2016年10月  oktober 2016

zondag 23 oktober

 この一週間は雨が多かった。一雨ごとに気温が下がり、秋が深まってきた。

 昨日は一人、電車で南に行った。独逸との境の町で降り、市場の様子を見た。これまで独逸寄りの町の市場を何箇所か訪ねた。御多分に洩れずここも独逸からの車が多く停まっており、看板にも独逸語がちらほら見られ、独逸からの客を当て込んでいるように思われる。ずいぶん冷え込んだ朝だった。屋台で馬鈴薯を磨り潰して揚げたものを買って食べた。それでは足りずに、キベリングと呼ばれる白身魚のフライを食べると、体が温まった。汁物で体を温める土地もあれば、油物で温める土地もある。

 この国の大部分は平地だが、南部のここいらまで来ると、起伏のある地形となる。もとは炭鉱町だったようで、一角の広場には当時の写真の載った看板が立っていた。様々なところに鉱山があって、かつては多くの人々が働いていた。やがて鉱山は閉ざされて、多くの人々が職を失った。そういう歴史が地球上のあちこちにある。

 独逸国鉄の青と赤で塗られた車両は見るからに新しく、側面に独逸語がでかでかと書かれた二両編成の列車だった。内部には仕切りがなく、自転車用の空間がかなり広く取られていた。国際列車というにはあまりにも普通の近郊型通勤電車だった。独逸との国境が近いとはいえ、明らかに仏蘭西語の地名と思われる駅の名もあり、言語が入り組んでいた地域だったのだろうと思われた。

 一旦ヘールレンで別の電車に乗り換えて西に一時間も行くと、今度は白耳義国境の駅に着く。白耳義国鉄の黄色味がかった車両の先頭は落書きで汚れていた。内部には仏蘭西語の広告が貼られており、四人掛けの座席の並ぶ車室は、一両が二つにも三つにもドアで仕切られていた。こちらは通勤というよりも、日帰りの旅行者を乗せるための列車という感じがした。中国語を話す若い女性たちの声がしばらく車内に鳴り響いていた。静かになったと思ったら、各自作ってきたのだろうか、それぞれの膝の上に持参した弁当を広げていた。

 国境の駅で折り返しの列車に乗り、マーストリヒトの駅に戻った。二時間ほど町を歩いた。教会の建物と黄色く色づいた木々。川面を滑るクルーズ船。美しく秋の日が差して、暖かくなった。今年はもう見ることができないと思って諦めていたワールドプレスフォト、世界報道写真展が昨日からこの地で行われていた。いつもと同じように、ほとんどの写真が、戦争と混乱と環境汚染にまつわるものだった。この展覧会でいつも思うことだが、世界は混迷を極めている。

 もし国境というものがなければ、言語や文化の境界はもっと入り組んだものであり、無数のグラデーションを付けながら変化するものだったかもしれない。そうすれば、異なることそのものがかけがえのないものだと素直に認め合えていたかもしれない。

 国と国との仕切りが押し付けられて、隣の集落と自由な行き来ができなくなった時代。為政者の国取り合戦に巻き込まれて、属する国がころころ変えられた時代。戦いに自由を奪われ、命さえどうにもできなかった時代。いまも、そのような時代が続いている。国というのは、誰かごく一部の人間の利益のために多くの民の財産が収奪される、それだけのための仕組みなのではないだろうか。住民サービスという名のサービスなど享受すべきメリットの何物もなくて、本当は小さなコミュニティで全て賄えるものだったのではないだろうか。

 考えることはいつも同じだ。電車内はうるさかった。若者たちがはしゃいでいたり、子供達が泣きわめいていたりした。隣に座ったお年寄りたちが、そういう情景を見て舌打ちするのを聞いた。元気そうなおばあさんたちが小声でぶつぶつささやき合っていた。もう日本語なのか和蘭陀語なのかもわからないくらいに、意味はわからないながらも想像できるような状況が続いていた。

 うとうとしていると、隣に大柄のおじいさんが勢いよく座ったので驚いた。恰幅が良いので、僕は文字通り肩身が狭い思いがしてしばらく辛かった。僕が降りますと言っても、彼は立ち上がろうとはしなかった。膝と前席の間の狭い空間をぶつかりながら強引にすり抜けた。

 自転車と一緒に乗ってきたおじさんは、同じく自転車のお兄さんをつかまえて自転車の自慢話なのかずっと熱く語っていた。聞いていると、シマノのことをずいぶん評価しているようだった。そして、自転車なのか部品の話なのか、とにかく値段が高いということがこのおじさんの話のキーワードのようだった。いくつも電車を乗り換えて、何人もの人たちが乗っては降りて行った。何の関わりをもつわけではないが一期一会、もう二度と出会わない人たちばかりとのすれ違いだった。

zaterdag 15 october

 一週間が終わる速度はものすごいが、充実感とか達成感とかいうものは何一つない。どこでも同じか。昨日は午後になってから欠伸がなんども出て困った。土曜の今日にも行事があって、これから雨の中を出かけなければならない。自分なりに、確実で、最低限度の仕事はしているつもりだが、自分なりにという範囲で止まっているのでは本当の仕事ではない。大切なことは、チームとして互いが認め合えることだ。残念ながらそのような環境にはないから、何をどう考えてどう動いたとしても、良かったという実感が湧かないのだ。

 よくも毎日毎日がっかりさせられるエピソードが繰り返されるものだ。ここに来て強く感じていることといえば、上に立つ者の存在がその職場にもたらす影響の大きさだ。当の本人たち自身は、それに気づいているのだろうか。仕事というものが、その人の人生にとってかけがえのない成長の機会としてとらえられるか、それともただの食い扶持か、出会いによって異なる。ただ、出会うべく人が黙って向こうから近づいてくることはない。出会うべく人に出会える素地を持つ者だけが、めぐり合うことができる。そのためのインプルーヴメントが、その人の魂の若いうちに達せられなければ、その人の一生は子供時代に止まったものになる。

 そのような、僕より目上の方たちに対して、何も言うつもりはない。もちろん、かれらの言うことにも何ら聞く耳を持つつもりもない。健気に働こうとする若者たちに対して絶対的な不信を植え付けてしまったかれらの責任の大きさに、かれら自身が気づくことは、それでもおそらくないのだろう。

zondag 9 october

 「学校が始まるよ」という横断幕が街のあちこちに掲げられたのは八月末のこと。それからすでに一月半もたった。九月の初めから先週まで、一年で最大の行事の準備に追われる日々が続いた。この三年間の集大成として臨んだが、そう思っていたのは当然自分のみだったらしい。自分としては、過去二年を振り返って四月から日常的に進めてきたことだった。順調とは到底言えるものではなかったが、一本の筋道のようなものは最後まで貫いた。そして、一つの作品となった。こちらは手をかけず、哲学のみを語ってきた。作品はかれらが試行錯誤しながら初めから最後までかれらだけで創り上げたものだった。一人一人が自己の課題と向き合い、成長した。それは自己変革の過程であったと言っても良い。僕はそんな風に取り組んだかれらに賛辞を送りたい。

 だが、側から見ればそれほどの価値を認める者など誰一人いないのかもしれない。華やかで見映えのするもの、客受けの良いものが求められる時勢、あるいはこの場所で、地味で泥臭く、いわば売り物としては完成度の低い不良品は、他と比較して見劣りするものだったのかもしれない。それについての批評は甘んじて受け止めるつもりだが、批評は批評として、こちらがその精神を曲げることはないだろう。残念なのは、同じ価値観で振り返ることのできる仲間や上司がいないことだ。

 幸い行事は終了した。もうこれをやり直すこともなければ、これに関して悩むこともない。また明日から自分の道を歩くのみである。