雑記帳 2001年5月

■薄暮のサイクリング
 きょうの下校時間には学校近くの交差点で黄色いタスキをかけて立っていた。下校指導ということで、帰りの子供達に声をかけた。6時半前には誰も通らなくなったので、そのまま僕も帰宅した。新しい自転車にきのうライトを取り付けた。夕べ試走で近所を走った時には、けっつがいてえなあ、サイズも大きすぎたかなあと少し後悔していた。ところが、きょうは違った。短パンにトレーナーの格好で、夕暮れの中、雫石川の河川敷にある自転車コースを走った。西の空は雲一つなく、岩手山のシルエットがくっきりと浮かび上がっていた。そして、カエルの鳴声が響く田んぼに山の姿がきれいに映っているのを見た。ちょうどニセアカシアの花が満開の時期を迎えており、自転車コース全体が甘い匂いに包まれていて、なんともいえないうっとりした気分になった。小一時間マイペースでペダルをこいで、さっき帰ってきたところだ。気持ちいい汗をかいたよ。うん、いい感じ。これならもっと遠くに行けそうだ。夏までにもう少し足腰に筋肉をつけよう。毎日少しずつトレーニングすることにしよう。と、いま頭の中は自転車のことでいっぱいになっているのです。しかし、これからテストの採点だ〜。明日必ず返すからって、生徒たちに宣言してしまったのだった…。(01.5.28)
■週末ノート
 夕べは飲み会だった。迷ったが自転車にした。酒蔵の集まった川向こうの町は昔ながらの情緒を残している。その一角に造られた新しいビア・レストラン。意外と着くのは早かった。そこで飲んだ地ビール。草の香りがするような、どこか青い味がした。料理はいわゆる多国籍で、あちこち旅をした気分になった。トマトにとうがらし。いろんなサラダ。純粋に、うまいもんを喰ったという満足感だった。いかに普段の食生活が貧困かということ。日本はその気になればいろんないいもんが喰える国だというのに。この頃僕はじんましんが出て、手足がかゆくてしかたなくなるのだが、これは食生活と大いに関係があるだろう。ベトナムの生春巻きを久しぶりに食べた。香草とニュクマムのにおいが懐かしかった。ああっ!ビアホイの当番だったことを思い出した。なんてこった。ごめんなさいとしかいいようがない。がんばります。
 土曜日は朝から部活だった。平日と同じ時刻に出て、夕方5時に帰宅した。疲れて一眠りしたら8時だった。注文していた新しい自転車が届いた。かっちょいい。だがスタンドも泥よけもついていない。何と本格的。街乗りでしかも長距離も OKの欲張りなタイプ。僕に似合っている。中途半端ってことか。実はこれで遠出をしてみようと思っているのだ。時間があればね。明日の日曜も昼から部活ということに決まった。遠足の下見を兼ねて平泉に行こうと思っていたのだが、そうはいかなかった。テストの採点も手付かず。忙しさにかこつけてやらないことばっかし。ほんとは努力不足なだけなのに。どうしても越えられない。どうしても越えられない壁。みんなはどうやって越えたのか。 
 H.I.Sに電話をかけて、航空券のことをきいた。ラオスには危険情報が出されていて、ヴィエンチャン特別区は危険度1だそうだ。それを耳にして二の足を踏む憶病者。でも、旅の計画を立てはじめると、生きる力が湧いてくるのは確かだ。どうしても人々の笑顔に出会いたい自分を見つけた。僕にとってのシアワセの形はそういうことなのかなと少し思った。
 以前見逃した「ビューティフル・ソングス」のライブの再放送。普段は見ないテレビ欄を今朝に限ってチェックしていた。真夜中の部屋、夢見心地で聴いていたよ。「半年で死んだ犬の思い出の中には どんな歌が流れていたのでしょう〜」
 午前1時過ぎに、もう朝刊が届いた。こちらの新聞配達は朝早くから稼いでいるのではなく、夜遅くまで働いているのだった。それでも、届けられるニュースは同じ12版。どっちでもあんまり関係ないか。(01.5.27)
■ナシオちゃん
 新庄選手の連日の活躍にあやかりたいこの頃だが、当方今かなりのやる気ナシオちゃん状態である。思わず新庄剛志オフィシャルホームページを眺めたり、はたまた読書に耽ったりと、あれこれ逃避行動に走る夜であった。結局テスト問題は古いワープロに入っていた2年前のものを手直しするだけにした。それにしてもやはり10年前のワープロは酷く性能が悪い。液晶に字が出るのが遅すぎる。それに、異常に重い。こんなのを毎日持って歩いていたんだね。て変な感慨。
 逃げないでがんばれ!とか、ちゃんとやれ!とか、声がきこえてくる。うわーって叫びながら走り出したくなる。きょう見た夢では、家中タコ足配線で火事になるところだった。意味ナシオちゃん。全然面白くなーい。(01.5.24)
■眠気に負けて
 夕べは知らない間に布団に入っていたよ。きょうも目覚めると5時だ。早起きしても結局仕事なんかたいして進まないんだな。ぼーっとしてるわけです。先週の疲れというか、土日の疲れというか、引きずってるんだ。そして、金曜日には中間テスト。風邪引きの生徒はほとんど減らず、きのうも7人休んだ。教室も活気がなく、空気がどよーんとしている。ギャグも通じない。今頃言っても遅いけど、先週早い段階で学級閉鎖をしておくべきだった。
 戦え戦えって、言い過ぎかなと思う時がある。がんばれがんばれって、何ごともがんばらなきゃいけないのだろうか。逃げ道をふさいで、がんばらざるを得ない状況をつくることを目指しているのだろうか。いろんな矛盾の中で、バクダンが毎日ふくらんだりしぼんだりしてる感じ。きのうは堪らなかった。
 五味太郎の「大人問題」という本に、こんなことが書いてあった。「この世からもし『いじめ』というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います。」僕には批判できない。翻って自分のこれからを考える。保身か、それとも構造改革か。こんなバクダンかかえたまんま続けたくはない。
 きのうの研究会では指導主事が「子供の前ではカウンセリングマインドでいることが大事です。」ってな話をしていた。「子供の前で」ってどういうこと。マインドって、そんなに簡単に切り替えられるものじゃないと思う。カウンセリングマインドで「生きる」ことが要求されてるのではなかったか。さらには「特活の時間だけじゃなく」だって。なんなんだよ。大いに呆れた。(01.5.23)
■空飛ぶ自転車
 サイクリングにはもってこいの、よく晴れた日だった。朝の光の中を進む自転車は快適そのもので、そのままどこかに行ってしまいたくなった。田んぼには水が張られ、水面が鏡のように青空を映していた。田んぼの中の道でペダルをこいでいると、まるで空を飛んでいるような気分になった。この季節だから味わえる感覚。そして、車では感じることができない感覚だった。車には車のよさがあり、自転車には自転車のよさがある。せっかくだからいろいろ楽しもうと思う。
 この日、風邪引きが続出した。学級では5人が欠席したのに加えて、6人もの早退者を出してしまった。学級の3分の1がいない状態。学年では部活をさせないで下校ということになった。こういう僕も2週間くらい前から咳が止まらない症状が続いている。教壇から風邪の菌をばらまいてしまったのかと申し訳なく思った。皆さんもお気をつけて。(01.5.18)
■脱・代車宣言てか
 きのうやっと修理が終わり、愛車が帰ってきた。4月30日以来だから半月ぶりだ。左のヘッドライトのガラスを交換したので、左右の目の色が違ってしまった。運転席に座ってしばらくは見知らぬ高級車に乗っているような違和感があった。少しずつ感覚が戻ってきた。マニュアル車のほうが面白いという人もいるが、僕はあのクラッチの操作が大嫌いだった。オートマチック車はほんと楽だね。
 車は今度転勤するまでは買わない。そのぶん自転車にお金をかけてみようかという気持ちがちらほらと。で先日自転車を注文してしまった。折り畳みではないやつ。またも衝動買いだ。車を買わないということにするといろいろなものが買えるじゃないか。なんてことを考えてしまうのはまずいかな。逆に、いろいろなものを処分してしまおうということも考える。
 部屋を見渡す。自分ひとり生きていくためにこんなにものがある必要はないな。いいものだけ残してあとは全部捨てよう。まずは台所回りからか。(01.5.16)
■天気のよい日曜日
 だから、気分もよい。ほんと気まぐれだ。午前中は例によって部活動、その後例によって組合活動。参院選候補のチラシを200枚、学区の住宅地を一件一件回って配って歩いた。約一時間。いろいろな花が咲いて、い い香りがしていた。いわゆるガーデニングに凝った庭。そうでもない庭。いろいろな庭があった。お伽話のような家。人が住んでるかどうかわからない家。いろいろな家相を見た。どれがいい家かなんて全然判断がつかないと思った。それぞれである。午後から村のホールに子どもたちの演劇を見に行った。例のジャムンチョスペシャルは約1キロ毎にペダルのネジが緩むので、そのたび締め直しながら進んだ。演劇はミュージカル仕立てで、脚本はオーソドックスなストーリーながら役者たちはのびのびと芝居していた。踊りも上手で、予想以上に華やかなステージだった。もっとうちの学校の生徒もたくさん参加すればいいのにと思った。いわゆるスポーツ学校なんだよな、うちは。東北農業研究センター(旧東北農業試験場)の菜の花畑に行った。いちめんのなのはな。いちめんのなのはな。たくさん人が来ていた。僕も写真を撮った。青い空、白い雲、遠くに姫神山や岩手山。いい午後だ。帰りにまちの自転車屋さんに寄ったらものの5分でシャフトを交換してくれた。だから安物はダメなんだとおじさんは言った。修理費2100円なり。うー気持ちいい。ペダルが取れることを気にしないで乗れる喜び。ほんとどこまでも行けそうだ。その足でカメラのキタムラへ。さっき撮った菜の花と先日の田中氏とのツーショット写真をプリントしてもらうのだ。僕のパワーマック7600/200は壊れたままだ。スキャナーはUSBじゃないのでiBookでは使えないみたいだ。新しい写真をアップできないままなので残念。フォトCDにしてもらうってのはどうなんだろう。今、タワーレコードから注文してたCDが届いたよ。さかなの"BLIND MOON"。こっちじゃどこにもなくて通販使ったんだけど、それでも1ヶ月ぐらいかかってしまった。きょうは笑点も、ちびまるこちゃんも見なかった。きょうこそは日曜日の午後の憂いを感じるまい。JSに乗って夕飯を食いに行こう。そのあとでちょこっと明日の準備をしよう。こないだ説明会に行って決めた。ダメもとで青年海外協力隊に応募してみることにした。中高の国語科しか免許のない僕にはひじょうに狭き門だ。うまくいったらパキスタン。まあ見ててください。(01.5.13)
■五月病あるいは不適応
 変な症状です。こころが冷ややかです。痛みを感じないだけならいいけど、少し情緒不安定です。夕べもPTA関係の飲み会でした。楽しくないこともないけど、こころが冷ややかだったから、あんまり何も感じないまま酒ばかり飲んでいました。運転代行のにいさんが面白い人で、車の中は退屈しませんでした。ニュースでハンセン病の差別を受けて生きてきた人たちの姿を見て、泣けて泣けてしょうがなかったです。差別をしてきたのは日本政府だけではないのだ。社会に生きるひとりひとりにやはり責任があるのだ。こころが冷ややかなのは、一時的な病気ではなく、自らの本質だったのです。授業で教科書とは関係ない地雷の話になりました。今でも毎日のように子どもたちが地雷で死んでます。ところが教室の鉢花は少し枯れかけていて、僕はそれに気づいていながら水をやりもしなかった。これは矛盾。こころが冷ややかな人間だから。うわあーって言いながら逃げ出したい気持ちになりました。今朝は珍しく学校に行きたくない。すごく嫌な気持ちです。(01.5.11)
■GWにっぽんの旅
 世にいうゴールデンウイークももう終わりを迎えようとしてる。東京行きの新幹線の乗車率は軒並み定員を越えています。ニュースではこの時期おきまりのラッシュの模様が報道されていた。ケツメイシのCDを聴きながら、明日への憂いをなんとか閉じ込めようとしている。でも、これは毎年のことで、明日から始まる日常なんてほんとはそれほどたいしたこともないのだ。僕にとっては連休二日目のきょうは、一日ごろごろして過ごした。
 学校は四連休で、はじめの二日間はどちらも練習試合でほとんど朝から夕方まで働いた。コーチには四連休のうち二日は練習なしにしたいです、休みも必要でしょうと思いを話したのだが、学校での部活を入れなかった残りの二日間もコーチが独自に練習場所を確保して同好会の形で練習するということになってしまった。同好会の動きに関しては僕は全くのノータッチである。コーチが保護者へのお知らせのプリントを作ってきて渡した。僕は子供たちのことを第一に考えて部活のことなど考えないでゆっくり休む日を与えたいと思って話したつもりだったけど、通じなかった。彼に言わせればそんな僕の考えはレベルが低いということになるのだろう。中途半端はいけないってのはわかるが、生徒も確かにがんばってはいるのだが、なんか違う。と思ってしまう。僕には「アマチュアスポーツ」ということが正直言っていまだによくわからない。
 そんな日常から逃げるように、おとといの夜19:24盛岡発のやまびこに一人とび乗った。長野に着いたのが23時過ぎ。オリンピックの前年、車で来たとき以来2度目。夜の街はずいぶん荒んで見えた、今はどこもそうだけどね。駅からの電話で善光寺参道のビジネスホテルを確保する。宿の大浴場でゆっくりと風呂につかって就寝。翌日早朝善光寺に向かう。本堂でしばらく手を合わせる。前回来た時に買った数珠を使った。その後戒壇めぐり、お堂の地下のまっくらな穴の中を手探りで通っていく。何も見えないところにわき起こる不安と恐怖。壁にかかっている鍵を探り当て、さらに進むとわずかに光が差してくる。たった数分ではあるが人の一生を考えさせられる「修行」である。お参りのあとはぶらぶらと街を歩いた。途中の和菓子屋には名物「おやき」があった。店のおじさんにどれがうまいのか尋ねると、「のびろが一番おいしいですよ」というのでそれを一個買った。ニラの味噌あえのようなものが入っていた。これがかなりうまかった。おじさんの写真を一枚撮らせてもらった。善光寺下駅から地下鉄に乗って長野駅に行った。長野に地下鉄があるとは知らなかった。松本行きの普通列車に乗り、春霞みの信濃路をのんびりと楽しんだ。車内では村上春樹の「うずまき猫のみつけかた」をずーっと読んでいた。松本ではお城を見て、蔵のある通りを歩いた。なんとそこであの田中康夫知事にばったりお会いした。数人の付き人と視察をしているようだった。写真を撮ってもいいかときいたら、よかったらご一緒にというのでお願いした。いくつか言葉を交わしたが、有名人と話したことはなかったので緊張してしどろもどろになった。田中康夫といえば「神戸震災日記」を途中まで読んでいたくらいだったけど、日頃から尊敬できる人だなあと思っていたので感激だった。松本駅で遅い朝食を取り、甲府行きに乗り込む。山梨県に足を踏み入れるのは初めてだった。13時前に甲府到着。駅前を散歩するがとくに面白いものは何もなかった。ただなんか蒸し暑かった。川越に行こうと思ってみどりの窓口の駅員さんに聞いたら、八王子で乗り換えるよりも新宿まで行って埼京線で行ったほうが早いと言われた。川越に着いたのが16時過ぎ。これまた遅い昼食を取り「蔵のある町並」へ。さすがに首都圏、人がやたら多すぎ。町並も規模は大きいが、車もたくさん通っていてあんまり情緒は感じなかったな。松本もまだ整備途上という感じがしたけど、川越は完全に「未整備」だった。日光に行こうかという気持ちもあったのだが人ごみで具合悪くなったので帰ることにした。大宮から新幹線で盛岡へ。午後10時前には自宅へ戻った。一泊二日、なんという贅沢。こんなことだから金も貯まらん。だが、これでいいのだ。ではお休みっ!(01.5.6)
■大江戸捜査網
 の音楽がなぜか頭の中に蘇ってきた。タイトル映像もなんかカッコよかった気がする。東京って今でも「江戸」なような感覚が僕にはある。僕にとって東京行きは、少し江戸時代へのタイムトリップの感覚を伴っているのだ。
 東京周辺では日夜さまざまな事件が発生している。成田空港。金正日総書記の長男(らしき男)が不法入国。来てみたいのはわかるけど、一国の主人の後継者が偽造パスポート使っちゃだめだよ。情けない話。北朝鮮、あいかわらず怪しい国だ。「ぬいぐるみ帽子」をかぶった男が殺人を犯したらしい。「ぬいぐるみ帽子」を愛用している人にとってはいい迷惑だ。東京の街で「ぬいぐるみ帽子」をかぶった男の目撃証言が数百件。そのうち真犯人はいったいどれくらいだろう。それにしても、手がかりはほかにないのか。
 時空を超越して捜査の網が張り巡らされている、てなことを想像してみる。ゴレンジャーシリーズは20年以上続いているようだが、今年の秋からはついにシリーズ史上初めて、時代劇仕立ての「侍戦隊エドレンジャー」が始まるらしい。(ウソ!)昔はそういう江戸時代ヒーローものがけっこうあったが、今では皆無だ。江戸時代もどんどん遠くなってきているんだ。
 この間久しぶりに水戸黄門を見たら、石坂浩二だった。助さんや格さんも名も知らぬ若き俳優達に変わっていた。テーマソングはお馴染みの歌だったが、異常に下手だなと思ったら、歌っていたのは元祖御三家の人たちだった。で、話の中身は予想以上に面白かった。今までのを打破しようと工夫しているのがわかった。松尾芭蕉なんかも出てきたよ。それと、忘れてはいけないのが由美かおるの存在。オレが物心ついたときから今に至るまで少なくとも30年同じアクション女優の地位を保っている、化け物だ。ついでに、その由美かおるといっしょに戦う女3人が、ショッカーかなんかと同じような動きをしていて笑えた。(01.5.4)
■きょうもペダルが
 取れました。どうもこの自転車、こぐたびにネジが緩む構造らしい。これじゃ秋田までは無理だな。安物は所詮安物か。でもね。最近は自転車も安くなって、ホームセンターに行ったら1万円以下の自転車なんてざらにあるんだね。知らなかった。
 家庭訪問終了。中学校に入ったら勉強するようになりましたという親が意外と多かった。逆に、中学校に入ったら勉強しなくなりましたとよく言われた年もある。話をきいているのは楽しい。でも親はかなり手強い。感じ方なんて人それぞれ。一人一人、別の回路を作っていかなければならない。それらをうまく繋いで大きな機械を組み立てる。オレ達はマネージメントのプロにならなくちゃいけない。
 世の中には、一生懸命やっているふりをしてほんとはいいかげんにやってる人間と、いいかげんに見えてもじつは一生懸命やってる人間がいると思う。ウマくやれるのがいい人間だということはけしてない。オレはいったいどこにいるんだろう。誰が公正に評価してくれるだろう。だがそんな人はいないのだ。と、あれこれ考えていた。んー、これだから事故に遭遇したりするんだ。罰があたったのかなと、またバカ正直に考えてみる。ホトケの道に背いてるのかな。きょうもまたつまずいた。またカギが手から滑り落ちた。頭とか肩とか異常なくらいよくぶつけるのはなぜ?
 きっとこれは物語だ。事実とかホンネとかにこだわるよりも、自分の物語を紡ぐことだけを考えたら?と。人生は一人称の物語。主人公であり、語り部でもある。この雑記帳も、もはや現実とは違うところをただよっている。同じように、僕の人生は誰にもわからない。人の人生の現実なんてわかるはずがない。僕ができることはなんだろう。たぶん思っているほどたくさんのことはできない。限られている。すごく限られている人生。だからこそ自分ができることだけをやろう。全部(なにが全部なのかわからないけど)やろうとかわかろうとか考えること自体おかしなことなのだ。「日記」をそういう目でとらえたらまた違うかも。新しい日記を綴ってみようか。
 「愛車」という言葉の意味がわかった。僕は君じゃなきゃダメなのだ。会えなくてさびしいよ。一生乗り続けたっていいかも。車はころころ変えるものではないと思うな。そういう愛情を注げるものたちはほんのちょっとでいい。あとはみんな要らない。ものといっしょにするわけじゃないけど、そういう愛情をそそげる人間は、一生のうちたった一人でいい。
 試みの日々。孤独ではない。(01.5.3)