雑記帳 2001年7月

■七月も終わり(2001.7.31)
 きょうは一日雨が降ったり止んだり。気温はそれほど高くないものの意外と蒸し暑かった。暑いのは嫌だけどこの時期のギラギラの太陽への恋しさが心のどこかにあったりする。そして、暑いのは嫌なんだけどまた南へ旅しようとしている自分がここにいる。きょうはバックパックを探しに近くのスポーツ店をのぞいてみた。しかし、どれくらいの大きさのにすればいいかわからずそのまま帰ってきた。必要最小限の荷物にするとはいえ、仕事に持って行ってるデイパックでは小さすぎるだろう。そこで思いついた。持って行く荷物を実際に用意してみよう。その荷物が入る大きさのものを買えばいいのだ。実に簡単な話。と思っているうちに今夜も10時を回ってしまった。
 部活があるため、ほぼ毎日職場へは足を運んでいる。普段のストレスからは解放されているためか、夏休みに入ってから食欲が目に見えて減った。必要以上の水分をとりたくなるわけでもなく、夕飯をバカ食いすることもない。告白するが、僕は過食症ではないかと思える節がある。物を食うことがやめられないとまらない状態になってしまうのである。ここだけの話、僕の体重はこの5年で25キロも増えてしまった。実に不健康な僕である。気持ちが弱いからだと言う人もいる。でも、それだけではないんだな。これはまさしく精神の病である。夏休みになるとそれがぴたっとおさまる。いわゆる夏バテとはまったく違う。一昨年と去年は海外で団体生活を送り、規則正しい食生活ができたため気付かなかった(ハノイのビアホイではずいぶん飲んで食べたけど…)。そろそろ生活習慣病も気になる年だし、環境を一から変えることを真剣に考えたほうがいいのかもしれない。
 月ヶ丘のカメラのキタムラで、フィルムカートリッジからCD-Rへの書き込みが1本350円でできるというので早速試しにやってもらった。冬の旅の写真が4本。しめて1470円。これは僕の常識からするとかなり安い。しかも2時間で仕上がった。早いもんだ。おびただしい量の写真とカートリッジ、整理がつかなくなってきた。デジカメを入手したことだし、この際古い写真は気に入ったものだけ選んでCDにしてしまおうかと思った。
■デジカメ日記(2001.7.29)
 新規に購入したのでうれしくて何枚か撮影した。現像する必要はないし、スキャナで読み込む必要はないし、楽だ。今度の旅にはやっぱりデジカメのほうをもっていくことにしよう。ちょっとサイズが大きすぎたかな。
 ○朝の岩手山
 ○窓から見える風景
 ○ひまわり畑
 ○四十四田ダム
 ○木の根
 ○旧盛岡高等農林
 ○同番屋
■投票日まぢか(2001.7.27)
 とはいえ不在者投票を済ましてしまい、もう迷うこともないから気楽なもんだ。この土日は何もかもから解放されて好きなように過ごそうと思っていた。ところが、きょう動員で事務所に行くと、「明日チラシまきに来てくれ」ということになった。10時集合だそうである。人手が足りないから2時間くらいかかるらしい。こういう時断れないのが僕の性格で、それが僕の苦しむ原因の一つになっているのだ。結局快諾してしまったので、せっかくの土曜の午前中はつぶれてしまう。ああー。
 今回の選挙、小泉人気で自民党の圧勝かという情勢だが、ここにきてその勢いが少し弱くなってきた。理由の一つは、小泉総理のいう「痛み」のなかみがいまだによくわからないという点である。痛みとは失業や倒産だというのが大方の見方だが、今以上の痛みには堪えられないという人たちもたくさんいる。改革を叫んではいるが、それがはたして弱者の視点で行われるのかというと不安は拭えない。そしてもう一つは、小泉総理の靖国神社参拝問題である。これだけ中国や韓国など近隣諸国に反対されているにもかかわらず、首相本人は断固として方針を変えるつもりはないらしい。A級戦犯が祀られる場所に、しかも終戦記念日に首相が参拝することに、軍国日本による侵略と植民地化の辛酸をなめた中国や韓国が反発するのは当然だ。今でも戦争の傷が癒えてはおらず、日本が再び戦争への道を歩むのではないかと危惧するアジアの人々がたくさんいるのである。その人たちの声を無視して参拝を強行したとしたら、国際社会での信用を著しく失うのは目に見えている。
 どうも小泉総理には「想像力」が欠けているように思えてならない。リストラによる失業者、負担の増大する高齢者、長い不況にさらされる零細企業、侵略戦争の犠牲となったアジアの人々…。これらの人々が今すでに感じている痛みを、どれだけ慮っているというのだろう。自民党が選挙で大勝するとする。「公約」どおり失業や倒産が増える。小泉総理が靖国に参拝する。アジアの中でますます浮いてくる。「痛み」はそれにとどまらない。京都議定書の問題でアメリカとヨーロッパとの間でも苦しい立場の日本。すでにアメリカのミサイル構想に支援を表明している。そんなことを思うと、いずれは憲法9条を改正して自衛隊の軍事派遣…。なんてそんなシナリオも現実感を帯びてくるから恐ろしい。
 小泉総理には実行力がある。やると決めたことはきっとやり遂げる。この3ヶ月で国民にそういう思いを抱かせることには十分成功した。だが、どれだけ庶民たちの身になって政治を行おうとしているのかはまだわからない。「痛み」を伴う改革を掲げてこれだけの支持を集めるのも不思議だが、具体的な政策が選挙後に示されるというのはずるい話だ。むしろ議論が必要なのは、今すでにある痛みをどう和らげるかということではないのか。原因を明らかにし、責任を追及することが先決。一般庶民はもう十分に痛みを感じている。これ以上苦しめられてはたまらない。(国民的見識からすると、これは甘いということになるのだろうか。)その責任は、戦後の日本を導いてきた自民党の体質にあるのではないか。その自民党が変わるのにどうして一般庶民が苦しまなければならないのか。
 今生きる人々の苦しみに思いを馳せる時、自らの心の痛みに真直ぐ向き合う時、さらに苦しめということを誰が言えるだろう。「米百俵」の話は、今の痛みに堪えて後のことを考えようという意味で言われているようだが、もともとは国における教育の大切さをといた話ではなかったか。これだけ教育をないがしろにしてきた責任を自民党はどうとるつもりなのか。
 僕はやっぱりどこかひねくれ者なのかもしれないけれど、こんなもろもろのことを考えると、自民党にはすんなり勝ってほしくない。僕は貴乃花ではないし、小泉総理でもない。そんなに強い人ばかりじゃないよ。やっぱりあの党は強い人の方にばかり目が向いているような気がしてならない。組合で縛りをかけるやり方もだめだと思うけれど、国民こぞって小泉さんをヒーローにしてしまっている状況も気味が悪いし、危険だと思う。そして、小泉人気に乗じて当選しようとすることだけを考えているお偉いさん方が、僕は大嫌いである。小泉総理と握手をしている岩手の某候補のポスターを見ると、僕はすごく嫌な気持ちになるのであった。
■賢い選択(2001.7.25)
 岡村靖幸のトリビュートCDが発売になった。このCD、企画は朝日美穂。これがすごい。朝日が「だいすき」を、そしてカーネーションの直枝政広が「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」を歌う。ボーナストラックは「カルアミルク」。選曲も絶妙。こういう企画を成し遂げてしまう朝日美穂の情熱というものを感じた。この人、ただものではない。岡村はしばらく姿を見せないが、才能あるミュージシャンであることは間違いない。噂によると彼もずいぶん太ってしまったようだが…。このレコードを受けて是非活動を再開してほしいものだ。
 ある視覚障害者の方の話を聞く機会があった。その人は長く盲学校に勤め、盛岡の自宅に私設の博物館をつくった。この博物館は視覚障害者のための博物館で、展示物のすべてに「触れる」ことができる。そういう博物館は日本でここだけだという。その人の話で一番印象に残ったのは、全体像をつかむということがどれだけ大事かということだ。眼の見える者にとっては、物を「見る」ことによって、それがどんな物かを実感をもってとらえることができる。ところが、視覚障害者の場合はそうはいかない。例えば、恐竜の形がどうなっているのか。眼の見える者は図鑑を見れば一目瞭然だが、見えない者はいくら話を聞いたところでわからない。小型の模型を触って全体像をつかむことが必要になるのだそうだ。視覚障害者にとっては触ることが学びの出発点なのである。
 きょう不在者投票をしてきた。権利は立派に行使した。ざまあみろって感じだった。今週は二日にいっぺん選挙関係の集まりがあって、あれこれと話を聞いているのだが、はっきりいって下らない。この人たち何十年もこんなことくり返してきて、うまくいった試しなんて一度もないんだから。こんな旧態然としたやり方じゃだめだってことはみんなわかってるのに。そして、自分もその中にいるってことがけっこうなストレスだよ。労働組合の組織票なんてもうやめちまえ。と、いつか大きなところで声を大にして言おう。
■大河ドラマの話(2001.7.22)
 渡部篤郎がとうとう死んでしまった。むろんドラマの中の話だ。大河ドラマ「北条時宗」。いつもの年なら1月中に飽きてしまうのだが、今年は珍しくいまだに見続けている。それだけストーリーが面白いし、キャストも魅力的である。中でも、時宗の兄時輔役の渡部篤郎は抜群にかっこよかった。この人の一挙手一投足にずっと引き込まれっぱなしであった。いい俳優だ。今回時輔は謀反の疑いにより弟時宗に討たれてしまった。壮絶な最期であった。うーん残念。
 渡部も凄いが、父時頼役の渡辺謙、母涼子役の浅野温子、そして、北条家の側近役の伊藤四郎や池畑真之介も、すごみのある役を演じている。伊藤四郎はコメディアンとしてもピカイチだが俳優としてもすばらしい。いかりや長介の例をみてもわかるとおり、優れたコメディアンは俳優としても優れた演技をするものだ。池畑真之介はピーターとしても独自の世界をつくっているが、男性役としても実に理知的に演じていて見事だ。
 今のところストーリーは、戦を避けようとしながらも戦へと向かっていくという悲劇的な色が強い。しかし、元冦を前にして、日本国内だけでなく大陸との関係も広い視点で描かれているので、今までの時代劇とはスケールが違う。今後の展開がなかなか楽しみである。
 原作は郷土が生んだ売れっ子作家、たまご大好き高橋克彦だ。なんだかんだいってすごい人だなあ。この人はたまごが大好物で、若い頃ゆで卵を食い過ぎて危険な状態に陥ったことがあるらしい。さすがに普通の人とは違うのである。
■海の日(2001.7.20)
 だかなんだかよくわからないけどとにかくきょうは休日だった。朝から午後3時近くまで部活で学校に。帰ってくるといつものように眠くなった。この3連休には県大会がある。いくつかの競技では初戦を突破したようだ。がんばれとはもう言わないけれど、ぜひ悔いのない試合をしてほしい。
 スポーツ選手の人生観は遠くて見えない。大リーグの特集番組を見て、アメリカに行ってみたくなった。アメリカの名もなき人々に触れたくなった。イチロー選手の活躍が、今の僕の励みであり、勇気であり、心の支えだ。といったら笑われるだろうか。彼と同じ時代を生きていることに誇りすら感じる。渋谷陽一はプリンスに対してこんなことを言っていた。プリンスも僕の心の友のひとり。最近話を聞かないのでちょっと寂しいのだけれど。ひとりの聴衆としてね。からっと晴れた空の下で、ホットドッグを頬張り、みんなと騒ぎながら野球を観てる。そんなアメリカの一般庶民のイメージに大いに憧れる。ひとりの観衆。ただのそれだけでしかないのだが。それでも愉しみながら生きる。笑いながら自分のやり方で生きていく。アメリカなら、そんな自由な生き方もできるのかもしれないなんて、そんな夢みたいなことを言ってるまた現実逃避。
 急におかたい話だが、二酸化炭素削減の合意を、アメリカは今になって破棄するといっている。ミサイル防衛も強引に押し進めているし、このごろ身勝手さ極まりないアメリカ。世界はみんな警戒している。このアメリカと、イチローのいるアメリカは同じアメリカなんだろうかと疑ってしまう。ブッシュってやつはそんなに偉いのか?そして、この日本も中曽根の時からアメリカとは同盟関係で、京都議定書にだって日本は未だに批准するかさえわからない。自民党代議士の頭の中では、日の丸ではなく星条旗がはためいているということを以前聞いたことがあるが、それはまんざらうそではないだろう。その人の話では日本はすでにアメリカの51番目の州なのだそうだ。変なところばかりアメリカンになってしまったのでは。僕らのおつむはアメリカン♪あ、選挙の入場券が来た。早いとこ投票に行こう。みんなで不在者投票をして選挙運動を意味のないものにしようじゃないか。静かな町を取り戻そう。なんていってたら選挙動員の電話がかかって来てしまった。あさっては午前中部活、そして午後はまるまる電話当番だってさ!!!夜も個人演説会の動員がかかってるし…。
■一学期末(2001.7.18)
 ばたばたとどたばたと過ぎていく毎日だ。毎年こんなものかな。まるで梅雨の終わりのどしゃぶりのようだ。この雨があがれば夏がくる…。ばたばたとどたばたと過ぎていくのを待つだけの人間が育たなければいいな。
 世の中いろいろな考え方がある。それを一つにまとめようとするとあちこちうまくいかない部分が出てくるのは当然だ。もしうまくいっているように見えたとしても、それは誰かが我慢しているからかもしれないし、ほかの人から見ればぜんぜんうまくいっているなんていえないこともあるだろう。ここ何日かの間に、そんな両極端の意見をきく機会があった。正直ずいぶん振り回された。ある人は白黒ハッキリつけろと言った。またある人はそう簡単にはいかないのだと言った。保護者もいろいろ、教師もいろいろ。一部の声をきいて落ち込んだりするのはばかげている。自分と共感的な面々とばかりつき合うのも片寄ってるけど。この人右、この人左、で中を取って真ん中!というわけにはいかないから困る。
 どちらの考え方もわかるし、自分の努力が足りないのも重々承知だ。けどさ、白黒ハッキリできないことを受け入れることって大事じゃないかな。できないならやめろとか、中途半端なら続ける資格はないとか言われたって、それができない状況だという事実を受け入れてもらわなきゃ。そっちの声だけきいてたら、頭がおかしくなるところだった。でも、そうは考えない人たちもいて、オレはきのうその人たちの声で救われた。
 人のせいにするのは簡単だけど、それはわがままと変わりないと思う。自分のせいにされたほうとしては非常に残念ではあるけれど、そういう見方も一面的だとわかればこっちも道を見つけられる。変わらないではいられないのはお互い様。変わらなくていい人なんていない。それが、自分は正しいと思い込んで省みようとしないおとなはもうどうしようもない。ある意味強い人ではあるけれど、人間どうしの関係性をもっと大事にしなければ、これからは渡っていかれないだろう。と、久々の感情的な記述をお許し下され。
■きのうきょうのこと(2001.7.16)
 きのう、当たり付きの自販機でジュースを買ったら、ピピピと当たりが出てもう一本タダでもらえたよ。人生悪いことばかりではないぜ!でも欲を言えば、こんなところで運を使いたくないな。
 蒸し暑い日々は続く。けさ8時半の時点で教室の気温がすでに28度。風もなく、下敷きを団扇代わりにする生徒も多かった。そんな時いつも言うこと。あんまり扇ぐと肘から熱が発生して部屋がかえって暑くなるんだ。これを言って受けたことは今まで一度もない。温度解析装置(サーモグラフだっけか)を通した映像を思い浮かべるとけっこう面白いと思うのだが。
 ニュースを見ると公○党の党首は毎日同じことを言ってるぞ。「そうはイカン○○」つまらない。しかも、与党の今の政策を打ち出したのは我が党だてなことばかり。保守と名のつくこちらも、改革改革と叫んでる。なんか矛盾してないか。これだけ自民党への追い風が吹くと、いずれ二つとも用済みになるんじゃないかな。時間の問題だ。
 今夜の会議はなぜか南部曲がり家で行われた。村の公民館の離れになっているその曲がり家はそれほど立派ではないが、落ち着いていて中は意外と涼しかった。それにしても、毎回出される飲み物が全く冷えていないのはどうしてだろう。この間は温かいトマトジュースが出された。驚くことにこの暑いさなか、皆それをうまそうに飲むのだ。そういえば、カンボジアの人々も温いビールをうまそうに飲んでたっけ。なるほど。要するにこれは、文化の違いだな。
■ひでえ蒸し暑さ(2001.7.13)
 こう蒸し暑いと具合が悪くなる。この季節はほんとうにだめだ。といいつつきょうは帰りにバッティングセンターに寄った。そしたら自分の打った球が地面に跳ね返ってあごに当たった。その拍子に舌を噛んでしまい、少し血が出た。こんな日もある。3ゲーム目にはもうふらふらで、バットにかすりもしなくなった。終わるともう汗だく。久々に飲んだオロナミンCがちょっと舌の傷に滲みた。明日は第2土曜日だが、休業日を来週21日と交換したため休日ではない。あとひと踏ん張りだ。
 大阪が一番最初に外れた。2008年のオリンピックである。その瞬間大阪の「開催都市決定集会」会場では桂三枝らのトークに皆夢中で、だれもその結果に気付いていなかった。ニュースを見て笑ったよ。結局決まったのは北京。開催されるのはまだ7年も先のことだ。
■教科書のこと(2001.7.9)
 新しい歴史教科書への中国や韓国からの修正要求を、日本政府は拒否する決定をくだした。特に「つくる会」の教科書は明らかに恣意的に戦争を美化していると思えるし、それに対して中国や韓国の政府が大きく反発しているのも納得できる。ただ、きょうニュースで放送された韓国の一般市民の声をきく限りでは、市民レベルではそれほどの問題にはなっていないようでちょっと胸をなで下ろした。国家の歴史認識が問われるわけだが、むしろ一人一人が歴史をどう認識していくかが世界から問われている問題のように思う。いずれ、これから尾を引きそうな問題である。
 来年度から採用される教科書の展示会が行われている。僕も空き時間を見つけて行ってこようと思ってはいるのだが、なかなか行けないまま今にいたる。最近では教科書採択の過程を不透明にして、望ましくない教科書を採用し既成事実をつくりあげようという動きも一部ではあるようだ。展示会で各社の教科書を見た後には、現場教師としての意見を述べることになる。教科書選びに現場の教師の声が反映されなければならないことはいうまでもない。この機会をぜひ最大限生かしたい。
 週明けの通勤ルート。ある商店街を通って驚いた。ライオン髪の首相のあのポスターが、店という店の窓に何十枚と貼られていたのだ。たしかにこのところの小泉人気は異常なくらい過熱している。歯切れよくパワー溢れる演説に人間的魅力も相まって、これだけの支持を獲得してきたことはすばらしいと思う。しかし、このポスターだらけの商店街を通り過ぎた時には、さすがに気味悪かった。暑い日だったが背筋に寒気が走ったよ。これほどまで「妄信」してしまっていいのか?今はいいとこしか見えてないけれど、よくないところもあるわけで、陰ひなたをしっかり見ようとすることが大事だと思った。
 教科書も、いくら検定を通過したからといって、それを教師側が妄信して受け売りするのは危険だ。例の発掘捏造によって歴史教科書が書き換えられる、なんてことさえある。歴史に限ったことではない。国語の教科書だって、改定のたびに質が低下していると僕も感じてしまう。重厚で味わい深い作品が減り、どうでもいいような軽薄な作品が増えてきた。時代の流行を反映しているのだろうが、これを真に受けて忠実に教えるだけでは全く不十分なのだ。何が正しく、何が間違っているのか。私たちの認識はほんとに不確かで頼りない。それを見抜こうとする気持ちがなければ、やがて体制に呑み込まれてしまうだろう。「教科書が必ずしも正しいものではない」ということを忘れずに授業したいものだ。
■ネコが来た。(2001.7.7)
 最低の夜。車の窓から真っ赤な満月がビルの間に見えたり隠れたりしていた。家に帰るとドアの前に一匹の野良ネコが立っていた。白と黒の縞模様。ドアを開けるとやっぱり部屋の中に入ってきた。腹が減ってるのか。戸棚にあったサバ缶を開けて食わしたら、骨のところを残してきれいにたいらげた。なんで今夜お前はここに来た?なんで来たんだい?僕はこいつが今日のような日にここに来たことを何か意味があることとしか思えない。腹一杯食って、満足したようだった。これ以上ここにおいとくとダメなような気がしたから、部屋から追い出した。持ち上げて、外に放り出したよ。じゃね、ばいばい。一抹の寂しさ。このアパートに住んで4年。こういうことは初めてだった。こんな酷い夜、突然迷いこんだネコが、少しだけ僕を励ましてくれた。不思議な七夕の夜だった。
■マックな話(2001.7.5)
 といってもパソコンじゃなくてハンバーガー。子供の頃僕の町にはまだマクドナルドがなかったので、いつか食べてみたいとずっと思っていたものだ。いつのまにかここにもいくつかの店ができて、今では月に2、3度は食べるようになった。平日65円で買えるただの「ハンバーガー」はお世辞にもうまいとはいえないけれど、最近出る期間限定のものにはけっこういけるものもある。特に今売り出し中のアジアンダブルマックはうまいと思う。てりやきバーガーのように定着しそうな気もする。この間ドライブスルーでこれを買った時に、「マクドナルド30(さんまる)定期券」というのをもらった。早い話がスタンプカードなのだが、注文の時に定期券を利用することを告げねばならない。「定期券使います!」となら言えないことはない。だが間違って「さんまる定期券で!」なんて言ったら恥ずかしいだろうな。マックには口に出すのが恥ずかしいような商品がけっこうあるのだ。この頃やっと「フィレオフィッシュ」を注文できるようになった。そして「レタペパチーズバーガー」もなんとか。フライドポテトに10円プラスすると「シャカシャカポテト」になる。今は梅シソ味だ。しかし、注文口で「シャカシャカポテトひとつ!」と言うことは僕にはできない。デザートの「マックブリュレ」や「マックフルシェ」も興味はあるがいまだに頼めないでいる。おじさん客のこんな微妙な心理をわかっているのだろうか。
■月齢13(2001.7.4)
 ロシアで飛行機が墜落した。今日の月齢は13。満月と新月の近くには事故や犯罪が増えるのだという。ちなみに、僕が車で事故に遭った日は月齢5だった。これは関係ないか…。昨日保険屋さんから職場に電話があって、1対9でお宅にも過失があるということになるがそれでいいかと訊ねられた。もしよくないとなれば裁判を起こすことになるのだそうだ。自分は100%悪くないと思っていたから不満はあったが、だからといって裁判に持ち込むほどのこともあるまい。以前修理工場で、保険会社はお互いに損しないようにうまく駆け引きするらしいというのを聞いていたので、とにかくうまくやってくださいよろしくと言って受話器を置いた。
 学校を早く出て、わけもなく車を飛ばした。欲しい本もないのに本屋でぶらぶらした。無駄な時間ではあるがほっとするひととき。無意味なようにみえて実は大きな意味がある、のだと思う。むしろ、一分の無駄も許さないようなところほどかえって居心地が悪いようだ。左目の視力が極端に悪くて、左の首筋から背中にかけてひどく凝る。コンタクトで矯正はしているのだが、首筋のあまりの痛さに、五寸釘でも打ち込もうかという気になることがある。耳も左利きらしく、電話の時は左手で受話器を持つのだが、なぜか左耳はいつも熱をもっていて、おまけにモールス符号みたいなものが聞こえてきて困る。特に昼休みの職員室の電話は最悪だ。校内放送で呼び出され、百メートルも離れた教室から駆け足でやってきて息切れしているのにくわえて、生徒の奇声やら先生の笑い声やらの響く職員室では、満足に電話の応対をすることなどできない。「電話の相手の声がよく聞き取れない夢」というのは、僕がよく見る夢の一つである。
 ところで、満月の日は利き耳が普段とは反対になるのだそうだ。どういう理由かはわからないが、ものの聞こえ方が変わるらしい。狼男の話というのはそういう人間の性質が下地になって作られた物語なのかも知れないと思った。丸くて大きな月を見て恐いような変な気分になるのも、そのへんと関係があるのだろうか。今日は買ってからほとんど聴いてなかった大貫妙子の「アンサンブル」というアルバムをかけた。そしたら、すごく心に染みてきたよ。
■麦秋に思う(2001.7.3)
 麦刈りの季節である。大きな道路沿いには意外と多くの小麦が栽培されている。春にはわからなかったが、穂が黄金色に色付いてきたこの頃になって気がついた。ここらへんに植えられているのはパンを作るのに適した「南部小麦」という種類らしい。生協の県産小麦食パンというのを良く食べていたけど、こんな身近なところでとれた小麦粉が原材料だったのかと思うとなんとなくうれしい。減反による米からの転作作物、なのかどうかはわからないけどこの小麦。地元産の穀物として以前より認知されてきているようだ。
 「土産土法」という言葉を思い出す。その土地でとれたものをその土地のやり方で料理する。それがおいしいし、体にもいい。かつての地酒の地方CMにこんな感じの台詞があった。酒も肴も、その土地のものがうまいに決まっている。岩手産の米はひとめぼれもササニシキもたしかにうまいが、岩手産小麦を使ったパンも岩手に住む我々にとっての「うまいもの」の一つとして、定着してほしいと思う。生活のスタイルがどんなに変わっても、基本はやっぱり自分の住む土地だ。地元民が地元民のために地元産のものを作って売る。地元民がまたそれを買って食う。とっても自然で好ましいことではないか。
 この間しばらくぶりで実家に帰ったとき、僕の実家のある町(※僕はその町に一度も住んだことがない。)でも外国人が増えてきているという話を耳にした。けして不法入国者の話ではない。最近近くに住みはじめた二人の外国人男性。一人はアメリカ人で、こちらから留学していた女性と結婚してその女性の実家に婿入りした。その妻の実家というのがなんとお寺で、そこの住職が先日病気で倒れたらしい。そのアメリカ生まれの男性は倒れた住職の後を継ぐべく現在修行中だそうである。もう一人はスペインから来た人で、やっぱり日本人女性と一緒になってこちらに渡ってきた。ある工房でこちらも焼物の修行中だそうだ。
 僕は二人のように国を離れる覚悟があるわけでもないし、今後彼らのように外国の文化に情熱を注ぐことがあるかはわからない。それに僕は「家を継がなくてはならない」という縛られた感じがつきまとって、自由にものを考えることができなくなっているのかもしれない。彼らは故国を離れて暮らすとはいえ、故国を捨てたわけではないだろう。おそらくは心の中にある自分のふるさとを大切にしながらも、日本という新しい土地に実りを求めてはるばる渡ってきたにちがいない。西洋から岩手に来た二粒の麦のようなものだ。ぜひ実り多いものにしてほしい。「土産土法」を土台にしながらも、さらにさまざまなものがまざりあい、とけあい、広がりをもたせることができればきっと面白いものが生まれる。麦も、人もおんなじかなと思った。
■200分の1(2001.7.2)
 早いものでもう7月、ということは2001年も半分過ぎたということですね。ということは21世紀ももう200分の1が終わってしまったということです。言い換えると0.5%…。とこんな調子で授業を切り出したわけだが、この半年はほんとに早かった。こんな調子で百年なんてあっという間に過ぎていくんだろう。ただそれに比べて人間の寿命はさらに短くて、残念ながら今生きている人のほとんどは今世紀末を見届けることができない。一人一人ってちっぽけな存在だとつくづく思う。