雑記帳 2001年6月

■携帯電話のはなし(2001.6.27)
 きょうはいろんな用件の電話が立て続けにかかってきた。みんな自分の都合でかけてきて、一方的に自分の言いたいことを言う。こちらは準備もなく突然その話題に入るから戸惑う。そしてしかたがないからはいはいと愛想よく相槌を打つ。電話とは実に勝手なものだ。かけてくる人にはなんの恨みもないけれど、僕は電話が好きじゃない。こちらからの電話の使用は極力避けたい。と、そう考えているから月々の通話料も百円に満たない。電話がいいと思えるのは、しばらく会っていない友達が遠くからかけてきてくれたときだけである。携帯電話をもつようになったらたいへんだろうなと思う。もしもっているとしても、僕は誰にも番号を教えないだろう。
 街で歩きながら携帯電話で話す人をよく見かけるようになって久しい。自転車に乗りながら電話してる人も多い。僕には考えられないことだ。こういう現象について、人々が電話に依存してるとよく言われる。同感。電話を使うのは必要最小限の連絡や確認ぐらいにしておくべきで、電話の会話には余計な叙情を持ち込むべきでないというのが僕の考えだ。このことは携帯が普及する以前は「常識」だったのではないだろうか。何でも見境がなくなるととたんにありがたみが薄れてしまう。会話とは心と心のキャッチボール。本当に大事なことなら、ぜひできるかぎり相手と向き合い、目と目を合わせて話したい。歩きながらとか自転車に乗りながらとか、「会話」というものが何かの片手間に行われるほど軽んじられていることが許せないのだ。
 歩いている時には何より目の前の景色としっかり向き合いたい。自転車ではそこに吹く風を全身で感じたい。そうすれば、景色を見て感動することも多くなるし、その場でしかきけない音楽がきこえてくることさえあるのだ。
 先日、高校生が駅のホームで携帯電話の会話に気を取られ、電車が来たのに気づかずに頭を強く打って死亡するという事故まで起きてしまった。その場の空気を感じられなくなるのが携帯電話のようである。気をつけて使いたい。

■信じるもの(2001.6.25) 
 仕事が終わった後、分会の人達から預かったはがきを届けに事務所に行くと、ある単組の人達が酒を飲んでいた。もう19時半を過ぎており、みんなけっこう酔いが回っていて、にぎやかな宴となっていた。きょうは各分会から来ることになっていた日なのに、先生たちの分会は半分以上来てないと嘆いていた。そこに僕が来たものだから、一気に歓迎ムードになった。おおよく来た。まず飲め。おにぎりも喰え。酒はさすがに飲まなかったが、おにぎりやらまんじゅうやらをごちそうになりながら、話をきいた。もう年輩の人ばかりだが、みんな職場で不当な差別を受けてきた人達だ。若い頃から運動に参加し、闘ってきた労働者である。彼らは一様にある気概をもっている。お上と闘おうという強い気持ちだ。そして、彼らは信じている。自分達の運動がいつか実を結び、ほんとうにすばらしい世の中が来ることを。僕はそんな彼らのことが嫌いじゃない。こんどの候補者は、僕の職場にもいたことのある先生の大先輩だ。岩手の労働運動の柱となって今までやってきたのは教組。岩教組がかつて数々の闘争を展開してきた輝かしい歴史も耳にする。それと比べたら今ではどれほど腑抜けになってしまったことか。「教組ががんばらなくてどうする。」という叱咤は当然だと思う。職場の現状をみると、「それどころじゃねえよ。」と言われてもしかたがないのもわかる。僕自身の努力が足りないのも重々承知である。でも、一人一人がそれぞれできることをしていくしかない。その先にしか未来は開けない。魯迅の「故郷」の最後の一節を思い出す。「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」

■銀河高原への旅(2001.6.24)
 サイクロコンピュータというのを通販で購入した。自転車用のスピードメーターである。小学生の頃、スピードメーターが欲しくて欲しくて親にねだって買ってもらったのを思い出す。だが、今のサイクロコンピュータは昔の機械式のとは違い、一見すれば万歩計と思ってしまうほど小型な上に、なんとコードレスで最高速度、平均速度、走行距離に走行時間がデジタルで表示されるのだ。びっくりしたね。きのうの土曜日にはセットが完了するとどこかへ行きたくてしかたなくなった。天気はまずまず、予報でもきょう一日雨は降らないという。午前10時半、デイパックに着替えとタオルを入れてペダルをこぎ出した。目指すは鶯宿温泉。雫石川のサイクリングロードをこの間とは反対の、川を遡る方向へ進んでいく。緑の河川敷ではヘリコプターのラジコンを飛ばす人たち、和太鼓の練習をする人たち、バーベキューをする家族、ゲートボールをするお年寄りたちなど、穏やかな休日を楽しむ人々がたくさんいた。僕もゆったりとマイペースで進んだ。顔も自然と笑顔になっていたかもしれない。繋温泉までは1時間とかからなかった。湖のほとりのベンチで休憩。実に気持ちいい。そしてさらに西へ。家から繋までは16〜7キロ。そこから雫石町の鶯宿温泉までは7キロくらいである。鶯宿温泉着が12時過ぎ。意外と早く着いたので拍子抜け。もっと先に行けそうだ。観光案内所に行って沢内の銀河高原までの道を尋ねてみる。「この道路をまっすぐ行けばいい。トンネルまでだいたい10キロくらいかな。そこまでは坂道だけどあとは平坦だから。全部舗装されてるし、自転車ならおもしろいと思うよ。」とおじさんたち二人が親切に教えてくれた。10キロならたいしたことはない。僕は銀河高原に向かってスタートした。
 渓流に広葉樹。景色はいいし、鳥のさえずりは聞こえるし、車もめったに通らない。だが、ほとんどが上り坂。一つ目の長い坂を登り切ると、湖が見渡せる視界の開けたところに出た。そこで一人のおじいさんがダムを見下ろしていた。「銀河高原まではどれくらいですか。」「もう3分の1くらいは来たかな。あの雪の残った山が見えるだろ。あの下はもう沢内だ。」「そうですか。(坂がきついけど)行けるとこまで行ってみます。」と言うとおじいさんは「なあにどこまでも行けるさ。道はどこまでも通じてるんだから。」と言った。ちょっと意味が違っていたけど、この言葉がとてもいいなあと思った。
 中でもトンネル前の坂は急で距離も長かった。途中の休憩でこんなことを考えた。上り坂の次は必ず下り坂がくる。これは真理である。人生楽ありゃ苦もあるさ。トンネルを越えて、4キロほどで銀河高原ホテルに到着。時間は13時半を過ぎていた。腹が減った。1000円の温泉付きランチというのを見つけた。入浴料だけで600円、ということは、飯代が400円か。こりゃ安い。食事はいろいろ山の幸もあり海の幸もありで不満はなかった。銀河高原ビールも飲んだ。車じゃないから遠慮なく飲めた。そして温泉へ。風呂上がりにはアイスクリームを食べた。そばアイスと黒すぐりアイスを半分ずつ盛ってもらった。高原の休日を満喫した。帰りはまた同じ道を戻った。当然下り坂が多かったので、来る時よりもずっと楽だったし、時間もかからなかった。家に帰ったのは16時頃。往復80キロの旅であった。自転車の旅のよさを感じたよい休日であった。

■驚くべきこと(2001.6.21)
 けさのニュースで知ったが、北朝鮮の金正男は成田で国外退去になってからずっと北京に滞在しているらしい。北京の床屋で働く日本人理容師が、店に金正男が来て散髪したと証言していた。金正男が北京にいようが床屋に行こうがそんなことはどうでもいいのだが、問題はその風貌である。テレビ画面の映像をよく見たらたいへんなことがわかった。彼の姿は俺とそっくりではないか!かーっ、なんということだ…。情けねえ。
 「職場と健康を考える会」というのに参加してきた。参加者は10名に満たない、予想以上にこぢんまりとした話し合いではあったが、雰囲気は悪くなかった。職場の現状の話から労災をめぐる裁判闘争や教育関係法規まで、話をきいているだけでも勉強になりそうな感じだったので、年会費の1000円を支払った。
 夜のニュースショーを竹中大臣がはしごしていた。骨太の方針というのに関わってあれこれ説明していた。痛みに堪えた先にはほんとうにいいことがあるのかな。ここまでの改革を見せてくれた内閣は僕の記憶にはないから、今回はとても楽しみである。
 上のもつ雰囲気というものはその世界の下層まで大きく影響する。どんな集団であれ、トップがしっかりするというのはとても大事なことだ。職場にしても、社長や校長など人の上に立つ者がたとえば部下にねぎらいの言葉一つかけないとしたら、それは労働者にとって最悪である。我が職場の実態かも…。ただ愚痴っているだけでなく、そういう上司とどう闘えばよいのか学びたい。

■早起きは三文の得(2001.6.20)
 というが、確かに早起きのメリットはいろいろあると思う。朝の時間にゆとりがあると、朝飯は喰えるし、ニュースも見れる。なによりばたばたと慌ただしくないのがいい。朝に2〜3時間自分の時間を過ごす生活に慣れると、もうあの慌ただしさには戻れない。な〜んていって実際のところは早起きしてもぼーっとしてることが多いわけですが。
 いろいろとやらなきゃならないこと、やりたいことをやるためには環境がととのわなければならないということに気づいて、やっとこさ部屋の片づけに手をつけたところ。雑誌類がありすぎ。新聞も満足に目を通さないうちに積み重なっていくし。もっとすっきりとしたい。もったいないとか思わないで全部捨てた方がいいべかな。

■雨の日の午後(2001.6.19)
 きのう時間には厳しくなんて書いておきながら矛盾だらけの自分です。みんなに迷惑をかけてばかりでほんとうに情けないです。遅ればせながら、ちゃんとがんばりますので、もう少しお待ち下さい。
 きょうじつは県教委の面接を受けてきました。8分という短い時間でしたが、3人の面接官からはさまざまな質問をされました。多少まずかったなというところもありましたが、誠心誠意答えたつもりなので悔いはありません。期待しないで待つことにします。
 帰りには久しぶりに大通りを歩きました。その後駐車場で、偶然にもかつての同僚とばったり会いました。喫茶店「五番館」であれこれ約2時間半、話し込みました。こういうのって偶然のようにみえてきっと偶然ではないんでしょうね。おもしろいもんです。楽しくてあっという間に時間が過ぎたような気がしました。おかげさまで元気がつきました。感謝です。ぜひまた会いましょう。

■教師の遅刻…(2001.6.18)
 この間生徒たちと読んだ資料の中に次のようなことが書いてあった。インド人は約束の時間を守ることにそれほどの価値をおいていない。人を5時間6時間待たせても平気な顔をしているのだそうである。むしろ待つ喜びを相手に与えるためにわざと遅れて来るのだそうだ。反対に、最も厳格なのはイギリスだという。レストランでもどこでも閉店時間を1秒でも過ぎたらいくら騒いだって入れてくれないのだそうだ。これは時間に対してだけではない。全てにおいてルールを重んじるのがイギリスの国民性なのである。
 国が変われば考え方や価値観も変わる。どちらがいい悪いではなく、国によって違うというところがみそなのだ。どんな考え方にだって、背景となる歴史があるはずである。お互いにそれらを尊重しつつ、国際社会のルールをつくっていければいいだろう。インドとイギリス、日本はどっちに近い?ときいたら迷わずイギリスというこたえが返ってきた。世界からみればおそらく日本はルールに厳しい部類に入る国なのだ。僕自身も学生の頃、約束の時間に遅れることは他人の時間を奪うことだと教わった記憶がある。そう考えるとめったに遅刻なんてできないと思う。これは、大事にしたい日本人の美徳の一つだ。
 ところが、である。きょうの夜、ある会議に出席した。公民館の一室にさまざまな職場の人たちが集まった。こういうときいつも感じることだが、遅刻するのは教員が圧倒的に多いようだ。いや、「ようだ」ではなくこれはまぎれもない事実である。きょうも遅刻者はすべて教員だった。忙しい、なんて理由にならない。どんな職場だって同じだ。たとえどんなに気の進まない会議だとしても、開会の時間に遅れるのはいいことではあるまい。教員の世界がそれだけルーズだということだろうか。遅刻するなと子どもたちにいう立場を考えても、時間には厳しくありたいものだ。「先生たちっていっつも遅れて来るっけな」なんて言わせたくない。

■稲庭うどん(2001.6.17) 
 昼飯に食べた。冷たいの。きょうも梅雨とは思えぬほど暑く晴れ上がった。夏はやっぱり冷し麺が最高。なかでも稲庭うどんの高級感たら特別だ。このつや、この喉越し。いつも思うのだが、稲庭うどんはそうめんのようだ。とてもうどんとは思えない。こんなことを書くのは、稲庭うどんに対して失礼だろうか。いや、ほんとにうまいもんである。この次は胡麻ダレでいこう。
 先日図書委員が、最近読んだ本を紹介してください図書だよりに載せますからというので、村上春樹の「うずまき猫のみつけかた」がおもしろかったよと言ったつもりが、どういうわけか「ねじまき猫〜」と間違って言ってしまい、そのまま図書だよりの紙面に載せられてしまった。この記事を参考にする生徒はそれほどいないとは思うが、とんだ恥をかいた。しかも今思うと、中学生向けの本ではなかったな。それにしても、ねじまき猫っていったいどんな猫だよ。
 きょうは岩手で小泉内閣のタウンミーティングが行われたという。まだ具体的な政策はこれからというところだが、ハンセン病患者への謝罪にしろ、メールマガジンにしろ、新しく動きだしてるということで新内閣への期待感は高い。田中外相の発言からも、官僚の古い体質が露呈しておもしろい。森首相が首相だった頃はひどかった。何がひどかったかって、一国の主人のことを思うと気持ちが沈んで嫌だった。それが、小泉内閣はそうではない。政治のニュースを見ていて楽しい気分にさせる。この人、ほんとに国をよくしてくれそうだと思わせる。だが、靖国神社参拝への強行姿勢、自民党への固執など、腑に落ちない点もないわけではない。マスコミも少々持ち上げ過ぎの嫌いがある。注意して見守る必要があろう。ともかくこの圧倒的な支持率をバックに、聖域なき改革を全うしてほしいものだ。
 フリーの日曜日ももう終わろうとしている。部屋を片付けようと思ってはいたのだが、今だ手つかずの状態。このままだと一週間先延ばしになるのは目に見えている。たいへんだ。僕も僕自身の「聖域」をいいかげんなんとかしなくちゃならない。

■少年サタデー(2001.6.16)
 きょうは予報では曇りということだったが、よく晴れて暑くなった。定時で帰ろうと思ったらバカヤローな事件が発覚して学年会。それも短時間に終わり13時過ぎには退庁。帰り途中、近くの店で昼食。「三陸チャーハン」はサラダとスープ、お新香付きで700円。えもいわれぬ満足感、解放感。仕事のある土曜日には昼食を満足に食べることも難しいのだが、きょうはテスト前ということで部活動はなし。もちろん明日も一日自由である。24時間フリーに使える休日。なんて素晴らしいんだろう。で帰宅するととたんに睡魔に襲われベッドに倒れ込む。17時に目を覚まし、入浴。涼しいカッコでベランダの自転車を磨く。ちょっと走ってこようかに。太田橋から都南大橋まで川沿いのサイクリングロードを南下した。湿った向い風もなんのその。僕のNOVARAはとっても快調。乗る度に身体に馴染んでくる感覚だ。母校のすっかり新しくなった校舎が見えた。でも裏手にある合宿所やハンドボールコートは昔と変わりなかった。秋のロードレースで完走者にはリンゴを一個くれた。自転車のスピードは少年時代の思考回路を開く。都南の郊外店が立ち並ぶ一角ではCD屋を軽くのぞいて、家に帰ることにした。駅の近くで突如大きな爆発音。花火だ。何の花火だっけ。ビルとビルの間から鮮やかな打ち上げ花火がわずかに見えたので、そっちの方向に自転車を進める。ビルの窓に映る花火。こういう見方は初めてだ。今ではビルの2階が境内となってしまった神社のお祭りだった。北上川の河川敷にはオレンジ色の屋根をした出店が並び、たくさんの人たちがいた。旭橋の上で自転車を止めて次の花火を待っていたが、いつまでたっても始まらない。僕は待切れずにその場の喧噪を後にした。帰ったら部屋を片付けようと思っていたが、いざ乱雑な部屋に戻ると気が滅入り、掃除する気力は消え失せた。

■梅雨に入ったとはつゆ知らず…(2001.6.15)
 教育実習の時、古典の「つゆ」の説明で「めんつゆじゃないよ」と言ったのが意外と受けたっけ。東北北部もついに、だそうである。雨は降っていないが、雲が低くたれ込めていて肌寒い。曇りでも雨でもいいから、気温が上がらなければいいと思うのだが。
 曇り空には忘れな草がよく似合う。子供のころ、畦に可憐に咲いている忘れな草を摘んで、壜にさして飾ったこと思い出した。あれこれと思い出す日だ。僕の中総体の唯一の出番は、試合もほぼきまりかけた2セット目でのピンチサーバーだった。初戦敗退。会場のトイレが古くて臭かったことだけ覚えている。曇りの日には、曇りの日の記憶が蘇る。光の具合と気温と湿度との関係と。


■中総体終わる
 地区中総体でわが部は一日目予選通過。本日決勝トーナメントでは準決勝で破れ、第三代表決定戦に臨んだが残念ながら敗退した。3年生のがんばりはたいしたものだったし、コーチをはじめ保護者や地域の協力も大きかった。それだけに県大会に行けないのは悔しいが、生徒たちには充実感が残ったようである。僕はスポーツの奥深さを感じ、また自分の腑甲斐なさを噛み締めるのだった。(2001.6.14)

■朝の雑記帳
 いい天気だ。気温も低く凛として身も引き締まるようだ。
 僕らのもつ都会にはおかしなものばかり建つ。
 複雑になっていく一方で、噛み砕く時間を与えない。
 けさ夢を見た。子供時代に住んだ家に弟の友達が訪ねてきた。その頃の家は壊されてもうない。
 新しいことを求めるばかりで、置いてきぼりにしてきた時間がある。
 自分や他人を大事にできないのは、うまく泳ぎ切ろうとしているからではないか。
 流れに逆らわず水を読むことを怠ってはいないか。
 身を任せるということは一筋縄ではいかない。(01.6.8)

■頭痛の季節
 東北南部まで梅雨入りしたという。小雨の降る一日。気温は低いものの湿度は高く、少し動くとじとっと汗の滲む気持ち悪い一日だった。一年で最も素敵な時期はもう過ぎてしまったのか。昔から梅雨時にはよく頭痛がおこる。このところ朝起きた時点ですでに仕事を終えて早く帰宅することを考えてしまう。仕事はおもしろいよ、それなりに。子供達といて救われることも多い。でもそれもそれなり。そこから抜けだせないでいる。「窮屈な感じ」というのが、近ごろのキーワード。ある同僚は「働きづらくなった」という。また別の仲間は「今年は4月のスタートから気が重い」と言っている。原因は一つではないというのはわかっている。けど、誰かの所為にしたい力学も正直働いている。それとは正反対に、すべてを自分の所為だと考えてしまう心の流れもある。それだけ僕らは弱くて、どっちつかずの存在なのだ。僕は働きづらいなんていう感覚はもう通り越したし、少なくとも今年1年はこの憂いから解放されることはないと思っている。この正体不明の罪を贖罪していくのは予想以上に厳しいと感じている。
 いつだって個人の責任には限りがあり、必要以上に心をわずらわせたり思い悩んだりすることはない。どんな時にだって、できることをやるしかないのだ。上を見ればきりはないけど、そんなの教師失格といわれるかもしれないけれど、あえて自己弁護するなら、言いたい奴には言わせておけばいいさ。命というのは、すり減らすためにあるものじゃないのだから。
 自分が変わればすべてが変わるだろうか。環境を変えるために「ガンバロウ」という発想で十分だろうか。新しい社会変革の荒波を前にして、いったいこのちっぽけな個人になにを要求しようというのか。そして今実際ぼろぼろですかすかになった「仲間」たちとともにはたして何ができるのだろうか。「痛み」に堪えて我々はどこへ向かえばいいのか。生きていればいるほど、疑問は増える。
 何も好きで「人でなし」になったわけではない。「人でなし」が「人」になりたくて描く夢を、誰にも潰させはしない。(01.6.6)

■メトロポリスを見た
 やっと一週間が終わって、土曜日の夜、部屋でくつろいでいるところです。きょうは土曜日だというのに3時から国語関係の会議がありました。管理職とか行政とかの人がたくさんいてとても窮屈でした。帰宅したのが4時半ころで、眠くてたまらず1時間ほど熟睡。そのあと顔を洗って映画館通りへ出かけました。Takuさんオススメの「メトロポリス」です。劇場で映画を見たのは「アンブレイカブル」以来2ヵ月半ぶりでした。手塚治虫のキャラクターたちがあったかくて、未来都市の姿が美しくて、よかったです。一言でいえば(いっていいのか?)ファンタジーなのかな。最後にティマが豹変してしまうのがショッキングでした。とても愛くるしいティマでしたが、物語の中ではついに一度も笑顔を見せなかったのではないでしょうか。ファンタジーだとしたら内容についてあれこれ書くこともないと思うのですが、笑顔のない人形(ロボット)を「愛くるしい」と感じるこの気持ちというのは、この映画のテーマそのものなんじゃないかと思いました。50年前に原作を描いたという手塚治虫のすごさをあらためて感じました。で、帰りに本屋で原作を探したのですが、見つかりませんでした。
 きょうの「世界ふしぎ発見」は南インドの特集でした。日本語とタミル語の類似点について、大野晋が出てきて話をしていました。正月行事や埋葬方法なども似ているというのをきいて、文化がインドから日本にダイレクトに伝わってきたんだということに驚きました。「歴史はくりかえす」といいます。歴史ってのは、重層的な構造をしているのです。しかし、ほとんどの場合はそれを体感することはできません。自分の人生を精一杯生きようとする一人ひとりのこころが、実は人間全体を前へ押し進めている。と、そんなことを考えました。これって「大河の一滴」か。
 人間にはもちろん魂があって、他の生き物にも魂がある。もしかしたら生きてない物にも魂はあるし、そう考えるとロボットにだって魂はあるということになるのではないでしょうか。これってアニミズムか。人間を賛美することはとても大事ですが、過ぎると必ず痛い目をみます。芭蕉が旅の中で感じたような無常と人間賛歌、両者のバランスを保ち、人間が奢らないように気をつけなければなりません。てなんでこうなった?またとりとめもないことを…。もう11時を回った。そろそろ寝るとするかな。おかげさまで週末をいい気分で締めくくることができました。「ハンニバル」でなくてよかったです。それではお休みなさい。(01.6.2)