも何の面白みも感じない。仕事も部屋の片付けもする気にならず、昼頃になったら睡魔に襲われ、3時間ばかり眠った。

 現地で命も顧みずに働いている人たちには申し訳ないけれど、何もやる気が起きない。ただ、こんな者でも、部屋にいてもできることをやり続ける。日々変わる自分の気持ちを書き続けることも、自分にできることのひとつではないかと自分を正当化してみる。メディアにばかり接していると、心的外傷後ストレス障害のような症状が出ることがあるそうだ。弱い人間。投げやりな気持ちのまま夜を迎えた。 リビアの戦争のニュースに、津波や原発のニュースが押し流される。世界では日々新しいことが起きるので、古いニュースはどんどん隠れて見えなくなってしまう。毎年のように世界では地震が起きている。スマトラ沖の津波は2004年のこと。パキスタンは2005年。四川省では2008年。そしてハイチは2010年だった。僕はすっかり忘れていた。2011年の311も何ら変わらない。でもそれでいいのか。あのときの気持ちは偽物だったのか。時間が経てば忘れてしまうほどのことなのか。

 岩上安身氏が佐藤栄佐久元福島県知事にインタビューする番組を見た。原発建設に反対する佐藤氏が汚職で逮捕されたのは、東京電力と国がグルになって仕組んだ冤罪だった。データの改竄とか、東京地検特捜部とか、顔の見えない官僚とか。以前何処かで聞いたのと似たようなことがここにもあったのか。失望と落胆でいっぱいになって、胸が悪くなった。

 気分転換の散歩というのは有効だ。そう思いながら時間はどんどん過ぎていって、とうとう一歩も外に出ることなく眠りに就くことになった。何をすることもなく日を終えた。願いや祈りの気持ちも、きょうは薄かった。

■少し早めに起きて/Saturday,19,March,2011

 少し早めに起きて準備をした。朝食を食べて7時半にはおにぎり持参で出発した。車のフロントガラスが凍り付いていた。いつもはエンジンをかけて暖気で解かすのだが、きょうはエンジンをかけずに削り落とした。とにかく最小限のエネルギーだけ使い、週明けの仕事に支障のない状態で戻ってこなくてはならない。

 思ったよりも早く到着して、9時半頃から3時間くらいの間に3軒の店を訪ね、全部で6カ所に連れて行ってもらった。大変な時期にも関わらず、どの方達も良心的に対応してくれて恐縮しっぱなしだった。中には今回の津波で身内が行方不明になっているという方もいた。その方は今朝3時からガソリンスタンドに並んで、10リッターを買ったのだそうだ。僕が訪ねるということもあり、被災地で泥だらけになった軽トラをきれいにしたということだった。話し好きのそのご主人の、サービスに徹する姿勢が素晴らしいと思った。13時頃には予定していたすべてが終わった。スーパーマーケットでお茶を買って、そこの駐車場で昼食をとった。

 来た道とは別のルートを一部通って実家に寄り、少し休んでから自宅へと出発した。ガソリンスタンドは軒並み閉店していた。日曜と月曜は休業という表示を出している店が目立った。ガソリンは思った以上に残った。これで火曜日の仕事までは問題ない。そのうちに事態は好転するだろう。

 心臓がトカトカして何だか具合が悪くなってきた。久しぶりに長距離を運転したからか、何人もの人と話をしたからか、気になっていたことが解消できた安心感からか、疲れがどっと出てしまったのか。

 電話をする頃には落ち着いた。事態はまだ進行中である。どうなるかわからない状況は変わらない。話は進んだけれどもすべてが無駄に終わってしまう可能性もある。何度も書いているけれど、いくら考えても仕方がないので、やはり沙汰を待つほかない。

 ここ数日のラジオでは、関西からも阪神大震災の経験を踏まえた多くの投書が紹介されていたり、内橋克人氏など高名な評論家たちが示唆に富む話をしたり、遠くの親戚に寄せる生の声が放送されたりしている。しかし、その放送の途中で地元局に切り替わり、別の情報を流し始めるので、せっかくのメッセージが被災地では聞けないということが多いように思う。被災地ではどんな情報が必要なのか。NHK内でもそれらの選択ができていないようで、もどかしく思った。

 原子力発電所では、ハイパーレスキューの決死の処置によって事態が改善されているらしい。放射能という形もにおいもわからないもののために、恐怖と闘って命がけで前線に立つ隊員達やその家族の思いをどれだけ引き受けることができるかわからないけれど、自分の代わりに行ってくれていると考えたら、黙ってはいられない。

 福島の原発が廃炉になるとしたらこれから首都圏の電力はどうなるのか。また別のところに新たな原発を作ればいいという声も上がるだろう。「原子力利権」というのがあるそうだから、儲けようとする人の声が強ければ、誰が何を言ったってまたできるに違いない。一握りの誰かの儲けのために、何千万という人々の命が危険に晒され続ける。国民は騙されている。そんな構図は僕の勝手な空想だろうか。

 名もない庶民の謙虚さや優しさは信じるに値する。映し出される人の声という声から真心が感じられる。世界も生き様を賞賛している。けれど、この国の財界や政界のトップが何を考えているのかはいまだに理解できない。戦争も原発もかれらにとってはけして悪い話ではない、ということではないか。

 庶民には信じられないことばかりが起きる。けれど、僕らはもっと怒りを結集する必要があるのではないか。この先もこの国で生きようとするならばの話だけど。

■いつもどおりの/Friday,18,March,2011

 いつもどおりの出勤。職場は全体的には落ち着いていた。しかし、仕事はすべてが混乱の中にあった。これからの予定がどのようになるのか。二転三転。大本が揺れているだけに、末端は為す術がない。

 多くの人の目先が四月以降のことに推移しており、今年度の終局はすでに事後処理と同義となっている。それどころじゃない、というのはわかるが、自分の立場としてはとりあえずそれしかない。とにかくいずれ示される指示に従うだけ。来週の見通しをつけるべく、できる仕事を粛々と進めた。

 沿岸への援助に名乗りを上げた者が何人もいた。その人たちの心に感銘を受けた。身近な人がそこにいることが大きいのかもしれないがそれだけではあるまい。使命感、責任感、正義感、自分にできる何かをしたい気持ちが、あの人たちを突き動かしているのを感じた。何かしたい気持ちは強さや勇敢さと関係なく、誰もが抱く。だが、実際に行って動ける人とそうでない人がいる。この月末の数日間を空けるわけにはいかないし、自分が行ったとしても足手まといになるだけだろう。だから僕はここでできる支援をする。

 一段落ついたところで時間休を取って帰宅した。昼食を取る間を逸した。今朝から口にしているのは大福だけだった。部屋に戻ると疲れが襲ってきた。コーヒーを淹れてもう一個あった大福を食べた。地震から一週間が経ったというので、放送に合わせて黙祷した。この一週間は長かったと思う。

 それから、最小限の荷物だけを持ち、最大限の厚着をして車に乗り込み、実家に向かった。ガソリンスタンドには長蛇の列。二車線の国道の走行車線側には、エンジンを止めた車が一キロほども続いていた。素人目に見ても後ろのほうの車にはガソリンは行き渡りそうもない。その後、同じような光景をいくつか見ることになった。この列を見ながら、並ばないで家にいたらいいじゃないかと思った。並ぶ時間があるというのはある意味暇だということではないのか。いやしかし、並んででも買わなければならない事情もあるのだろう。例えば仕事で使うとか。ガソリンがなければ仕事を休んでもいいよという柔軟な事業所もあるだろうが、それを許さない事業所もある。それは会社全体の対応というよりも直属の上司の一言だったりするのかもしれない。自分だけが休むのを遠慮しているかもしれない。あるいは並んでいる当人が社長かもしれない。ガソリン不足に個人の責任はない。だが、このような状況下では条件が調うまで待つという態度もまた必要だ、特に上に立つ者には。

 久しぶりに実家に行った。母とはこの何日かのことを情報交換した。祖母の顔も見た。母は地震の直前に紙おむつや灯油をどういうわけかいつもより多めに買っておいたそうだ。僕も幸運なことが重なって、こうして車で来ることができた。我々は守られてるんだねと話した。

 少し休んでから徒歩で墓参に行った。一週間前には想像もつかなかった事態になった。祖父や父の生きていた頃が現代からはずっと遠い昔のように思われた。未来という透明の岩盤を巨大な掘削機でガンガンと掘り進んでいるイメージが浮かんだ。以前は未来とはもっと柔らかいものだった。ただ何となく生きていれば未来は訪れて、なるようになった。だが今の時代では、勝手に未来がやって来るということはない。刻々と変わる状況に合わせて具体的に切り開いていかなければ、この先を生きていくことができない。未来はそれほど険しく厳しいものに変化してしまった。

 父がこの家を建てたのが平成三年のことだからもう二十年も前になる。この二十年、何も変わらないようでいてすべてが大きく変わった。時代が変わっただけでなく、僕らもそれぞれ歳をとった。それは大変なことでも困ったことでもなく、そのまま受け止めるしかないことだ。いまこうして生きていられるのは、今は亡き人々に守られているからである。以前ここに暮らしていたときと同じように、温かい食事をたっぷりとり、ゆっくりと温かい湯に浸かり、暖かい布団で早めに休んだ。

■寒い朝/Thursday,17,March,2011

 寒い朝。こともあろうに、雪が積もっていた。こちらはまだまだ冬。寒いし、道路はつるつるだ。それでもさすがに自転車や徒歩で通勤する人が多くなった。バスも一部で走っているが、数が少ない。必要以上に車を使わないことは、ずっと前から良識だった。ただそれが普及するまでには至っていなかったのだ。これを機に一歩考えを進めて、多くの人が行動できるようになればよい。

 通勤がどうのなんて、こんなこと。被災地の苦労に比べれば何でもない。それに、寒さをしのぐ建物があるし、温かい食べ物でお腹を満たすこともできる。気がつかなかったけれど、この何でもないことこそが、ほんとうにありがたいことだった。

 この時期の沿岸にはどか雪が降ることがある。沿岸の人たちが早く暖かいところで過ごせるように、十分な食べ物が食べられるようになればいい。そのため今はとにかく資源や物資を被災地に集中しなくてはなるまい。輸送手段も確保されつつあるそうだ。この時にも休まず復旧に力を注ぐ人たちがいる。その人たちに心を寄り添いながら、自分はできることを続けるしかない。

 きょうも沿岸の知人の消息を案じる声があちこちで聞かれた。確かめようがないけれど、話さずにはいられない。デスクワークが続いた。何をしていたのか思い出せないほど、動かずにただキーを打ち続けていた。年度末の事務と割り切って、どんどん片っ端から片付けていこう。

 昼にはまた外に出た。食堂で魚の定食を食べた。非常に豊かな食材で、お腹が満たされ、幸せな気持ちになった。おかみさんの話では、きょうから店を再開したという。おかみさん自身が電車を使っているので、きのうまでは移動ができなかったのだそうだ。いつもはご飯のおかわりは自由だが、しばらくは二杯までだよごめんねと言っていた。

 午後も同じ仕事を続けた。夕方になって新しい情報が入った。よいともよくないとも判断がつかない。朝令暮改。明日にはこれがどう変わるかもわからない。いずれにせよ今週末には、必要な手続きを進めてくるしかない状況であることには変わりないだろう。心配なことは多々あるが、考えていても仕方ない。全権大使ということで、自分一人で行ってくる。きょうは誕生日だった。そのことを覚えてくれていたことだけで、目頭が熱くなった。

■きのうの夕方のこと/Wednesday,16,March,2011

 きのうの夕方のこと。車検と修理が終わった知らせを受けて、店に車を取りに行った。一度も使うことなく返した代車にはガソリンが満タンの状態で入っていた。引き取った自分の車にもほぼ満タンのガソリンが入っていたのがわかり、胸を撫で下ろした。週末には車が使える。そして週明けにも使えるくらいには余るだろう。必要なことはどうにかできそうだ。希望が湧いてきた。

 きょうの仕事といえば、電話を使っての情報収集が中心だった。そして、パソコンに向かって一覧表の作成。途中、郵便局にも行った。ガソリン不足で郵便事情も悪く、同じ市内でさえいつ配達されるのか不明だという。それでもいつもの局員さんは、もし車が使えなかったら自転車でも歩いてでも届けますと言ってくれた。これぞ日本の郵便局。頼もしく感じた。国によっては、出したのに届かないなどというところも多々ある。そういえば、ある夏、ある国から暑中見舞いのはがきを出したときのこと、40枚のうち半分は届いていなかった。

 昼休みには何人かと外に出た。近くのラーメン屋に行く人たちもいた。スーパーマーケットには物が少なくなっていたが、予想ほどではなかった。野菜も果物もあり、総菜や弁当もあった。パン売り場には焼き上がりを待つ人々の列ができていた。しかし、トイレットペーパーは品切れだったので残念だった。紙がなくても何とかなるか。幸い水も出るしタオルもある。昼食は弁当を買って食べた。

 午後にはまたデスクワークを進めた。その合間に机の中を片付けたり、パソコンの中を整理したりした。職場には笑いが絶えない。これは一種の適応機制ではないか。こういうとき明るさを失ってしまってはいけない。それにつけてもガソリン不足のために、すべての移動が困難になっている。きょうは通勤ができない人もいた。せめて公共交通が復旧すれば何とかなるのだが。夕方には何軒かに電話をした。連絡が取れたところと、取れなかったところがあった。

 

■大きな節目の日を/Tuesday,15,March,2011

 大きな節目の日を4日遅れで迎えた。震災のことがあったので、細部に変更した部分があったが、概ね予定どおりにことが運んだ。そして、ことが済んでから浮上してきたのが、これからの勤務のことだった。何せガソリンが手に入らないために車が使えない。しかも、電車もバスも止まっており、いつ復旧する目処も立っていない。このような状態で、明日からどうやって通えばよいのか、困っている人が大半だ。そして、きょうになってわかったことだが、同僚の中には実家が流された人、身内が避難所に居るという人もいた。それで仕事を休んで食料を届けたいという人もいた。限られた沿岸地域への交通路のうちどの道を通れば近くまで行けるのかとか、ガソリンがまだ残っているスタンドはどこかとか、食料が買える店はどこかとか、あちこちで情報交換が行われていた。驚くことに、3時間並んで10リッター買うというのを2回繰り返した人がいたそうだ。また、福島原発の放射能を気にする声も聞かれた。雨や雪に当たってはいけないのだそうだ。何日か前に叔母を介して回ってきたメールを僕も何人かに回してしまったが、あれもいわゆるチェーンメールというものだろう。

 不確定の情報に躍らされ、必要以上に不安を抱いたりしてはいけない。たとえ東京電力や原子力安全・保安院、そしてメディア全般の情報が、わかりにくかったり疑わしかったりしても、それを見越して事実を見極める目を持たなければならない。放射能に関しては、メディアのセンセーショナルな扱いが不安を煽っているところがあるのではないか。ちょっと調べてみただけだが、放射能については今の時点では実際にはまったく心配の要らないレベルだと僕は判断した。

 被災者にもっとも寄り添って報道を続けているのは、岩手放送のラジオだろう。避難している人々の名前を読み上げたり、被災地の様子や被災者が今何を求めているのかをレポートしたり、中央の報道とはまったく異なって、あくまでもローカルな視点に徹してやっている。あらためて地元放送局の底力を見せられている気がする。不眠不休でがんばっているアナウンサーやスタッフを心から応援したい。

 ここにきて、配慮がないとか、情報が足りないとか遅いとか、一種神経症的な声が聞かれ始めている。たしかに、元締めのところの動きがまったくみえないのも事実だし、それでやきもきさせられている部分は大きい。しかし、今はそれを責める時ではない。決まることはいずれ決められる。追って沙汰は出る。今はそれをただ待つでなく、自分ができることを考えて進めるしかないではないか。

 また、明らかに公私混同だったり、優先順位を取り違えていたりという言動もみられる。有事であることを思えば一概にエゴと非難できることではないけれども、我々はもう少し冷静になって、地に足をつけて暮らさなければならないのではないか。

 千年に一度の震災だという。それが何の因果か、よりによって今年日本で起きた。千年に一度というのなら、この災厄を経験する我々は、見方を変えれば千年に一度しか学べない尊いことを学べる機会に面しているともいえる。それが果たして何なのか。生き残った我々には、それを見極め、身に付け、世界に知らしめ、次代に引き継ぐ責任がある。我々は一人一人が大切な使節。これは実にミレニアムなミッションなのである。

■実家からの電話で/Monday,14,March,2011

 実家からの電話で目覚めた。電気がようやく通じたという。祖母が通っているデイケアはしばらく受け入れ不能らしく、電話の向こうからはまるで赤ん坊のような祖母の声が聞こえてきた。

 明日から入る予定だった水道工事が資材の調達ができないため延期になると電話で連絡が入った。こちらに来るための燃料すらない状態だという。緊急を要するものでないから、こちらはいつになっても構わない。

 本日は、土曜勤務の振替で一日休みだった。しかし、ひとつの予定変更に伴って、付随する多くの機関の予定もまた大きく変更となった。それを一つ一つ確認して一覧を作り、明日には配布する必要が出てきた。ホームページをチェックしながら、更新されているところはメモし、していないところには、職場に行って、そこから電話をかけることにした。

 外は晴れて、暖かかった。寒い部屋の中に居るより気持ちがよかった。官庁街には、これから被災地に向かうのであろう自衛隊の車両が何十台と停まっているのを見た。また、空には被災地を往復するヘリコプターが飛んでいるのを見た。

 10時半頃、職場には10人くらい居て、それぞれに仕事をしていた。僕は事務室でパソコンを開きながら、電話をかけた。そのうちにFAXが届いたり、電話が入ったりした。途中身内からいくつかメールが入り、それに返信したりした。宮城の従弟から無事の知らせが入った。まだ電気も水道もだめだが、皆大丈夫だというのでよかった。

 一連の仕事が終わると15時前だった。飲食店がいくつか開いていたが、もう時間を逸してしまった。家に戻り、熱いコーヒーを淹れ、南部煎餅を齧った。煎餅、非常食にはもってこいだ、大量の煎餅を被災地に送ることができたらいいと思った。

 夜になって妻と電話で話す。ようやくきょうになって水道が復旧したそうだ。何人か、知り合いの消息がわかって安心したという。情報交換したり、これからのことを話し合ったりした。連絡も取れないし、何も決まっていないし、自分達のことながらどこか人ごとのように感じている。

■テレビには/Sunday,13,March,2011

 テレビには津波の恐ろしい映像が何度も繰り返し映し出される。それを見ているうちに具合が悪くなってきた。何度も見ていると気持ちが沈んでくる。被害の甚大さはよくわかった。有史以来最大級の災害であることもわかった。でも、こればかり見ているといけないと思った。

 名簿をみると沿岸地域にいる知人の名前がたくさんあった。皆無事であり、家族いっしょに逃げていると信じるしかない。がんばってほしい。

 昼を過ぎて、外に出た。アーケード街の喫茶店が一カ所だけ開いていた。そこでコーヒー豆を買った。店内は年配の人たちでごった返していた。店の主人と親しげに話していることをみると、常連のようだった。テレビはつけっぱなしになっていた。挽いてもらうまでタバコの煙の中で待った。

 きょうは日曜だった。土日に休業する店は元から多いけれど、開いている店は数えるほどしかなかった。ラーメン屋が数軒開いているのを見た。バスセンターの中の店も開いていた。材料がある限り営業するという張り紙があった。バスは県北バスの4本を除いてすべて止まっていた。

 明日からの経済活動はどれだけ可能なのだろうか。だが、この際経済は後回しにして救助活動最優先でいかなければならないだろう。ガソリンスタンドには車が長蛇の列を作っていた。一台あたりの販売制限があるようだ。ニュースでは10リッターまでとか言っていたから、どこにも足りない。灯油だって推して知るべし。できるだけ車に乗らず、暖房も最低限にして、省エネルギーに徹することが必要だ。直接には何もできないけれど、できることといえば省エネと、祈ることだけか。

 八百屋もスーパーも薬局も開いていた。込み具合はいつもと変わらなかったが、在庫は少なくなっていた。特に、冷凍食品とパン類は一つも置いていなかった。味噌と野菜を少し、それからペットボトルの飲み物を買った。何人か関係者と会って、短い言葉を交わした。

 これからのことを考えると、どうしてよいのか。自分だけでない、誰にとってもそうなのだ。個人でできることは限られる。電話は未だ通じない。車があっても移動できない。だいいち沿岸との交流ができなければ話にならない。今年度から来年度にかけては、すべてが遅延することになるのではないか。沙汰を待つよりほかないという部類のことだろう。

 "pray for Japan"のメッセージが世界から寄せられているのをみる。日本の人々の高い道徳と忍耐強さにまつわるエピソードを知る。いまは、気持ちを暗くするときではない。避難している人々の心に寄り添い、災害復旧に懸命に取り組む人々を支援し、希望を見失わないようにすることである。被災地の人々が無事であり、早く普段の生活を取り戻すことを願う。

■3時過ぎには/Saturday,12,March,2011

 3時過ぎには目を覚まし、ラジオを聴いていた。緊急地震速報が立て続けに鳴って、今度は長野や新潟でも大きな地震が起きたことを知った。眠れずに、明るくなるまでラジオを聴いていた。

 朝方携帯が鳴って、職場の人から連絡が来た。予定は変更となったが、出勤はするようにとのことだった。その後、妻と初めて連絡が取れた。家にいるというのでひとまず安心した。携帯の電池がないというので一旦切って、家の電話にかけようとしたが、何度やっても繋がらなかった。

 水道は停まっており、水の確保が必要となった。バケツとペットボトルを持って近くの清水に行ったが、水を汲み上げる電動ポンプが停まっているので水が出ていなかった。戻ったところで同じ階のおじさんといっしょになった。管理人さんの話では、民家では水が出るという。そこでおじさんといっしょに近所の民家に行って声をかけると、そこのおばさんが公園の管理事務所の水道が使えることを教えてくれた。水を汲んで戻ろうとすると、次々と同じ目的の人たちがやってきた。

 職場に行ったが、特に何もできない。30分くらい建物の点検をし、1時間弱来週の準備をして、帰宅した。途中のお菓子屋の前で売られていたクッキーやバウムクーヘンを買った。魚屋や豆腐屋の前には行列ができていた。稼働していたATMから当座の現金を引き出した。帰宅してもとにかく寒いので、布団を被ってラジオを聴いていた。昼頃になって、一階で蕎麦を配っているという知らせがあった。生そば一袋にタレとネギもいっしょについていた。この蕎麦は後にとっておくことにして、昼飯は冷凍庫にあったコロッケをフライパンで焼いて食べた。

 歩いて叔母の家を訪ねた。反射式ストーブがあったおかげで、暖かかった。紅茶を飲みながら、昨日からのことをあれこれ話した。スーパーの前には長蛇の列ができていた。

 18時を過ぎて窓を開けると、近くの建物の電気がついているのが見えた。少し経つと、部屋の電気もついた。わずか一日で復旧した。誰かが懸命に直してくれた。この間、僕はラジオを聴くことしかできなかった。できることをするだけなんていって、困っている人たちのために何かをすることなんてできなかった。自分自身のことだけだった。今も気にかけているのはこれから自分達がどうなるのかということだ。この地震のためにまた予定が変わるらしい。頭が痛くなってきた。

 叔母の家で夕飯をご馳走になった。大きなテレビで被害状況を見た。全貌はまだわからなかったが、まさに未曾有の事態だと思った。それから、原発が爆発したという。電気がないことで感じた不便さと電気のありがたさ、そして、放射能のリスクを冒してまでも電力に頼る我々の生活、この矛盾の中で生きざるを得ない自分達とは何なのだろう。

■午後2時46分/Friday,11,March,2011

 午後2時46分、地震があった。平成23年東北地方太平洋沖地震と名付けられた、これまで経験のない規模の地震だった。まるで訓練のような既視感があったが、訓練ではなかった。余震が頻繁に起こり、混乱はあったが、自分の周辺は皆無事だった。建物を上がったり下がったりして、荷物を運び出した。ラジオから入る断片的な情報で、被害が尋常でないことがわかった。

 17時を回って、集まりを持って、帰宅した。細かい雪が降り出した。電気は完全に停まっていた。スーパーには長蛇の列ができ、信号もすべて止まり、車は渋滞を起こしていた。公衆電話が使えるというので、途中で実家にかけると無事が確かめられた。帰ると懐中電灯を確認し、電池の在処を探した。電話はだめだった。水道はまだ出ていた。お湯も、ガスも出たので少し安心した。念のために鍋という鍋に水を溜めた。車検の車を取りに行く約束だったのでディーラーに行ってみると、ちょうど担当の方が帰るところだった。この地震のために修理が終わっておらず、まだ車が戻っていないという。そこで予定になかった代車をすぐに出してもらった。とりあえず交通手段は確保できた。

 スパゲティを茹でて野菜とホワイトソースを絡めて食べた。暖房がないので、厚着をして、毛布を被ってラジオを聴いていた。デパート前の公衆電話から実家に連絡した。停電しているが電話は使えるとのことなので、妻や親戚たちに連絡を取ってくれるように頼んだ。外は車のライト以外に人工の明かりはなかった。三日月がこんなに明るいのかと思った。星が美しく輝いていた。

■大きな節目の/Thursday,10,March,2011

 大きな節目のあった翌日で、自分の気持ちは少し緩んでいた。週末、そして週明けにあるはずだった仕事への準備を万端にして、19時前には職場を出ることができた。雪が降っており、買い物が必要だったので、途中でバスに乗って街中の産直に行った。そこで両手いっぱい、食料を調達した。

■少し早く出た/Wednesday,9,March,2011

 少し早く出た。天気の心配はなかった。昼前に地震があった。立っていたのであまり感じなかった。

 心配した問題は発生することなく、概ね無事に過ぎた一日。

■午後から雪が/Tuesday,8,March,2011

 午後から雪が降り出して、夜には薄く積もった。三寒四温。簡単に春はやって来ない。

 突然の来客に少し戸惑った。非常に脆弱な仕組みだなあ。そう思いながらはや一年。

 

■疲れを引きずって/Monday,7,March,2011

 疲れを引きずっての月曜日。午後には熱っぽくなったが、栄養ドリンクを貰って飲んだら治まった。

 夜にはいくつかの新しい情報が入った。どこに行っても伸び伸びと生活できるのがよい。

■手紙を書いて/Sunday,6,March,2011

 手紙を書いて、車を車検に出して、床屋に行った。

 昨日の睡眠不足のために、日中眠くなった。夜には電話で話した。いささか疲れた。 

■意外と早く出て/Saturday,5,March,2011

 意外と早く出て温泉に行く。風呂に入り、食事をして、南に向かう。

 何事も思いどおりにはならない。展開が思いどおりになる確率は、だいたい一万分の一である。

■この一週間は/Friday,4,March,2011

 この一週間は短かった。あれよあれよという間に時間が経った。

 情報を受け止める。落胆もしないし、喜びもしない。日記、今月は簡単に書く日が多くなりそう。

■桃の節句/Thursday,3,March,2011

 桃の節句。今朝歩いているときに端午の節句という言葉が浮かんできて、途中まできょうは端午の節句だと勘違いしていた。職場で辞書を引いてみて初めて誤りに気がついた。桃の節句について考えた事があったかどうか記憶はない。今まで話したことのないことを話した。あれこれ浮かんできて、一単位時間をやり過ごすのに苦労はいらなかった。それもひとつの節目の意識からかもしれない。

 きょうは残念な知らせを聞いた。だが、遠く離れてゆく人ともいずれまた会う機会があるだろう。自分のことを振り返ってみれば、30年の時を経て思いがけず再会するようなこともあるのだから。

 ところで、携帯電話による入試の不正は刑事事件に発展し、犯人逮捕に至った。罪状は入試業務の妨害。すべて単独行動だという。ニュースでは考えられる手口として問題を撮影して送信する方法が紹介されていた。だとしたら、試験監督は何をしていたのか。大切な業務を怠ったのではないか。普段の定期試験だって学生の様子には注意を払って見ているはず。ましてや今回は入学試験だ。内海桂子師匠も呟いているけれど、これでは学校の体制のほうに問題があったといわれても仕方ない。試験監督ひとつろくにできない大学など入るに値しないのではないか。

■ケガレの状況/Wednesday,2,March,2011

 がっかりする知らせ。一年も経たずして志を曲げざるを得なかった理由を追及するつもりはない。しかし、選択するに至った経緯を振り返ってみる必要がある。責任の一端を担っていたわけで、何が悪かったのか、足りなかったのかを検討するのは大切なことである。見逃していた要素、というより見て見ぬふりをしてきた要素があったのではないか。内包する問題点が前景化しないことをいいことに、無いものと扱った事実はなかっただろうか。対象の分析が十分でないまま、皆中途半端なまま終わらせてしまったのではなかったか。個人の素養に求めるだけでなく、体制として振り返ることも欠かせない。

 同じようなことを繰り返す危険がある。問題点のうちはっきりしていることがある。毎日がお祭りのような日々。ハレの日とケの日の区別などなく、毎日何らかの行事がある。これでは節目の意識などもてないから、日常生活が立ち行かない、まさにケガレの状況に陥ってしまっている。もっと真っ当な日常を送りたい。日常の中で力を貯めて、ハレの日に思い切り弾けたい。そのメリハリこそが、道程を楽しくしてくれるのだと思う。

 近くの人とため息を洩らしながら、とにかく毎日何かあることを嘆きあった。毎日のお祭り騒ぎに躍らされているのが、疲れの大きな原因かもしれぬ。そして、それを助長する組織による暗黒体制を前に、またいつものように脱力するのであった。

 しかし、できることは日常の中にある。事実に向き合うこと。本分に徹すること。やるべきことの本質を追究し、果敢に研究していくこと。日々の地道な学びを継続することである。

■古い体質/Tuesday,1,March,2011

 昨日は皆に苦労を強いた日であった。やむを得ない事情とはいえ声の表情一つからも不満がみて取れた。しかし、形にならぬものに惑わされても仕方ない。必要なことは、誰がどう考えようと推し進めるしかない。いつも柔らかに、水の流れに従うようにやっていればいいというものではない。流れに逆らってでも、必要なことを必要なときに行う思い切りが要る。

 これも昨日のこと。夕方からひとつの会議があり、そこで現状に対するさまざまな文句の言い合いになった。これではモチベーションが下降する一方だと。少し唐突な気がしたが、それほどに皆が強く同じような不満を抱いていることがわかったことは良かった。しかし、それらの辛辣な言葉を管理職に一字一句伝えるだけで改善できるかというとそれは安易というものだろう。もちろん伝えて変わることなら伝えたほうがいい。今回も伝えたお蔭で対応が変わったところも確かにあった。

 だが、相手からすればあまりに一方的な文句であり、それではこれまであなたがたは何をしてきたのかと問いたくなることもあっただろう。これまで一度も交渉など持つこともなく、関係性の構築を図らぬまま、たまったものをただ浴びせかけただけだったのではないだろうかと、自分なりに反省した。大切なことは、毎日顔を合わせる中で関係をつくっていくことではないか。江戸の敵を長崎で、ではないけれど、そこにとにかく反対するだけ反対するという、この組織の古い体質が滲み出ていたような気がした。