雑記帳 2001年10月

■秋の天気図(2001.10.30)
 夜が明けぬうちにゴミを出しに外へ出ると、空気は冷たく吐く息も白かった。薄い霧は朝の訪れとともに消え、きょうは全国的に穏やかな晴れの日になりそうだ。これが日曜日だったならよかった。火曜日に晴れることは僕にとってたいした意味をもたない。晴れた休日ほど貴重なものはないね。
 学校の廊下からは青い空をバックに映える黄色い銀杏の木。山じゃもう紅葉のきれいな時期も過ぎたようだ。おとといまでの連休を最後に道路が閉鎖されたところも多い。あとは冬を待つばかり。あとは雪を、待つばかり。結局僕は今年一度も夏タイヤに履き替えぬままだった。買ったばかりのスタッドレスが台無し。笑ってしまう。ハハ。最後の冬。タイヤを買うべきか、それとも車に乗らぬべきか。雪が降ったら考えよう。ハハ。
 教室でこんなことを話した。やあ明日で10月も終わり。なんかもう今年も終わりという感じだね。そしたら、中学生にはそんな感覚はないらしく、みんなぽかんとしていたよ。まだまだ2学期は先が長い。ましてや特に1年生にはこれから先なんて全く見えないのだろう。中学生との年の差は年々離れていく一方で、我らにはそのハンデを乗り越えていくことが求められるわけで。先の見えないのは我らも同じことではないだろうか。五里霧中に暗中模索…。見えないものを見る努力。実のところ教科書どおりやったのでは四字熟語一つ満足に教えることができないようになっている。緻密で独創的で普遍的な授業を、絶えずクリエイトしていかなければならないのにさ。人の所為にするなよと教えていながら、何かの所為にしようとしている自分はいないか。
 読書の秋、食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋…。とにかくいろんな秋がある。○○の秋と言ってしまえば全部通じるかというとそうでもないらしい。いくつか考えてばかばかしくなってやめる。一番いいと思ったのは、食欲の秋に対抗して、「断食の秋」だった。寂聴さんもやったことだし。ラマダンも近いし。いかが?
 今ムッシュかまやつのゴロワーズというアルバムを棚から引っぱり出して聴いている。初めて聴いたけど何だすげえいいじゃねえか。どうしてこんなCDが家にあるわけ?まっ、いいか。
  WALK ON PEOPLE   Monsieur Kamayatsu
 歩ってっちゃ 遅れるよ
 走ってっちゃ クツがへる
 急がなきゃ 急がなきゃ
 
 さぼってちゃ のこされる
 すわってちゃ 走れない
 急がなきゃ 急がなきゃ

 誰も誰もみな先を急ぎ過ぎてる
 せめて おれだけはのんびりかまえて
 歩いて行きたい

 誰も誰もみな先を急ぎ過ぎてる
 せめて おれだけはのんびりかまえて
 歩いて行きたい

 WALK ON PEOPLE,WALK YOUR OWN PACE
 WALK ON PEOPLE,WALK YOUR OWN PACE

■危険物混入か!?(2001.10.29)
 仕事の帰りに初めて立ち寄ったラーメン屋。(またラーメンかい!?)みそラーメンがうまかった。僕の中のランキングでは1、2位を争う味だった。いいとこを開拓したぞと御満悦。ところが、帰宅後、足といい腕といい全身が痒くて痒くてたまらなくなった。たはー、参ったなこりゃ。きっとラーメン内の何かの成分が反応して身体症状を呈したのだろう。いったい何が入ってたんだ。くほー、かいー。ラーメンが悪いのでなく、体のほうがおかしくなってるのか。あるいは、昼に食べた給食との食べ合わせがまずかったか。イカか。それとも肉じゃがか。それにしても痒い。とっほほ。(…情けねえ話題だな、あ〜あ)喰うもんに気をつけろというサインなんだよな。というわけで、皆さんも気をつけましょう。

■変わりゆく街(2001.10.27)
 伊山治男氏の写真集「この角を曲がれば」を書店で手にして思わず買ってしまった。盛岡市内の古い街並を撮影したものだが、撮影されたのは77年から85年の間である。したがって、今となってはもう姿を消した懐かしい建築物の写真がたくさんおさめられている。ページを繰るたびに、確かに懐かしいのだけれどこの建物はあれもうなくなってしまったっけかという疑問がわいた。もう本当にこれらの景色は、今となっては僕らの記憶の中にしか存在しないのである。木造の長屋という住居形態は、鉄筋の高層マンションへと変わっている。異常な速度で変貌してゆく街。正直いって嘆かわしい。
 本屋からの帰り道、ジグザグに走る暴走族を十台くらいのパトカーが追いかけているのに出くわした。赤い緊急のランプが眩く交錯する異常な光景にどきりとした。最近テレビでよくやる警視庁密着なんとかと同じだった。土曜日の夜、暴走族の一斉摘発というわけか。あっという間に奴らは通りの角を曲がり、けたたましかったサイレンもエンジン音もすぐに聞こえなくなった。警察は彼らを捕まえられるだろうか。ほんの一瞬だけど、ミサイルでも爆弾でも使って全部殲滅してしまえばいいのにという考えが浮かんだ。心の中でスイッチを押す自分がいる。僕は悪人だろうか。お願いだもうこれ以上、街を汚さないでくれ。
 人が良すぎるということは、自分にも他人にも結局のところ幸をもたらしはしない。善人気取りで生きてきたことが、諸悪の根源みたいに思えてくる週末。教えてくれ僕は偽善者かい。お前たちもはじめはそんなつもりじゃなかったろうに。やっぱり僕の好きだった街は、どうしようもないくらい変わってしまった。きっとそれは、自分自身がどうしようもなく変わってしまったということと同義だったりするのだろう。
 この冬はラオスに行こうと思って旅行社に電話したのだけれど、もう遅かったようで飛行機の座席はとれなかった。キャンセル待ちは頼んだものの今回はどうもだめそうだな。というわけでだめな時のことをあれこれと構想して、なぜかとりあえずシンガポールのガイドブックなんかも買ってきた。ウラジオストクという線もあったけど、あまりになんにもなさそうだし、寒そうだからやめた。須藤尚俊さんという写真家の「人間遺産」というサイトを、ちょっと前にある人から紹介してもらったのだが、この写真がいい。人々の顔がいいんだな。そしてこの人は、元教師だったというのだから親近感がもてる。僕もそういう、世界の人たちを繋ぐような仕事をしていきたいと願っている。

■おじさんの自覚(2001.10.27)
 3時半に目覚めて、テレビで高校講座「物理」を見た。きょうは自由落下についての勉強だった。先生とアシスタントの女の人の掛け合いがおもしろかった。先生の言動から研ぎ澄まされたギャグのセンスを感じた。現代の高校生はこれを見て果たして笑えるだろうかと、しょうもないことを考えた。チャンネルを変えたらうじきつよしが「なぜなぜ日本」でリサイクルについて解説していた。彼の人当たりはいいのだが、どこか気負いが感じられるのだ。大河ドラマを見ていてもそれを感じてしまうんだよな。て、これもどうでもいいことだ。他の局では夫婦別姓のことを取り上げていた。結婚して名字を変えることを不自然に感じるのは自然なことだと思う。今でも婚姻届を出した夫婦の97%が男性の姓を名乗っているのだそうだ。ずいぶん片寄っている。同姓でも別姓でも選べるようにしたり、結合姓を認めたりしたほうがいいのではと思った。それにしても、なんでこんな早起きしてテレビ見てんだ俺は、年寄りと変わりないじゃないか。でも僕はテレビショッピングだけは嫌いだよ。あれだけは見ないようにしている。
 昨夜は久しぶりに友達と飲んだんだ。友人の中学時代の同級生とか、その同級生の高校時代の同級生とか。当然みんな三十代半ばで、ほとんどの人が既婚者だった。下らないことで笑ったり、学生時代の思い出話に耽ったり。友人の口からは二十年以上も前の記憶の淵に置き去りだったようなことがあれこれと飛び出すので驚いた。そして家庭を持つ人は、子供のことや家のこと、皆いろいろと事情を抱えているのだった。年代的には僕もすっかりおじさんなのだが、彼らと比べると僕はいかに気ままに、何にも縛られずに生活していることか。で、幸か不幸かいつも向き合っている中学生の感覚を自分はいまだにもち続けていることに気づいた。まあ、言ってみれば自分はまだまだだということなのかも知れないけれど。みんなそれぞれ理由があって、早く帰らなければならなくて、会は一次会で終了した。同窓会みたいなことはたまに会うからいいのであって、もう僕らはけして子供に戻ることはできない。そうして、また明日から日々の暮らしを続けていくしかない。自分自身の生き方で。
 それで、どういうわけか次の結論に至る。やっぱり僕には旅が必要だ。

■ラーメンを喰った夜(2001.10.25)
 1週間の仕事を終えた。明日うちの学校は文化祭の代休となり、金土日となんと3連休なのだ。来週にはやっかいなことがいろいろと待っている。その下準備として、何人かの生徒と短時間ではあったが面談した。手を尽くしたつもりではあるが、後は来週さてどうなるか。細工は流々仕上げを御覧じろってか。手応えはあったのだけど、そんなにうまくいくとは思えない。子供というのはいつも鮮やかに親を(教師を)裏切るものだから。
 放課後には職員会議があった。いつからか職員会議がひどく苦痛に感じられるようになった。そうして、終わるときまってサイテーの気持ちになるのだ。おまけに今日は運悪く日直で、カギ束持って暗い校舎を巡回した。もっと若い時分には、夜の校舎を歩くとぞくぞくとしたスリルみたいなものを感じたものだが、今ではそんなことは全くなくなった。今日はできるだけ早く帰ろうと思っていたのだが、そうはいかなかった。
 帰りに立ち寄ったラーメン屋は珍しく空いていた。ひとり背中でテレビの天気予報を聞きながら、ゆっくりとゆっくりとラーメンを口に運ぶ。明日朝の最低気温は1度…。あったかいスープを一匙一匙掬っては飲む。またゆっくりとゆっくりとラーメンを食べる。どんぶりがほとんど汁だけになった時、ひとり店に入ってきたのは同僚だった。珍しいところで会いましたね。連休はと訊いたら、部活と釣りだと答えた。釣りは海釣りで、午前2時に家を出るという。へえー。汁をすすりながら思う。僕はといえば、釣りには向かない人間だ。糸を垂らして2分で飽きる。たぶん僕はもう一生釣りはやらないだろうなとさえ…。それから、仕事の話なんかも少し交わしたら、なぜだか気分が軽くなった。汁がほとんどなくなったので、僕はそれじゃお先にと店を出た。ここでは、いいタイミングだった。 
 今年の日本シリーズはヤクルトが制した。テレビを見ながら、優勝が決まった時の選手たちの気持ちを想像していた。この人たちは、この瞬間を目指して1年間あるいは何年間もやってきたんだよなと思ったら、一人一人の笑顔がすごく素敵に見えた。こういうふうに喜んだことが、僕にはあったろうか。考えたが思い出せなかった。そして、いつかこんなことが僕にもあるんだろうかと考えた。
 きぐるみのサイトなるものを見つけた。どこかおもしろかった。それで、ブックマークを追加しといた。ニュースでは、イスラマバードでの女性たちのデモの様子が映し出されていた。頭から足まで白布で覆いわずかに目だけ出した女性たちが、ビン・ラディン支持と反米を叫んでいた。

■霜降(2001.10.23)
 とはいうものの、今朝は暖かかった。日中はそれほど気温が上がらずかといって風もそれほど冷たくはなかった。きのうは教研があったので年次休暇を取って出かけた。一日いっぱい学習した。学生に戻ったような気持ちがしたよ。講師だったOBの先生は、圧倒的な迫力と説得力をもつ言葉で僕達に語った。それはまさに詩だった。いわゆるpoetry readingだ(→佐野元春)。授業とはこうでなければいかんと思った。帰宅してなぜだか部屋を掃除したくなった。いや、なぜだかというのはうそで、それは必然だった。優れた授業は人間の生き方を変えるのである。何という爽快な心持ちだったことか。
 ところが部屋をきれいにすると、とたんに睡魔が襲ってきた。最近どうも睡眠パタンがおかしくなっていて、就寝が9時だったり、12時だったり、起床が3時だったり、5時だったりしている。変だ。パソコンに向かうことは向かうのだが、書き始めるまでの時間のかかることかかること。しかも、たいして続かない。これは問題だ。やる気の問題だと思っていたが、これは健康の問題でもある。生活のリズムというのを立て直さなくちゃいけない。
 実はきょうの授業で「日記の効用」についてやったのだ。やはり日記が自分のためになるのは事実だ。日記をつけることで、日々のかけがえのなさというのが、10倍くらいに感じられるようになった。何でもない一日が、ほんとに愛しく感じられてくる。そんなことを語ったもんだから、やっぱり毎日書かないわけにはいかないさ。公開するかどうかは別にしてね。

■土曜日の朝(2001.10.20)
 いい天気。これから出勤。夕べは突然太ももが吊って痛かった。考えてみるとこの季節はよくこうなる。何だろう。
 このホームページももう少しちゃんとしたものにしたい。毎日勝手なことばかりだらだら書くサイトというのから脱皮したい。
 1日でできることには限度がある。ホームページではせいぜいここまで。
 まめな更新よりも、内容の充実を目指したい。
 もう少し時間をかけて、まとまったものを書いてみたい。
 というわけで、今までのようには更新しなくなると思います。あしからず。

■六日間サボり(2001.10.18)
 寒くなってきた。あすの朝の盛岡の予想最低気温は1℃。また冬が来るな。
 焼肉なんて、とんとごぶさただ。牛丼だって、そんなにうまいとは思わない。けど、一番困っているのは生産者だって。これは国策の失敗だって。
 サイロ作って、牛飼って、莫大な借金抱えて、何年もかけてようやく育てて、幾らで売れるかといえば1頭10万円だとよ。涙も出やしないや。全く莫迦にした話だ。
 貧しさのわけは、どっかの豊かさにあったってわけ。今までピンとこなかったんだけど最近何だかわかるような気がしてきた。ってほんとにか?

■文化祭前夜(2001.10.12)
 一年でもっとも嫌なとき。ひどい自己嫌悪に陥るのだ。どれほど生徒たちが努力したとしても、感じるのは自分自身への情けなさや悔しさばかり。
 でも、歌を歌うときは楽しい。

■重苦しさ(2001.10.11)
 身体中に意味不明の発疹と痒み。二晩続けての鼻血。ときどき止まらなくなる咳。変に弱ってる身体。食欲だけは異常。
 某ドラマの新シリーズを見てしまった。重過ぎた。未処理の問題が処理される日は果たしてくるのか。
 きょう学校で映画「黒い雨」のはじめのほうだけを見た。見終わってから子供達はしばらく無言だった。
 あのテロから1ヶ月。
 あのとき核が使われてもおかしくなかった。
 そして炭疽菌の騒ぎ。「復活の日」を思い出す。
 新たなテロへの不安。
 続く空爆。
 奪われていくものの大きさははかりしれない。

■ニュースを見ない夜(2001.10.10)
 お気に入りのライブのビデオをかけっぱなしで過ごす。友人から届いたメールに返事を書く。このサイトを紹介しようと思ったが、その前に表紙を英語に直すことにした。
 英語を理解したり伝えたりする努力は大切だ。英語だとわからないとか、苦手だとか言っていられない時代になった。というか、自分がそのような状況に置かれるようになったということか。辞書片手に奮闘したよ。それにしても、うちの学校の合唱曲にもずいぶん英語の歌が増えたものだ。歌詞の意味を味わうということから言えば、英語曲は理解が難しいと思う。歌詞に涙するくらい感動できるのかというと正直疑問である。でも、そんなことは言わずに一生懸命歌っている生徒たちは立派だ。
 僕の担任する学級のコンクール自由曲は「名づけられた葉」という曲だ。新川和江の詩に曲がついたものである。この詩などは、三連目にくると感動で目がウルウルきてしまうのだが、生徒たちの大半はこれを「木」の歌だと思っていた。解釈してやるとたちまち子供達の目の色が変わり、歌にも心がこもるようになった。と感じたのは、担任の欲目だろうか。とにかくいい詩である。

   名づけられた葉     新川和江
 ポプラの木には ポプラの葉
 何千何万芽をふいて
 緑の小さな手をひろげ
 いっしんにひらひらさせても
 ひとつひとつのてのひらに
 載せられる名はみな同じ<ポプラの葉

 わたしも
 いちまいの葉にすぎないけれど
 あつい血の樹液をもつ
 にんげんの歴史の幹から分かれた小枝に
 不安げにしがみついた
 おさない葉っぱにすぎないけれど
 わたしは呼ばれる
 わたしだけの名で 朝に夕に

 だからわたし 考えなければならない
 誰のまねでもない
 葉脈の走らせ方を 刻みのいれ方を
 せいいっぱい緑をかがやかせて
 うつくしく散る法を
 名づけられた葉なのだから考えなければならない
 どんなに風がつよくとも

■報復(2001.10.8)
 ついにアメリカが攻撃を開始した。
 正義や自由や平和を守るために戦うのだという。
 いったい正当な武力などというものがあるのだろうか。
 戦争ではテロの芽を摘み取ることはできない。
 また新たな恨みをよぶだけだ。

■午前3時に(2001.10.7)
 バンコクに赴任した夢を見た。先輩が、早く祭の練習をしろと言った。3ヶ月は練習しないとダメだ。ちゃんとやらないと後で後悔するぞと。
 テレビをつけると、タイの風景が流れていた。微笑みの国の人々は、とてもあったかい。
 世界が狭くなったのか広くなったのかはわからないけど、考えなければならないことは多くなった。
 きょう何を喰うかだけ考えていればよかった時代から、地球や宇宙のことまで考えなければならない時代まで、一気に駆け抜けてきた人間たち。
 素直に自分自身を見つめることが難しくなってきた。
 取り残されて、宙ぶらりんの感性。
 原因を、他に求めようとする大人たち。
 敵をつくると、たしかに心は楽になる。たとえものごとの本質とは無関係だとしても。
 自分を変えることなしに世界を変えようと思ったら、その先に進むことはできなくなる。
 僕の心の中にも仮想敵国が存在しているのではないかと疑ってみる。
 僕も誰かの敵なのかもしれない。
 そう思ったら、もう眠れなくなった。

■あ〜あ(2001.10.5)
 疲れた…。風邪引いたみたいだ喉が痛いや。咳も出るし。そのわりにはなんか蒸し暑くて気持ちが悪い。
 それにしても、「常識」ということが嫌になってきた。所詮は何を中心に据えるかで、常識なんてものはコロコロ変わるのだ。何が中心か。結局自分か。
 自己中なのに異端気取りというのは矛盾してるな。
 寝ようかと思ったら、二人の教え子から相次いで電話がきた。一人は十年前の。もう一人は五年前の。二人とも僕を頼りにかけてきてくれたかと思うと嬉しい。
どうも迷いながらの旅だが、このまま行ってもいいのかもしれないと思った。悪いことはたくさんあるが、悪いことばかりではないもんだ。
 眠いさ。もう寝るさ。おやすみなさい。

■朧月夜に(2001.10.3)
 言葉にならないもやもやが、まるで雲の向こうの月の光のように暗闇を照らす。思いを言葉にすることへの躊躇。
 言葉は川のように大きな流れをつくりだす。人々に希望や生きる意味をもたらす。その反面、激流が人を呑み込み押し流してしまうこともある。人を、貶めることもある。身震いするほど恐ろしいと思った。
 橋本一子の名盤「ロマンティックな雨」を久しぶりに聴いた。その中で、きょう滲みたのはこの歌。歌詞を読んだだけでは「?」かもしれないが、この曲を聴くとグッとくるのである。
 JAZZということ。音楽のように生きたい。

   すこしときどき    橋本一子
 あなたは誰 わたしは誰 きみは誰 あの子は誰なの
 彼女は誰 彼は誰 誰かは誰 みんな誰なの

 わたしはきみ きみはあの子 あの子は誰か 誰かは彼女
 彼女は彼 彼はあなた あなたはみんな すこしずつみんな

 不思議ね どうして わたしがここにいる
 不思議ね どうして わたしがいて あなたがいて 
 世界があって 宇宙があって 美しいと感じること

 かわいいのは りす ステキなリズム 小さいのは大きくなる
 砂はザラザラ 水たまりはよける 夢はこっちへくる

 青いのは呼吸 白いのは犬 美しいのは ヴァイブレイション
 すこしステキ すこしやさしい すこし悲しい
 だからすこしときどき トモダチになってね

 子供は不思議 何もかも不思議 子供は世界 いつも夢見て
 大人だって不思議 大人も世界 ずっと夢見て 今だって いつも

 不思議ね どうして あなたがここにいる
 不思議ね どうして あなたがいて わたしがいて
 世界があって 宇宙があって 美しいと感じること

 わたしはきみ きみはあの子 あの子は誰か 誰かは彼女
 彼女は彼 彼はあなた あなたはみんな すこしずつみんな

 青いのは呼吸 白いのは犬 美しいのは ヴァイブレイション
 すこしステキ すこしうれしい すこし悲しい
 だからすこしときどき トモダチになってね

■フェアということ(2001.10.3)
 世の中には、大きなことから小さなことまでフェアじゃないことがたくさんある。そんなとき、悲しみ怒りこそすれ、恨んだり憎んだりはしない。そういう心性をもちたいものだと思う。