雑記帳 2001年11月

■はー(2001.11.27)
 飯喰ったら眠くなって目覚めたら1時だった。何だか疲れた。テレビではヤプーズのライブ。戸川純ちゃんレーダーマン歌ってるよ。80'sか、ニューウェーブか。夜中のテレビはおもしれえなあ。ゆっくり見れる若者がうらやましい。
 80年代もいいが、90年代のほうがもっといい。そして現代のほうがもっと進んでるのだきっと。

■街を歩く(2001.11.25)
 いろいろな街を歩いた。街それぞれにそれぞれの表情がある。街に抱きしめられて歩けば、楽しい。気づいたことがたくさんあった。いい街というのはなく、街の持つ魅力をどう自分が感じるかがすべてだということ。偶然に出会った街にも、かけがえのないものが隠れている。そして、車内では読書に耽った。ふと手にした本の中にも、不思議とその時自分にとっていちばん必要だったことが書いてある。

■理由(2001.11.23)
 夕べの酔いが少し残る午前4時。全員集会とはいうものの来たのはたった二十数名。いったいなんだと思ってるんだよ。三連休は三日だから72時間。そのうちもう4時間が経ってしまった…。なんていうふうに考えるのがパタンだ。何年も前にある同僚が、教師とは羊飼いのようなものだと言っていた。ずっと疑問に思っていたのだが、きのうやっとその意味がわかった。広げてやることはできても、冊を壊してはいけないのだ。教師である以上、その立場から逃れようがない。そんなことは百も承知なのだけれど、僕の言葉にはどうも危険なにおいがあるみたいだ。自分自身、教師というより宗教家に似た視点で物事をとらえているような感じがする。科学者と宗教家がどういっしょに生きるか。あるいは、キリスト教徒とイスラム教徒と仏教徒がどう共存していくか。教師という立場で、そんなことを考えながら生きていくことは無理だろうか。僕はできると思う。

■快挙!(2001.11.21)
 テレビをつけたらちょうど臨時ニュースをやってたところだったよ。イチローがアメリカンリーグのMVP受賞。新人王とダブル受賞は史上二人目なんだそうな。こういうのを歴史に残る快挙っていうんだろう。日本人の誇りだよ。彼の足跡はきっと百年経っても二百年経っても語り継がれるだろう。「21世紀初頭、大リーグを変えた一人の日本人がいた…」なんてね。僕は彼がいてくれたおかげでどれだけ救われたかわからない。心から祝福したい。

■理想と現実(2001.11.20)
 月曜日一日学校にいたらいろんなことが見えてきた。一つにまとまるってのは難しいと感じた。ここにいる理由を僕なりに探そうと思ったが、ここでなければならない理由は何一つ見つからなかった。偶然を必然に変えるには時間がかかる。夢をえがいてはいるけれど、現実が足に絡み付いて先へ進めない、なんてのは言い訳だ。居場所は自分で切り開く、それが大人ぞ。

■しし座流星群(2001.11.19)
 1時間に数千個の流れ星。そりゃすごい見なきゃ。というわけで、2時に起きて窓の外を見てみると、雲が出ていて空が見えない。なんだ残念と再び布団にもぐり込んだ。
 そしたら、夢に流れ星が出てきた。運河に舟を浮かべて空を見ていた。星形の着ぐるみを着たたくさんの小人が岸壁にくっついていた…。
 週末は教研で宮古にいた。楽しかったけれど、疲れた。出勤する前から、早退したい気分である。

■山に雪(2001.11.14)
 今朝周囲の山々には雪が積もり、白くなっていた。冬のはじめ。この季節は嫌いではない。
 健康診断があった。眼底検査というのを初めてやった。血液を取ったり、心電図を取ったり、こんなことで病気が予防できるならすごいことだ。まるで未来の世界だ。そう思ったら楽しかった。でも僕はもう、人生の半分を過ごしてしまった。そして残りは今までよりもあっという間に過ぎてしまうだろう。もし病気になったらなったで、病気とうまくつき合っていくしかない。それは健康診断を受けたかどうかには関係ない。この身体ってやつは、人間の意識を全く超えている。人間ってのは、ヒトの足元にもおよばない。
 帰りにふらっと寄ったうどん屋で、今年初のなべやきを喰った。ちょっと変わったなべやき。土鍋ではなく鉄鍋で、なるともイクラも生卵もなく、そのかわり骨付きのとり肉やゆで玉子や、でっかいあぶらげが入っていた。香りのいいきのこもたくさん入っていた。ふうふういいながら喰っていると、今まで黙っていた店のおやじが突然話しかけてきた。「きょうは寒かったねえ。風が刺さってきたねえ。刺さった刺さった。まるで女房と同じだ」そんなことを言い出した。
 「女房」は入院中だという。それから、東京に単身赴任していた時はよかったとか、東京は金があればいい街だ。金がなければ惨めだとか。東京でカバンを盗まれた話とか。しみじみとしていたが、いい感じだった。こういうひとときもいいもんだ。体だけでなくあったまったような気がしたよ。

■弓張り月(2001.11.12)
 ニューヨークで飛行機が墜落した。テロではない、というけれど。墜落地周辺には日本人は住んでいない、というけれど…。
 夜になって、雪雲みたいなのが出てきた。天気予報にはついに雪だるまが。あすは車には乗らないことにしよう。
 居住証明書をもらいに、アパートから離れたところにある住宅会社に行った。19時を過ぎているにも関わらず、たくさんの社員が慌ただしく出入りしていた。ここまでせっかく来たからと、近くのCD屋に立ち寄った。しかし、買いたいものは特になし。試聴コーナーで松任谷由実のバラードを聴くがぱっとしない。以前はどきどきしたはずなのに、今ではなんにも感じない。残念だが、感性が合わなくなったのはたしからしい。
 手の指を骨折した生徒が出たので、25日の大会はキャンセルせざるを得なくなった。期末テストの二日前。ほかの部はどこも部活停止の3連休だ。内心ほっとしていたら、ある生徒のお母さんから「ちょっとほっとしました」と言われた。生徒たちも、そう思っているのかも。

■ある秋の日に(2001.11.11)
 これ以上ないという晴天の日曜日。練習試合が終わったのが13時前。学校に戻って荷物を置いて、アパートには戻らずにそのまま北へと車を走らせる。車にあらかじめ着替えとタオルを積んで、そのままどっかの温泉へ行こうという魂胆。車内ではFM。日曜日の昼下がりは「日曜喫茶室」のトークが最高だ。国道4号線と来年12月に八戸まで開通する新幹線の高架が時々交差する。沼宮内の駅舎は工事中。奥中山の峠を越えたところで左に折れ西岳へ。奥中山高原温泉は「朝朱の湯」に入った。露天風呂では風が冷たかった。しばらく温めの湯に耳元まですっかり浸かる。風呂から上がってそのまま観光天文台へと。今年の営業はきょうで終わり。日中は太陽の観察のみ。プラネタリウムの時間には5分遅かった。中には入らずに周囲を散策しただけで国道へと戻る。15時過ぎに昼食。鳥越グランドパレス。ここの食堂は盛りがいい。よせばいいのにカツカレー…。
 車の中で地図を広げる。以前ならさらに北上して八戸へと向かっただろうが、もうそんな気力はなかった。同じ道路をまた引き返す。迫る夕暮れ。雲がないから夕焼けもそれほど赤くならない。岩手山のシルエットが美しい。いつも見ているのとは違った角度からの岩手山。車から撮った一枚。盛岡からの見え方がすべてではないように、アメリカ側から見たアフガニスタンの見方もすべてではない。知らず知らずのうちに一つの方向からの見方を唯一のものと思い込んでいたのではないだろうか。人はどれほど思い込みの中で生きていることか。
 盛岡に入ってから道が混み、渋滞が続いた。眠気で何度か目を閉じそうになる。家に着いたのが17時。たまらずベッドに横になるとすぐ眠りに落ちた。心地よい夢。楽しい夢を見た。夢の中で僕はどっかに旅していた。久しぶりに家に戻ると、家族がみんな揃っていて、テレビを見ながら笑い合っていた。それからまた僕は一人旅に出た。やっぱりお前は一人がいいのかい。…ここ3日ほど、金縛りにあう夜が続いている。僕は何に縛られているのか。自分ではわからないんだ。
 むっくりと起きだし、いつもの本屋へ。日曜の夜はここのところ毎週この本屋を覗く。だがどういうわけかこの本屋では買う気が起こらない。いつも手ぶらで帰る。それもまたよし。ひと月くらい前から2階がまた空部屋になっている。秋の夜長、僕はCDをかけまくる。今はエルビス・コステロ。バカラックとやったやつ。なんか声が沁みるよ。
 「アタック・ナンバーハーフ」という映画についてネットで調べているうち、ぜひ観たいという気持ちが強くなってきた。実は冬休みに部の合宿を計画していて、練習ばかりなのもなんだから映画でも見せようかと思ったのだ。そして「バレーボール映画」で検索したら全部この「アタック…」というタイ映画だった。評を読むとこれはかなりおもしろそうで、いいんじゃないかと勝手に胸ときめかせているところである。すでに僕はDVDを買おうと決めた。もし観た人がいたら感想を聞かせて下さい。

■聖徳太子(2001.11.10)
 ドラマをじっくりと見てしまったよ。大昔のドラマというのは珍しかった。「和をもって尊しとなす」。千四百年も昔にこの国は平和憲法をつくっていたんだね。聖徳太子が49歳でこの世を去るまで戦が起きることはなかったと、締めくくられていた。だが、それから現代までの間、無数の戦争が繰り返されてきたわけだ。なんとかならないものかほんとに。
 ラオスの話はやっぱり未だにどうも無理みたいで、ビザの発給のことを考えると来週がキャンセル待ちの限界らしい。「地球の歩き方」によると、ビエンチャンの空港でもビザは取れるらしいのだが、僕の頼んだ某旅行社ではそれはできないといわれた。今はよくてもいつだめになるかわからない。もしだめだと入国できないからということだった。ま、仕方がない。別の手を考えよう。

■「同時多発テロの背景と展望 多様化した21世紀の戦略環境」(2001.11.8)
 というしち難しい題の講演会に参加してきた。講師は岩島久夫氏。久慈にあるアレン国際短期大学の前の学長で、現在は国際政治軍事アナリストという肩書きをもつ方である。題名はしち難しかったが、話は意外と分かりやすく、僕にとって目からウロコの落ちるようなことばかりだった。いい加減なことは言わない。自分の話にはしっかりとした根拠があるのだと言っていた。以下、講演の時のメモを元にして、おおまかな内容を書いておく。
〜岩島氏は昭和20年の3月に旧海軍兵学校を卒業した、最後の海軍士官だったそうである。防衛研究所で20数年間研究指導し、その後はいくつかの大学で教鞭を取った。広島に原子爆弾が投下された時、氏は広島市から40キロの距離にある大竹という町で軍事訓練をしていた。海軍学校を卒業してから終戦まで、特種潜航艇の操縦訓練を受けていたのだそうである。そして、大竹から呉へと戻る途中に爆心地の惨状を目にした。おびただしい死体の転がる焼け野原を通ってきた氏は、「核」に対するアレルギーを強くもっているのだという。核アレルギーは強くても強すぎることはない。核を使うことはどんなことがあっても許せないと話していた。
 今回の戦争で気化爆弾が使われたという報道があった。気化爆弾は湾岸戦争でも地雷や戦車の一掃のために使用された。燃料を気化させて充満させそれに一気に火を放つという非人道的な兵器で、軍人はおろか総ての生き物を無差別に殲滅するほどの殺傷能力がある。今のところは通常兵器に分類されているが、ジュネーブ軍縮会議でも非人道兵器への指定が議論されているほどの代物だ。アフガニスタンでも米軍がこれを使用し始めたということは、アメリカも行き詰まっている証拠であろう。
 クリントン時代には米朝の対話も進み、パレスチナ問題にも進展があった。ところが、ブッシュ政権に変わったとたん、一転クリントンを否定して、力第一の政策を強行してきた。極端なイスラエル寄り政策、独善外交、貧国無視…。そういうブッシュの政策の失敗の結果があのテロだろう。
 米ソの冷戦時代、北極海を間に挟んでアメリカとソ連は対峙していた。人工衛星などの宇宙情報システムがITの粋を集めて整備された。ところが、冷戦構造の崩壊後、そのシステムだけが残ってしまった。軍事産業の利益を考えて、今度はその情報システムを使ったNMD構想などが出てきたというわけである。だから、IT 革命というのは冷戦構造の落とし子なんだそうだ。
 95年に刊行された米国陸軍大学戦略研究所の調査報告書には、すでに爆弾を積んだ航空機がホワイトハウスに突っ込むとか、ハイテク・テロとか、バイオ・テロなどのスーパーテロリズムの警告がなされていたのだ。そして、テロからの防衛のために「本土防衛庁」の設置が提言されていたにもかかわらず、ブッシュ大統領はそれを無視してきた。この機関が設立されたのはつい最近だという。そういう戦略研究所では、例えば東京でのテロの可能性なども調査していて、スーツケース型の原子爆弾が船で密輸されて国内に持ち込まれ、都心で爆発するなどという筋書きも想定されているのだそうだ。実際に、船での密輸入というのは防ぐのが非常に困難らしい。
 アメリカと旧ソ連、中国との位置関係を示すために、北極海を中心とした見慣れない地図が掲げられた。この地図で考えると、アメリカと中国の再短距離は北極海を通ることがわかる。地球儀を上から見た図を想像してみればいいだろう。日本でよく目にする世界地図は日本が中心に描かれているが、それは当然日本でだけである。この地図で世界を考えるのは実は危険なことなのだと気づいた。地球は平面ではなく立体的に見るべきだと思った。
 ボーダーレスの時代ということが叫ばれているが、それはなにも国境だけのことを言っているのではない。政府と非政府の、犯罪者と非犯罪者の、正しいこととそうでないことの境がわからなくなってきている。商売でも近ごろでは正常な業者が、密輸業者の密輸した商品を仕入れて販売する、なんていうことも行われるようになっているのだという。上海近郊にある人民解放軍の所有するある工場を視察した時のこと、そこで作られているスカーフには「made in Japan」の文字がプリントされていた。日本を介することなく第三国に輸出されるらしい。同様に北朝鮮でも、「日本製」の製品が作られているというのだ。
 ブッシュ大統領が、事件後なぜあんなに感情的になっていたのかを分析してみた。フランスのニュースレター「インテリジェンスオンライン」によると、今年の4月頃からブッシュ政権は、オマル師陣営の要人と「制裁撤廃」と「石油資源」をえさにオサマ・ビンラディン引き渡しの交渉を行っていたらしい。さらに、ワシントンポストでは、6〜7月にはアルカイダと密接な関係にある組織がワシントンに招かれ、ビンラディン引き渡しがかなり現実化しつつあったようである。つまり「オマルが引き渡し要求をのんだ」ということだろう。そこでビンラディンは追い詰められ、窮鼠猫を噛むのごとくあの行為へと及んだというのである。ブッシュにしてみれば、もう少しで思う通りになると考えていた矢先にあの事件である。まるで敗北を喫したカウボーイのように顔を赤くして「戦争だ!」と叫んだのも納得できる。このように、ブッシュ政権自体がこのテロを誘発した可能性を氏は指摘している。
 21世紀の特徴として、安い兵器で大きな被害をもたらすとか、弱い人が強い者をやっつけるなどという現象が起こっている。アメリカの将来の戦略計画ではこれからの戦争は「情報を支配したほうが勝つ」ということで、さまざまな方法での情報支配が考えられているらしい。そのうちの一つが、マインドコントロールによる支配だ。どうやるかというと、ある特殊な電磁波を照射して敵の思考をおかしくしてしまうのだそうだ。士気が盛んな敵将めがけて電磁波を照射すると、たちまち今までとは反対のへなへなの人間になってしまうのだ。なんとそれがもう実用段階寸前だというのだから恐ろしい。
 ブッシュは感情的になっている。アメリカは完全に国際法違反を犯している。そもそもテロは犯罪である。戦争というのは国を主体としており、テロへの軍事報復は認められているものではない。国連憲章にも、まず平和的解決を目指すのだと掲げられているのだ。日本は、アメリカとイスラム圏の仲立ちとして国際司法裁判所で法の裁きを受けさせることを国連総会で決議させるように働きかける立場に立つことがいいのではないか。」
 他にも、いろいろあったがここでは割愛する。メモの他に、岩島氏の執筆した新聞記事も参考にしてここまで書いたが、僕自身がよくわからずに書いているところもあるので、わかりづらい文章になってしまったことをお許しいただきたい。
 戦略についての事情が詳しく語られたが、最後にいったい戦争って何?という疑問が残った。各国こぞって軍事の研究を行うその意義っていったい…。外交としての戦争ってどういうこと?率直にいって、もっと命の大切さとか人間の尊厳とかについて深く考えたいなと思った。
 最後のほうで、岩島氏はこう言った。「岩手県は米内光政や原敬や新渡戸稲造のように、二つの異なるものを融合させよう、仲立ちしようという思想を育む土壌である。(宮沢賢治もそうだと思った。)そういう岩手から世界に和解と取りなしの新しいシグナルを発信して欲しい。それに、これからは意志とか意識とかをどうもつかというのが一番大事になってくる。個として一人一人がしっかり考えないといけない。」
 以上、講演会の報告でした。

■お元気ですか(2001.11.6)
 きょうは午前中出張だった。車で40分の隣町まで出かけて、福祉協力校の研修会に参加したのである。研修会の内容はまあそれなりに充実していたが、それはここではふれない。書きたいのはその帰り道のことだ。ある道の駅の産直コーナーにふらっと立ち寄ってみたら、そこで売ってる農産物の新鮮でうまそうなこと!思わずいろいろと買い込んでしまったよ。ほうれん草にねぎ、長芋、リンゴに玉子。野菜を買ったのはおそらく1年半ぶりくらいだろう。これらを見て僕は、久しぶりに料理でもしてみっか!という気持ちになった。何を作るのかまでは考えなかったが、とにかく買ってみたくなったんだなこれが。
 夜には学校の多目的ホールで講演会があった。なんとあの坂本光男先生が我が校にいらしたのである。支会の教文部はなんだかんだいって偉い。せっかく声をかけても来ない人の気が知れない。緊急の学年会があり途中からの参加で少々残念ではあったが、それでも十分ためになった。いつものあの「元気になる」お話を、たっぷりと聞くことができた。そして、発見した。僕は僕が思っていたよりもずっと元気に生きているのだった。元気をもらったというよりも、元気であることを再確認したといったほうがぴったりくる感じ。話を聞いたり、周りの人たちと話し合ったりするうちに、学ぶことの快感を感じるようになった。正しい、間違い、そんなこと関係なく何を言ってもいい空間というのは居心地が良かった。言いたいことは、言ってもいいのです。この当たり前のことが当たり前にできる守られた場所があるということは素晴らしい。きょう何を学んだかって、一番はこのこと。居心地のいい教室というのはこういうことなんだよな。それをつくりましょうってわけですよ。
 窮屈さや居心地の悪さを感じているということはバランスがどっかで崩れている証拠だ。それは誰が悪いという一元的な原因はなく、人と人との関係性の中でまるで編み物の毛糸のようにどっかが絡まったり穴が大きくなったりしているものなのだな。と、そんなことを考えながら家路に着いた。
 帰宅は9時を過ぎていたが、それから調理に取りかかった。まずお湯を湧かす。カップラーメンを食べるのだ。ただのカップラーメンではないぞ。きょう買ってきたネギを千切りにして炒めて上にのせるのだ。特製ネギラーメンだよ。そして、新鮮な玉子とほうれん草とさらに長芋をすったものをまぜてフライパンで焼いた。今まで喰ったことのないような新しいオムレツができた。なかなかいける。しかも、さっきの講演会でもらったおにぎり付き。なんて贅沢な夕食だ。少しだけれど「自立した食生活」に近づくことができたぞ(?)。明日も元気に過ごそう。

■頭痛(2001.11.4)
 この連休は、結婚式や教研があるので部活はなし。親たちに頼んでスポーツ少年団の活動ということにしてもらった。部活のない休日がどれほど解放感のあるものか。毎週こうだったらどんなにいいことか。教研の組織委員だと思っていたのは僕の勘違い。実は行く必要の(資格の)ない人間だったということがわかったので、きょう一日は自由になった。実家が式場に近いので、久しぶりに実家に一泊し、きょうの昼には自宅へと戻った。
 きのうの教え子の結婚式。4時間にも及んだ披露宴の間中「恩師」の席に座っているのは窮屈で孤独だった。教え子は、中学当時は小柄ですばしっこいサルみたいな生徒だったが、今ではすらっと背も伸びて素敵な青年になっていた。一度も言い直さないことを目標に話したアドリブの祝辞は、自虐的な受けを狙う方向へ走ってしまった。反応は悪くなかったが、準備をしないのは失敗だった。周りは新郎の職場関係の人たちで、式の間も上司は若手社員をいろいろと教育していた。話を聞いていると、その上司たちはさすがに人間的にも鍛えられているんだと感じた。50近くのおじさんたちの口から出てくる言葉は実に流麗で洗練されており、仕事に対する情熱が詩となって語られているように思えた。若い社員たちはそれを一言も漏らさぬようにうなづきながら聞いていた。そして、「おい『乾杯』歌ってこい!」と上司が言うと、二人の若者は「はい」と素直に返事をして余興のステージへ向かった。
 いくつか披露宴を見てきた。披露宴自体の流れはどれも同じようなものではあるが、微妙なところで違いというのが出てくる。拍手やかけ声とか雰囲気とか。客層の違いというのももちろんあるだろうが、決定的なのはきっとその家の家風そして、一番は本人たちのもつ人間性なのだろうと、そんなことを感じた。そして、そんなものをそんな場でわざわざさらけだすようなことはどうなんだろうなと疑問に思った。家は大切、儀式も大切なのはわかるけれど。さまざまな演出の陰に、若い新郎新婦はどれだけの思いを抱えているのだろうか。ああいう演出に高額の費用をかける現代日本の披露宴というのは、馬鹿げているのではないだろうか。大切なのは、新しい生活を踏み出したその日からをどう自分達らしく演出していくかということではないだろうか。誰が見る見ないに関わらず、自分達自身を偽ることなく生きられるかどうかということだ。
 きょうの朝ユニクロに入ったら異常なほどの人でごった返していたので、2分と経たないうちに店を出た。いくらモノがいい値段が安いとはいってもこんなにたくさんの人が同じ物を着るのかと思ったら吐き気がした。人と同じように同じようにというのは、日本人のもつ大きな考え方の流儀の一つなのだろうか。そのくせ一方では茶髪だピアスだと、人と違う格好をしようとする方向もあったりする。どうもよくわからない。
 車を北に走らせながら、昼飯をどこで喰おうか探していた。日曜日の昼時、国道沿いの店はどこも混んでいるようだった。肩身の狭い思いをするのは嫌だからと、どこにも入ることがないままに家の近くまで来てしまった。結局いつものコンビニで、から揚げ弁当を買ってきて喰った。
 岩手山に初冠雪。きょうはきのうにも増して肌寒く、暗い曇り空。午前中から目の奥に痛みを感じていたのが、家に着いた頃から頭痛になった。帰ったらやりたいことが山ほどあったのだけど、頭の痛いのには勝てなかった。せっかくの日曜の昼下がり、僕はまた眠ってしまった。

■霜月朔日(2001.11.1)
 きょうは満月だった。だからかどうかは知らないが道はたいそう混んでいて、銀行もスーパーも駐車場は満車だった。いつも通る細い裏道も、対向車が絶えまなく続くのでイライラした。職員室で電話をしてたら帰りの放送がとんでもない音量で鳴り始めたので、相手の声が聞こえなくて困った。
 ほかにもいろいろとあった。いろいろあるのが人生だ。そして今、頭が痛い。痛いってことは生きてることだ。ああ生きている。楽しいよ。
 成功も失敗もない。「物の整理が下手だ。」いまだにこれが、僕が所属長から受けた唯一の評価である。莫迦にするにもほどがあると思っている。
 …果物の中で柿が一番好きだ。俺は月夜に柿を喰う。誰が何と言おうが、どう思おうが構わない。ただひとり柿を喰うのみである。
 だが窓を開けてみると、いつの間にか雨になっていた。