porque  porque

2015年7月 July 2015

 

Saturday 18 July

 昨日1学期が終わった。窓を開けると、高原のように清浄な空気が部屋に入ってきた。夏休み1日目の朝、1年のうちでこれ以上解放感に満ちた時は無い。新しい年度に入ってからというもの、息つく暇は無かった。思いは心に浮かべど、身体を思うように動かすことができないもどかしさ。しかし行動できないのは老いたせいではなく、すべてにおいて未熟だということだ。頭の中で建設する建物といえば、テントや掘建て小屋程度のものでしかない。その柱さえ満足に立てる技能がないのである。もとより高層建築などはなから立てようとは思わないから、まずは足場をきれいにしようかなどとのんびり構えているばかりなのだが。

 自分が生まれる前の無意識を想像することは難しい。だが、何の組織もまだ出来上がっていない状態。そこに還っていくと思えば何となく気が楽になる。この世で足掻くように生きるのも、夢のようなものに過ぎない。

Saturday 11 July

 何も無い土曜の朝。少しゆったりとした気持ちになって、先月のページなどを直している。

 7月に入った辺りの一週間は、昨年は一日も無かったほどの暑い日が続いた。それから気温は落ち着いて、まるで秋が来たかのような爽やかな空気になった。こちらの人々はあれほどの暑さには慣れていなくて、暑さのために休校となったりしたらしい。温暖化はまだ進む。今後もしばしば猛暑の夏になるのだろう。欧州の動きが世界を牽引するとすれば、温暖化対策はこれから本腰を入れて行われるのかもしれない。

 2年目になると少しは楽になるかというと、これもいつものことだが、まったくそういうことは無い。立場が変わればまた見え方も変わるし、考え方も変わる。そして責任は増すばかり。自分でも嫌になるくらい、他人の粗ばかりが目に付き、口を衝くのは愚痴ばかりだ。白髪が増えれば、皺も増え、車でばかりだから足腰も弱くなり、夜になると、高緯度地方の夏とはいえまだ明るいうちに眠りに就くほどだ。

 20歳で時を止めた友とこの頃会話する。恵まれるというのはどういうことか。恵まれた環境にいる者が恵まれない環境にいる者を気遣えるものか。衣食足りて礼節を知るとはほんとうか。できることはたったこれっぽちか。あれから30年の月日をどう生きてきたか。これから突如途切れるその日までをどう生きるのか。問い続けることが答えになる。