2015年8月 August 2015

Sunday 26 August

 私的な言葉を綴らなくなって久しい。その代わり仕事上の書類は書く頻度も種類もずいぶん増した。

 仕事に縛られた状態が多くを占めているのは不本意なことではある。しかし、仕事に縛られていない状態の時にはまた別の何かに縛られている。つまり生きている間終始縛られっぱなしであることは仕方ない。解放を求めるのは死を求めるのと一緒だが、どうであれいつも解放を求めたい。

 変なニュースばかり飛び込んでくる毎日。日本語を介するものとそうでないものとがあるが、どちらもやたら変なことばかりが目に付く。原因など分析できないほど複雑化したことがら。単純に何かのせいにできるとは考えられない。ただ、自分という人間も、そのような時代に生きており、その構成要素のひとかけらであることへの感慨がかすかに過る。

 戦争が近いという。テロがいつどこで起きるかわからないという。地震はここでは無いとしても、どこで爆発に遭遇するか、流れ弾に当たるか、クルマが突っ込んでくるかというように、何をどれだけ心配してもしかたない。とにかく、毎日毎秒死を思う。死ぬ瞬間というものを、絶えず思い浮かべる癖がある。命根性と言う言葉があるが、むしろそろそろもう潔く去りたい。

 米国で生放送中のリポーターとカメラマンが撃たれて死ぬという事件が起きた。本人たちの人生が否応無く中断させられたことを思えば、非道な犯罪に気持ちが震える。しかし、その事件を自分のこととして悔やむ主体はもう無い。誰にとって衝撃かといえば、それを見た多くの他者が、恐ろしい辛いと嘆くのである。個人的には死は怖くない。怖いのは、それが否応無く社会的なものだからだ。