2004年12月

■ニューヨーク3 viernes,31,diciembre,2004
 大晦日。朝に実家に電話を入れる。祖母の容態が急変し、26日に救急車で病院に運ばれたとのこと。
 とにかくあちこち歩き回るうちに夜になる。MOMAなど行ってみたいところは人ばかり。紀伊国屋の本屋も日本人ばかりでなんだか気持ち悪かった。
カウントダウンはタイムズスクエアに行けなかったけれど、雰囲気は味わう。もうこの日にここに来ることもないだろう。

■ニューヨーク2 jueves,30,diciembre,2004
 朝食はワンパターンだがおおむね満足。グッゲンハイム美術館を見学。メソアメリカの特別展があった。午前中ゆっくり回る。その後徒歩でメトロポリタン美術館へ。入らずにそのまま通り過ぎる。セントラル・パークでジャンボプレッツェルとコーク。これがおそろしくうまくない。コーラで流し込んで昼食。そこから地下鉄とバスを乗り継いで国際連合本部へ。しっかりと入管がある。ベルトと時計まで外させられて、全部チェック。トロントを出るときにもここまではしなかった。1時間のスタディツアー。すべての会議場まで見学できた。価値ある体験。その後、シティホール、ブルックリンブリッジ。半分まで徒歩で渡って写真を撮る。自由の女神が見えた。きれいな夕日が沈むのを待っていた青年と少々会話。それから戻って、バッテリー・パークまで。グラウンド。ゼロを見学。
 夕食はカフェ・ワールドというデリで。トロントではほとんど使うこともないけれど、ぱっと入れた。ブロードウェイを北上し、8丁目で地下鉄に乗り、49丁目で降りて、
アンバサダー・シアターへ。シカゴを観る。終演後、出演者たちがステージ上でスマトラ沖の津波への募金を呼びかけた。

■ニューヨーク1 miercoles,29,diciembre,2004
 ニューヨークに行くことにする。思えば一月ほど前、ネットで往復航空券が殊のほか安かったので、衝動的に購入してしまった。そして、次は宿だと思い検索してみると、これが異常に高くて困った。これはマンハッタン島では無理と思い、ハドソン川を渡ったところ、ニュージャージー州の宿を確保した。この時期アメリカといっても野球はないし、これといって興味もなかったのだが、それでは行く意味がない。ただ一つミュージカルがあると思い、それを今回の旅の最大の目的とした。
 
 AM6:50 トロント・ピアソン空港にて 
 これからニュー・ヨークに行く。日本から行くのと違い、飛行機で1時間半。あまりそういう実感がないのだが。
 イミグレーションの列に並ぶ。戻されること3回。1、ビザ免除の申請書を書けと渡される。2、全部埋まっていないと戻される。3、4番にと言われて行くが人がいないので戻る。国に入るのに、指紋押捺、顔写真撮影。すごく狂気じみた話。朝食はサンドイッチとコーヒー。
 ラガーディア空港内でメトロのカードを購入。バスで移動。途中のよくわからないところで下車。あたりはすっかりスペイン語圏。おそらくはメキシコ系の人々の居住区なのだ。そこのレストランでトルティージャの昼食。地下鉄の7番線に乗ってタイムズ・スクエアまで。フェリー乗り場まで徒歩。フェリーを間違えて変なところに着く。タクシーを拾って、ホテルまで。ホテルの真ん前が正しいフェリー乗り場だった。夕食はパンを買って終わり。42ndストリートを観る。
 深夜バスでホテルまで。テレビでラストサムライを見て、終わったら2時半。

■午後の散歩 martes,28,diciembre,2004
 出かけようと思ったら、コートのボタンが取れているのに気づいた。仕方がないので、ファブリックランドからボタンと糸を買って来て裁縫。この店には入ることはないだろうと思っていたのだが。このコートも、もっと長く着てくれと言っているのだろうから、そうしよう。
 久しぶりに外を歩いた気がする。雪で歩きづらいが、外の空気はいいものだ。部屋にいると午後には決まって眠くなるので、きょうは隣の駅で昼ごはんを食べてから、地下鉄に1時間揺られて読書。本を読むには車内がいちばん適しているようだ。
 ブロア線の地下鉄はがら空き。通りの西。ヨーロッパの人々が多く住むところを歩く。窓辺に並んだパンがうまそうだったので、ふらっと立ち寄る。と、ここにコロッケなるものがあったので買ってみる。しばらく歩くと、選挙を終えたばかりのユクレイニアン・カナディアンの建物にたくさんの人々が集まっているのが見えた。
 ブロア駅からベイ駅辺りのヨークビルと呼ばれる地域。電飾が夢のようにきれいだった。なぜ一人でここを歩かなければならないのか。それが君の定めだ。はい。地下鉄に揺られ、読書しながら帰宅。
 夕ごはんはうどん。サラダにコロッケ。食べたことのない味。僕の知っているコロッケとはまったくの別物だった。
 なんだかしまりのない終わり方。次の更新は来年になります。皆様どうぞよいお年をお迎えください。

■在留邦人 lunes,27,diciembre,2004
 快晴で寒い日。一日中部屋に閉じこもり、テレビを見ながらサイトをいじっていた。枠組みを変えて、見た目も今までより見やすくなったのではないかと思っている。しかし、アクセスする人が皆無というのは寂しいものである。何度も見ながら直すので、自分でカウンターを稼いでしまう。それが嫌で人工的にかなりの数を巻き戻した。
 この一年を振り返ってみようかと思っていたのだが、それもあまりできそうにないし、やる意味も感じない。ニュースを見て、できるだけ辞書を使って調べるということをやりだした。英和辞典だけでなく、英英辞典をみながら。これは4、5年も前にジオスの先生から教わった方法だった。言われてすぐに買ったものの、今までほとんど開いてもいなかったのだ。
 夜になって、映画でも観ようかと思うが、気が進まない。去年の今頃は映画ばかり観ていたし、そういう時期が半年以上続いた。だが、今年の9月頃からとたんに映画熱が冷めてしまった。きっと一度行けばまた続けて行きたくなるのだが、その一歩が出ないまま年の瀬を迎えてしまっている。考えようによっては、映画なら日本に帰ってからDVDでいくらでも観ることができる。ここでしなければならないのは、ここでしかできないことだ。なんて、そんなこと言いながら閉じこもっているのもどうか。

 CBCなどでは、朝から地震や津波のニュースを繰り返して放送している。どんどん拡大する被害、泣き叫ぶ人々の姿を見ると、やりきれない思いになる。警報システムの未整備により、被害が大きくなったという。だが、もしかりに整備されていたとしても、それほど抑えられたかどうかはわからないだろう。それだけ大きな地震だった。自然災害だから、我慢しなければならないのだろうか。誰を恨むでもなく、理不尽な死を受け入れねばならないのだろうか。こんなことでさえ、神様の意志でなされたことだというのだろうか。
 NHKのニュースを見ると、さすがに日本語だから詳細はわかりやすい。だが、カナダのテレビ、ネット、NHKと比べてみると、NHKの被害状況がいちばん遅い。死者や行方不明者の数が少ないのだ。これは、信用のおける情報を伝えようとする姿勢なのかもしれない。速さと正確さがいっしょになって初めてニュースとしての価値をもつのだろうから。
 世界中には僕らの仲間たちが派遣されているので、かれらが無事かどうかというのをたいへん心配している。日本からの旅行者については、全体数が何人で、そのうちの何人が無事で、何人が死に、何人が消息不明なのかは詳しく報道されている。しかし、在留邦人の数が何人で、そのうちの何人が無事なのかということは、あまり知らされていないように感じる。被害がないならないで、被害がないことをどこかに示してほしいのだが、それを未だに見つけることができないままだ。ニュースを見ていても、旅行会社各社から観光客に関する情報はあっても、大使館や総領事館からの在留邦人に関する情報はあまりないのではなかろうか。これはメディア側の姿勢なのだろうか。それとも、他の理由からだろうか。
 日本時間の28日13時現在、外務省のサイトには、今回の被害への調査チーム派遣や緊急援助を決めたということくらいしか書かれていない。27日17時に行われた事務次官の会見で、「邦人の方々の安全・安否については我々外務省として責任を持って対応する必要があり、各旅行会社との連携を取りながら情報の収集に全力を尽くしているところです」としているが、翌日の昼を過ぎても安否に関する何の情報も掲載されていない。「まだいろいろな事情、例えば電話回線が寸断されているとか通信が不通であるといったこともあり、また現地へのアクセスに問題がある」ために情報収集が思うようにいっていないのかもしれないが、それならそれで流すべき情報があるのではなかろうか。
 もし自分が何かの災害に巻き込まれたらと考えると、無事なのかどうかの把握は最後になるんだろうなあということは想像に難くない。だが、実際にそんなことになったら、自分の命を守る前にやらなければならないことがある。甘いことは言っていられないか。
 それを覚悟で海外に出ているのだろうと言われれば、たしかにそれだけのリスクを背負って選択したことだ。海外に住む人間が自分の身を自分で守るというのは常識だし、その覚悟がなければ旅行といえど出てはいけないと思う。企業の駐在員に関しては、有無を言わさずの派遣である。だが、派遣するからには企業は社員を必死で守るし、そのための条件整備も独自で進めている。企業の様子を見ていると、駐在員を守るための努力が続けられており、会社としての経験が蓄積されているのを感じる。われわれの場合は、今一生懸命になってその条件整備を進めている段階である。
 いざ何かが起こったときには、国は国民を守るために最大限のことをしなければならないのではないか。それは外国にいる国民についてだって同じだ。できるだけ速く正確に在留邦人の安否情報を伝えるのは大事なことではないか。残念ながら、わが国の外務省ホームページからは、そういう意識があまり感じられないように思うのだ。みなさんの目にはどう見えますか。

 こんなときになんだが、地球儀を部屋に置くのはいいことだ。ニュースを見ながら、インド洋周辺を見る。なるほど。臨場感がある。丸い地球がイメージできる。世界地図じゃダメなのだ。一家に一つ、地球儀を買って部屋に置こう。これは大きな一歩だ。
 先日19ドルちょっとで買った地球儀だが、店をよく見るとどこでもそれくらいで売られている。日本でもそうかもしれない。家に地球儀がないという方は、だまされたと思って地球儀を買って茶の間に置いてみてください。これだけで世界がぐっと身近に感じられます。年末年始の家族団らんのひととき、世界について語り合うチャンス。これはぜったいお勧めします。

■ボクシング・デイ domingo,26,diciembre,2004
 クリスマスの翌日のきょうも祝日。英和辞典によると、かつて、お金持ちが使用人や郵便配達人などにプレゼント(とりわけお金)を贈った日だということだ。そのプレゼントが“Christmas Box”ということらしい。
 きょうもテレビではクリスマスソングの特集をしている局が多かった。この日から年末の大バーゲンが始まって、きのうまでの静けさとは打って変わって街はにぎやかになるそうだ。そんな日にわざわざダウンタウンに出る気にもならず。昼過ぎには、郊外のチャイニーズモールに行って焼きうどんを食べた。その後、この時期の雰囲気を少しは感じておこうと、トロント市の北限、センターポイントのモールにふらっと立ち寄る。必要な物はいくつかある。冬用の暖かいコートや靴を買おうとは思っていたのだが、商品を見ていたら欲しくなくなった。いくつか試着してみたが、何を着てもダメだ。そんな気になるともうよほどのことがない限り今季は買おうとは思わないだろう。結局10ドルのベルトを買っただけ。あとは、台所用品のところなんかをゆっくり見て回った。
 モールを回っていて面白いのは、お客さんの話す言葉がさまざまだということ。すれ違う人すれ違う人、民族が異なる。こんなに違う文化をもつ人々が同じ街で生活しているのだ。この雰囲気を味わえるのが、トロントのもっとも面白いところだと思う。未来都市のイメージが広がる。問題は多々あれど、世界の人々がいっしょに穏やかに暮らしていけるということを、この街は実証している。世界平和は絶対に夢ではないと思える。
 それにしても、インド洋の地震と津波のニュース。なんでこんなことが。カナダ人にも日本人にも行方不明になっている人がたくさんいるようだ。向こうには仲間たちもいるのでたいへん心配だ。そちらからカナダに来ている人も多いから、カナディアンにとってもまったく他人事ではない。

■クリスマス sabado,25,diciembre,2004
 朝は氷点下17度。ここから見下ろせる通りには人っ子一人歩いていない。まるで元旦だ。テレビでは、クリスマスのミサの様子やゴスペルやクリスマスソングの特集をやっているところが多かった。正月のテレビが退屈なのと同じような感じだな。ある局では、朝6時から10時までの4時間、ひたすら燃え盛る暖炉の火のみが映し出され、クリスマスソングが流れていた。実に退屈。こんな番組を見る人がいるのか、ってここに一人いたよ。
 トロントでのクリスマスも2回目。去年はチャイナタウンまで散歩したが、今年は夜まで部屋にいた。本を読んでいたら知らぬ間に眠っていた。ゆっくりというかだらだらというか。ぬくぬくした休みだ。

■クリスマスイブの雑感 viernes,24,diciembre,2004
 クリスマスは日本の元日みたいなものだ。イヴの夜は、日本の大晦日のように家族でいっしょにゆったりと過ごす日らしい。だが、ニュースによると、南国でクリスマスを迎える人々も多いらしい。空港までの道が凍って、大渋滞になっているのが出ていた。きょうは店が早く閉まり、明日のクリスマスはほとんどの店が休業となる。朝早いうちに近くのスーパーに食料品の買出しに行った。これで数日は大丈夫だろう。
 イヴのヴを「ヴ」と表記するのに違和感はないが、「イブ」と書いても何の問題もないと思う。というのは、スペイン語では、“V”も“B”も発音上の違いはないというのを読んだから。だけど、ペルーの先生はちゃんと区別していた。きっと地域によって違いがあるのだろう。バイオリンでもビーナスでも全然構わない。カタカナで書いた瞬間にこれらはもう立派な日本語なのだから。
 クリスマス・イブは「クリスマス前夜」のことだから、「きょうはクリスマスイブだ」という言い方はおかしいんじゃないかと思っていたが、朝のニュースで、「きょうはクリスマスイブだ」と言っていたのを確認した。もしかしたらアメリカとは違うのかもしれないけれど。
 話は逸れるけれど、インターネットの「ホームページ」という言い方はほんとうはおかしいんだ、正しくは「ウェブサイト」なんだという話をきいたことがある。そう思って僕も区別をしてきたつもりだけど、いろいろみてみると、けして「ホームページ」が誤りとはいえない。意味の違いはあっても、それほど厳密な区別をしなくてもちゃんと通じるみたいだ。「ほんとうは○○なんだって」という話は、眉に唾つけて聞いたほうがよさそうだ。
 午後から車で外に出ると、道はどこも混んでいた。凍っていて滑るので危なかった。どこのモールもクリスマスの買い物をする客の車で溢れている。駆け込みでプレゼントを買うのだろうか。ガソリンスタンドにだけ寄って、帰ってきた。夕方から大掃除をしてすっきりした。

■サイト案内 jueves,23,diciembre,2004
 一日かけて夏の旅の記録を書いた。だいたい一日分を一時間で。八日分だから八時間かかった。年を越す前にやらなければ、もうできないだろうと思った。
 表に出していた過去の日記や写真を陰に隠しました。上の写真をクリックするとサイトマップが開きます。そこからどうぞ。

■雪だるま miercoles,22,diciembre,2004
 こちらにも雪だるまがある。こちらにも雪だるまがあるなあとは思っていたのだが、詳しいところまではあまり気に止めていなかった。鼻がニンジンなんだということくらいで。ところが、決定的なことが違っていた。日本のは二つの玉だが、こちらでは三つの玉でできていたのだった。きょう言われるまで気がつかなかった。
 細かい雪が一日降り続いた。校庭では、そりを引いた子どもたちがはしゃいでいた。
 帰り道、事故を起こした車が、道の真ん中で止まっていた。坂道でブレーキをかけたら、なかなか止まらずに焦った。2年目だからもうタイヤが減っているのかもしれない。定期点検にも出さなければならない。今の時期は混んでいるだろうから、年明けまでは我慢しようか。

■冬至 martes,21,diciembre,2004
 冷凍庫のご飯を解凍し、永谷園のお茶漬けにキムチとクリームチーズをのせてお湯をかけると最高の朝飯になる。
 朝は氷点下一ケタ台。これくらいになると全然寒く感じない。8時の空はどんよりと曇り、まだ薄暗い。積もった雪は、大量に撒かれた融雪剤のために解けてべちゃべちゃになっていた。
 現地校はすでにクリスマスの休みに入っているので、電気がついているのは1階のデイケアのところだけだった。3階の事務所に通じる扉の鍵がかかっていて、遠回りしなければならなかった。まとまったことが何もできないうち、あっという間に1日が終わり。
 エグリントンの駅のモールのCD屋を物色。1時間ほどぶらぶらして結局U2他3枚を購入。iTunesで買うのは、ちょっと聴いてみたいだけのものに限られる。ほしいものはやっぱり手にとって実体を確かめたい。ましてDVD付だったら、買っちゃおうということになる。
 家にカボチャがあったなあなんて思いながら、気がつくとA&Wでパパバーガー。ルートビアは嫌いではないが、量が多すぎ。
 帰宅して、録画しておいたファド特集をみる。うらぶれたポルトガルの街並み、哀愁を帯びたギターの響き。そして、まるで演歌のようなこぶしの入った歌声。ああ、なんだか世界ってすごいなあ。というわけのわからない感慨。
 いろいろやらなければと思っていることがある。それらに手をつけることなく、眠気に襲われる。すべて後に回すのはきょうで終わり。明日からは新しい太陽の下で、ちゃんとやることをやろうわい。

■寒い休日 lunes,20,diciembre,2004
 朝方氷点下24度、ウインドチルは氷点下37度まで下がる。去年の今頃はこんなに下がったことはなかったと思うが。快晴の素晴らしい天気。温度計を外に出したら赤色の液がみるみる下がっていった。日本で買ったその温度計の目盛は低いほうが氷点下20度までしかついておらず、意味をなさなかった。ところが、よくみると温度の高いほうの目盛は50度までついている。なぜだ。
 ミシサガのチャイニーズ・モールで麻婆豆腐飯。スーパーで葱、大根、茄子、オクラ、柿、豆腐等を購入。たくさん買ったが10ドル出してお釣りがきた。
 ジューイッシュのパン屋さんのベーグルはすごくおいしいという話を聞いていて、いつか食べてみたいと思っていた。きのうの劇場から少し南側、バサースト通りにパン屋があるのを見つけてふらっと立ち寄る。自分でお盆とパンばさみを取って好きなパンを選べる中国系や韓国系のパン屋とは違って、店員の後ろに並んであるパンを一個一個注文しなければならないのは、煩わしいといえば煩わしい。だがそんな「手間」なんてほんとうは手間でもなんでもないのだろう。白ゴマのベーグルとチョコレートのデニッシュ。なるほど近くのスーパーの味とはちょっと違っていた。
 気温がどんどん上がり、氷点下10度台前半に。まだまだ気温は低いけれど、人間の感覚とは不思議なもので昨日よりずっと暖かく感じる。明日は0度くらいにまで戻るらしい。
 たいしてなんにもしない休日だったのに、車で出たらかえって疲れて、夜はすぐに眠くなった。ちょっと横になって、目覚めたら午前1時。こういうことではいかん。

■くるみ割り人形 domingo,19,diciembre,2004
 空がよく晴れ部屋から見る分には気持ちよさそうな日曜日。ところが外に出てみると身を切るような寒さ。正午の時点で氷点下15度、ウインドチル(体感温度)にいたっては氷点下25度だった。トロント地区にはウインドチル・ウォーニング(低温警報)が出され、外を歩いている人は少なかった。ウインドチルが氷点下25度以下になると、凍傷の危険があるという。この温度を下回った日は、学校でも子どもを外に出さないことになっている。最初の2、3分は我慢できるが、それを過ぎると、顔が痛くなってくる。
 そんな中、バレエを観に出かけた。会場は歩いて30分ほどのところだったので散歩するつもりだったが車にした。車の中にいると日光の熱を顔に受けて暖かい。しかし外は厳寒であり、この差がとても不思議だ。路上は完全に乾いて白く、川はすでに表面が凍りついていた。ジューイッシュ・コミュニティ・センターの中にある劇場。駐車場に車を停めて建物に入るまでの間に、全身の血管が収縮し、血圧が上昇し、首のあたりが締め付けられるような感じがした。
 カナディアン・バレエ・シアター。純粋なバレエというものを観たのは初めてだった。くるみ割り人形の組曲は聴いていたので、入門編としては最適だと思い来てみた。バレエに対しては固定観念を抱いていて、それが邪魔をして今まで観ることがなかったのかもしれない。ひらひら、くるくるというイメージだけで、なんとなく軟弱で退屈な感じをもっていたのだ。けれど、開始1分で見事にそれは打ち砕かれた。百聞は一見に如かず。踊りも見事だし、台詞は一言もないけれど一人一人が役を演じているのだった。音楽がこういうふうにステージとリンクしているものだというのが、頭ではわかっていても実際に結びつかなかった。きょうの音楽はレコードか何かがかかっていたのだけれど、これが生のオーケストラだったらどんなに素晴らしいだろうと思った。
 初演は1892年のサンクトペテルブルクだという。パンフレットに、“in the classical production of The Nutcracker”とあったので、おそらくその頃の演出とそれほど変わりないものだったのではないか。プリマ・バレリーナはボリショイ・バレエ、プリンシパル・ダンサーはキロフ・バレエの人だそうだ。
 クリスマスの定番なのだろう。観客には子どもづれが多く、親が子にいろいろ説明している姿が見られた。学校の音楽の時間にレコード鑑賞した記憶があるが、話を聞いてもよくはわからないままだった。これが子どもの頃に1回でも観ておけば、ぜんぜん違うだろうなあ。この間のミュージカルのときもそうだったが、親が意図的に芸術に触れさせようとしているのが感じられた。こういうステージを観に来ると、カナダにもヨーロッパからの長い伝統が息づいているのを感じる。
 午後10時現在、氷点下22度、ウインドチルは氷点下35度。明日までこの低温は続くらしい。部屋の暖房も効きが悪くなっている。ここまで下がると、わざわざ窓を開けて寒さを体感してみたくなる。おーさむ、なんて言いながらあわてて窓を閉めたり。だがこれも、十分な室内暖房が完備されているからできること。これが実家だったら、コタツに温風ヒーターをつけ、布団をかぶって震えていなければならないだろう。

■サンタ sabado,18,diciembre,2004
 今年最後の授業日、午前はサンタで、午後は小1の国語と算数。クリスマス会では、昨年のぎこちなさとは違って、自分なりに演じる気持ちをもってできた。笑顔を絶やさず、常にリズムに乗りながら。きっと心の底から楽しんでいるように見えただろう。あとから「サンタになるには資格が要るんですよ」と言われた。「免許があるんですか」と聞いたら、そういう意味ではなくて、サンタの姿が似合っていたということのようだ。単純に考えれば嬉しい。まじめに将来サンタクロースのおじいさんになろうか。だが、はたしておじいさんになれるのか。その前に死んでしまうのではなかろうか。
 午後の授業は急な話だったが、こういうときでも子どもたちとつながることができればありがたい。10月に入ったときよりもずいぶん成長しているのを感じ、思った以上に進めやすかった。あれよあれよという間に一日が終わり。
 ひとつ、自分が毎週書いているものについて、去年はみられなかった反応が出てきているのが嬉しい。継続は力なりというのはほんとだな。いろいろと残りは来週にして、ひとまずご苦労さん。
 帰宅して、風呂入って、久々のビールでお祝い。

■視野 viernes,17,diciembre,2004
 なんかこう、視野が狭くなっているような感じの人がいて、「もっと気楽にいこうよ」という気持ちで声をかける。だけどそれが、「もっと手を抜こうよ」と言っているように思われているのであれば残念だ。たまにそういう誤解を与えてしまったかなと感じるときがある。本心は、手を抜こうというのではなく、それでは足りないよという気持ちなのだけど。
 気楽であることと完璧を目指すこととは矛盾しない。自分自身は手を抜こうなんて気持ちをもったことなどない。ない?ほんとにか?
 人間は立場で変わると言った人がいた。だけど、そう簡単には変われないよというのが本音。自分に何ができるだろうと思いながらきたが、結局できることしか、やっていない。思っても、やってみなければしかたない。人間は立場が変わったからといって自動的に変われるものではない。立場を自覚して、できることを切り開いていかねばならない。と、あの人はそういうことを言いたかったのではないかと思った。
 自分も誰かから見れば視野が狭くて、目の前にあるものが見えていない。きっと周りの人たちは、どうにかしてそのことに気づかせてくれようとしているのだろう。

■ウインター・ワンダーランド jueves,16,diciembre,2004
 12月も後半。だが、年末の押し詰まった感じというのがあまりない。
 こちらの学校は今週の金曜日で終わり、クリスマス休暇に入る。すっかりクリスマスムードで、もう授業なんてないらしい。向かいの教室では部屋をきれいに飾って、他教室からきた子どもたちへクッキーやココアのおもてなし。名づけてウインター・ワンダーランド。ゆとりのある教育とはこのことか。
 混ぜてもらって子どもたちに話しかけるが四苦八苦。何にもコミュニケーションなんてできないじゃん。恥ずかしいレベル。だが、考えてみると英語だろうが日本語だろうが人とコミュニケーションをとろうとするときの気持ちは同じで、こちらが心を開かなければ相手が開いてくれるはずがない。話ができないのは、自分が心を閉ざしているからだろうが。欠落。自己嫌悪。
 仕事がおもしろい時期というのがあるとよくきくけれど、そんな時期があったろうか。あるいは今がそうなのかどうかもまったく判断がつかない。いつも不満を抱え、周囲に悪い空気ばかりを振りまいているようで、消えたくなる。こんなんでは、劇的な変革などありえない。

■クリスマス miercoles,15,diciembre,2004
 カードの話になったら、日本でももうほとんどカードばかりだよというふうに言われた。しかも、クレジットカードもサインが要らないらしい。知らなかったなあ。毎日いろいろと恥ずかしいことを書いている。
 話が長いというのは、いいことではない。簡潔にまとめて短く話す訓練をしていこう。そういうところ、忘れてしまっているかもしれない。
 取るに足らないと思えるようなこと、枝葉末節に渡ることのほうが、大切だということもある。何が幹で、何が枝葉か、ちゃんと見分けられる目を持ちたいものだ。
 帰り道、氷点下の住宅街を歩く。クリスマスの飾りがきれいなので、写真を撮りながら。おそらく東京ではもっと華やかで明るいのではないだろうか。だが、ここに来るまでは気がつかなかった。クリスマスの時期は、温かい。
 クリスマスツリーやリースは、門松や松飾と同じ。これはすっかり同じだ。キリストの生まれたのが12月25日だというのにはそれほどの根拠がないらしい、というのを何かで読んだ。だが、冬至のこの時期にクリスマスを祝うのは、キリストが生まれるずっと以前からの必然だった。日本で正月にああいったお飾りを飾るのも、クリスマスと同じ理由だ。冬至の頃というのは、古い太陽が死に、新しい太陽が生まれる季節。古代人の自然な感情だったに違いない。日本人がクリスマスを好きなのは、そういう古代人の感情を忘れずにもっているからではないだろうか。もっと古くから、お互いは共通の文化によって繋がっているのだ。こう考えると、クリスマスは楽しい。

■CATS martes,14,diciembre,2004
 仕事を終えてからだとさすがに疲れて目がしょぼしょぼになっている。それでも行かずにはおられなかった。だが、クリスマスシーズンのお子様用という感じも否めず、シンセサイザーの電気的な響きと、おどろおどろしい旋律に、前半はこれがあのロングランのミュージカルかと疑っていた。後半になり、メモリーズなど、曲の良さにやや救われた気がした。

■ある休日 lunes,13,diciembre,2004 
 朝起きると気持ちよく晴れていた。朝食のあと、また着込んで散歩に出た。気温は0度前後。久しぶりの日光が当たって暖かい。きょうは東へ。歩いたり走ったりして汗をかいた。シェパード通り沿いのフェアヴュー・モールまで行って、ドンミルズ駅から地下鉄で帰る。行きは1時間半、帰りは15分。部屋に戻るとまだ11時前。いつもはここで安心して眠ってしまうのだが、きょうはいろいろと作業をしていて、眠くならなかった。
 マーケット・ヴィレッジのフードコートでベトナムご飯。久しぶりに肉を食う。チャイニーズのモールもすっかりクリスマス。ワゴンセールでは東欧の民芸品やソーセージの店、日本の着物や暖簾を売る店、絵画を売る店などが出て、賑わっていた。だが混んでいたので、ご飯だけ食べてその場を去る。
 イケアでハンガーと電池と麺類用の深い鍋を買った。レジを出たところにユニセフのコーナーができていて、カードや来年のカレンダーなどが売られていた。カードを一種類と写真付のダイアリーを買った。その足でベイヴュー・ヴィレッジを散策、ルーツで毛糸の帽子を買おうか迷うがやめた。僕の頭に合うサイズがないのはなぜだ。チャプターズトロント・ライフを購入して帰宅。
 夕飯はさっそく買ったばかりの鍋でうどんをゆでて食べる。うまかった。
 Side By Side By Sondheim。ピアノの連弾。そして男女4名のキャスト。曲がかっこよすぎ。こういうミュージカルが好きだな。絶対に行ってよかった。誰がなんと言っても大好きだ。自分はこのために生きているかもしれなかった。

■ラーメン domingo,12,diiembre,2004
 きょうも一日雪。昼過ぎから着込んで北へ散歩。ヤング通りのすぐ隣の道。家からは近いのに、歩いたのは初めてだった。この辺は第2のコリアンタウンといわれている。商店の裏の看板はハングルばかりだった。そこを過ぎると、アラビア文字ばかりの小さなモールがあって、いいにおいがしてきた。今までは車で通ってばかりで、よくわからなかった。
 KENZOラーメンというラーメン屋に初めて入り、味噌ラーメンと餃子を食べた。春頃に、おいしい日本風のラーメン屋ができたと話題になった店だ。韓国人の経営だというが、店の主人が以前日本のラーメン屋で修行したというので、限りなく日本のラーメンに近い味だということだった。店の内装もきわめて日本的で、ラーメンの味もまさしく日本のラーメンで、悪くはない。日本のラーメンが食べたくなったなあ、というときにはいいかもしれない。でも、どうしても食べたいと思うときなど、それほどないだろうなあ。
 腹が満たされた午後2時過ぎ。雪の中を歩きながら考えた。日本が懐かしくなって、日本の食べ物が食べたくなるというこのごろの傾向について。今まで努めて避けてきたものの揺り戻しであって、これからずっと食べ続けるということでもなかろう。2年近くも日本を離れていると、今まではなかった感覚が芽生えてくるのだ。日本食のよさをあらためて感じることができたが、なければ死んでしまうわけでもない。
 毎日似たようなことばかり書いているが、少し距離を置いてみたときに、流れとか上がり下がりが浮き出てくる。そして、これまでの生活の意味もはっきり見えてくると思う。一日分の断片はごく一部しか映し出さないが、それが多く集まると全体の姿が浮かび上がってくる。一人の人間の生活も一日一日はたいして代わり映えがないように見えても、積み重なることによってその人の個性や特質を帯びるようになる。他の誰でもないその人のその人らしい人生の軌跡が、眩い光を放つ日が来る。

■初心 sabado,11,diciembre,2004
 細かい雪が一日降り続いて、街がすっかり白くなった。積もったといっても3センチにもならない。風も吹かなかったので、それほど寒くもなかった。昼休みには小学生たちが外でサッカーしたり鬼ごっこしたり。つるんと滑ってズボンが濡れてもお構いなしではしゃいでいた。
 廊下にクリスマスツリーを飾ったら、やっぱり気分が違うと評判だった。これは去年ある会社の社宅を引き払うというので捨てるよりはと寄付してもらったものだ。来週までの一週間、ずっと出しておいていいという許可をもらった。「規定」によると、ダメだったのだそうだ。ちょっとしたことだけれど、これまで関係を作ってきたからこそ快く認めてくれたのだと、一人で喜んだ。
 夜にはテレビでいっこく堂のインタビューを見た。一言一言に重みがあって、ずきずき胸に突き刺さってきた。さすがプロの芸人だと思った。最後には初心に帰りたいと言っていたが、初心というのはたくさんある。一つ一つ全部やりながら、また新たな初心をもつ。そんなふうにして、ずっと新しいまま生きていければいいと思う。
 
■商売 viernes,10,diciembre,2004
 日本から帰ってきた人から温泉や神社仏閣を訪ねたという土産話を聞いたら、懐かしくなった。といっても、帰りたいわけではないんだな。サービスが細やかで日本はすばらしいという話に、そういえばそうだったなあと。日本人というのは商売上手なんだなあと、あらためて気づかされる。
 こちらにいると、逆に、そんなことして商売になるのかと疑ってしまうようなことがよくある。例えば、買った物の返品がずいぶん簡単にできる。極端な話、ドレスを買って一度だけ着てまた返すなんていう人もいるそうだ。26日のボクシングデー以降には、デパートのサービス窓口にはクリスマスにもらったプレゼントを返品する人の列ができるという。
 日本に帰国するときのお土産に困るという声をよく聞く。苦労して重いものを運んでも、「それ近所のスーパーで売ってるよ」なんて言われることがよくあるらしいのだ。つまり、日本には物がたくさんある。カナダにある物はたいていは日本にもある。しかも、カナダよりも安く手に入ったりする。だから、わざわざお土産として持っていく意味がない。
 そうはいってもお土産は心がこもっていればいいのであって、べつに日本にないものを贈らねばならないこともないだろう。周囲のそんな買い物談義を聞いていると、品物を選ぶ側がこだわりを楽しんでいるのだなあと感じる。クリスマス・ショッピングという言葉が溢れ、イルミネーションの商店街は夢のように続く。日本では師走に街に出るのは嫌いだった。だが、ここではこの時期の街を歩くのは、何も買わずとも楽しい。なぜだろう。とにかく、何も気にせず散歩ができるというのはありがたい。

■トリビア jueves,9,diciembre,2004
 「トリビアの泉」というのがこっちでもやっているというのを聞いて、スパイクTVをつける。9時からは「風雲たけし城」が放送されていた。これは以前見たことがあった。そして、10時からトリビア。日本でも話題になっていたのは知っていたが、映像を見たのは初めてだった。英語の吹き替えではあるが、字幕が過剰に出ているおかげで内容は完璧に理解できた。だが、そんなにおもしろいかというのが率直な感想。あれは「知識」なのだろうか。「ムダ」なことなのだろうか。
 10時半になったら、再びたけし城が始まった。こんなふうに意味がよくわからない番組編成がときどき見られる。何をねらってのことなのか、あるいは単にいい加減なのか。
 ご飯に味噌汁の食生活はいいものだ。きょうは帰りにコメと味噌を買ってきた。だが、カナダに来てから1年と8か月ほどの間、どういうわけか日本食をできるだけ避けようという態度が続いた。不思議なことだ。ひねくれているな。このごろやっと、日本食を売る店に行くのに抵抗がなくなってきたのだ。これってどういうことだろう。

■最後の教室 miercoles,8,diciembre,2004
 仕事場のある校舎の国旗が半旗になっていた。それはきょうが真珠湾攻撃の日だからではないか。それ以外に理由が見つからなかったが、あまり楽しくない考えだった。やっぱりそれは自然なことなのだろうか。
 きょうでスペイン語のクラスが終了した。みんなでお菓子や飲み物を持ち寄り、パーティーをした。僕も教室に入る寸前に慌てて自販機でクッキーを買って持っていった。おとといと同じく、先生一家も来たし、配偶者を連れてきた人もいてにぎやかだった。ワインで「サルート!」と言って乾杯をした。ケーキやドーナツに加えて、野菜スティックにディップを持ってきた人もいて、なるほどこういうものもありなんだと思った。
 出身地はそれぞれ違う。ペルー、キューバ、ガーナ、スコットランド、アイルランド、カナダ、セルビア、ブラジル、日本…。一人一人、授業や勉強についての考えや先生に対しての感謝の言葉を英語で話した。そして、先生はそれに対して一人一人のいいところなどをコメントしてくれた。自分の場合、英語力もないので本来なら英語だけに力を注いだほうがいいのかもしれないが、他の言語を学ぶことによって視野が広がったことは確かだ。先生がスペイン語で話していることはなんとなくでも理解できたが、こちらから表現することはできなかった。というようなことをごく簡単に言うと、先生は、日本人が英語やスペイン語を学ぶのはたいへん難しいのによくやったというようなことを返してくれた。それから、この間先生が僕の特徴について言っていたのは、"formal"ということだった。ちょっと気恥ずかしいが、言葉ではなくほとんど態度からだけでそういうことが伝わったのだと思うので、とてもありがたい言葉としてここに記しておきたい。中級クラスに進むかどうか聞かれたが、次のタームはちょっと休もう。英語とスペイン語とフランス語を三つ合わせて一人で勉強してみようなんてことを考えている。ばかかな。
 幼い子どもたちが、口の周りをクリームだらけにしたりしてときどき場を盛り上げ、終始和やかなムードで会は進行していった。一時間くらい経ったところで記念写真を撮った。夫婦で来ていた人が、今夜の便でキューバに旅行に出かけるというので途中で退席した。休暇には日本に帰らないのかと聞かれたので、帰れないと言ったら、犯罪者なのかと言って笑われた。アランというスコットランド出身の青年がいつも隣に座った。彼は僕をネタにして笑いをとることが多かったのだが、高校時代に戻ったような感じで楽しかった。彼にも感謝である。別れ際、がっちりと握手を交わした。
 後半になると、移民の仕事の話になってきた。先生一家はまだカナダに来てまもなく、高額な持参金を払った上に、夫は希望する仕事も得られず、たいへんだということを話した。すると、他の人たちも次々と、移民の苦難について顔を真っ赤にして語り出した。とにかく、カナダ生まれでないというだけで、仕事がないという。以前にも別のクラスで同じことを何度も聞いているのだが、その話になると駐在員の自分は蚊帳の外になる。外国出身者の苦悩というのはどうしても理解しがたいところではないかと思う。ところが、この苦悩はかなり普遍的で、移民国家と呼ばれる国にはよくありがちな構図だというのは確かだろう。もちろん、こちらに移住した日本人もたくさんいるから、その方たちはその苦しみを味わってきているはずなのだが、それらがなかなか日本本国の人間には伝わらない。
 外国人が日本に対してもつイメージを勝手に想像するとこんな感じだろうか。…日本は金持ちだし安定しているから、外国に決死の覚悟で移民や難民として出る必要もない。日本人は日本にいればそれだけ不自由なくいい生活が送れる。ただし、日本は外国人を受け入れない。難民ですら平気で送還する。物は何でも高くて買えない。日本人の英語下手はもう世界の常識だ…。あるいはそれは、ねじれた自意識なのかもしれない。
 でも、日本人の誰もが英語を自在に駆使して武士道や侍について説明できたなら、それだけで日本人の印象は変わるだろう。それに、日本人自身のもつアイデンティティもより確かなものになるのではないだろうか。ノモンハン事件など昭和期のごたごたを読むと日本は大ばか者だと感じるが、江戸時代のことを考えると世界でもかなり優れた文化をもっていたことがわかる。日本人が自らの良さを学び、外国に伝える努力をもっとしていけばいいのではないか。遣唐使の時代、明治維新など、これまで外国から文化を学ぶことの多かった日本だが、胸を張って日本から発信できる文化があるのではないだろうか。それは経済ではなく、もっと精神的なところではないかという気がする。
 皆と別れてからも、ずっとあれこれ考えがぐるぐるとめぐっていた。4か月いっしょに学んできた仲間たちとの別れを惜しむ気持ちも強かったけれど、それよりも強く感じていたことは、日本人ができることって何だろう。自分ができることって何だろう。という疑問だった。

■His Majesty martes,7,diciembre,2004
 誕生日の祝賀行事があって出かけた。それについては、とりたてて書くこともない。どこの国でもきっとわが国のこういう行事がこの時期には行われているのだろう。両国の国歌斉唱というのに誰も歌わない。主催者さえ歌わないのはなぜだろう。僕は君が代を歌った。それと、O Canadaも歌った、小さな声で。歌詞は怪しかったけれど。
 昨年はテストと重なったため失礼したが、自分のような人間が参加するような場ではない、というのは今年も同じことだ。経済がこの国の一大事なのだということが、あいさつを聞いていて感じられた。ほんとうにそんなに信じてしまっていていいのだろうか。いまだにそういうことでいいのだろうか。
 ガレージに入ろうとしたら、いつものカードキーが使えない。仕方ないので引き返し、セキュリティに言ったら、「それはもう使えないのだ、2週間も前に告知したのに、」と、口を尖らして早口でまくし立てられた。「わかんなくて悪かったな!」と言いたいところをぐっと飲み込んで笑顔で応える。なんだか情けない夜。

■褒め上手 lunes,6,diciembre,2004
 宿題もたくさんあったし、たまにはちゃんと予習して行こうと思い、時間をとって勉強した。明るくなってから少したって、ものすごい勢いで雪が降り出し、気がつくと一面真っ白になっていた。午前中で終わらせるつもりが終わらず、1時を過ぎた頃疲れて昼寝したら、もうそれ以降は続ける気持ちが失せて、時間までだらだらと過ごした。
 学校はきょうとあさっての2回。きょうは教室に先生の夫と2人の子どもたちも来ていて、家族みんなで授業をしてくれたという感じだった。ときどき小さいほうの2歳くらいの女の子が泣いたり、大きいほうの男の子が黒板いっぱいになにやら文字らしきものを書いたり、託児所のような雰囲気でおもしろかった。夫は後半で絵本を朗読してくれたのだが、それが速過ぎて僕らにはとてもついていけず、顔を見合わせては笑った。
 予習したところがばっちり出て、問題練習も当てられたところが全部答えられたので先生が大いに喜んでくれた。皆で拍手しましょうなんて、あまりに大げさに褒めるのでたいそう照れた。それにしても、こういうところは上手だ。先生のセンスなんだなあと感じる。たまに努力したときにすかさず認めてくれるというのは、よく見ててくれている証拠である。普段は間に合わせの勉強をちょこっとやるだけなのだが、時間をかけてやればやっただけのことはあるから、勉強だけする休日というのもいいかもしれない、冬場は行くところもないから特に。なんて、少しやる気になっている自分。
 ところで、人を褒めるのは難しい。ポイントは、本人が努力して褒めてほしいと思っているときに、褒めてほしいところを褒めてあげることだ。だが、その見極めが難しいので、「私は褒めるのが苦手」という人が多い。要は、対象が何かに取り組む際に、あらかじめ目標を設定したり努力の重点を決めたりする場面を作り、いっしょになってコミュニケーションをとることである。そして、事後にはその目標なり重点なりについてを褒めるようにする。
 なんて簡単に言うけれど、自分もなかなか人を上手に褒めることができない。本人はまだまだ余力があると思っているときに褒めても効果はないし、本人が努力してある程度の達成感をもっているにも関わらず褒められることがないと、逆にやる気を失わせることになる。目標をちょっとでも超えた時には大げさに褒めるようにすると、自分で伸びようという思いが強まるのではないかと思う。きょうの自分もまさにそれだった。
 そのタイミングを褒め役の人間が見極めるためには、対象をしっかり見ておく必要があるし、対象の内面を把握しておく必要があるわけだ。褒め役の人はただ褒めればいいというのではなく、気持ちの上でその人と二人三脚している状態でなければいけない。気持ちがつながっていないのに、都合のいいときだけ出てきて「すごいじゃない」なんて言ったって、言われたほうは一つも嬉しくないだろう。あの人、いつも見ててくれるっけ。わかってくれるっけ。という気持ちを持たせることができていれば、言葉が価値を持つようになる。つまり、人を伸ばすにはその人と自分との関係作りに最大限の力を注ぐことが大切だ。
 
■音楽 domingo,5,diciembre,2004
 iTunes Music Storeがカナダでも始まったというのをきいて、さっそく登録して買ってみた。曲も探しやすいし、ダウンロードもしやすいし、これだとほんと気軽にすいすいと買えてしまう。これはすごい。革命的!1曲99セント。アルバムは9ドル99セント。カナダドルだから日本円で1曲85円程度。USドルで一曲99セントのアメリカよりずっと安い。この価格設定はよくわからないが、カナダにとっては嬉しい話である。
 こういうものが出てくると、もうCD屋なんて要らなくなるかもしれない。音楽を音楽そのものとして購入できるなんて、なんて画期的。そのままiPodに入れて使えるわけだから、安いし、手間がかからないし、場所もとらない。それに、アルバムから1曲だけ買うなんてこともできる。いいこと尽くめ。ただし、実体がないからジャケットも、歌詞カードも、封入ステッカーもない。カナダの店ではポップスのアルバムがたいたい税込みで1枚16〜17ドルというところだから、ネットだと4割くらい安く買えることになる。ただし、カナダには日本のような再販制度がないから、店によってCDの値段がかなり違う。探せば新しいものでも7.99ドルなんていう安売りのアルバムがあるから、オンラインならすべて得といえるかどうかはわからない。
 日本のCDアルバムはだいたい3000円というところか。しかも新譜の安売りというのもない。これはとんでもなく高くて、消費者にとっては大きな負担である。カナダでは2枚から3枚買えるお金で、日本ではたった1枚しかアルバムを買うことができないのだ。価格の仕組みはよくわからないが、日本のアーティストがその分利益を多く得ているかというとそうでもないのでは。そういえば、輸入禁止の法律はどうなったんだっけ。それと、iTunesでないネット販売というのもすでにできたときいていたが、あれはどうなってるんだろう。CCCDはもう止めたの。
 iTunesの日本の導入はまだらしいけれど、もし入ったら価格はどうなるだろう。1曲99円かな。それだとアルバム1枚で999円。それでは業界が許すはずはないか。じゃ1曲199円か。アルバムが1990円。それはないか。1曲99円が実現できなかったらやらないほうがいい。でも、そしたら日本の音楽は衰退してしまう。消費者としてはアップルを応援したい。アーティストにとっても聴かれるチャンスが拡大するほうが嬉しいことではないのかな。これは日本のCD業界とアップルの戦いだな。あるいは、消費者とCD業界の戦いだ。

■変化 sabado,4,diciembre,2004
 関東平野では夏日。北海道では大雪。今までとは気象が変わってきた。変化の振幅を激しくしながら、温暖化に向かって大きなうねりが続く。トロントでは去年と同様、春夏秋とさわやかな空がそれほど多くなかった。もっとさわやかな日が多かったというけれど、これも大きな変化の一つなんだろう。今まで何千年変わっていなかったものが、変わり始めている。ゆでがえるではないけれど、気がついたときにはもう遅いのか。人類はこうやってゆっくりと衰退していくのだろうか。

 ここに来てから人を批判的にみる癖がついてきたような気がする。それを口に出すことで周囲が嫌な気持ちになることもあるみたいだ。言い訳をするなら、子どもをみるのと同じような目で大人をみることはできない。でも、そこは乗り越えなければならない壁だなあとも思う。人として人をみるということだろうか。対等の感覚をもちながらも、個人の思惑を柔らかく優しく駆逐し撃沈し破壊するテクニック、もしくは生き方…。
 悩むことなしに人は変われないと思っているくせに、悩ませることなしに人を変えることを考える。人を悩ませない代わりにに自分が悩むというのはどんなものか。人を変えるためには自分が悩まなければいけないのか。あるいは、ギリギリと悩ませて悩ませて悩ませる状況を作り出してあげるのが優しさなのだろうか。笑顔で人を追い込んでいくというやり方もあるか。などとぐるぐる考えることがもうすでに悩んでいることか。とにかく、人間の成長にとってストレスは大切である。
 
 こんなふうなことを毎日書いて5年。この5年でタイトルがいくつ変わったか、いちいち覚えていないほど。それから、日記才人の更新も止めるといったと思ったらすぐ再開したり、ころころ変わるので来てくれる方々にはすみません。
 変えないのがいいのか、変えなければならないのかもよくわからない。今はどんどん変えていっていいのではないかという気がしている。それは、内面がどんどん変化している時期だと思うからだ。それならデザインも変えたらと突っ込まれそうだが、これは技術的な問題。そこまでする気はありません。
 でも、この5年の日記を読んでみれば、変化よりもむしろ自分の変わらない部分が抽出できる気もする。変わりながらも変わらない。変わらないものをもちつつも、絶えず変わり続ける。誰もそうではないか。そういうのが人間の本質なのかもしれないと思ったりする。

■アジア viernes,3,diciembre,2004
 朝になってもお湯は出ず。何年ぶりかで、薬缶と鍋でお湯を沸かし、風呂場で行水をした。これくらいならまだ大丈夫だ。お湯が出ないだけなんて問題ではない。ひと月は我慢できるかな、なんて。きょう家に戻ったら、工事も終了しており、お湯は当たり前のように出た。めでたし。
 さっきまで、ご飯を食べたら買い物に行って来ようと思っていたのに、もう出たくなくなった。気温がマイナス5度というのもあるけれど、なんだか疲れて眠くなった。まだ本調子ではないのかな。土曜日を前にこれではいかん。
 
 現在はOMNITVのアジア人向け番組を録画中である。この局では、40を超える言語による番組が放送されている。言語のサンプルという意味で始めたのだが、それ以上の新発見があってひじょうにおもしろい。言語が違えば当然その他のさまざまな文化も違う。音楽もそれぞれに興味深い。自分たちの属している世界なんてほんとにちっぽけで狭いんだというのを思い知らされる。アジアは広い。ある番組で紹介されていたこのサイトは、クリックすると音楽が流れる。ビデオを見ているとついつい時間を忘れてしまう。

■大人のぽるけ? jueves,2,diciembre,2004
 帰宅するとアパートの水道が止まっていてお湯が出ない。きょうは9時から5時まで止まるという予告はあったのだが、水が出るようになったのが夜7時前。お湯は9時を過ぎたのにまだ出ない。実にいい加減だ。こういうところは日本のようにきっちりしているほうがよっぽど住民にはありがたい。
 風邪はもうほとんどよくなったので、きょうは早めに風呂に入ってあったまろうと思っていたのだが、無理かもしれぬ。できれば朝には出るようになっていてほしいけれど、あまり期待はしない。
 きのう休んだせいで、曜日の感覚がおかしくなっていた。きょうはまだ火曜のような気がしていたが木曜だった。そして明日は金曜。早過ぎる。仕事のことは書かないが、仕事をすることによって考えることはたくさんある。今まであまり意識しなかったことが多いのだけれど、意識したからといってそれにどんな価値があるのかはよくわからない。

 このごろよく考えるのは、「大人」ということである。「大人」っていったい何だろう。年ばかりとって顔かたちばかり大人になって、その実なんだかわからないものになってしまっている人間ってたくさんいるのではなかろうか、とそんなことを強く感じる。これが、結婚をしたり、人の親になったり、社会的にある程度の地位を得たりすると、大人らしくなってくるのだろうか?などというと、けっしてそんなことはなく、既婚者であれ親であれ、大人気ないと感じてしまう人間というのはいるものである。
 これまで大人というものを自分は信頼していたし、信頼に足る存在であることを疑うことがなかった。子どもの頃から僕は早く大人になりたいと思っていた。大人は子どもよりもよっぽど自由だと思っていたし、好きなことが好きなようにできるものと思っていた。そして、今になってもそれは間違いではないと感じている。子どもの頃にできなかったことを今の僕は少しはできるようになっている。子どもの頃にはいろいろと縛られていた気持ちも少しずつ自由がきくようになってきた。やってみたいと思っていたことを一つ一つ現実にしてきたし、ぶつかった障壁も一つ一つ乗り越えてきた。そして、それでもまだまだやりたいことがあって、壁が目の前に立ちはだかっている。だんだんその数が増してきて、しかもだんだん壁が高くなってきている。そのため、一人で思いっきり暗く落ち込むことも茶飯事だけど、それと同じくらいの振幅でいずれかなうだろうという底抜けに明るい希望があって、今の自分を支えている。
 だから、僕は大人というものを止まった存在とはとらえていない。歩み続けるものこそが大人なのであって、自分はそれを目指してまだ進んでいるのだから大人ではない。そんな意識なのである。人によってはこんな自分を、子どもみたいだと言うだろう。躁鬱傾向と言われるかもしれない。あるいは、甘さとか、物足りなさとか指摘する人もいるだろう。だがそれもひっくるめてやっぱり自分は途上の存在なのだ。最初に書いた「大人気ない」というのは実は自分かもしれないのだが、物事を書くのは自分を棚に上げないとできないものだ。書くというのはそういうことではないか。書く覚悟こそがこのサイトの発端であり、それは分け隔てなく伝える意志の表明であり、その意志に責任を持つということである。書き手は、いったん棚に上げた自分を棚から下ろし、それを背負って現実世界で生きていく。
 話が逸れたが、「大人」とは歩み続ける存在だという意識を持たせてくれたのは、他でもない自分の周りにいたたくさんの大人たちだった。家族であり近所の人であり、教師であり先輩であり。もしかすると、同年代の仲間や、自分より年の若い後輩や、僕の教えた生徒たちもそれに含まれるかもしれない。かれらのなかに歩み続ける力があって、それが自分の力となったのだろう。「大人」たちから力をもらい、僕も大人になろうと思いながら歩いてきた。だから、皆への感謝への思いが日に日に強くなっている。と同時に、大人らしくない「大人」が目に付くことも多くなってきた。これはどういうことを表しているのか。希望と絶望が交錯するということか。ぽるけ?ぽるけ?

■ぽるけ?
 miercoles,1,diciembre,2004
 風邪で一日仕事を休んだ。ここに来て初めてのことだ。きのうの午後から寒気がしてきて、熱が出て、夜中も何度も目覚めて、すっきりしないまま朝になった。仕事を休んでパソコンに向かい、サイトの更新をする。なんて不届き者。ほんとは自宅にいてもできる仕事があるのだが、それには手がつかないでいる。とにかく、早く治したい。
 ポルケというのは、「なぜ」という意味。ものを見たときに、なぜと思う気持ちを忘れないようにという気持ちで、タイトルにした。というのはこじつけで、特に意味はない。少なくとも年内はとりあえずこれでいこうと思う。

 日本でも、偽札などいろいろな偽物のニュースが相次いでいるようだ。小学生にも作れるようなお札だったらもうどうしようもない。早いところやめたほうがいい。カナダで出回っている紙幣は5種類あるが、50ドルと100ドルの2種類はたいていの店では使えない。商店のほうが偽札を警戒して受け取らないのだ。スーパーマーケットでも20ドル紙幣でさえ鑑定機にかけられるのであまりいい気持ちはしない。新札は偽札対策の意味もあるそうだが、精巧な偽物が登場するのも時間の問題ではないだろうか。日本のコンビニに偽札鑑定機が常備される日も近いと思う。
 望むと望まざるとに関わらず、現金取引というのはこれからどんどん少なくなっていくだろう。こちらではカード決済が進んでいて、デビットカード1枚あれば現金がなくてもたいして困らない。現金を使うのは、チャイナタウンで買い物するときくらいかな。店での買い物はクレジットカードだとサインが要るが、デビットカードだと暗証番号の入力で済む。サインは偽造ができるが、暗証番号は本人しか判らない。紛失さえしなければそれほど危険ではない、かもしれない。今ではそれが当たり前になってしまっているので、現金を持つのが煩わしいとさえ感じてしまう。一回導入してしまうと、あとはそれが普通になって後戻りすることができなくなる。日本に帰ってから、今みたいにデビットカードが使えなくなるのかなと思うと残念だ。あるいは、その頃にはもう使えるようになっているかな。

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