タイの旅(2000.7.28〜7.31) タイの写真
8月1日からのカンボジアの国際ワークキャンプの前に、タイを旅した時の記録です。

7/28(金)
 6:42盛岡発東京行のやまびこに乗る。キオスクでサンドイッチと緑茶の朝食を買った。昨夜まで仕事が忙しく、ばたばたと準備してやっとのことで出発にこぎつけた。新幹線の中ではうつらうつらしていた。10:30過ぎに東京に到着。地下で荷物を預け、そのまま八重洲口を通りブリヂストン美術館へと向かう。学校時代の教科書で見たような有名な作品がずらりと並んでいた。モネ、マネ、クレー、ピカソ、ゴーギャン、ドガ、クールベ、浅井忠、黒田清輝、梅原龍三郎…。大学時代の先生が言っていたことばを思い出した。「東京に行った時はブリヂストン美術館に行ってみなさい。落語を聞きに行きなさい。本物を見るというのはとても大事なことです」あれから14年経って、やっとここにたどりつくことができた。
 その後はブックセンターで、旅の間に読もうと思い宮沢賢治の童話集を買った。そして、地下の飲食街でネギトロ丼冷やしうどんセットを食べた。うまいんだかうまくないんだかよくわからなかったが、ネクタイを絞めたビジネスマンたちの間で、もしかしたらこれが日本で最後の食事になるかもしれないと思いながら食べた。
 成田エクスプレスは13:03発。コンパートメントでは3人組のグループといっしょになった。50代くらいの夫婦と、その夫婦の息子の彼女という組みあわせ。彼氏は今、アメリカのケンタッキー州で暮らしていて、その彼に会いに行くということらしかった。彼女のほうが御両親を連れていくという雰囲気だった。最初に話しかけたのはおばさんのほうから。「どこ行くんですか?」「カンボジアです」「いいですね!お仕事で?」「いいえ、ボランティアで」「あなた、ボランティアだってよ。あなたもやってみたら、あと5,6年で退職だし」「うん」訛りの全くない、いわゆる標準語が心地よかった。まるで、レディス4の司会者という感じである。東京の言葉はとてもきれいだと思う。
「どこから?」「盛岡です」「盛岡?たいへんね。盛岡って、青森?」(これには参った)フィレンツェのホテルはよかったとか、パリではどうだったとか、話を聞くと、ずいぶん海外に旅行していることがわかった。おじさんは「やはり高いホテルはそれだけのよさがあるよ」などと言っていた。息子の彼女という人はとてもきれいな人で、いずれはこの人たちの家に入るのだろうと思った。彼らは第2ターミナルで降りた。
 ターミナルビルではカメラの電池や目覚まし機能付きの電卓を買った。電卓の液晶が壊れているのに気づいて、店に言ったらすぐ新しい物に交換してくれた。4万円をドルに両替し、時間まではぶらぶらと歩き回り暇をつぶした。ユナイテッド航空の機内。機内食がうまかったほかはたいして旅情を感じるでもなく、うつらうつらしたり、全面のモニターに映る地図を眺めたりしていた。日本人らしき人の数は意外と少ない。日本との時差は2時間である。時計を直してタイ時間20:10(日本時間22:10)の着陸に備えた。
 到着すると、「ようこそ微笑みの国へ」という看板。見慣れないタイ語の文字に異国情緒を感じた。空港で100ドルをタイバーツに両替。市バスに乗ろうと思ったが、バス停がどこにあるかがわからない。いくら歩いても見つからないのでどうしようかと思案していると、若いタクシーの運転手が声をかけてきた。英語のできる彼は「400バーツでホテルまで行くよ」と言った。高いような気もしたが、荷物も大きいし、疲れてるしでええいままよと心を決めて車に乗った。車内では、彼が英語であれこれ話しかけてきたので、実際こっちも英語を試してみることができた。猛スピードで走る彼は「バンコクではいつもこうだよ」と話していた。途中トールウェーとよばれる高速道路を通って、その料金も含めて440バーツでホテルに着いた。気のいい感じの青年だったので、バスに乗らずタクシーを選んでよかったと思った。しかし、ガイドブックに寄ると空港から市内までは200バーツ弱と書いてある。1バーツは約3.3円、700円くらい損したわけか。もし市バスだったら、3.5バーツ(約12円)で済んだのである。でも少々の損失は覚悟の上、これも経験である。
 ホテルはホアランポーン駅のすぐそば、バンコクセンターホテル。インターネットで予約して、予めクーポンを手に入れていた。1泊2600円である。カオサン通りの安宿に比べればずいぶん高いということになるのだろうが、日本に比べればずいぶん安い。廊下には香辛料のようなにおいが充満していた。部屋は9001号室。とにかく快適さと安全さで全く不足は感じなかった。その夜は洗濯をして、風呂に入って就寝した。

7/29(土)
 部屋から見下ろす景色は、ハノイと似ていた。ホテルの朝食はいわゆるバイキング形式。早々に済ませて、ホアランポーン駅に行く。駅前で、ビニール袋を口元に当ててラリっている少年たちを見た。視点が定まらず、異様だった。この駅はマレー鉄道の起点であり、外国人や地元の人々などたくさんの利用客で溢れかえっていた。バンコクでは何をしようという計画は全くなく、とにかく街を歩いてみたいということと、できればアユタヤには行ってみたいということを考えていた。まずは情報収集をと思い、駅の観光案内所に行ってみた。そこの人は僕が日本人だということを知ると「日本語が通じるから」と言って、2階にある旅行会社へ僕を連れていった。
 そこのお兄さんが日本語ではなく英語でいろいろと説明してくれた。BTSの駅を教えてくれと頼むと、それはバンコクじゃスカイトレインというんだと言って、地図をくれた。あしたはどうするつもりかと聞かれたので、アユタヤに行ってみたいと思っているんだけどと答えると、バスツアーを紹介してきた。タクシーで1日回ると1800バーツ。だが、マイクロバスなら800バーツで昼食付き。なるほど800バーツなら割安感がある。7:00にホテルまでバスが迎えに来てくれるという。即決してチケットを買い、その場を後にした。
 駅で何枚か写真を撮った。infomationのおじさんたちは気軽にポーズをとってくれた。駅を出て西へ。寺があったので見学した。そこはそれほど大きな寺ではなかったが、西洋人のツアー客でごったがえしていた。隣に仏教学校があって、男子学生たちが集まっていたので、写真を撮らせてもらった。
 チャイナタウンに入ると、町並みはハノイの旧市街と雰囲気がそっくりだった。秤屋、車の部品屋、棺桶屋に香辛料屋。漢字の看板もずいぶん見かけた。歩き疲れて、小さな食堂に入る。ビン入りのペプシコーラが7バーツだった。少年とそのお母さん、そしておばあさん。お母さんが積極的に話しかけてきた。英語を勉強していて、使ってみたくてしかたがなかったという感じだった。ワット・ポーに行きたいと言ったら、地図を書いてくれた。3人といっしょに写真を撮った。親切な人たちだ。嬉しかったな。
 橋の上からチャオプラヤー川を見渡した。濁った川の水。行き交うボート。桟橋の古い建物。川沿いに立ち並ぶ高層ホテル。いろいろな物が見えた。橋を横切り、ガード下ではサッカー少年たち。シュートした時の喜び方が大袈裟で、日本とは違うと思った。いろんな屋台を見た。バナナ焼き、お焼きに似た物やたこやきに似た物を見た。市場街を通り過ぎて、警察署に着く。そこでトイレを拝借。市場では白い花を編んだ飾りを売っていて、そこら中いい香りが漂っていた。
 ワットポーにたどりついたのが11:00頃。一人のおやじが近付いてきて「きょうはタイの儀式の日だから午前中は見学できないよ。13:00になれば開くから、それまでの2時間いいところを回ってまたここに戻ってきてあげるよ。20バーツでどうだい」と言った。後ろには、バイクタクシーのトゥクトゥクに乗った兄さんが待っている。20バーツぽっきりだということをもう一度確認して乗り込んだ。バイクの後ろを改造した座席に乗っていると、風が当たってなかなか爽快。だが、排気ガス臭いのがちょっと気になった。
 Lucky Buddhaとよばれる寝釈迦仏に案内された。運転手の兄さんは、自分はここにいるから一人で回っておいで、と言う。行くと本堂では一人の男が手を合わせて祈っていた。僕が来ると、祈りをやめて振り返り、さわやかな微笑みを浮かべ、僕にあいさつをした。そして「日本人ですか?」と聞いてきた。そうだと答えると、「僕はバンコクの銀行員さ。日本人とはずいぶん取引があるんだ。それによくいっしょにゴルフにも行くよ」さらに、「あなたはほんとにラッキーだね!なぜって?えっ、知らないの?説明してあげるよ」と言って、いろいろと説明を始めた。最初は感心して聞いていたのだが、やがてこいつはトゥクトゥクの運転手とグルだということがわかってきた。「タイの特産物といえば、シルクさ。今タイシルクの展示会が行なわれていて、きょうがその最終日なのさ。市価よりずっと安く買えるんだ。一年でたった一週間しかないチャンスなんだ。なんてあなたはラッキーなんだ!」と言って、そこの店の地図が入った名刺を渡してくれた。話も終わりに近づいた頃、その男の携帯電話が鳴った。「これから日本の取引先とゴルフなんだ。じゃあ」男とはそこでわかれた。そうして、その次にトゥクトゥクの兄さんが連れていってくれたのは、偶然にも(?)そのタイシルクのテーラーであった。僕は全く何も買うつもりはなかったので、見るだけであった。その次に行った寺でも、男が話しかけてきた。男はハネムーンでバンコクに来ていて、ここで妻への指輪を買ったのだそうだ。安いし、日本に帰ってから何倍もの値段で売れるから君も買ったほうがいいと言って名刺をくれた。そうして、次に連れていってくれた場所はというと、思ったとおり宝石店だった。宝石屋の店員は、日本の若者がたくさん買っていくと話していた。ミキモトなどでは3倍くらいの値段で買い取るのだそうだ。日本の大学生と思しき若者たちのパスポートの、おびただしい量のコピーを見せてくれた。ずいぶんたくさんの若者がだまされているんだと思った。
 店を出ると、宝石店の店員とトゥクトゥクの運転手がタバコを吸いながら談笑しているのを見た。完全にこいつらグルなのだ。運転手は、こう言っていた。「何も買わなくていいから、あと2、3件つきあってくれ。そうすればオレの方にガソリンのクーポンがもらえるんだよ」と。なるほどそういうことだったのか。その後、洋服屋や宝石屋、土産物屋など数件回ったが、何も買わず見るだけであった。結局ワット・ポーに戻ったのは13:15頃だった。有名な寝釈迦仏を見学、外の卒塔婆も金色に輝いており、見事だった。裏手には何十台というバスが停まっており、たくさんの人たちが参詣しているのがわかった。
 その後、王宮(グランドパレス)に徒歩で向かった。途中、「私、タイの先生」と名乗る男に会った。どこに行くのか聞いてきたので、グランドパレスと答えると、案内してあげるからと言いつつ今来た道を戻ろうとする。どうも様子が変である。よく話を聞いてみると、また宝石屋の紹介だ。「この店はどこよりも安い。イイ!イイ!イイ!」と親指を3回突き出して笑顔で言うではないか。なんだこいつ。先生でもなんでもないじゃないか。「さっき行ってきたよ」と言うと、「さよなら」と言って去っていった。引き際は、案外みんなあっさりとしたものだ。
 グランドパレスに着いたのが、16:15頃。入場は16:30までだから早くしないと!と教えてくれた人がいた。料金は200バーツ。けっこうな額である。だが、それだけの価値はあったと思う。全てがやたらにハデハデだった。ゼイの限りを尽くしている。変な言い方かもしれないが、見栄のはり過ぎという感じもある。ハデ過ぎて、かえってちゃっちいような。とはいってもやっぱりたいしたもんだった。
 パレスを出た後もひたすら歩く。そこでまた一人の兄さんに声をかけられた。その兄さんはいろいろ説明してくれた。パレスの北側の大きな広場では、きょうの夜6時半からTVのコンサートが始まるのだそうだ。周りの木陰に人々が陣取っていて、日が暮れてから、ステージの前の席を取るんだと言っていた。この兄さんも、何かの客引きだとは思ったが、さんざん話を聞いたあと、用事があるからと言ってこちらからサヨナラと手を振ると、彼もあきらめて手を振った。
 その後、何かのデモ行進を見た。みんな黒っぽい服を着て、何かを叫んでいた。だが、よく見ても何のデモなのかわからなかった。意味がわからないデモというのは、怖いものがあると思った。
 少し行くと、有名なカオサン通りがあるはずである。だがここで、昼飯を食べていなかったことに気がつく。暑さで喉も乾いたので、少し休むことにした。高級そうなカフェだったが、とにかく入って適当に注文をした。何だかよくわからないフライとレモングラスのハーブティーで42バーツ。きっとかなり高い店だ。外国人が多く使う店のようだった。
 いよいよカオサン通りへ。たいして長いわけでも広いわけでもない通りの両側に、アクセサリー屋だのTシャツ屋だのが軒を列ねている。どこもかしこも西洋人ばかりだった。西洋人にとっては、この通りを歩くというのは特別な意味があるのだろう。ちょっと原宿を通る若者たちにも似た一種のブランド意識を感じてしまった。インターネットのできる店を見つけたので入ってみる。1分1バーツ。15分で頼んだら、店の人に変な顔をされたと思ったのは気のせいだろうか。少しいじってみたが、僕はMacしか使ったことがないので、ウィンドウズマシンの扱い方がよくわからず、しかも、日本語を出せずに苦労した。メールを出してはみたが、届いたかどうかはわからなかった。奥のほうでは、日本の学校の先生らしき若者が英語で何かしゃべっていた。「僕は先生だが生徒から教えてもらってばかりさ」というようなことを大きな声で隣の西洋人に説明していた。なぜか話かける気にはなれなかった。結局パソコンの前で四苦八苦していたが、十分な用件を済ませることはできなかった。ただ一つ、自分のホームページにここからもアクセスできるということが確認できただけでもよしとしよう。15分以上使ったけれども、店の人は5バーツくらい返金してくれた。ちょっと情けなかった。
 焼そばの屋台で食べる。麺は3種類。値段は5バーツ。好みの麺を指差して選ぶとそれを炒めてくれる。日本でもよく見かけるソース焼そばとそれほど変わらない、もやしのたっぷり入った焼そばだった。箸でなく、プラスチックの小さなフォークを渡されたよ。味は砂糖が入って甘ったるい感じがした。あさっての夜には、ワークキャンプのメンバーとここのセブンイレブンの前で合流することになっている。きょうはその場所を確かめに来たのだが、そのセブンイレブンはほんとに狭い店だった。そこで水を購入した。
 大きい通りに出て、公衆電話からバンコクエアウェイズへかけて、リコンファームしようと思ったのだが、電話が故障しているのかどうしてもかからない。しかも、入れた10バーツは帰ってこなかった。
 そのままホテルまで歩こうかと決意。かなりいいかげんに、こっちのほうだろうと見当をつけ、歩き出す。途中また男に声をかけられたが、NOと言って通り過ぎると、それ以上追ってくることはなかった。
 市場や裏通りなど、かなりディープなところを歩く。線路をまたいで、また歩く。思った通りの方向に歩いていたようである。かなり時間はかかったがなんとか駅に辿り着いた。時間は19:00を越えていた。アイスティーを飲んで少し休んだ。
 ホテルへ戻ると風呂、洗濯。そして、すぐ隣のレストランで夕食。メニューはなく、バイキングで食べ放題だった。メニューは中華料理。しかもずいぶん家庭的な味付けで、里芋の煮っころがしみたいなのもあった。Singha beerを1本頼んだら225バーツ!ビール代のほうが高くついた。とにかくこの夜は食い過ぎて後悔した。それにビールも飲むんじゃなかった。疲れていたので変な酔い方をしてしまった。ベッドに入ってすぐに、下痢と吐き気に襲われしばらく苦しんだ。旅先での暴飲暴食はだめだということを学んだ。

7/30(日)
 7:00にバスがホテルまで迎えに来るというので、ロビーで待っていた。すると、北京から来たという中国人のおじさん二人がやってきた。同じように、パタヤ行きのバスがくるのだそうだ。だが、時間になってもバスは来ない。15分くらい経って、やっと来た!と思い、乗り込んで発車を待っていた。添乗員らしき若者が、僕のチケットを見ながら何か携帯電話で話をしている。しばらくすると、「あなたは違う、降りて!」と言われてしまった。僕はバスを降りた。こりゃだまされたのかなと少し思った。さっきのパタヤ行きの中国のおじさんたちも、他のバスで同じように降ろされたみたいで、三人でしばし、ロビーに座って待っていた。中国語で、少しだけど会話をすることができた。
 30分遅れでめでたく本物のバスが到着した。僕はおじさんたちに別れを告げてバスへ。隣りは日本人の若者、中山さんだった。中山さんは、「タイは若いうちに行け」というCMを見て、タイに来たくなったのだと言っていた。そのCMに出ていたワット・アルンという寺の夜景を見たいのだという。彼は、翌日にはチェンマイの2泊3日のトレッキングツアーに参加するのだそうだ。なかなか話がおもしろい人で、この日一日、彼のおかげでとても有意義なアユタヤ旅行ができた。
 バスはバンコクから北上し、初めの目的地である国王の別荘地に着いた。きれいに整備された庭園をゆっくり歩いて回った。いかりや長介に似た感じの添乗員のおじさんは、バスの中でいろいろと説明してくれたが、タイ語訛りがきつく、かなりわかりずらかった。ただ、ときどき大きな声で笑うので、こっちもつられて笑顔になった。
 アユタヤでは、中国式の寺院、タイ式の寺院を見学、参拝した。ミャンマーとの戦争で、遺跡群はかなり傷付いていたが、寺にはたくさんの参拝客があり、人々は熱心に手を合わせ拝んでいた。タイ人の信仰心の厚さを目の当たりにした。僕もタイ人たちに混じって、仏像に金箔をはったりした。金箔が中山さんのまぶたにくっついて、それを見てツアーのみんなが笑った。
 その後は土産物屋などを経由してレストランへ。川に面した店で、川風が当たって気持ちがよかった。ツアーの一行は、バルセロナから来たという若夫婦、アメリカから来た4人家族、そして中山さんと僕だった。午後は、カンボジア式の寺院などを中山さんと周遊した。70分の時間をゆっくりと過ごした。近くの芝生に座りながら、いろいろとおしゃべりができた。
 かき氷の屋台があったので、喰おうということになった。日本のかき氷とほとんど変わりないが、トッピングらしきものがずいぶん豊富だった。僕はシロップを2種類半々ずつかけてもらった。暑かったのでうまかったな。ここで、以前日本に出稼ぎに来たことがあるというおじさんに出会った。その時には、千葉に住んでいたと話していた。日本では給料は1日1万円もらっていたが、今じゃ1ヶ月6000円だそうだ。ゾウに乗ってアユタヤを回ることもできるそうである。ゾウのとまっているところで、ゾウにえさを与えた。さすがに喰いっぷりは豪快だった。
 帰りには、アユタヤのホテルから、アメリカ人の太ったおじさんが乗り込んだ。予定の時間より1時間以上早くバンコク市内に入る。これなら街を歩けそうと思っていたところで、大規模な土産物店だろうか、おそらくは免税店に案内された。中ではまず冷たいコーラがふるまわれ、そして小さな映画館のような場所へ。明かりが落ちたと思ったら、タイの宝石やシルクを宣伝する映画が始まった。15分くらいの映画の後は、タイシルクの縫製や宝石の研磨の様子を見学させられ、そのままショップへ。おばさんたちが買え買え、安いよ安いよと攻めてきた。なるほどね。どこも同じだなと納得した。
 僕は何一つ買う気はないので、全く無視を決め込んでいたが、中山さんは宝石屋さんに捕まり、いろいろと話を聞かされていた。中山さんは、買わないっつうの!と本気になって怒っていた。出口近くのロビーに座り、コーラを飲んで他の人たちが戻ってくるのを待った。中山さんが、近くの席に座ったインドのおじさんと話していたのを聞いていた。インドは英語が公用語というのがうらやましいと思った。
 どうやらバルセロナの夫婦とアメリカの家族はタクシーで帰ったらしい。バスに乗ったのは、日本人の2人と途中から乗ったアメリカのおじさんだけだった。
 中山さんは、サーヤム・スクエアでバスを降りた。外国でも、こういう出会い方があるんだと思った。
彼のおかげでとてもいい旅になった。その後、おじさんと話をした。おじさんはこんなことを言っていた。「アメリカでは家族をとても大切にするんだ。誕生日とかにはどんなに離れて暮らしていたって、みんなが集まってきてパーティーを開くんだ」よくは聞き取れなかったけど、奥さんを何年か前に亡くしたらしい。その話をしたら、涙ぐんでいたよ。
 17時頃にはホテルに戻ったので、少し休んでタイボクシング(ムエ・タイ)を見に出かける。ホテルからタクシーに乗った。このタクシーの運転手、何かそわそわしてると思ったら、途中ガソリンスタンドの前で車を止めた。「ちょっと待ってて」と言って車を降り、スタンドへ走っていった。どうやらトイレに行きたかったようだ。
 競技場前では客引きが、「リングサイドの方がいいよ」と言っていた。また、「2階だと興奮した人に殴られるので危険だよ」とも言っていた。だが、リングサイドは1000バーツ。これは高すぎる。僕は200バーツの2階席にした。2階で正解。入ってみると、リングサイドも2階席もたいして変わりはなかった。ボクシングをナマで見るのは初めてだった。しかも、祈りの踊りなどがあり、宗教がかっていて、異様な感じを受けた。
 客の案内をしたり飲み物を売ったりするスポーツ刈りの兄さんたちの顔はちょっと怖かったな。それに、警察官がものものしいいでたちで見物しているのも。いつかニュースで見た小学生ボクサーを見たいという念願はかなった。10歳そこそこという感じの子供達がリングで殴り合っている…。そして、それに檄を飛ばす両サイドの大人たち…。僕は複雑な気持ちになった。3階席と2階席の間には金網が張られており、上には違法な賭博をやる人たちが、後半になると来るのだそうだ。僕は前半で出たからその人たちは見なかったが、違法とはいえ賭博が公然と行われているようである。
 ワット・ポーの裏手の船着き場。そこにチャオプラヤー川を渡る渡し船があって、それに乗るとワット・アルンに行ける。そのことは中山さんから聞いた。僕も行ってみたくなり、スタジアムからトゥクトゥクに乗った。船着き場は独特の情緒があり、焼き鳥のようなものが売られていたりした。料金は2バーツである。船に乗ると川向こうにライトアップされた寺がある。あれがワット・アルンか。確かに夢見るように輝いていてきれいだった。船を降りて、桟橋から一枚写真を取ろうと思ってシャッターを押した瞬間、ファインダーの中のワット・アルンが見えなくなった。この瞬間に、ライトが一斉に消えて、真っ暗になったのである。なんというタイミング。あれより0.1秒でもシャッターを押すのが遅かったら、写真は撮れなかったのだ。結局すぐまた同じ船で引き返した。
 仕方がないのでとにかく歩き出す。ワット・ポーの前で、酔っ払いのおじさんに出会った。ずいぶんごきげんな顔で僕に手を伸ばし握手してきた。オレの家に来いとかいっしょに飲もうとか言ってる。そして握手の手を離さない。よく聞いていると、金をくれということらしい。No money!と言ったら、やっぱりあっさりと手を離した。僕はGood bye! Take care! と言ってその場を去った。
 ホテルの方角に向かって歩き出す。途中のチャイナタウンでは屋台が大にぎわい。夕食は屋台をはしごしようと決める。ラーメン1杯15バーツ。日本のとたいして変わりない味。焼き鳥、ソーセージのくし焼きなど、どれも1本5バーツ。なかなかうまかったし、何本か食べたら腹も満たされた。セブンイレブンを覗いてみる。「一休さんスナック」というのが売られていた。しかも、塗り絵付きである。さすがは仏教国タイ、ここでも一休さんは人気者なのだ。思わずひとつ買ってしまった。

7/31(月)
 朝は部屋でゆっくりと日記を書いていた。リコンファームをしようとバンコクエアウェイズに何度も電話を試みるがどうしても通じない。フロントに頼んでかけてもらうが、何度やってもダメ。オフィスまで行ったほうがいいだろうというので、足を運んでみることにした。73番か159番のバスに乗ればサーヤムスクエアまで行けることを教わり、ホテルを出た。ナショナルスタジアム前のバス停で降りた。ここにはスカイトレインの駅がある。バス停近くの洋服屋の前に、きれいな絵葉書が置いてあった。ここで絵葉書と切手を買うと、ターバンを巻いたインド人風の主人が、「シャツを作らないか?明日にはできるよ」と言ってきたが断った。
 ナショナルスタジアム駅からスカイトレインに乗る。ドイツ風のデザインとバンコクの街並とのコントラストがおもしろかった。電車からは作りかけのビルディングがたくさんあるのを見た。バブル時代の乱開発が中途半端になっているのだろう。電車を降りてしばらく歩く。しかし、あるはずのオフィスが見当たらない。そのうちに大きなショッピングセンターが見えてきた。腹が減ったので、ここのフードコートで少し早い昼飯を喰うことにする。30バーツのクーポン券を購入し、好きな物を注文する。御飯に二種類、カレーのようなそぼろのようなものをかけてもらう。それから、オレンジジュース。辛いがうまい。そうとう辛いがそうとううまい!この飯、最後までなんだかわからなかったが、とてもうまかった。
 どうしても場所がわからず、タクシーに乗る。運転手は陽気な人で、渋滞でなかなか進まないタクシーの運転席で、「バンコクの道はいつもこんなものさ」と言って僕に飴をくれた。
 湖のほとり、シリキット国際会議場の1階に、航空会社のオフィスはあった。こぢんまりとした部屋で
お姉さんが一人で事務をとっていた。「何度も電話したんだけど…」と言ったら何か返されたが、意味がわからなかった。ホテルのルームナンバーを聞かれたのに、自分の名前をしゃべってしまい、笑われた。ここまで来るのはたいへんだったが、彼女に会っただけで来たかいがあったと思った。(何だそりゃ)
 湖のほとりを散歩した。タバコ工場に迷いこんでしまった。工場の敷地を通り抜けると、NaNaというところに出た。外国人が多く住む地区らしい。マクドナルドで82バーツのセットを頼んだ。この値段は異常に高い。一番でかいサイズのコーラを飲んでしまった。
 タイ式マッサージを体験したくて、エカマイ地区にあるカノクウェート・マッサージという店を目指す。途中でまた、ショッピングセンターのフードコートで食事。今度は、御飯に鶏肉がのったもので、しょうが醤油をかけて食べる。これもうまかった!マッサージ店はすぐに見つかった。ここは視覚障害者の人々が社会的、経済的に自立することを目的として設立された店だそうだ。目の見えないおじさんがやってくれた。1時間200バーツ。足中心に攻められた。うつ伏せで、背中を押されると、夢を見た。1時間じゃ足りない。2時間コースにすればよかったと思った。
 マッサージを終えて、サーヤムスクエアへ。まさに大都会。昨日、おとといとは違ったバンコクの姿を見る。建物の中をしばし散歩。タワーレコードには日本のアーチストのCDもたくさん置いてあった。日本人アーチストの1位はミーシャのアルバムだった。
 それからトゥクトゥクでカオサンへ。集合時間の19時には早すぎた。しばらくそこらをぶらぶらと歩く。コンビニで水を買って、インターネットの店に入る。日本語表示がOKで、しばらくメールチェックしていたのだが、どこをどういじったか、日本語が出なくなってしまった。ここでも情けない思いをした。
 しゃれた店には西洋人しかいない。ザ・ビーチで話題になった通りだけあって、上映されているビデオにはレオナルド・ディカプリオが出ている。そこで一人ビールを飲みながら絵葉書や日記を書いた。
 19:00、セブンイレブン前。ワークキャンプのメンバーに初めて会う。屋台で粥の夕食。その後店を変えてビールを飲む。しばし談笑してわかれた。明日はいよいよカンボジアに入る。メンバーはほとんどが学生。すごく新鮮な感じがした。この夜は、10:00ころホテルに戻って就寝した。これからの2週間が楽しみだ。